ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2012.7.6 自分の臓器に 「お役御免」と暇を出せるか

2012-07-06 20:22:01 | 日記
 実家ではずっと日経新聞を取っていた。だから、物ごころついた時から朝刊の最終面にある「私の履歴書」にも馴染みがあった。この連載は1956年3月スタートだから、私よりずっと年上だ。今のように、毎月1ヶ月間(1日から末日)に渡って1人を取り上げるスタイルが定着したのは1987年というから、それから数えても四半世紀が経つ。

 現在、我が家では夫と息子の趣味のおかげで別の新聞をとっているので、最近ではずっとご無沙汰していた。
 ある方から「先月連載された(物理学者・慶應義塾大学名誉教授でおられる)米沢富美子先生の連載がとても興味深く元気が出るから、是非読んでみて。」と言われ、早速読んでみた。
 “物理学者”と聞いただけで、高校時代以来物理音痴の私としては腰が引けひれ伏してしまうのだが・・・。米沢先生は、例えば女性として初の日本物理学会会長等、常に女性初の○○○、という冠がついたように思う。だが、この連載を読むまで全く知らなかったのは、先生が乳がんを含む多重がんのサバイバーであったことだ。

 2012年6月23日付第22回から、以下抜粋して転載させて頂く。

※  ※  ※ (転載開始)

(前略)私も乳がんで83年と84年に左右の乳房を全摘している。45歳の84年にはがんの第3期と判明し、私の5年生存率はゼロに近かった。
 (中略)
 私は23歳の時に胞状奇胎で胎児ががん化し、35歳の時には子宮前がん状態で子宮を全摘している。3人の子供を授かった子宮と全員母乳で育てた両乳房だが、未練はなかった。それぞれ「お役目、ご苦労であった」と労をねぎらって暇を出した。
 さらに70歳の時に甲状腺をがんで全摘し、総計5回のがん手術を受けた。そのたびに手術の翌日から論文を書くなど立ち直りが早く、キャリアに影響しなかった。(後略)

(転載終了)※  ※  ※

 同じ病で逝かれた千葉敦子さんとの交流等にも触れておられるが、四半世紀以上前の当時、ステージⅢで5年生存率はゼロに近かったと書きつつ、その後約30年のパワフルなご活躍には本当に恐れ入る。子宮にも乳房にも未練はなかったとし、「お役目ご苦労であった」と労をねぎらって暇を出す、というこの筆致が、「凄い」を通り越してもはや小気味よい。
 もちろん、ここまで自分のことを書けるということは、それだけの時間が経過しているということなのだろう。けれど、今更ながら、当時からがんという病気はたとえステージは進んでいても、遠隔転移さえしなければ、克服しうる病気だったのだ、とため息が出てしまうのも本音のところだ。

 とにかく前向きにパワフルに生きていれば、免疫力アップはするものなのだろうか。同じ連載の初回で書いておられるように「どんな哲学で生きてきたか」に対して、「1自分の可能性に限界を引かない 2 行動に移す 3 めげない 4優先順位をつける 5集中力を養う」とのお答え。精神的にも肉体的にも天晴れなタフさである。まだ全連載を読み切っていないが、ワーキングマザーもがん患者も若い女性も、きっと元気をもらえる(もらえすぎて圧倒される)内容であると思う。

 今日も朝から今にも泣き出しそうな曇天。降ったり止んだりの梅雨らしいお天気だった。湿気のせいか週末の疲れのせいか、何となく頭が重く、胸骨の辺りがしくしく痛み、だるくなってしまう。だが、何はともあれ今週も無事働くことが出来た。明日明後日としっかりチャージして、また新しい週を迎えたい。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする