事業が成立、存続する前提としてその根底にながれているものがあるとしたら、「相手のことを想う気持ち」であろう。
相手のこととは、一言で言えば、その相手の喜怒哀楽。思うとは共有と解したい。その上に「お客を知り、お客に思いを馳せ,お客が求める商品やサービスを製造ないし仕入れ、提供する」というフローが乗っかっている。このフローが商いであると考えている。
地域住民と同じ町で生活している地方の近隣商店街ですら、何回も来店し買物をしているのに、お客の名前を知ろうとも関心もしめさなに、といったことは少なくない。なぜか。頭の殆どは自分の関心で一杯だからである。
買うのはお客なのだから、そのお客のことに関心をもち、知る、といったことでなければ商いがフローとして流れないのにである。
一見、お客との対話や接客がなされているようにみえても、内実は自社・自店にある商品を売ることだけに夢中。だから "売り"に偏っている。また接客がその都度、その都度の完結型に終わっている。こんな接客を何年、何回繰り返してもお客を知ることはできない。また顧客情報が蓄積されることはない。
ここで顧客情報というのは、POSやレジや、あるいはそれらをコンピュータでグラフにしたもの、といったものではない。
なじみの店が、お客から希望する商品を問われて、「申し訳ございませんが、」と、どんなに丁重に謝ったとしても、自分の欲しい商品が置いてないこと、すなわち自分に関心を持ってくれていないという、お客の疎外感を払拭できまい。接客に相手への関心が欠けては、商いのフローは停滞する。
企業なり、商店なりの活性化とは、このフローを活発にすることに他ならない。
相手のこととは、一言で言えば、その相手の喜怒哀楽。思うとは共有と解したい。その上に「お客を知り、お客に思いを馳せ,お客が求める商品やサービスを製造ないし仕入れ、提供する」というフローが乗っかっている。このフローが商いであると考えている。
地域住民と同じ町で生活している地方の近隣商店街ですら、何回も来店し買物をしているのに、お客の名前を知ろうとも関心もしめさなに、といったことは少なくない。なぜか。頭の殆どは自分の関心で一杯だからである。
買うのはお客なのだから、そのお客のことに関心をもち、知る、といったことでなければ商いがフローとして流れないのにである。
一見、お客との対話や接客がなされているようにみえても、内実は自社・自店にある商品を売ることだけに夢中。だから "売り"に偏っている。また接客がその都度、その都度の完結型に終わっている。こんな接客を何年、何回繰り返してもお客を知ることはできない。また顧客情報が蓄積されることはない。
ここで顧客情報というのは、POSやレジや、あるいはそれらをコンピュータでグラフにしたもの、といったものではない。
なじみの店が、お客から希望する商品を問われて、「申し訳ございませんが、」と、どんなに丁重に謝ったとしても、自分の欲しい商品が置いてないこと、すなわち自分に関心を持ってくれていないという、お客の疎外感を払拭できまい。接客に相手への関心が欠けては、商いのフローは停滞する。
企業なり、商店なりの活性化とは、このフローを活発にすることに他ならない。