しまちゃんの愛し糸島ブログ

糸島を個人的に愛している人達の紹介と、ネットワーク作りを目的とした、愛し糸島プロジェクトの情報発信ブログ。

大内士郎さんが書いた「炎の女 伊藤野枝」のこと

2012年11月18日 22時16分01秒 | 今宿関係

今僕が製作している今宿商協のリーフレットに「もっと今宿知っちゃってん」というコーナーがある。そこは今宿の郷土史家の大内四郎さんに執筆していただいている。今回6話の中の一つに伊藤野枝のことを僕がリクエストして書いていただいた。これから発行するリーフレットのコピーを発行前に発表することはルール違反かもしれないが、情報はタイミングとも言います。一人でも伊藤野枝さんと今宿のことを知っていただきたいので、この期に発表させていただきます。

炎の女 伊藤野枝

伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の墓碑

 今宿生まれの著名人といえば、まず伊藤野枝が上げられます。野枝は、明治二八年、糸島郡今宿村大字谷(今宿一丁目)で、父亀吉、母ムメの長女として生まれました。明治四二年、叔父代準介を頼って上京。翌四三年四月、十五才で上野高等女学校四年に編入、ここで二番目の夫となる辻潤と出会います。その年、父親と叔父の勧めで帰郷し、加布里の末松福太郎と仮祝言、入籍。上野高等女学校をどうしても卒業したいという野枝の願いで再度上京、明治四五年に卒業し帰省。末松家に入るもののすぐに出奔し、東京に戻り、辻潤の家に身を寄せます。田舎娘だった野枝も、東京の知識人辻潤から多くの事を学び、メキメキと力を付けて行きました。特に辻の紹介で「青踏(平塚らいてう等が起した女性雑誌)」の編集部に入ったことにより、文学的才能も花開き、社会に対する目も開かれて「女性解放運動」へと突き進みました。

 大正二年、野枝が「青踏」紙上で発表した「新しき女の道」は、これからの女性の生き方を提唱し、これに賛同する女性や「青踏」にかかわる女性たちは、「新しき女」と呼ばれるようになりました。こうした活動の中で、アナーキスト(無政府主義者)の大杉栄と知り合い、辻潤と別れて大杉のもとへ走りました。

 野枝は、相当の知識人であり活動家でもあった大杉からも多くの事を学びました。大杉との間に五人の子どもをもうけた野枝は、妻、母、文筆家としての多忙な日々ではあったものの、充実した人生だったようです。

 しかし、大正十二年九月関東大震災が起り、そのどさくさに紛れて大杉夫妻は憲兵隊に拉致され虐殺されました。この時たまたま一緒にいた大杉の甥の橘宗一も巻き添えになりました。

 発見された遺体は火葬後分骨され、三人の遺骨は叔父代準介よって今宿に持ち帰られました。当時、大杉、野枝らの考え方や行動に対する世間の風は冷たかったのですが、翌年、父亀吉と叔父代準介は、三人の鎮魂のために今宿松原の共同墓地に無名の墓碑を建立しました。この自然石の墓碑は、墓地改装のとき撤去されましたが、今は野枝の故郷の海を見下ろす今宿の山の中に静かに置かれています。

 なお、大杉の墓は別に静岡市に、宗一の墓も名古屋市千種区にあります。

 

 

 

大内さんは、今宿のことを良くご存知です。今回橘宗一(たちばなむねかず)のことはあまり語られませんが、この大杉栄の甥がいたから、野枝さんたちが憲兵隊に惨殺され、井戸に捨てられ、埋められたことが判明しました。宗一さんがいなかったら、野枝さんたちは関東大震災の犠牲者の行方不明者として処理されていたかも知れません。宗一さんは大杉栄さんのアメリカロサンゼルスでレストランを経営して成功した橘家に嫁いだ大杉あやめさんの息子で、アメリカで生まれた。たまたま日本に帰国していた宗一さんは関東大震災に遭い、着の身着のままで大杉栄宅にたどり着き、被害を受けていなかった、大杉たちは同じ年代の娘魔子さんの着物をとりあえず着せていたと思われる、そのときを憲兵隊に襲撃されたようだ。たまたま魔子さんは隣の家にいっていたので難をのがれた。しかも憲兵隊は宗一を大杉の娘魔子と見間違えたのではとのこと。震災後大杉も野枝さんも宗一さんも行方不明として処理されそうになったのを、大杉栄の妹のあやめさんが不審に思い、アメリカ生まれの宗一さんにはアメリカ国籍があり、アメリカ大使館から圧力をかけ、憲兵隊が大杉たちが惨殺されたことが明るみに出たのだとのことです。

どうです。興味深いでしょ。大内さんはこういう話をいっぱい知っています。弥生時代から近年までいっぱい知っています。今宿の人たちが、もっと今宿の歴史に興味を抱いて、大内さんの今宿歴史教室でも生まれんことことを願って。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
御礼 (フミ)
2013-07-16 13:59:27
嶋崎達哉さま

先日コメントしました、フミです。
突然のコメントにも関わらず、
大内さんをご紹介いただき、ありがとうございました。

友人同伴で、短い滞在時間だったので、
残念ですが、大内さんにはお会いできませんでした。
せっかくご連絡いただいたのに、
申し訳ない限りです。

急ぎ足でしたが、野枝さんを思いながら
長垂山と今宿の海岸を歩いてきました。
今宿、本当に素晴らしい土地ですね。

野枝さんが亡くなって90年。
今宿までの電車で野枝さんの本や評伝を読み返しました。
やはり彼女は私にとって、非常に近いものを感じるとともに、
遠い隔たりを感じもする女性です。
こんな気持ちを持つ人というのは、野枝さんだけだなと思いながら、今宿を歩きました。

9月頃に、一人でゆっくり訪れるつもりです。
その際は、ぜひ大内さんにご連絡して
お話を聞かせていただこうと思っています。

この度はありがとうございました。
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フミさんへ (しまちゃん)
2013-07-13 11:28:24
コメントありがとうございました。
掲載誌はありませんが、これは今宿商工業協同組合発行の「今宿そうつい店行っちゃっ店」というリーフレットに載せたものです。原稿を今宿の郷土史家の大内士郎さんに書いていただきました。大内さんは瀬戸内寂聴さんをはじめ、何人かの伊藤野枝を研究されている方に今宿を案内されている方です。親切で誠実でユーモアのある方です。僕では十分な情報をお伝えできませんが、大内さんだと、かなり詳しい情報が得られると思います。こういうお問い合わせは公民館を通じて、大内さんに案内されます。この件の事情を大内さんに伝えたところ、いつでもお電話くださいとのことでした。大内(080-1746-6027)

暑いですが、今宿をお楽しみください。

しまちゃんこと嶋崎達哉
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野枝さんのこと (フミ)
2013-07-12 10:54:37
突然のぶしつけなコメントとなり恐縮です。

3連休で今宿を訪れます。
長年訪れたいと思っていた、伊藤野枝の故郷。

しまちゃんさんのブログを拝見して、
とても参考になりました。


大内士郎さんの「炎の女 伊藤野枝」を拝読できる
掲載誌のようなものは今もありますでしょうか。
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栄の妹「橘あやめ、惣三郎」について (杉野目 扶)
2013-02-21 11:26:34
「あやめ、惣三郎、宗一」関する史実を更にご存知あれば何でも結構です。お教え頂きたくお願い致します。関心持っています。
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