経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

そのあり得ないことをやって生きていた。なんと運の良いお人よ。

2005年11月13日 | Weblog
売上げが落ちると売上げが上がるようにさらに努力する方法と、経費を落として利益の確保に走る方法、いずれかをやるのが一般的だ。

 前者は、「買えない」状態を、解消せず売ろうとより努力することでさらに売上げを落とすことがあり、この場合の「努力」は無駄である。努力は、通常忙しさを生む、いらつきを生む、無理を生む。こうした派生的にものまで巻き込んで、「無駄」である。やらないで良いことをやって、何の成果も生まないのであるから、その損失は大きい。
 つまり努力は、あることを前提とし報いられるのであって、その前提なしにはむくいれられないだけではなく逆効果である。ちなみにある前提とは、「これまでのやり方が正しく、純にこれまでが努力不足だった場合」である。

 一方、後者は、これは体重が減少したので、接種カロリーを落とす事と似たり。あるいは痔を煩い、風邪薬の類。ナンセンスと言わざるを得ない。さらに宇リアが落ちたらさらに経費を削る。またさらに売上げ落ちたら、またさらに経費をと言うことで、命取りの戦略である。

 だからどちらもダメ。売上減少の対策は、買上増加以外にないのである。
具体的には、正しくは売る立場の人は、売る立場からものを考え手の対策をいっさいやめ、買う立場から、自分の店を診る体質を作ることである。

 難しいという人がいるが、やってもないことを頭で否定し士を待つより、即実行に移すことである。
 実践した人は、皆いう。「なんだ、簡単じゃないか。同じ事じゃないか」
そう。トンネルは入り口から入っても、出口から入っても、その労力も時間も同じことなのだ。だが買上が先に生じて売上げがその後に立つのであって、売上げが生じて購買が起きることはあり得ない。

 お気づきだろうか。これまではそのあり得ないことをやって、偶然というかたまたま生きていたのだ。なんと運の良いお人よ。

写真は、とある日の「ふくの会」である。下関南風市場直送のふぐでの夕べ。

2005年11月13日 | Weblog
 ホテル 「あけぼの」のとある土曜日の夕べノスナップ。一階のレストランで、乾杯をしているのは、新潟の小林さん、徳島の岡田さん、地元の佐竹さん、広島の永本さん、それに宿泊者、鹿児島の私、同じく宿泊者の2名である。宿主の石村さんは、写真の左手の厨房で、私たちのつまみを作っている。
 あけぼのでは、ときおり主に土曜だが、いろんな人がここに集まりワイワイがやがやのミニパーティの光景が観られる。もちろん企画は石村さんだ。

 地元の防府で、たとえば花火大会があるときは、宴の場所が屋上に移され、宿泊者や近所の人、石村さんの仲間達との交流会になる。お祭りは、地域のイベントがあれば、石村さんが案内し、夕食はたいていこうした形になる。

 石村さんは、事業づくりの要諦、私が口癖にしている、お客を喜ばすものを創造しているのである。ビジネスホテルにしては珍しく夕食の喫食率が高いのも、お客様が喜ぶツールの1つとして料理をとらえているからである。
 売上げは、お客の喜びの結果に過ぎない。

 

「ビジネにスホテル あけぼの」のHPで学んだこと

2005年11月11日 | Weblog
山口県・防府市 ホテルあけぼのhttp://www.akebono21.com/石村さんは、なにをお
客がが望んでおられるかを柱に、経営の工夫をされています。そんなこと当たり前、と言われるかもしれませんが、たいていは自分の立場からの経営改善というのが実態です。

 その例をHPで見てみましょう。私に言わせたらお客の立場、お客を主人公にしたHPなど希有です。
 ホテルの道路案内一つとっても実にわかりにくい。対してあけぼのホテルまでの道案内ガイドは、感動的です。カーナビを持っていない人に、迷わず来ていただくために、自分で車を運転し迷うようなポイントを写真で写し、ガイドしている。石村さんが常に消費者の視点で考え行動していることが、見る人に伝わってきてすごいです。

 自分の身近の道路は自分では分かっていることですが、観光客はわからない。分からない人たちの視点でガイドや地図は創られなければならないのに、分かっている自分のためにガイドしているおかしな案内や地図がほとんどです。

 それにほとんどのHPは、経営者の心や考えが見えない。単なるHPは自社の自慢か、HPのできばえの自慢用です。表現の違いはあるにしても会社が中心・主役で、また1つ1つの画面の背景がどういう考えで創られたが見えてこない。

 ですからあけぼのHPをみて、たとえば1ヶ月の夕食メーニュー提示が、お客にとってどうプラスになるかなど、宿の経営者でも理解され人は案外に少ないのでは、と思います。ましてや宿にとっては不利になるかも知れないことですから。
 ですが、お客様から見たら、実に貴重な欲しい情報なのです。

 あけぼの石村さんのすばらしいHPの根本には、お客が主人公のHPを創っていることです。主語がお客様。その視点で創られているHPは、あるようでないに等しい。

 あけぼののBBSをご覧になったら、そのことが即理解できるはずです。
 お客様の声(書き込み)が弾んでいる。この感激、喜びを実際に体感したくて、
こに宿泊することが、目的で防府までわざわざ来る、というお客までいる、という現象を生んでいるのです。
 もちろんHPは、こうでなくてはという積もりなどありません。ただ消費者中心主義、顧客第一を唱えている会社が、HPで自社中心、自分中心の立派なHPを創られているのは、言うこととやっていること、おかしいぞ、とお客様が思われるのは事実だと思います。それにあなただったら、どっちが気持ちいいか、選択の問題だと思います。

日本一の過疎の村を目指す馬路村から、今年も送ってきたよ!

2005年11月09日 | Weblog
市町村合併も一区切り。各地の「合併推進協議会」にお招きいただいたが、そこでの話で必ず取り上げるのは、高知県・馬路村の話。7年数年前、地域興しのご縁を戴いて以来、忘れられない村で、贔屓している。先日、アル高名な評論家が、座談会で物知りげに「バジムラ」と連発してたが、いったことのないのは明らかだ。
 この村は、現在の人口1300人ぐらいの超過疎村。ゆずの販売で知られ、これだけて7億以上の売上げがある豊かな村である。さらにこの村を有名にしたのは、「合併しない宣言」。
 今治村長と村民の皆様方に、最高の敬意を表したい。
 昨日、この馬路村から、特産品満載の、まことにユニークなお歳暮特集のカタログが届いた。これだけでもどれだけこの村が素晴らしいか一目瞭然⇒ttp://www.inforyoma.or.jp/umaji/  小さいことを誇りと強みに思っている村民の知恵と情念にあふれるパンフである。

先の楽しみを、今楽しめるのは過去の思い出が頭にあるから。

2005年11月08日 | Weblog
 Sさんへ

  戴いたメールに感激のあまり感涙、気を落ち着かせるためしばらく車で町をぐるぐる回って来ました。
 自分を理解している人が、どこかにいて、そうした人が声を掛けてくださる。それが「仕事」だとしたら、仕事ってすごく素晴らしいものですね。

 なんでだろ、なんでだろ、と外に理由を求めていましたことが、その原因が内にあることを3年間、気がつかなかったこと。電話のを件ですが、単に電話のことというのではなくどれだけの方にこの間、不快を懸けたかがわかりません。

 広い、広い中から、私を選んで連絡くださる方に、知らずして不快を懸けていた。しかも気づかないまま、外に理由を求めていた、その私の心の動きこそが問題と、真剣に考え込んでいたところへメールいただきました。有り難かったです。嬉しかったです。

 「まだまだ未熟者」と意気込んで前に進むのではなしに、今回は逆に少し歩を前に戻してみようと考えました。具体的にどうするかはこれからですが、とりあえず古いもので今も残っているものに浸ってみようと好きな映画から始めました。
そんなことで、とご一笑されるかも知れませんが、とりあえずはなんでも温故知新でという想いです。

 たとえば、白黒、レギラーサイズ時代の作品が、今頃DVDで世に売り出される、というのは、その作品に何かがあるはずです。その「何か」を見つけ、不変・不偏のものを押さえてみます。なにか、大事なことを置き忘れ、あるいは見落とし前に、前に進んでここまで来て、これですから。

 確かMさんのことは、以前メールかブログでしたか、書いていましたね。「いい人がいる」と。
 その彼から、思いがけなくメールを戴きましたが、すぐわかりました。ほんとうに他の方と違う。書かれておられるとおり、どこにも、どこの世界にも、いい人はいる」。彼の簡潔な文面を拝見しただけで、ほんとうにそう思いました。それだけに私も意識してしまい、ぎこちない返信のメールをしてしまいました。(^_^)

 家族とのこと、地域のことなども忙しさを理由に敬遠していた頃と比べたら、こちらのほうは後戻りではなく、さらにもう数歩踏み込んでいきます。
 父91歳とも、ハガキのやりとりを続けています。地域のお年寄りとも、お付き合いするように心がけています。とけ込む、そして行事活動に積極的に参加、というレベルには、ほど遠いですが、自分の外部を暖かく、優しいものにしておけば、自分を暖かく、優しく包んでくれる。そのことがまだかすかではありますが、言葉ではなしに身体で掴めています。
 
 やはり大中小問わず問題が起きるのは、なんと弁解しようと他に理由をふろうと、自分の力のなさです。かって忙しい頃には、「こんなものだ」と思い上がって錯覚していただけだと、恥ずかしながら最近になって感じている始末です。
 
 でも、気づいて本当によかったです。戻れるから。
 気付かないまま、このまま前に、前にと進んでいたらと思うと、自分のツキと幸運を感じます。自分でわからなかったことを外部の人に教えてもらったのだから。
 
 電話の1回線を惜しんで、たくさんの方に不快をおかけしていたのと同じように、自分の器を広げずに仕事の大盛りし不評をかっていたのを自分ではわからない。情けないほどわからない自分、未熟なのです。
 
 未熟は成熟の手前ですから、今一度そこ、等身大の未熟な自分の、その手前の位置に戻して、その等身大のアウトプットします。大きなアウトプットをしたくなったら、それに見合う自分の器かどうかを確認し、器を大きくしてからやります。
 大きくなっていると自分にわかる、そうした形で、歩を進めてみます。
 
 12月、国境の島、対馬に2年ぶりにお招きいただくことになりました。今から釜山の夜景を見るのを楽しみにしているところです。先の楽しみを、今楽しめるのは、2年前にみた、対馬の夜景が頭にあるから。

 奥様によろしくお伝えください。
 
                                田上康朗

ね、無理をしなくて、今のままでやれることを考えましょうよ。

2005年11月07日 | Weblog
 今朝は久々、目が覚めるような秋晴れ。その分少し肌寒い感じです。

 今回の企画、○○会の集客は、やはりどう考えても私たちのの力量不足が原因です。少なくとも私にもっと力があり、著名であれば、どどっと全国から集まってくるはずです。私は、以前宮城県、岩手、秋田で脳力経営塾を開催した、その折の思いこみがあって、40-50名は軽い、といった気持ちが、どこかみあったのです。その折と比べたら力量が落ちている。というよりもともと自分にそんな力など無かった。主催してくださった仲間の力。それを自分の、と錯覚していたのです。

 お店でいえば、全然お客が来ない。そのお店の主人を私として、その私が偉そうに経営などのセミナーしている。それでいっぱいお客様が集まる。ぜったいおかしいことです

 私は、かねがねから、人は等身大でありたい。器以上に水は盛れないのですから。ところがこの世は実より虚が上回る例がほとんどです。

 そういいながら、実は自分もそうではなかったのか、というのが私の反省です。
これだぞ、と理由がわかれば、実像、等身大に戻し、その上で虚ではなく実像を大きくするように対策すればいいのです。
 
 未熟な者が吐く言葉では、人様に役立てる訳はない。役立たないで金を得るは、
空箱を売る商人に似たりです。空箱で人はだませても、自分はだませません。
 
 これからの人生を、詐欺で終わりたくありません。幸い空箱ですから、有り難
い。 少しはわかって来ましたので、時間はかからないと思います。この空箱にいっぱい、質の高いものを詰め込めば、必ず欲しい人が出てくる。この箱に見合うささやかでもお役に立てる私たちならではの商品をいれたらいいのでは、と思います。

 等身大で生きましょうよ。ハイソールはいて背が高く見えても、実際の身長変わらない。靴脱いで、部屋に入って鏡の中の自分を観たときの気持ち、さわやかと言うことにはならない。ね、無理をしなくて、今のままでやれることを考えましょうよ。

 

その意思決定、自分の命がをかかっているが、この判断でいいかな?

2005年11月06日 | Weblog
 立派な理念を掲げ、かねがね美しい言葉で飾ったコピーを蒔いていても、内実は会社中心・至上主義で染まってしまっているといってよい。それらは会社を美しく見せるための表向きの衣装であり、装身具にすぎないとさえ思える。

 皆、当然だが戦略は会社の存続であり、未来永劫の繁栄である。その具現のために、そのための戦術としてそれらが表側に張りつけられ、外からの見栄えを善くしただけのものにすぎない、とも言える。
 そう考えないと、これだけ企業犯罪が発生すること自体の説明が付かないのだ。

 今、消費者は性懲りもなく繰り返される企業の不祥事に対する不信感は、極限に達している。
 消費者の目は厳しく、それを受け手、法の網の目もつぁくなっている。それがたとえ氷山の一角としても、「いつかは我が社も」といった抑制力はあるはずである。さらにそうした不祥事を起こした場合、その後の企業の業績がどうなっているかは、過去の学経験で、企業承知しているはずである。それでも繰り返されるのは、どういうことなのだろう。
 
 よく組織における個人の問題が問われる。会社に尽くせば自分も認められる、幸せになれる、といった組織における属人的な論理がことを起こす。この場合、論議はあろうが、会社に問題がないとしたら会社は被害になる。記者会見なので「会社ぐるみない」と、いいはるのは、その立場である。

 では組織的、ないし組織ぐるみとはなにか、トップといえども、いな上位者であればあるほど、自分がかわいい。自分の任期中に業績を上げたい、今のため先送りしした、といった自己中心的欲求は高いと言えるのかもしれない。

 としたら、上位者自ら発案、起案するケースもあろう。あるいは、部下のそうした行為をを、「俺の知らぬことで」ということを前提に、暗黙の了解をしていることもあろう。あるいは地位、立場を活用し、意図的に、そうした行為へ走らざるをえないように、を強要、示唆場合もあるもしれない。
 時として組織は人に狂気を帯びさせてしまうことは否定しない。だが個人が、人格のない法人へ責任を転嫁し、人格なき法人は、代表者を代弁者として、個人に責任を振る。なんという愚かさ。無知ぶりであろうか。

 言っておきたい。そのことは、個人であろうと、組織であろうと、滅亡に直結している行為である。まったく倫理と遵法の論理を抜いて考えても、いわゆる採算に合わない行為、園前提の「意思決定」の誤りなのだ。
 だから事後よく言われる、「会社のためよかれと考え」というのは、明らかに誤りである。消費者を背につけて存立し得ている事業体の本質から見たら、消費者に背を向けさせる行為は、自殺行為そのもの。支えている消費者が、手をはずしたら事業の存立はありえないからである

 企業中心の論理では事業も人も幸せにはなれない。人の幸せを、心底から念じ、行動することで成り立つのが企業の本質なのである。
 本来、消費者の幸せと喜びに思考と行動の基準を置きさえすれば、事業は健やかに伸びていけるのである。それがどうだ。自らの命綱にも等しい消費者を、裏切り、だまし、不安に陥れて自らの企業の生命を自ら絶つ浅はかさは、まさに癌にそっくりではないか。

消費者を裏切る企業は、消費者は必要としないのである。その証を、大方の企業倒産の根本要因と、私は見る。
 企業犯罪は、司法によって裁かれれその是非が問われてからの問題として、考えるのではなく、遙か以前の発端の段階、すなわち企業風土、理念、組織を担う者の意識、意思決定、等々の関係する、「意思決定」の是非の問題なのである。

 だから、「ほんとに自分のため、組織のため、幸せをまねく意思なのだろうか」といったことを、自分自身と組織の寿命のスパンで、熟慮して判断することである。このことこそ、すなわち「生か死か」、我が命を賭される最重要な「意思決定」なのだ。
 だから、もう一度自問自答願いたい。「その意思決定、自分の命をかかっているが、この判断でいいかな?」

寺山修司の言葉を借りて、「書を捨て、街に出よ!」と叫ぶ

2005年11月05日 | Weblog
 M 様

 鹿児島は、昨日からまた陽気が戻り、半袖のランニングで仕事をしております。
 ご丁重なメール、ありがとうございます。本が着いたと、メールくださる方は、少ないので、それだけで舞い上がっています。
 さらに、ご公務の方が、自費で購入、に感激しております。お書きになっていることに加えて、真から私自身の励みになります。

 実践したことをルール化する帰納法的生き方の記録として、「羊たちの探しもの」などを執筆しました。これらは経営指導の現場の様々な出来事の中から、掴み学ばせていただいたことをコツコツ拾い集めたものです。

 あるいは不遜な言い方になるかも知れませんが、これらは読んでいただく方から見たら、単に他者の知識の固まりに過ぎません。
 読んで得られるものは知識。これだけでは食べ物をそのまま飲み込むのと同じですが、M様が触れておられるように、これを行動することで、成果と知恵となる、というのが、私なりの理屈です。

 後者の演繹型にはおっしゃるとおり、実践行動が不可欠打と思うのですが、最近の経営者は知識の肥満タイプが増加しているのでは、というのが私の危惧しているところです。
 そこで「動け、動け、行動せよ、行動せよ。」、寺山修司の言葉を借りて、「書を捨て、街に出よ」と叫んでいるわけです。

 Mさんのメールでとてもいい示唆、触発を戴きました。ありがとうございます。
なんだか、小出ししているようで、自分でも苦笑しているのですが、大分での講
演録等を添付にて、お送りします。M様にご一笑戴けたら、嬉しいです。

                   ありがとうございました。 田上 康朗

人生最大のムダを、一生続けますか。

2005年11月04日 | Weblog
 先月、博多天神と名古屋の繁華街を歩く機会があった。秋のバーゲン、実は売れ残りの処分をやっている。これを見て経営者は何を思い、考え、次の課題を設定したのだろう、と気になった。
 毎年、毎シーズン同様のことが繰り替えされているのをみたら、どうも学習効果
など無いように思えるが、どうだろう。

  一本の矢で、様々な的を射ることは、所詮無理なこと。
 としたらどうしたらいいか。これは的を絞って1つにするしかない。
「しかない」ことを、いろいろ広げてやるから、おびただしい「的外れ」があふれることになる。しかもこれ、お天道様の問題、「しかたない」と思って、学習しないのでは、しがない経営者といわれても仕方がなかろう。

 ITで、知りたいことがあるときどうしているか。検索のキーワードを1つづついれ、絞り込んでいるのではないか。おなじように個々のお客がほんとうは何を望んでいるか、検索作業を行い、それを一つずつ絞り込んで積み上げていく。こうしたアプローチを通して、今のものづくり、販売を考えてみたら、ずいぶんと的はずれが減少するに違いない。

 ITで、検索でやっていることが、どうして自分の経営にできないのだろう。私にはおかしくてしょうがないが、こなことを続けていると、経営もおかしくなる。
 経営を、なにか特別のものと思っているから、何気ない日常生活から、学習できないのだとしたら、人生最大のムダを一生続けることになる。

敢えて経営とか商いに置き換えて書いていることの危うさ

2005年11月03日 | Weblog
 このプログのお客様は、タイトルがタイトルですから、経営に関心の方が多いしそれを目当ての方がほとんどなので、日常の風景の中から、何気ないことを、悪く言えばいえばこじつけて、経営とか商いとか、儲けとか、繁盛するとか、潰れるとか、経営革新とかに、あえて置き換えて書いています。
 
 そのために、「いやらしい」、「人間にはもっと大切なことがある」といった想いをされる方が多いことでしょう。それが正しいのです。その気持ちが大事なのです。それに比べてなんと私の嫌らしいことか。いつも書きながら餌を欲しさに一生懸命尾を振る犬に自分を重ねて、ちょいと辛い思いもしたりしています。

 言い訳ではなしに、真意は、金ではなく、金に図れない大きなものを目指すところにあります。これ故事は、愛とか徳、信頼、信頼、、とかになぞえている。

 経営の本質は、愛とか徳、信頼、信頼、、といったところにある。それが私の言いたいこと。真意です。そこへ気づいていただくために、あえていやらしい(そうではない、という人も多いかもしれませんが)金、儲けといったことで例示し、このプログに関心を持ってもらい、そして真意に気づいていただけたらという願いと企み「エビでタイ」が、ここにあります。哀しいかな。哀しいかな。

 逆に愛とか徳、信頼、信頼、、とかを盛んに唱え、売りにし、億万長者の生活をされている方もいる。結果としてそうなったのかも知れませんが、私はむしろ、愛とか徳、信頼、信頼とか言っていることそのものが欺瞞、大衆への媚びだとおもえ、そうした彼らを露骨に嫌っています。

 私のあり方は、コツコツコツコツ、、愛とか徳、信頼、信頼を積み重ねて、その結果豊かな充実した生活を過ごせる、そのプロセスにあります。
 持論は、「徳と信頼のはしご掛け」。
 経営もそのための道具、ツール。しかし人はその道具たる仕事を通して、人間性を豊にし、生活を充実させていることも否定できない事実です。

 ですから、正しい経営は、正しい経営者、正しい経営者は正しい人。また逆に正しい経営を続けることで、人間が磨き上げられ、正しい方へ、ということもあるとおもっています。事実、私はこの仕事を通じて、この私と今がある。育ててもらった自分がある、ここにある。生き証人です。

 こうしたことが私のスタンスです。意図していることです。生き甲斐にしている方向です。

 ところで、昨日書いた話。私の甥っ子教師の話、褒めているのではありません。むしろ話を聞いたときの想いは小賢しいという思いです。ここではそうした評価なしに、事実として事例として取り上げた。
 この娘にも届かない経営者を、哀しく思っている、と言うことを言いたかったでのです。つまり目先だけのソロバンをはじいて人とつきあっている、経営している大人がいるではないか、徳の種まきではなしに得、それも今の損得だけを念頭において、今を過ごしている人が少なくないのでは、と。
 これが申し上げたかったことです。

 言葉は長いから理解されるものではありません。短いから理解されないということもありません。どう理解されたかが、読み手のその人の心を、どう揺るがしてしまうかが図れない、きわどさと怖さが、書き手には常にあります。
 避けられないこの問題は、コツ、こつ、コツ、こつと書き続けることで、「この私」を大まかでもつかんでいただくことで、解消していくしかないかな、と思っています。信頼とは、そうした受け手側自身の納得に委ねられるものかもしれないと、ここは念じる以外にありません。

 「私を信頼して」と力説することほど空しいことはありません。ですからコツ、こつ、コツ、こつとささやかでも徳と信頼を積み重ねる生き方をして生きていきます。