・・・続き・・・
翌朝、市役所の議員控室で生活保護の申請に必要な状況をいろいろ尋ねた。
ホームレスになった方はあまり過去を話したがらないが、Sさんは大企業に勤めていたことがあり、そこからドロップアウトしたことをポツリポツリと話し始めた。本人は「うつ病」だと思っているようで、過去に大学病院で治療していたとのこと。今は病院に行くお金もなく薬もない。
リーマンショック以来、釧路にもかなりホームレスになった方が来ている。私はすでに十人以上相談にのっているが、一人ひとりさまざまな理由と条件、ルートを通って今に至っている。人の人生を見るにつけ、ひょっとすると私と相談者が入れ替わっていたかもしれないという思いがうまれることもある。
世間で流されている「自己責任論」はきわめて薄っぺらなものであることがよくわかる。けっして本人の責任ではない。
新自由主義の信奉者でもある某首相は「誰でもがチャンスをもてる平等な」などと繰り返しているが、現実とどれだけかけ離れているか、私はほとんど妄想に近い考えではないかと思う。「年越し派遣村」の村長であった湯浅誠氏は、「すべり台社会」と形容しており、はい上がることが非常に困難な社会になっている。
Sさんもその一人であった。
精神的な不調がみられるので、精神科の受診をすすめた。本人から「受診してよかった。今までうつ病だと思っていたが、実は統合失調症だったとわかった。」と報告があり、これまでの悩みがスッキリしたことを語ってくれた。
半年後、アパート住まいとなり、パソコンの練習をして自立に向けて準備をすすめている。
生活の安定を取り戻したSさんは、公園生活のことも気軽に話すようになった。当時は空き缶拾いで少しのお金をつくっていたとのこと。ただ、ホームレスになって、勝手にやっていると文句を言われる。公園のホームレスの代表のような人にきちんとあいさつすると生活するうえでの様々な情報をもらえるし、地域を分けて空き缶をあつめることができた、と話してくれた。自然発生的にホームレス社会のルールがあるようだ。そして支援団体や教会の「炊き出し」が一番ありがたかったと当時をふり返っていた。
私は議員という立場からさまざまな相談が来る。そうした中でもホームレスや追いつめられた方の相談は難しいものがある。バイスティックの七原則のうち、「意図的な感情表出の原則」と「制御された情緒関与の原則」は、とりわけ難しい。正解というものはないのであろう。
そうこうするうちに、「駅にホームレスの人がいて困っている。話を聞いてほしい」と電話がかかってきた。夕方で暗くなっていたが、待合室に行くと一人の年配の人がいた。
「Tさんですか」と声をかけると頷いた。
痩せており七十歳代だと思ったが、五十代後半であった。小さなバック一つの生活であった。相当疲れていることと夜も遅いので、必要最小限のことを聞き旅館に泊まってもらうことにした。
翌日、本人から事情を聞くと、釧路に来て泊まるお金がなく、夜は寒いので三日間も歩き通していた。昼は待合室や市の施設などでうつらうつらと寝ていた。もうべるお金もなかった。まずは「食と住」を下宿に定め、市役所に生活保護申請を行った。
「衣」の着替えがないので、東日本大震災のときに共産党に寄せられていた衣服のうち、古くて送れなかったもののなかから良いものを選び届けた。下着は下宿の方から、買って使っていないものがあるからといただいた。ありがたいと思った。
次の日の早朝、下宿から突然電話が来た。
「朝食に起きて来ない!」
・・・その3 に続く→・・・