経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

定義に責任転嫁するな!

2006年04月18日 | Weblog
一時逃れ、という。あるいは近視眼的ともいう。いずれにしても消費者を騙したり、錯誤させることで、企業に消費者が、永く背についてくださると思うのか。思っての判断なのか?。住まいや事務所を次々替えるといった詐欺師ならいざ知らず、企業の経営者が、実に短期的、否、刹那的判断で、消費者を裏切り、当然の結果として自らと自分の企業をダメにしている。
 「生き残りを懸けて」とか「それ以外に当時の窮地を逃れる方法がなかったのだ」ということを、あとからいう経営者がいるが、ほんとにそうだろうか。

 競争、競争というが、そのことはお客様への関心ではなく、ライバルへの関心が高いことを物語っている。
 ライバルへの関心は、なんと言うことない。自分が有利にってことだから自己欲求への充足である。もっと露骨に言えば、自分だけ良し。まさかお客に代わって代理競争してるんじゃないだろうから、お客様第一なんて看板と口だけで、自分の欲望を充足したい執念で、脂ギンギンということではないのか。

 競争によって、人も事業も、大きくは文明も伸びてきたし、企業同士が競ったおかげで価格が下がり、よって消費者に貢献するという競争原理が働くことで大きなメリットを提供してきたことは事実である。

 でも競争が、直接的にも間接的にも自分のためだけということになると、問題だ。だから、お客様第一、なんてカッコつけ繕うことをしないで、むしろ自分が第一なんだと認める。その上で「その自分が永続的に儲かるためには、消費者を裏切ることをやったらダメなんだ。自分の命取りになる。自分の大欲充足のためには、お客を裏切ってはならない。是非ともお客様の永続的支え、協力が必要だ。だからそのために、これとこれ、他社より余計にお客様のメリットをご提供する」と、明言するほうが消費者に理解しやすいし、結果として事業へ貢献するのではなかろうか。(理由は、後述)

 消費者だって「あなた方のために買い物してるんじゃなく、自分の欲求充足のためです」と思っているんだから。

 どうも建前は建前、本音は本音、と分けて、分けるのは良いとして本音を立派な建前で包装するから、錯誤、錯乱が生じ、不審が不信を呼び、せっかくの経営に腐心しても、あだ花になり、企業の不振を招く結果になっているのではなかろうか。

 だから「ここまでは出来ています。ここから出来ていません」と、事実をありのままで伝えることで、他社に見られない正直な企業、として消費者が評価し、支持する。こんなパターンで、ひとつ競ったら如何だろう。

 言いたいこと。競争自体に問題があるのではない。よこしまな自分の意思決定の、結果如何を「競争」に責任転嫁する事自体、卑怯だ。「競争」に誤れ、と言いたい。

 この問題は、「競争の定義問題」ではなく、事業者の意思決定、選択、つまり消費者に喜ばれること、世に役立つことで競う、という競争内容の選択をやらなかった経営者の意思決定ミスの問題なのだ、と、私は考えている。

便りの中の言葉

2006年04月17日 | Weblog
 何度も書いていることだが、人との接点で触発を受け、言葉が生まれる。それは直接の倍委もあるし、手紙の時もある。ここ10年ぐらいはメールが一番多い。

んだから、人とのやり取りには、時間を惜しまない。打ち返し、定型文など、もったいなくて使えるか。自分の言葉で双方がやり取りしたとき、言葉が生まれる。

 その記録、第二弾。こうしたメモが、本になる。ほんに、そうなる。


○発見は日常性の中にあります。

○健康にすごく関心のある20歳の男が、どれくらい長生きできるか世界的に有
名な医者の診察と検査を受けました。医者から「君なら最低でも100歳は生きられる」と太鼓判を押されました。
「わっ、俺はあと80年生きられるぞ」と叫びながら病院をでたとたん、車に
引かれて死んでしまいました。作り話です。恐いですね。健康への関心は、最大の自我の一つといってもいいのではないのでしょうか。

○生活の中に自らの生きがいを見いだすことが大切だと思っています。平凡な日
常の中から好きなことを見つけて、やるのが一番

○自分の存在と価値を他人から認めてもらわないとわからない人が多いです。

○結局は何かのツテを講じて、人と人とのつながりを作っていくことが、人生な
り商いの基本のように思います。

○自分の心の中にある「本質」を他に求めるところに人生の迷いが始まる。
旅をすれば身体と心にこびりついたものがそげ落ち本質が見えてきます。

○時にはびっくりすることが必要です。驚くためには旅が一番。

○平凡さほど素晴らしいものはないのに、人はこの平凡さにひたりきれず、非凡
を求めて、心をふあふあしてしまっています。

○人は不完全だから、人と触れ合いたくなる。完全に近づくと人は離れていって
しまう。だめ人間だからこそ求めあうのだと思います。完全食が無いからこそいろんなものを食するのです。食するためにも、人に会うためにも人は動かなくてはならないのです。行動して出会いを求めるのは、人が不完全だから不可欠なんです。欠けているのですから皆、寂しいです。人間ですからね。

○どの会でも一握りの共通した重なりのメンバーがいることがわかりました。彼らが、地域を動かしているのでしょうね。

○旅こそ学びの原点、散歩こそ思考の原点。

○数は大きいと小さいという概念と、数を忘れたときに大きな意味を持つ。


淡々型のお店にたじたじの筆者が持論を小声で

2006年04月16日 | Weblog
 「無理して商圏を広げてもリピート率が落ちる。美味しければクチコミでお客は自然に増えます。あとは半径500m内のお客さまに繰り返しきて戴ければよいのです」
 チラシは開店周年記念日の時だけ。宣伝して売っても一人のお客さんが余計食べるわけではないし買い置きもできない。だから売り込むやり方はやらない。1店舗6千万売り、余力ができたら、またその規模の商圏に店を出す。そして500m範囲のお客さんに合わせて商品を作り売る。これが店主があかる店のあり方。こうした話をきくと、「当店の基本戦略」などと言った言葉を使う、自分が恥ずかしくなる。

 一括して作ったものをアイテムの加減と品揃え数で店ごと商圏差異を調整していくビッグのやり方に対して、各店でお客にジャストミートする商品を作る当店の戦略とではどちらに地域消費者は軍配をあげるだろうか。そして製造から時間を経た商品と出来立てほやほや商品とではどちらをお客は可愛がるだろうか。
 
 以上、なんと呼ぼう。共生志向?、地域密着?、淡々型とでみ言うかの経営者に共通する要素は次のようになろう。
 ①経営者の関心が同業者や大型店との競争ではなくお客にある。お客の関心は、お客自身にあることに気づき、全ての発想をお客への個別的関心とその対応へ集中している。
 ②よいことはすぐ実行するという素直さ
と行動力がある。また次々とわくアイデアを無造作に実行しているように見えるが、人間としての優しさと商人としてのしたたかさ(科学的計算性)の両方に裏打ちされているから大きな失敗がない。それに継続性がある。
 ③商品や人的サービス等の差別化により
一定の顧客を固定化し、その顧客によって店の評判が他のお客にクチコミによって伝わる、という善循環システムを戦略としている。

 いつも自問自答していることだが、小さい店は大きくなることが目的であろうか。小は小のままでその存在価値を見出す。すなわち大と小の対比ではなく、また大を否定するのも小を否定するのでもなく、大は大なりの、そして小は小なりの社会的使命を果し得るところにも大きな意義があると私は考える。
 
 大と小は社会というシステムを構築する上でのそれぞれの機能分担の関係であり、それを果たすことにお互いの存在価値があるというのが、私の持論である。
 今、お客の生活をハッピーにするという商業活動の命題に対する機能分担を、小は小として果たすことが個々それぞれの店の責任として求められているのではなかろうか。

思考のギャチェンジを。

2006年04月14日 | Weblog
価格競争はプロパーでは売れないことを前提にし、ロープライス、ディスカウント、ダンピングと、競争相手の反撃を見つめ、消費者とは別の次元で過激さを加え、その過程でその多くが淘汰(とうた)されてしまう。
ここまで、前日書いた。
 残る少数派は、規模の利益やメリットを享受できる大資本系であって、けっして中小企業ではないのである。
 
 つまり中小企業にとっては最初から選択してはならない戦略と、私は考えている。ここで、ご質問のメールにお答えしておきたい。

 FC(フランチャイズ・システム)等に加盟し、規模のメリットを追求することで、薄利多売、すなわち規模のメリットの追求は可能ではないか、という内容である。

 そのことを前提に開発されたシステムだから、その通りなのだが、この選択も、言いづらいのだが、私は積極的にはお薦めしていない立場を取っている。

 その理由の1つには、低価格路線下で、加盟料やフィーの負担は薄利多売の身には応えること。2に局地戦的競合には極端に弱いという点である。3に、画一化、標準化の制約の中で、地域対応、個別対応のフリーハンドに限界がある。その限界を破ることで、過去ジーとザー間で、係争が少なからず発生していること。

 主に、以上の3つが、その理由である。
本来競争や、競合というのは地域戦である。A店の競合意識は、その店のあるエリアに限定される。対してFC本部の関心と対応は全国エリアである。当然だ。
 
 繰り返すが、規模のメリットは、全国欽一・同一が是(ぜ)であり、地域や加盟店に商品や対応が違っては規模のメリットは失せてしまうのだから。FCに加盟しそのメリットを補完するという戦略も、生き残りを保証しない。
 自分で規模のメリットを求めようと、それを他人に委ねようと、本質的には同じ事なのだ。

 だから、この途しかないといった消去法的観点からだけでなく、中小企業の得手を活かすという積極的理由から、選択するべき戦略は間違いなく「独自性の方向」なのである。 アイデンティティ、個性、オリジナル性、等々の概念は、これまで同一性を求めて学習してきた思考とは、まったく反対の思考回線へのギアチェンジ。これができるかどうか、が今後の死活を左右するのであって、従来のフイールドでの努力如何ではない。このことを肝に銘じておくことだ、と考える。


忙しさだけで明るさを感じるという、変態的快感に甘じるな。

2006年04月13日 | Weblog
デフレ下では、各企業が低価格路線へ向かって動く。
このことに疑義がある。坂道を下るのにアクセルを踏む恐怖を感じるからだ。これをデフレスパイラルという。
 
 理由は3つ。低価格具現のためには、前提としてコストダウンが不可欠である。だからその過程では人員削減が伴うし、材料取引先などへの仕入れ値のダウンも強いられる。

 それでも機械に置き換えられる要素が大きい製造業ならまだいい。小売業、サービス業では、人件費を機械に置き換えるには限度があり、その限度すれすれが、さらに売上げ減少を招く、ことになる。

 来店客は見えるが、利用しない客は見えない。人員削減等で、失った売上げ(機会ロス)や信頼などが、どんなに大きくても経営者には、掴めない。いつのも兄かじり貧。これが第1の理由である

 第2は、原価という限界があることである。原価を割って低価格路線を継続することはできない。

 第3の理由は、有利性が規模の論理に支配されることである。すなわち規模が大きいほどコストダウンの成果が大きい。だから中小企業には不利である。

 ということで低価格路線は中小企業にとっては不幸道である。低がだめなら、高がる。高価格路線に活路を見出すべき、というのが私の以前からの主張である。

 これを仮説とし、その立証のために10年も前から現場での検証を始めた。その結果、高価格路線を選択している企業は、いずれも繁盛企業である、という事実である。ただし低価格を選択している事業に成功事例が無いと言うことではない。あくまで中小企業では、見あたらないということである。

 ではどうしたら、というのは戦術。まずは高価格路線を歩むと戦略決定して欲しい、というと殆ど尻込みする。多くがそうだから、多くの中小企業は以前苦しい。大手に引っ張られることで一部が、忙しさだけで明るさを感じている。大手は、コストダウンに有利ということで、その下請けを選定しているから、毎日ムチ打ちにを受けている。それでも仕事はないよりまし、ということで明るく振る舞うという、いわば変態的快感を覚えている状況といえる。

むち打ちも、縛りも、親のすねかじり、こうしたことに甘んじない、中小企業を目指すには、まず低価格思考を捨てること。捨てなければ始まらない。

群れから離れてみる決断が、

2006年04月12日 | Weblog
 価格競争は、比較対象になるモノに於いて発生し得る、ということを前提にするなら、まさにコピー、すなわち模倣社会の産物といってよい。
 当然としてお互いの類似度が高ければ高いほど競争度も高くなる。としたなら、どうしたら、価格競争で他が淘汰され、競争関係がなくなるまで生き残りの戦略か、価格競争の枠外で展開できる道を求めるかということになる。
 戦略は二者択一である。2つあるそのどちらかを選択しないと前進できないのだから、選ぶ。その場合、どちらが有利か、安全か、儲かるか、やりやすいか、性格に合うか、自社の得手が生かせるか等々、選択のための基準がある。その基準にも優先順位があることは当然だ。
 その中の「安全かどうか」、という基準は、企業の社会的意義とそれが及ぼす影響、ゴーイングコンサーン性を考えると、最優先・最重要基準と思われそうだが、ところが、現実採用されている基準は、結果から判断しそうではない事例が余りにも多いのである。
 先日述べた大手追従の廉価戦略の選択など、その最たるものである。
なぜか。答えは簡単である。前者の戦略は大資本、大手、多店舗展開しているところ、といったように明らかに規模の大きいほど有利なのである。 とりわけ差別力・特異性が乏しいモノやサービスをあつかっているところでは「類似同質化競争」に巻き込まれる。
 繰り返すが、ここうなれば価格が唯一の差別力になるから、ロープライスがディスカウント、そしてダンピングと激化し進み、チラシのコピーも、安価・廉売から、超激安、そして投げ売りと過激化。 こううなれば淘汰され消えていってしまうのは体力のない中小企業の方である。
 この結末は、努力不足のせいではない。戦略の誤りなのである。元来、大手より中小企業の方が、独自性・特異性を発揮しやすい。この路線を選択しなかった戦略の誤りなのだ。
戦略の誤りを、戦術で保管することは不可能と言って良い。
 たくさんの鼠が、これまで海中に飛び込んでいる。その群れ、集団から離れてみてみる。その冷厳さ、余裕,勇気が、あなたの企業とあなたを救う。


コピーの行く末

2006年04月11日 | Weblog
1枚の原紙を10枚コピーしたら、11枚の同一内容物が生まれたことになる。このことは、原紙からみたらそれだけライバルが増えたことになる。こううして「コピー」は必ず競争激化を招く。そして同じモノであれば、より低価格であることを買い手は望むし、売り手も価格以外に競争相手に抜きんでる選択肢が無いわけだから、競って価格を下げる。しかし、そうした低価格路線には、制約条件と限界がある。売上げ=買上客数×販売単価であるから、単価を下げて、(競争に打ち勝ち)、客数を増やすことで、売上げ増加を狙う戦略である。つまり、単価を下げて、客数が上がるということを前提条件にしているわけである。逆に言えば価格を下げても、売上げを押し上げるほどには客数が増えなくなったら、この戦略は、自滅の戦略へ切り替わってしまうのである。これをわかりやすく例で説明すると、同業他社49社がが120円で売ってのと同じ商品を100円で販売したA社は、たちまち客数が増加し、以前より増収増益になることは間違いない。ところが他の49社が追従してみな100円にしたら、マーケットパイを一定とすると、分母、分子の関係で1社当たりの客数は50分の1になる。現実は立地とか店舗規模とか、様々な要因が異なるから短銃名わり算道理なるわけはないが、減少することはさけられない。
 ここでA社の取るべき戦略は2つある。1に販売価格をさらに引き下げ、たとえば96円にすること。もう1つは、100円で販売する商品の種類を増やすことで、差別化を図ることである。現実、今の100円ショップはこの2つの戦略で、熾烈な戦いの真っ最中なのである。しかし、同一商品である限り、という前提要件を付ければ、低価格競争には遠からず限界か破局が来ることは、100%確実なのだ。それには2つある。1は原価という限界である。安売りできると言っても、仕入れ値を切って売る続けることが続けられる訳はないからである。そこで、そこで各社、見えない部分で管理費の低減と仕入れ値の低減というところで、それこそ骨身を削っての競争を行っているわけだ。しかし、骨なし、身なしでは、事業の継続は不可能であるかこれにも早々に限界がくる。
 こう考えたら、コピー、模倣を前提とする限り、競争社会からは逃れえず、その終着は、倒産であることが、容易に理解できるであろう。

手紙の中の言葉-その人生における意味

2006年04月09日 | Weblog
 人の人生とはなんだろうか。自分の人生の存在、プロセスは、どこに記憶されているのだろうか。否そんな記録があるのか。ないのか。もちろん自分の人生だから、自分の人生の記録は自分の頭、脳に記憶として記録されているのだろうが。

 それを自分以外のものが存在証明してくれないと、「おれの人生は、俺の脳の中にある」といっても、だれもそれを証明してくれない.
としたら、あるものも「ない」、ないものも「ある」ことになる。

 経営者が、こぞって実績、業績にひたすらなのもそうだろう。そのことはけして悪いことでない。ただ中には、在任期間だけ、ひたすらと結果的かも知れないが考えている人が少なからずいるところに、根本的な問題がある。

 経営の達人は、人生の達人でなくてはならない、と考える。
 人生というより長いスパンで、考えたら、恐らく、晩節を汚すことも、経営者による企業犯罪は激減すると考えるのだが。

 だからこそ人はある意味では、必死に他との関わりを求めているのではないか。また様々な意味で創作活動を成しているのではないか。

 存在認識の手段としては様々ある。様々な仕事もそうだろう。芸術もそうだ。様々あるが、確かなものは形だろう。目で見たものは消えるが形は残る。耳で聞いた音は消えるが楽譜という形で残せる。イメージは見えないが、デザインは残る。

 言葉は発した瞬間消えるが、文章は残る。残る分だけ、自分の存在が人に知られる機会は増えよう。
 
 人生をそうした織りなしの営みだ、と断じる勇気も根拠もないが、人生の織りなしのプロセスで、せっかく出会った人との、それもあったこともない方々とのやり取り、言葉に遺しておきたいと、最近古いものを取り出しては、整理している。

 以下も、その断片である。ご一笑頂けたら嬉しい。

○発見は日常性の中にあります。
○健康にすごく関心のある20歳の男が、どれくらい長生きできるか世界的に有
名な医者の診察と検査を受けました。医者から「君なら最低でも100歳は生きられる」と太鼓判を押されました。
「わっ、俺はあと80年生きられるぞ」と叫びながら病院をでたとたん、車に
引かれて死んでしまいました。作り話です。恐いですね。健康への関心は、最大の自我の一つといってもいいのではないのでしょうか。
○生活の中に自らの生きがいを見いだすことが大切だと思っています。平凡な日
常の中から好きなことを見つけて、やるのが一番
○自分の存在と価値を他人から認めてもらわないとわからない人が多いです。
○結局は何かのツテを講じて、人と人とのつながりを作っていくことが、人生な
り商いの基本のように思います。
○自分の心の中にある「本質」を他に求めるところに人生の迷いが始まる。
旅をすれば身体と心にこびりついたものがそげ落ち本質が見えてきます。
○時にはびっくりすることが必要です。驚くためには旅が一番。
○平凡さほど素晴らしいものはないのに、人はこの平凡さにひたりきれず、非凡
を求めて、心をふあふあしてしまっています。
○人は不完全だから、人と触れ合いたくなる。完全に近づくと人は離れていって
しまう。だめ人間だからこそ求めあうのだと思います。完全食が無いからこそいろんなものを食するのです。食するためにも、人に会うためにも人は動かなくてはならないのです。行動して出会いを求めるのは、人が不完全だから不可欠なんです。欠けているのですから皆、寂しいです。人間ですからね。
○どの会でもひとにぎりの共通した重なりのメンバーがいることがわかりました
。彼らが、地域を動かしているのでしょうね。
○旅こそ学びの原点、散歩こそ思考の原点。
○数は大きいと小さいという概念と、数を忘れたときに大きな意味を持つ。

手紙の中から、拾った言葉-1

2006年04月08日 | Weblog
 今は、ほとんどメールに代わったが、以前はハガキや手紙で、実に多くの方々とやり取りをしていた。私は、こうした多くの人たちから示唆をうけたり、触発を受けて、学んできた。いや、育ててもらった。

 書棚を整理していたら10年以上の前の、書簡のフィルがでてきたので、そうした中から、言葉を抜き出してみた。おもがゆさを感じるが、触発は、自分では到底思いもつかない言葉や考えを生むものだ、という証として、以下、期しておきたい

              記

○人生には流れを作ることと一人切りの時間を持つことが大切。世の中にとけ込んで生きている人の中に本物がいる。

○伝えたいものがある限り続けますが、伝えるものが無くなったらこの仕事やめ、別の仕事で生きたいと考えています。でも先のことどうでもいいんです。

○忙しいことは、本来楽しいこと、嬉しいことのはずですが。

○自分で自由に風景を変える。大きな流れをつかみその流れに身を委ねると楽。自分の心の有り様だからどうでもなるんではないかなぁ。

○楽しくないことには何か問題がある。これ情報として受け取るのです。

○信じ切っていた、と言っていて後から裏切られたというのおかしいでしょう。
信じるとは裏切りの概念が存在しないということです。少しおまけして、裏切られたとしてもついて行く。これが信じ切ることです。それが恐かったら最初から信じなければいい。信じないと裏切られることもないから。

○同感です。平凡、無名の人の中に素晴らしい人が多いに、どうして有名な人を求めるのでしょう。著名な人を風景にして自分を目立たせるやり方、政治家だけではありませんね。自分の本質には変わりないのに。可愛そうですね。

○心を遊ばすことが出来れば、どんなに素晴らしいことか。

○いつでも巣に戻れる飛び方しませんと、遠くへ飛びすぎ、巣に変えれなくなりますよ。巣があるって、とても素晴らしい大切なことだと思います。

○きざですが、私には仕事とか休みとか遊びとかの区分概念が少ないないのです。言ってみれば人生すべて遊び。これでずいぶん楽になりました。

○楽しさ優先の選択に賛成。私も嫌いな人より好きな人が好き。悲しみより嬉しいことが好き。だからいつも好きな方を撰んでいます。嫌いなものから逃げるようにしています。そしたら嫌いな物が少なくなってきましたよ。変ですね。

血の抗争から脱せよ

2006年04月07日 | Weblog
 売る、売れるということは売り手の望むところである。買い手の「望むところ」を充足しなければ、売り手の「売り手の望むところ」は得られない。

 そこで、こちらが売れるという状態の具現のためには、前提として買い手の望むところを充足し、うちを選んで買っていただくという、消費者との協力関係の構築が不可欠になる。これが営業・販売の根幹である。

 ところがたいていは、売り手が、「売り手の望むところ」の具現を、直接的に図ろうとする。これでは消費者との関係が協力関係ではなく対立関係になり、消費者は背を向け出す。その結果、帯びただしい出血(損耗)を生む。この出血は消費者側から見たらムダな、迷惑なこと。売り手側からみたら文字通り、赤字へと誘う。

 戦争が、双方にとって大きな損失を生むのは当然である。
 皆,わかっている。わかっていても戦争がなくならない。同様、企業もまた然りだ。

 皮肉なことだが、そのおかげもあり一握りの企業が大きく伸びていく。それは、1に消費者が多くの選択肢の中から、もっとも買い手である自分の望むところを選択するという形で協力してくれた結果である。2に、他の企業が対立路線にしじゅうしているおかげである。

 戦うか、手を組むか。どちらを選択するかは、頭が正常であれば、血の抗争を脱し、しかも経済の論理、企業の論理からみても超有利な選択が為されるだろうから後者になるのだが。

 理想は、全企業が、「消費者の望むところ」を競うこと。この競いは消費者、ひいては世を善くしてくれる。
 
 これが私が提唱している、「消費者中心主義」の本意である。