経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

フィールドチェンジ

2006年04月24日 | Weblog
「フィールドチェンジ」                  田上康朗
「昔は良かった」と嘆く人がいる。よかった理由は、その本人の経営手腕ではなく、「昔」にあること。それに「今」は悪く、そのせいで彼の業績が、今は低迷していることを告白していることになる。

 「近くにSC(ショッピングセンター 以下SCと略称)、が出店したため売上げが悪くなった」といって、いつもぶつぶつ文句を言っている人がいる。最近そのSCの核になっていた大型スーパー自体が倒産し、撤退した。では彼は喜んでいるか。否、今度は「町に核がなくなった。早くなんとかしろ」といっている。これも経営を上下させているのは、経営者である彼ではなくその「SC」だということになる。

「この町の人は変わっている。昔から地元でなく他の町で買い物する。そういう人情のない土地柄なのです。ここは」と、ある町の商工会役員が真顔でいわれた。これも悪いのは自分ではなく「土地柄」である、ということだ。

 彼らにとって、良かった時代は常に過去。そして今のこの不振や売れなくなったのは、SCなど大型店がお客を奪ったため。そうした外部で買い物をする消費者や土地柄が悪いのであっで、自分は消費を奪われた善意の被害者という論理である。しかし自分だけがそうであっては、世間に対し説得力に欠けるから、その論理に普遍性を加えるためには、中小企業はすべからく弱者であり被害者でなければならない。だから大型店出店阻止といった組織活動には、熱意を見せ、ときには阻止運動の先頭に立つこともある。

だが、苦境なり不振なりが、自店の固有の問題や自分自身の固有の問題とされることに極端な不安と恐怖感を抱いているから、それを思い知らされるような研修会や経営講習会には、滅多に参加しない。

彼らは、まさかたくさんある消費者の選択枝から、自分の店が外れているといったなどとは思っていないか、思ってみたくないか、どちらかだろう。だがそのことが決して強がりだけに思えないのは、「店が存在すれば、人は買いにきてくれ売れる」といった思い、それも信念みたいなものに支えられているからであろうか。彼らには頑迷で、外部の人の話を聞きたがらない共通性がある。

彼らの頭の中には、商店が少なく、ましてやスーパーもコンビニもなく、消費者側に購入先も購入する商品すらも選択の余地もなかった時代のことが、鮮明に記憶されているに違いないだ。その頃は、メーカーや問屋の持ってくるものを、店頭に並べていれば売れたし儲かった。それが彼らのいう「昔」であり、過去の成功体験なのだ。

 「中小商店は頑張りが足りない。努力が足りない」と檄を飛ばしている識者や専門家も大同小異である。たとえば、「大店立地法」の施行(H12年6月1日)された直後、多くの識者は、すでにその時点がデフレ下にあり、大型店やSCに倒産や陰りがみえてきていたにもかかわらず「今後毎年100カ所以上の新規SCが開発され、2010年には最大4000のSCになる。これは過去30年分のSCが、わずか10年でできることになる」(業界専門誌S H12年7月号、某氏論文)。といったように、多くのが、「大店立地法」はSCの開発のピッチを速め、大型化を促進すると予測。その理由として、市町村が大型店を誘致することの「事業税増」、「雇用確保」「地域の利便性向上」などのメリットが挙げられていた。

 さてその後の現実はどうであろうか。そのSCの核となるべき、百貨店や大型スーパーがこぞって不振を窮め、倒産、退転続出の有り様である。誘致側の行政にしても然り。むしろ退店・撤去阻止の方に躍起というのが実態である。

 識者・専門家もまた無競争状態に競争が生まれた場合、大が強者、小は弱者。それを小からみると大が加害者で、小は被害者といった既成概念、それに過去の成功体験を右の彼方へ伸ばして、将来(さき)を診る手法に依存している限り、さきに述べた多くの商人たちと大同小異といってよい。

ではこの両者の認識に共通するズレ(要因)とは何か。
競争は、作り手・売り手におけるフィールド内の問題、視点であり、当事者にとっては歓迎したくないことである。しかしこれを消費者側のフィールドからみたら、多くの買う「場」、多くの商品を選択できることはハッピーで、歓迎である。とすれば上述した作り手・売り手の論理が嵩じることは、消費者の喜び・楽しみへの挑戦であり、消費者を敵に回すことになる。消費者を仮想敵にした論で、消費者に支持されるわけはない。

2点目は消費者の選択眼のことである。選択肢の拡大こそ、消費者の豊かな生活の背景を支えてきた最大の貢献者といってよい。選択肢が拡大すれば、買い手の方は数多くの中から、選び抜くということになる。これが消費生活の中で当たり前になれば、その選択眼は鍛えられる。野球の場合選球眼だが、たくさんの様々な業種・業態の中からお店を選ぶことを、かりに「選店眼」と名付け、様々な商品やメニュー、サービスから選択するのを「選品眼」と呼ぶことにする。それらが鍛えられ厳しくなればなるほど選択されないものが圧倒的に多くなる。消費者の「眼」に叶わない企業が存立できないのも、また自明の理である。この2点が、いまの構造的消費低迷の根底にある。

 そこから脱却を図るためには、これまでのフィールドでの努力ではなく、消費者を中心においたフィールド(消費者中心主義)へチェンジを計る以外にないことを知るべきである。