日曜日に参加したネクストリボンシンポジウムで、改めてダイバーシティやバリアフリーの社会について思いを致すことができた。ちょうど学内でもバリアフリー講習会が開催され、仕事の調整がついたので、参加した。
この講習会はダイバーシティ推進室主催で今回3回目。初回は弱視の方、2回目は車椅子を利用されている方のキャンパスライフがテーマだった。なかなか都合がつかず、今回の「聴こえない学生の大学生活を考える~合理的配慮を導く意思の表明~」に初めて参加することが出来た。
「合理的配慮は、障がい者の意思の表明により提供されるものだが、聴覚障がい学生の場合、情報環境が十分でないために、意思を表明することが容易でないといわれている。今回の講習会は、ご自身も聴覚障がいを持ちながら障がい学生の教育支援活動に取り組まれている、関東聴覚障害学生サポートセンターの吉川あゆみさんを講師としてお招きし、聴こえない学生の大学生活を考える。」というチラシが配布された。
授業時間割では4限にあたる午後の90分、とても充実した心温まる時間を過ごすことが出来た。講師の吉川さんは1歳の時に失聴され、聾学校を経、地域の学校で学び、大学院まで修了した方。在学中、現在の所属機関であるサポートセンターの立ち上げなど情報保護活動に関わってこられ、日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワークの情報保障評価事業代表、大学非常勤講師を勤め、小学生のお嬢さんもおられるというワーキングマザーだ。
今回は手話で講演されるということで、読み取り通訳(講師の手話を読み取りながらそれを言葉として参加者に伝える同時通訳)の方が2人ついてサポートしてくださった。参加者は学内の教職員、学生だったが、それに加え、この4月から入学予定の聴覚障がいを持つ高校3年生と、聾学校の先生も特別に参加されていた。そして、担当者も手話で講師の紹介をし、受講者の拍手も普通に手を叩くのではなく、両手をひらひらさせる手話の拍手をして講習会はスタートした。
聴覚障害学生に対する情報保障としては手話通訳、ノートテイク、パソコン通訳、音声認識などの方法があるが、いずれも長所短所がある。ノートテイクは聴覚障害学生のかわりにノートをとるのではなく、提供された情報をもとに、聴覚障害学生が「自分のノート」を作ることだということを今更のように知る。
自分が授業を聴く時に、自分なりに(自分というフィルターを通して)キーワードなどをピックアップしてノートをとるのと同じではなく、通訳は講義中に言葉として発せられた情報を流れのままに書き写すということだ。また、一番の留意点は通訳を頼まれた人が色々事前に打ち合わせをする時、通訳を要する本人抜きでは行わないこと、何より支援を必要とする本人が主体であり、支援者が事前に打ち合わせや調整を行う時には必ず本人を介すること。本人の意思確認が抜けてしまっては始まらない。
障がいのある学生が意思を表明することに加えて、支援を担当する教職員の専門性があって初めて円滑な合理的配慮が叶うという。しかし、小学校・中学校・高校時代を通じて支援を受けたり、合理的配慮を要請したことのない学生が殆どで、大学に入学して初めて意思表明の困難さに遭遇するため、その大変さは察するに余りある。
それまで情報の乏しい環境で、結果的に受身な自己抑圧的な生き方をしてきているため、能動的に活動していくためには、様々な気付き、経験をしながらそのタガを外していかなければならないという。吉川さん自身も、週20コマの講義を取るため40人の通訳をお願いして調整するような生活に、年次が上がるにつれて疲れ果ててしまっていたとおっしゃっていた。
「わからないことがあったら言ってね」という言葉はでなく、「○○についてAとBとどちらがいい?」など具体的に言わないと何がわからないのかわからない、という事態にこれまた改めて気付かされた。
けれど、情報を獲得するためのこうした努力の“気の重さ、面倒くささ”よりも“わかる喜び”は何より大きく、様々なサポートを得ることでその生き方を選べるという吉川さんの〆の言葉―これまで先駆者として聴覚障害学生のサポートに関わってこられた実体験に基づくもの―に素直に心が震えた。
どんな事情を抱え、どんな属性を持つ人たちも、ひとりひとり、誰もが皆、自分の意思をきちんと表明することが出来て、少しでも幸せになりますように、と願わずにはいられない。
尊い時間を与えて頂いたことに感謝したいと思う、阪神淡路大震災22年目を迎える夜である。
この講習会はダイバーシティ推進室主催で今回3回目。初回は弱視の方、2回目は車椅子を利用されている方のキャンパスライフがテーマだった。なかなか都合がつかず、今回の「聴こえない学生の大学生活を考える~合理的配慮を導く意思の表明~」に初めて参加することが出来た。
「合理的配慮は、障がい者の意思の表明により提供されるものだが、聴覚障がい学生の場合、情報環境が十分でないために、意思を表明することが容易でないといわれている。今回の講習会は、ご自身も聴覚障がいを持ちながら障がい学生の教育支援活動に取り組まれている、関東聴覚障害学生サポートセンターの吉川あゆみさんを講師としてお招きし、聴こえない学生の大学生活を考える。」というチラシが配布された。
授業時間割では4限にあたる午後の90分、とても充実した心温まる時間を過ごすことが出来た。講師の吉川さんは1歳の時に失聴され、聾学校を経、地域の学校で学び、大学院まで修了した方。在学中、現在の所属機関であるサポートセンターの立ち上げなど情報保護活動に関わってこられ、日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワークの情報保障評価事業代表、大学非常勤講師を勤め、小学生のお嬢さんもおられるというワーキングマザーだ。
今回は手話で講演されるということで、読み取り通訳(講師の手話を読み取りながらそれを言葉として参加者に伝える同時通訳)の方が2人ついてサポートしてくださった。参加者は学内の教職員、学生だったが、それに加え、この4月から入学予定の聴覚障がいを持つ高校3年生と、聾学校の先生も特別に参加されていた。そして、担当者も手話で講師の紹介をし、受講者の拍手も普通に手を叩くのではなく、両手をひらひらさせる手話の拍手をして講習会はスタートした。
聴覚障害学生に対する情報保障としては手話通訳、ノートテイク、パソコン通訳、音声認識などの方法があるが、いずれも長所短所がある。ノートテイクは聴覚障害学生のかわりにノートをとるのではなく、提供された情報をもとに、聴覚障害学生が「自分のノート」を作ることだということを今更のように知る。
自分が授業を聴く時に、自分なりに(自分というフィルターを通して)キーワードなどをピックアップしてノートをとるのと同じではなく、通訳は講義中に言葉として発せられた情報を流れのままに書き写すということだ。また、一番の留意点は通訳を頼まれた人が色々事前に打ち合わせをする時、通訳を要する本人抜きでは行わないこと、何より支援を必要とする本人が主体であり、支援者が事前に打ち合わせや調整を行う時には必ず本人を介すること。本人の意思確認が抜けてしまっては始まらない。
障がいのある学生が意思を表明することに加えて、支援を担当する教職員の専門性があって初めて円滑な合理的配慮が叶うという。しかし、小学校・中学校・高校時代を通じて支援を受けたり、合理的配慮を要請したことのない学生が殆どで、大学に入学して初めて意思表明の困難さに遭遇するため、その大変さは察するに余りある。
それまで情報の乏しい環境で、結果的に受身な自己抑圧的な生き方をしてきているため、能動的に活動していくためには、様々な気付き、経験をしながらそのタガを外していかなければならないという。吉川さん自身も、週20コマの講義を取るため40人の通訳をお願いして調整するような生活に、年次が上がるにつれて疲れ果ててしまっていたとおっしゃっていた。
「わからないことがあったら言ってね」という言葉はでなく、「○○についてAとBとどちらがいい?」など具体的に言わないと何がわからないのかわからない、という事態にこれまた改めて気付かされた。
けれど、情報を獲得するためのこうした努力の“気の重さ、面倒くささ”よりも“わかる喜び”は何より大きく、様々なサポートを得ることでその生き方を選べるという吉川さんの〆の言葉―これまで先駆者として聴覚障害学生のサポートに関わってこられた実体験に基づくもの―に素直に心が震えた。
どんな事情を抱え、どんな属性を持つ人たちも、ひとりひとり、誰もが皆、自分の意思をきちんと表明することが出来て、少しでも幸せになりますように、と願わずにはいられない。
尊い時間を与えて頂いたことに感謝したいと思う、阪神淡路大震災22年目を迎える夜である。