生き生き箕面通信

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生き生き箕面通信980 ・ジャーナリズムの責任――敗戦の日を前に痛切に思うこと

2011-08-14 06:35:32 | 日記
 
 おはようございます。「音もなく放射能降る公園の夏の真昼に蝉さえ鳴かず」「紙切って作ったケーキとキャンドルで娘(こ)に祝われて誕生日嬉し」(いずれも本日の「朝日歌壇」より)
 生き生き箕面通信980(110814)をお届けします。

・ジャーナリズムの責任――敗戦の日を前に痛切に感じること

 明日8月15日は「敗戦の日」。本日の新聞大手紙はすべて、ここに焦点をあてた社説を掲載しました。社説の見出しは、朝日が「今、民主主義を鍛え直す」、読売は「政治の『脱貧困』をめざせ」、毎日は「大震災と終戦記念日『ふるさと復興』総力で」、日経も「8・15を思い、3・11後の日本を考える」としました。明日が新聞休刊日だから、今日にならざるを得なかったのです。

 それぞれにいろいろな思いを呈示しています。しかし、なんとも歯がゆい点が二つあります。
一つは、敗戦について語るときに避けて通れないはずの自らの「ジャーナリズムの責任」については、ほとんど言及がないことです。

 読売、毎日、日経は、自らの責任には一言も触れていません。わずかに朝日だけが「ジャーナリズムが果たすべき責任と役割は重い」と指摘している程度です。しかし、その朝日にしても、戦争に至る過程で朝日新聞が「カネと太鼓」で戦争をあおった責任に対する反省は、まったく見られません。素知らぬ顔ですましています。

 ただ、朝日の場合は、次のような指摘をしている点で、まだ「よし」としましょう。こう強調しています。「生命や財産は、国民一人一人が守り抜くという意志を持ち、その意思を実現できる人物を政治家に選び、働かせる。国民と政治家が問題の価値やリスクをチェックできる仕組みを作り上げる、すなわち民主主義を真っ当なものに鍛え直すしかない」。そのためには、(官僚らの)情報独占を打ち崩すしかなく、ジャーナリズムの責任と役割は重い、と自らに言い聞かせています。

 読売、毎日、日経には、自らのジャーナリズムに対する覚悟と意識がなく、責任放棄をしているという自覚すらも感じられません。ジャーナリズム自身のこうした無責任さが、この国全体を「無責任で覆う土壌」を培養してきたといえます。

 もうひとつ歯がゆいのは、「終戦」という表現です。意識して「敗戦」という表現を禁句にしてきました。朝日の今日の社説でも、見出しでまず「終戦に思う」としています。読売も「終戦66年」です。「終戦」では、「戦争が終わりました」という事実を表現するだけで、そこには「敗戦」という語から生じてくる「なぜ負けたのか」という責任を回避する意識が透けて見えます。戦争中に「敗北して退却」を「転進」と言い換え、責任をうやむやにしたのと同じ精神構造です。この責任回避の精神構造こそ、私たちは見つめ直す必要があるのではないでしょうか。

 いままた、新しい体制づくりが始まりましたが、メディアでは「大連立、花盛り」の風情です。大連立は、有権者から政治の選択肢を奪うという意味から「禁じ手」のはずです。ところが、いわゆる世論調査でも、「大連立」に賛同する意見が結構多くあります。権力側がほとんど何でも可能になる「大連立」が成立すれば、「増税」はもちろん、ゆくゆくは「憲法改定」でしょう。

 結局は、私たち有権者一人一人が、政治に責任を待つ意思を表明するほかないようです。しかし、最近の投票率の低下は、ますます「お任せ政治」に堕しているように見えます。敗戦後66年、そろそろまた「失敗の歴史」をあえて作るのでしょうか。


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