列王紀下 5:1-5
『スリヤ王の軍勢の長ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。彼は大勇士であったが、重い皮膚病をわずらっていた。 さきにスリヤびとが略奪隊を組んで出てきたとき、イスラエルの地からひとりの少女を捕えて行った。彼女はナアマンの妻に仕えたが、 その女主人にむかって、「ああ、御主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はその重い皮膚病をいやしたことでしょう」と言ったので、 ナアマンは行って、その主君に、「イスラエルの地からきた娘がこういう事を言いました」と告げると、 スリヤ王は言った、「それでは行きなさい。わたしはイスラエルの王に手紙を書きましょう」。そこで彼は銀十タラントと、金六千シケルと、晴れ着十着を携えて行った。』
有名なナアマン将軍の癒しの奇跡について改めて読み直したところ、今まで思い違いをしていたことに気付きました。
1つ目は、スリヤの将軍ナアマンは神様に用いられた器であったことです。神様はナアマンを用いて、偶像礼拝に陥ったイスラエルを懲らしめるために、スリヤに勝利を得させたのです。そしてこの戦争でイスラエルから連れて来られた捕虜の少女の信仰を通して、ナアマンに癒しをもたらすと共に、イスラエルの神こそまことの神であることをスリヤの人々が知るためでもあったのです。
もう1つは、スリヤはイスラエルと敵対関係にあると思っていましたが、ナアマンの癒しのためにスリヤの王がイスラエルの王にお願いの手紙を書いたということから、このときの両国間の関係は平和的であったことに改めて気づかされました。歴史には神様の目的があり、敵対させることも、平和をもたらすことも、すべて神様の栄光が現されるためになさることです。聖書を読むとき、固定観念や偏見を抱いたままで読むと、大切なことを見落としてしまうと改めて教えられました。
http://bible.com/81/2ki.5.1-5.ja1955
*****
列王紀下 5:6-8
『彼がイスラエルの王に持って行った手紙には、「この手紙があなたにとどいたならば、わたしの家来ナアマンを、あなたにつかわしたことと御承知ください。あなたに彼の重い皮膚病をいやしていただくためです」とあった。 イスラエルの王はその手紙を読んだ時、衣を裂いて言った、「わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、重い皮膚病の男をわたしにつかわして、それをいやせと言うのか。あなたがたは、彼がわたしに争いをしかけているのを知って警戒するがよい」。 神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人をつかわして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」。』
スリヤの王がナアマンを癒してくださいと書いた手紙を受け取ったイスラエルの王は、言いがかりを付けて戦争の口実を作っているのだと考えました。しかし預言者エリシャは、これはスリヤの人々にイスラエルにはまことの神が共におられることを知るためだとたしなめました。同じ手紙を受け取っても、自分の考えに従って読むか、神様の視点に立って読むかによって、その意味は180度、全く正反対に違ってしまいます。私たちは常に神様の御心を求め、大局観を持ってすべての物事に対処することが重要です。
http://bible.com/81/2ki.5.6-8.ja1955
*****
列王紀下 5:9-12
『そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。 するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。 しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、重い皮膚病をいやすのだろうと思った。 ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。』
エリシャの元に来たナアマンは直接面会することもなく、単に使者がヨルダン川で身を7度洗いなさいと告げただけの対応を受けたことに対して、自分はこれだけ礼を尽くしてはるばるやって来たのにと激怒して立ち去ろうとしました。しかしこれはナアマンの心が神様の前に頑なであるか、遜っているかを試みるものでした。
私たちは時折、自分勝手に神様の答えを想定して、思い通りにならないと怒ったり、失望したりすることがあります。しかしそれは神様の御前に健全な態度ではありません。もし自分の思い通りにしか物事が進まないとしたら、神様は人の想像を超えた奇跡など起こしてくださるはずがありません。たとい自分の思い通りでなくても、神様の答えを謙虚に受け止めて従う心が私たちには必要です。
http://bible.com/81/2ki.5.9-12.ja1955
*****
列王紀下 5:13-14
『その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。』
一見、失礼にも思えるエリシャの態度に怒ったナアマンでしたが、冷静に受け止めてたしなめてくれた僕たちがいたことは、ナアマンにとってさいわいなことでした。僕たちの言葉に心を開いたナアマンが、エリシャの言葉通りヨルダン川に7度、身を浸すと、彼の病は完全に治って幼子のようになっていました。
人は怒りの感情に支配されると、物事を冷静に受け止めることができなくなり、真理にも目が閉ざされてしまいます。そのとき私たちを導いてくれる信仰の友を持つことと、その助言に耳を傾けることは、私たちの信仰生活を健全に保つためにはなくてならない大切なものです。
http://bible.com/81/2ki.5.13-14.ja1955
*****
列王紀下 5:15-17
『彼はすべての従者を連れて神の人のもとに帰ってきて、その前に立って言った、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。それゆえ、どうぞ、しもべの贈り物を受けてください」。 エリシャは言った、「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」。彼はしいて受けさせようとしたが、それを拒んだ。 そこでナアマンは言った、「もしお受けにならないのであれば、どうぞ騾馬に二駄の土をしもべにください。これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。」』
癒しの奇跡を体験したナアマンは、再びエリシャの元に赴き、謝礼を出そうとしましたが、エリシャは断固として受け取りませんでした。それは、神様の奇跡や御心は、決してお金では買えない、否、買ってはならないものだからです。そのことに気付いたナアマンは考えを改め、まことの神様以外の何者にも犠牲を捧げませんと、心からの改心と神様への絶対服従を誓いました。神様が求めておられるのは、お金でも犠牲でもなく、この信仰の決断、全き信仰です。
http://bible.com/81/2ki.5.15-17.ja1955
*****
列王紀下 5:20, 25-27
『神の人エリシャのしもべゲハジは言った、「主人はこのスリヤびとナアマンをいたわって、彼が携えてきた物を受けなかった。主は生きておられる。わたしは彼のあとを追いかけて、彼から少し、物を受けよう」。
…
彼がはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った、「ゲハジよ、どこへ行ってきたのか」。彼は言った、「しもべはどこへも行きません」。 エリシャは言った、「あの人が車をはなれて、あなたを迎えたとき、わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか。今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか。 それゆえ、ナアマンの重い皮膚病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」。彼がエリシャの前を出ていくとき、重い皮膚病が発して雪のように白くなっていた。』
決してお金で買うことのできないまことの信仰に気付いたナアマンとは対照的に、ずっとエリシャの側で仕えてきたゲハジはお金に目がくらみ、ナアマンを騙して贈り物を自分のものにしてしまいました。そのために彼はナアマンに嘘をつき、それを質したエリシャにも悔い改めることもせず、真実を隠すために嘘をつき通したために、ナアマンがきよめられた重い皮膚病を自らの身に受けてしまいました。
貪欲は身を滅ぼす原因となり、真実を偽ることは身の破滅をもたらします。私たちはゲハジのように誘惑に負けて失敗しやすい者ですが、過ちに気付いたならば直ちに悔い改めるべきことを決して忘れてはなりません。
http://bible.com/81/2ki.5.20,25-27.ja1955
『スリヤ王の軍勢の長ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。彼は大勇士であったが、重い皮膚病をわずらっていた。 さきにスリヤびとが略奪隊を組んで出てきたとき、イスラエルの地からひとりの少女を捕えて行った。彼女はナアマンの妻に仕えたが、 その女主人にむかって、「ああ、御主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はその重い皮膚病をいやしたことでしょう」と言ったので、 ナアマンは行って、その主君に、「イスラエルの地からきた娘がこういう事を言いました」と告げると、 スリヤ王は言った、「それでは行きなさい。わたしはイスラエルの王に手紙を書きましょう」。そこで彼は銀十タラントと、金六千シケルと、晴れ着十着を携えて行った。』
有名なナアマン将軍の癒しの奇跡について改めて読み直したところ、今まで思い違いをしていたことに気付きました。
1つ目は、スリヤの将軍ナアマンは神様に用いられた器であったことです。神様はナアマンを用いて、偶像礼拝に陥ったイスラエルを懲らしめるために、スリヤに勝利を得させたのです。そしてこの戦争でイスラエルから連れて来られた捕虜の少女の信仰を通して、ナアマンに癒しをもたらすと共に、イスラエルの神こそまことの神であることをスリヤの人々が知るためでもあったのです。
もう1つは、スリヤはイスラエルと敵対関係にあると思っていましたが、ナアマンの癒しのためにスリヤの王がイスラエルの王にお願いの手紙を書いたということから、このときの両国間の関係は平和的であったことに改めて気づかされました。歴史には神様の目的があり、敵対させることも、平和をもたらすことも、すべて神様の栄光が現されるためになさることです。聖書を読むとき、固定観念や偏見を抱いたままで読むと、大切なことを見落としてしまうと改めて教えられました。
http://bible.com/81/2ki.5.1-5.ja1955
*****
列王紀下 5:6-8
『彼がイスラエルの王に持って行った手紙には、「この手紙があなたにとどいたならば、わたしの家来ナアマンを、あなたにつかわしたことと御承知ください。あなたに彼の重い皮膚病をいやしていただくためです」とあった。 イスラエルの王はその手紙を読んだ時、衣を裂いて言った、「わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、重い皮膚病の男をわたしにつかわして、それをいやせと言うのか。あなたがたは、彼がわたしに争いをしかけているのを知って警戒するがよい」。 神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人をつかわして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」。』
スリヤの王がナアマンを癒してくださいと書いた手紙を受け取ったイスラエルの王は、言いがかりを付けて戦争の口実を作っているのだと考えました。しかし預言者エリシャは、これはスリヤの人々にイスラエルにはまことの神が共におられることを知るためだとたしなめました。同じ手紙を受け取っても、自分の考えに従って読むか、神様の視点に立って読むかによって、その意味は180度、全く正反対に違ってしまいます。私たちは常に神様の御心を求め、大局観を持ってすべての物事に対処することが重要です。
http://bible.com/81/2ki.5.6-8.ja1955
*****
列王紀下 5:9-12
『そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。 するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。 しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、重い皮膚病をいやすのだろうと思った。 ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。』
エリシャの元に来たナアマンは直接面会することもなく、単に使者がヨルダン川で身を7度洗いなさいと告げただけの対応を受けたことに対して、自分はこれだけ礼を尽くしてはるばるやって来たのにと激怒して立ち去ろうとしました。しかしこれはナアマンの心が神様の前に頑なであるか、遜っているかを試みるものでした。
私たちは時折、自分勝手に神様の答えを想定して、思い通りにならないと怒ったり、失望したりすることがあります。しかしそれは神様の御前に健全な態度ではありません。もし自分の思い通りにしか物事が進まないとしたら、神様は人の想像を超えた奇跡など起こしてくださるはずがありません。たとい自分の思い通りでなくても、神様の答えを謙虚に受け止めて従う心が私たちには必要です。
http://bible.com/81/2ki.5.9-12.ja1955
*****
列王紀下 5:13-14
『その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。』
一見、失礼にも思えるエリシャの態度に怒ったナアマンでしたが、冷静に受け止めてたしなめてくれた僕たちがいたことは、ナアマンにとってさいわいなことでした。僕たちの言葉に心を開いたナアマンが、エリシャの言葉通りヨルダン川に7度、身を浸すと、彼の病は完全に治って幼子のようになっていました。
人は怒りの感情に支配されると、物事を冷静に受け止めることができなくなり、真理にも目が閉ざされてしまいます。そのとき私たちを導いてくれる信仰の友を持つことと、その助言に耳を傾けることは、私たちの信仰生活を健全に保つためにはなくてならない大切なものです。
http://bible.com/81/2ki.5.13-14.ja1955
*****
列王紀下 5:15-17
『彼はすべての従者を連れて神の人のもとに帰ってきて、その前に立って言った、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。それゆえ、どうぞ、しもべの贈り物を受けてください」。 エリシャは言った、「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」。彼はしいて受けさせようとしたが、それを拒んだ。 そこでナアマンは言った、「もしお受けにならないのであれば、どうぞ騾馬に二駄の土をしもべにください。これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。」』
癒しの奇跡を体験したナアマンは、再びエリシャの元に赴き、謝礼を出そうとしましたが、エリシャは断固として受け取りませんでした。それは、神様の奇跡や御心は、決してお金では買えない、否、買ってはならないものだからです。そのことに気付いたナアマンは考えを改め、まことの神様以外の何者にも犠牲を捧げませんと、心からの改心と神様への絶対服従を誓いました。神様が求めておられるのは、お金でも犠牲でもなく、この信仰の決断、全き信仰です。
http://bible.com/81/2ki.5.15-17.ja1955
*****
列王紀下 5:20, 25-27
『神の人エリシャのしもべゲハジは言った、「主人はこのスリヤびとナアマンをいたわって、彼が携えてきた物を受けなかった。主は生きておられる。わたしは彼のあとを追いかけて、彼から少し、物を受けよう」。
…
彼がはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った、「ゲハジよ、どこへ行ってきたのか」。彼は言った、「しもべはどこへも行きません」。 エリシャは言った、「あの人が車をはなれて、あなたを迎えたとき、わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか。今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか。 それゆえ、ナアマンの重い皮膚病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」。彼がエリシャの前を出ていくとき、重い皮膚病が発して雪のように白くなっていた。』
決してお金で買うことのできないまことの信仰に気付いたナアマンとは対照的に、ずっとエリシャの側で仕えてきたゲハジはお金に目がくらみ、ナアマンを騙して贈り物を自分のものにしてしまいました。そのために彼はナアマンに嘘をつき、それを質したエリシャにも悔い改めることもせず、真実を隠すために嘘をつき通したために、ナアマンがきよめられた重い皮膚病を自らの身に受けてしまいました。
貪欲は身を滅ぼす原因となり、真実を偽ることは身の破滅をもたらします。私たちはゲハジのように誘惑に負けて失敗しやすい者ですが、過ちに気付いたならば直ちに悔い改めるべきことを決して忘れてはなりません。
http://bible.com/81/2ki.5.20,25-27.ja1955