経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

手紙の中の言葉-その人生における意味

2006年04月09日 | Weblog
 人の人生とはなんだろうか。自分の人生の存在、プロセスは、どこに記憶されているのだろうか。否そんな記録があるのか。ないのか。もちろん自分の人生だから、自分の人生の記録は自分の頭、脳に記憶として記録されているのだろうが。

 それを自分以外のものが存在証明してくれないと、「おれの人生は、俺の脳の中にある」といっても、だれもそれを証明してくれない.
としたら、あるものも「ない」、ないものも「ある」ことになる。

 経営者が、こぞって実績、業績にひたすらなのもそうだろう。そのことはけして悪いことでない。ただ中には、在任期間だけ、ひたすらと結果的かも知れないが考えている人が少なからずいるところに、根本的な問題がある。

 経営の達人は、人生の達人でなくてはならない、と考える。
 人生というより長いスパンで、考えたら、恐らく、晩節を汚すことも、経営者による企業犯罪は激減すると考えるのだが。

 だからこそ人はある意味では、必死に他との関わりを求めているのではないか。また様々な意味で創作活動を成しているのではないか。

 存在認識の手段としては様々ある。様々な仕事もそうだろう。芸術もそうだ。様々あるが、確かなものは形だろう。目で見たものは消えるが形は残る。耳で聞いた音は消えるが楽譜という形で残せる。イメージは見えないが、デザインは残る。

 言葉は発した瞬間消えるが、文章は残る。残る分だけ、自分の存在が人に知られる機会は増えよう。
 
 人生をそうした織りなしの営みだ、と断じる勇気も根拠もないが、人生の織りなしのプロセスで、せっかく出会った人との、それもあったこともない方々とのやり取り、言葉に遺しておきたいと、最近古いものを取り出しては、整理している。

 以下も、その断片である。ご一笑頂けたら嬉しい。

○発見は日常性の中にあります。
○健康にすごく関心のある20歳の男が、どれくらい長生きできるか世界的に有
名な医者の診察と検査を受けました。医者から「君なら最低でも100歳は生きられる」と太鼓判を押されました。
「わっ、俺はあと80年生きられるぞ」と叫びながら病院をでたとたん、車に
引かれて死んでしまいました。作り話です。恐いですね。健康への関心は、最大の自我の一つといってもいいのではないのでしょうか。
○生活の中に自らの生きがいを見いだすことが大切だと思っています。平凡な日
常の中から好きなことを見つけて、やるのが一番
○自分の存在と価値を他人から認めてもらわないとわからない人が多いです。
○結局は何かのツテを講じて、人と人とのつながりを作っていくことが、人生な
り商いの基本のように思います。
○自分の心の中にある「本質」を他に求めるところに人生の迷いが始まる。
旅をすれば身体と心にこびりついたものがそげ落ち本質が見えてきます。
○時にはびっくりすることが必要です。驚くためには旅が一番。
○平凡さほど素晴らしいものはないのに、人はこの平凡さにひたりきれず、非凡
を求めて、心をふあふあしてしまっています。
○人は不完全だから、人と触れ合いたくなる。完全に近づくと人は離れていって
しまう。だめ人間だからこそ求めあうのだと思います。完全食が無いからこそいろんなものを食するのです。食するためにも、人に会うためにも人は動かなくてはならないのです。行動して出会いを求めるのは、人が不完全だから不可欠なんです。欠けているのですから皆、寂しいです。人間ですからね。
○どの会でもひとにぎりの共通した重なりのメンバーがいることがわかりました
。彼らが、地域を動かしているのでしょうね。
○旅こそ学びの原点、散歩こそ思考の原点。
○数は大きいと小さいという概念と、数を忘れたときに大きな意味を持つ。