列王紀下 20:3-6
『「ああ主よ、わたしが真実を真心をもってあなたの前に歩み、あなたの目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い起してください」。そしてヒゼキヤは激しく泣いた。 イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、 「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。 かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう』」。』
神様の御前に正しく歩み、南ユダ王国の宗教改革を行ったヒゼキヤ王でさえも、病と死を免れることはできません。預言者イザヤを通して神様から死を宣告されたヒゼキヤは、自分がどれほど主の目に適うことを行ったか思い出してくださいと、涙を流して主に祈りました。すると神様はヒゼキヤの涙を覚えて3日後には主の宮に上ることができるように病を癒し、更にアッスリヤからエルサレムの町を救い、ダビデの町を守るために寿命を15年延ばすと告げられました。
私たちがこの世に生を受けたのは、自分のために生きるためではなく、神様を礼拝するため、神様から与えられた使命を果たすために生きるためです。永遠のいのちもまた、神様を賛美し、主に栄光を帰するために与えられたものです。私たちはいのちの用い方を誤ってはなりません。
http://bible.com/81/2ki.20.3-6.ja1955
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列王紀下 20:8-11
『ヒゼキヤはイザヤに言った、「主がわたしをいやされる事と、三日目にわたしが主の家に上ることについて、どんなしるしがありましょうか」。 イザヤは言った、「主が約束されたことを行われることについては、主からこのしるしを得られるでしょう。すなわち日影が十度進むか、あるいは十度退くかです」。 ヒゼキヤは答えた、「日影が十度進むことはたやすい事です。むしろ日影を十度退かせてください」。 そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、十度退かせられた。』
ヒゼキヤは、神様から死と癒しの相対する預言を受けて、どちらが神様の御心で本当に癒されるのか確証が持てなかったのでしょうか、癒されるしるしを求めました。するとイザヤは、神様からのしるしとして日時計の影を10度進めるか、退かせるかを選びなさいとヒゼキヤに言いました。この10度を角度と考えると40分に相当します。日時計を進めるのも退かせるのも、どちらも太陽と地球の動きを通常とは変えることですから、宇宙全体に天変地異が起きなければ、決してあり得ないことです。しかしヒゼキヤは、10度進めるのはたやすいことですと、神様には何でもできるとの信仰を告白しました。アッスリヤの大軍勢18万5000人が一晩の内に滅ぼされた奇跡を経験したヒゼキヤにとっては、神様は時間をもたやすく、意のままに動かされることを確信していたのです。ヒゼキヤのように、神様は宇宙も、歴史も、この世のすべてを統べ治められることを確信する私たちでありますように。
http://bible.com/81/2ki.20.8-11.ja1955
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列王紀下 20:12-13
「そのころ、バラダンの子であるバビロンの王メロダクバラダンは、手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これはヒゼキヤが病んでいることを聞いたからである。 ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった。」
神様の奇跡によって死に至る病を癒されたヒゼキヤは、当時の新興国バビロンから見舞いに来た使者たちを大歓迎し、財宝から軍事力に至るまで一つ残らず、ユダの国のすべてを彼らに見せびらかしました。これはヒゼキヤがアッスリヤに勝利し、病も癒されたことによって心が高ぶり、自分の功績を得意げに自慢していたことを意味します。しかしこの高慢な振る舞いがやがてユダの国を滅亡に追いやることを、このときのヒゼキヤは理解できませんでした。私たちは少しばかりの成功ですぐに驕り高ぶり、図に乗ってしまう心の弱い存在です。成功や繁栄は自分自身の努力や能力によるものではなく、すべて神様からの賜物であると心を制し、高慢に陥らないように自らを戒める私たちでありますように。
http://bible.com/81/2ki.20.12-13.ja1955
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列王紀下 20:14, 16-19
『その時、預言者イザヤはヒゼキヤ王のもとにきて言った、「あの人々は何を言いましたか。どこからきたのですか」。ヒゼキヤは言った、「彼らは遠い国から、バビロンからきたのです」。
…
そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「主の言葉を聞きなさい、 『主は言われる、見よ、すべてあなたの家にある物、および、あなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物の、バビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはないであろう。 また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られ、バビロンの王の宮殿で宦官となるであろう』」。 ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうか」と思ったからである。』
ヒゼキヤ王の高慢な振る舞いを見た預言者イザヤは、やがてバビロン帝国によってユダの国が滅ぼされるとの主の預言を伝えました。しかしヒゼキヤ王はそこで悔い改めることなく、自分の生きている間が平安であればそれでよいと、極めて身勝手で刹那的な考えで、主の御言葉を聞き流してしまいました。ここにヒゼキヤ王が、永遠の祝福を願ったダビデ王に並ぶことのできなかった弱さがあります。自分さえ幸せで平安であれはそれでよいという自己中心な思いに陥ることなく、自分の周囲や後の世代の人々にまで至る、広範かつ永遠の祝福を願い求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/2ki.20.14,16-19.ja1955
『「ああ主よ、わたしが真実を真心をもってあなたの前に歩み、あなたの目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い起してください」。そしてヒゼキヤは激しく泣いた。 イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、 「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。 かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう』」。』
神様の御前に正しく歩み、南ユダ王国の宗教改革を行ったヒゼキヤ王でさえも、病と死を免れることはできません。預言者イザヤを通して神様から死を宣告されたヒゼキヤは、自分がどれほど主の目に適うことを行ったか思い出してくださいと、涙を流して主に祈りました。すると神様はヒゼキヤの涙を覚えて3日後には主の宮に上ることができるように病を癒し、更にアッスリヤからエルサレムの町を救い、ダビデの町を守るために寿命を15年延ばすと告げられました。
私たちがこの世に生を受けたのは、自分のために生きるためではなく、神様を礼拝するため、神様から与えられた使命を果たすために生きるためです。永遠のいのちもまた、神様を賛美し、主に栄光を帰するために与えられたものです。私たちはいのちの用い方を誤ってはなりません。
http://bible.com/81/2ki.20.3-6.ja1955
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列王紀下 20:8-11
『ヒゼキヤはイザヤに言った、「主がわたしをいやされる事と、三日目にわたしが主の家に上ることについて、どんなしるしがありましょうか」。 イザヤは言った、「主が約束されたことを行われることについては、主からこのしるしを得られるでしょう。すなわち日影が十度進むか、あるいは十度退くかです」。 ヒゼキヤは答えた、「日影が十度進むことはたやすい事です。むしろ日影を十度退かせてください」。 そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、十度退かせられた。』
ヒゼキヤは、神様から死と癒しの相対する預言を受けて、どちらが神様の御心で本当に癒されるのか確証が持てなかったのでしょうか、癒されるしるしを求めました。するとイザヤは、神様からのしるしとして日時計の影を10度進めるか、退かせるかを選びなさいとヒゼキヤに言いました。この10度を角度と考えると40分に相当します。日時計を進めるのも退かせるのも、どちらも太陽と地球の動きを通常とは変えることですから、宇宙全体に天変地異が起きなければ、決してあり得ないことです。しかしヒゼキヤは、10度進めるのはたやすいことですと、神様には何でもできるとの信仰を告白しました。アッスリヤの大軍勢18万5000人が一晩の内に滅ぼされた奇跡を経験したヒゼキヤにとっては、神様は時間をもたやすく、意のままに動かされることを確信していたのです。ヒゼキヤのように、神様は宇宙も、歴史も、この世のすべてを統べ治められることを確信する私たちでありますように。
http://bible.com/81/2ki.20.8-11.ja1955
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列王紀下 20:12-13
「そのころ、バラダンの子であるバビロンの王メロダクバラダンは、手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これはヒゼキヤが病んでいることを聞いたからである。 ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった。」
神様の奇跡によって死に至る病を癒されたヒゼキヤは、当時の新興国バビロンから見舞いに来た使者たちを大歓迎し、財宝から軍事力に至るまで一つ残らず、ユダの国のすべてを彼らに見せびらかしました。これはヒゼキヤがアッスリヤに勝利し、病も癒されたことによって心が高ぶり、自分の功績を得意げに自慢していたことを意味します。しかしこの高慢な振る舞いがやがてユダの国を滅亡に追いやることを、このときのヒゼキヤは理解できませんでした。私たちは少しばかりの成功ですぐに驕り高ぶり、図に乗ってしまう心の弱い存在です。成功や繁栄は自分自身の努力や能力によるものではなく、すべて神様からの賜物であると心を制し、高慢に陥らないように自らを戒める私たちでありますように。
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列王紀下 20:14, 16-19
『その時、預言者イザヤはヒゼキヤ王のもとにきて言った、「あの人々は何を言いましたか。どこからきたのですか」。ヒゼキヤは言った、「彼らは遠い国から、バビロンからきたのです」。
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そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「主の言葉を聞きなさい、 『主は言われる、見よ、すべてあなたの家にある物、および、あなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物の、バビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはないであろう。 また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られ、バビロンの王の宮殿で宦官となるであろう』」。 ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうか」と思ったからである。』
ヒゼキヤ王の高慢な振る舞いを見た預言者イザヤは、やがてバビロン帝国によってユダの国が滅ぼされるとの主の預言を伝えました。しかしヒゼキヤ王はそこで悔い改めることなく、自分の生きている間が平安であればそれでよいと、極めて身勝手で刹那的な考えで、主の御言葉を聞き流してしまいました。ここにヒゼキヤ王が、永遠の祝福を願ったダビデ王に並ぶことのできなかった弱さがあります。自分さえ幸せで平安であれはそれでよいという自己中心な思いに陥ることなく、自分の周囲や後の世代の人々にまで至る、広範かつ永遠の祝福を願い求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/2ki.20.14,16-19.ja1955