私の記念日
1938年2月12日に大阪は庶民の町、阿倍野で生まれました。
小学校は丸山小学校、中学は、松虫中学校、高校は市立工芸高校の建築科
大学は2年で中退、大阪工業大学でしたが、
小、中、高共、歩いて行ける距離で高校になると、電車で通学をしたくなり、たまに
友達に連れられてわざわざ美章園まで歩いていき、天王寺迄の一駅を乗っていき、
そこから歩いてまた戻ったりしました。
大学2年の時に、健康診断で肺結核と言われて即入院、当時はガンでなく肺結核が主
写真で見ると穴があり、もうダメと言われた、家では葬儀に用意もしたという。
3年間の闘病生活、一番の青春の時に、悔しかった中学、高校と当時の学校の遠足にも
いけない新聞配達を朝は4時30に起きて親父と一緒に走って居た、そして夕刊も
つらかったのはみんなとどこにも行けなかったこと夕刊があるので遠足に行くと
間に合わなくなるので、そしてみんなが映画などにも行くがついていけない
でもみんな同級生がいろいろと映画の話などしてくれた、今の子供の用に仲間はずれ
などなかったのが良かったと思う。
あれからでも、もう60年今は亡き良き女房にも恵まれ多くの友人知人にも恵まれて幸せで
今は亡き女房の妹の富子にも世話になりつつ生き永らえています。
歌の文句ではないが、「いいやつばかりが先に行く、どうでもよいのが残される」と
今心配なのが四国の高知に連れていかれた兄嫁の事、元気で過ごして居ればいいが、
従妹という方が面倒見てくれたらなんにも文句はないが、姉の財産が目当てなら困る
のだが何とも言えない、姉が少し認知が入ってきてるようなので、連絡がつけられないので
困っているが・・・
姉がどうでもよいとはいう意味でないが、僕が先に行くのも困るだろうと思うし
むつかしい問題です、今の心配事はそれだけで、もめごとは起こしたくないが・・・・
今は平田氏が、やりたがっている子供の支援について
色々な方と動いているのと「じやのひれ」の計画案作成で忙しいので大変です。
いいわけですが、そのために子供にあげる「魚のカルタ」が遅れています。
でもそれぞれが生きがいのある仕事と思うので今少し頑張ります。