経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

その意思決定、自分の命がをかかっているが、この判断でいいかな?

2005年11月06日 | Weblog
 立派な理念を掲げ、かねがね美しい言葉で飾ったコピーを蒔いていても、内実は会社中心・至上主義で染まってしまっているといってよい。それらは会社を美しく見せるための表向きの衣装であり、装身具にすぎないとさえ思える。

 皆、当然だが戦略は会社の存続であり、未来永劫の繁栄である。その具現のために、そのための戦術としてそれらが表側に張りつけられ、外からの見栄えを善くしただけのものにすぎない、とも言える。
 そう考えないと、これだけ企業犯罪が発生すること自体の説明が付かないのだ。

 今、消費者は性懲りもなく繰り返される企業の不祥事に対する不信感は、極限に達している。
 消費者の目は厳しく、それを受け手、法の網の目もつぁくなっている。それがたとえ氷山の一角としても、「いつかは我が社も」といった抑制力はあるはずである。さらにそうした不祥事を起こした場合、その後の企業の業績がどうなっているかは、過去の学経験で、企業承知しているはずである。それでも繰り返されるのは、どういうことなのだろう。
 
 よく組織における個人の問題が問われる。会社に尽くせば自分も認められる、幸せになれる、といった組織における属人的な論理がことを起こす。この場合、論議はあろうが、会社に問題がないとしたら会社は被害になる。記者会見なので「会社ぐるみない」と、いいはるのは、その立場である。

 では組織的、ないし組織ぐるみとはなにか、トップといえども、いな上位者であればあるほど、自分がかわいい。自分の任期中に業績を上げたい、今のため先送りしした、といった自己中心的欲求は高いと言えるのかもしれない。

 としたら、上位者自ら発案、起案するケースもあろう。あるいは、部下のそうした行為をを、「俺の知らぬことで」ということを前提に、暗黙の了解をしていることもあろう。あるいは地位、立場を活用し、意図的に、そうした行為へ走らざるをえないように、を強要、示唆場合もあるもしれない。
 時として組織は人に狂気を帯びさせてしまうことは否定しない。だが個人が、人格のない法人へ責任を転嫁し、人格なき法人は、代表者を代弁者として、個人に責任を振る。なんという愚かさ。無知ぶりであろうか。

 言っておきたい。そのことは、個人であろうと、組織であろうと、滅亡に直結している行為である。まったく倫理と遵法の論理を抜いて考えても、いわゆる採算に合わない行為、園前提の「意思決定」の誤りなのだ。
 だから事後よく言われる、「会社のためよかれと考え」というのは、明らかに誤りである。消費者を背につけて存立し得ている事業体の本質から見たら、消費者に背を向けさせる行為は、自殺行為そのもの。支えている消費者が、手をはずしたら事業の存立はありえないからである

 企業中心の論理では事業も人も幸せにはなれない。人の幸せを、心底から念じ、行動することで成り立つのが企業の本質なのである。
 本来、消費者の幸せと喜びに思考と行動の基準を置きさえすれば、事業は健やかに伸びていけるのである。それがどうだ。自らの命綱にも等しい消費者を、裏切り、だまし、不安に陥れて自らの企業の生命を自ら絶つ浅はかさは、まさに癌にそっくりではないか。

消費者を裏切る企業は、消費者は必要としないのである。その証を、大方の企業倒産の根本要因と、私は見る。
 企業犯罪は、司法によって裁かれれその是非が問われてからの問題として、考えるのではなく、遙か以前の発端の段階、すなわち企業風土、理念、組織を担う者の意識、意思決定、等々の関係する、「意思決定」の是非の問題なのである。

 だから、「ほんとに自分のため、組織のため、幸せをまねく意思なのだろうか」といったことを、自分自身と組織の寿命のスパンで、熟慮して判断することである。このことこそ、すなわち「生か死か」、我が命を賭される最重要な「意思決定」なのだ。
 だから、もう一度自問自答願いたい。「その意思決定、自分の命をかかっているが、この判断でいいかな?」