いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

東京散歩:東急世田谷線・宮の坂駅⇒ 豪徳寺⇒ 世田谷城址⇒ 世田谷代官屋敷⇒ 馬事公苑⇒ 用賀駐屯地⇒ 桜新町駅

2021年12月17日 17時49分55秒 | 東京・横浜

豪徳寺に行った。今年5月に訪問したが、開いてなかった。豪徳寺は何度も訪れているが、世田谷城址、世田谷代官屋敷は行ったことがなかった。今回の散歩経路とした。

 

1;東急世田谷線・宮の坂駅、2;豪徳寺、3;世田谷城址⇒、4;世田谷代官屋敷、5; 馬事公苑、6; 用賀駐屯地、7; 桜新町駅

■ 三軒茶屋

三軒茶屋は昭和の街だと気づく。

■ 宮の坂駅

■ 豪徳寺

井伊家歴代の殿様のお墓が並ぶなか、花が添えてあるのは直弼のお墓だけであった。

■ 世田谷城址

東京都指定旧跡 世田谷城跡 (ソース

大正8年10月 指定

〈所在〉 東京都世田谷区豪徳寺2丁目14番周辺

〈時代〉 中 世

世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治5年(1366年)に吉良治家によって築城されたと言われていますが、正確な築造時期は不明です。その一部、世田谷城址公園付近には土塁と空堀の一部が残されています。

世田谷郷が吉良氏の所領となった時期は少なくとも永和2年(1376年)以前であることは確実です。(「鶴岡八幡宮文書」) 

12世紀後半~13世紀前半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。しかしながら、吉良氏が「世田谷吉良殿」と呼ばれ、世田谷郷を本拠地としていたことが確認できるのは、その後の応永33年(1426年)になってからです。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となりました。

また、城内には吉良氏ゆかりの「弘徳院」(豪徳寺の前身)が存在していました。現在は、郭(くるわ)、土塁や空堀の一部をみることができます。最近行われた弘徳院境内と推定される地区の発掘調査で、空堀、土塁のほか、掘立柱建物、井戸、地下式坑などが発見されています。

■ ⇒ 世田谷代官屋敷

■ 世田谷代官屋敷

世田谷代官屋敷(せたがやだいかんやしき)は、彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸かつ役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれる。現在の東京都世田谷区世田谷1丁目に置かれた。

大場家の屋敷は、はじめ元宿(世田谷区役所のあたり)にあったが、天正の初め(1575年)ごろに現在の場所に移された。現在の建物はその後、7代の盛政が1737年(元文2年)に立て直したものである。1739年(元文4年)に盛政が代官になった際にその私邸が代官屋敷となったため、世田谷代官屋敷は公の陣屋ではない[1]。

現在の敷地内には、後述する表門と主屋のほかに、お白洲の玉砂利が白洲跡として残され、世田谷区名木百選に選定された樹高19メートル、幹周り2.85メートルのタブノキも立つ。 (wiki

▼ 世田谷区立郷土歴史資料館

台地、段丘の模型展示がよかった。とても、わかりやすかった。

■ ⇒ 馬事公苑


むさしの森珈琲 世田谷オークラランド店  今年9月にオープンしたらしい。

 ベリーベリークレープをいただく。<荊の簪を挿した御方>様のおごりだ。

■ 馬事公苑

工事中だった。

■ ⇒ 用賀駐屯地

この建物が戦前からあるらしい。下、航空写真を参照。


左より、敗戦前、敗戦直後、現在の航空写真

同じ場所に同じ寸法で建て直したのかもしれないが。現在の建物がコンクリート製である。戦前にコンクリート製で建てたのか?ところで、六本木の連隊の建物はコンクリート製で、戦後も(東大物性研として)使用された。そういう事例もあるので、戦前からのコンクリート製兵舎なのかもしれない。

なお、この陸上自衛隊の用賀駐屯地は、国立医薬品食料衛生研究所と隣接している、というか事実上同じ敷地にある=両者の間に公道がないようである、とわかる。


google map

国立医薬品食料衛生研究所は知っていた。2017年に散歩したからだ。その時、こう考えた;

衛生材料廠跡の石碑があったので、日帝時代の軍の医薬品製造工場であったのかと思ったら、戦前から厚生省の管轄だった、とのこと。

今思うに、戦前から厚生省の管轄であったとしても、旧軍の敷地にあったらしい。やはり、2017年のおいらの勘はあたっていたのだ。ただ、2017年には用賀駐屯地に気付かなかったのだ。

今、こういう情報を見つけた;

旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設[2]され、陸上自衛隊衛生補給処が立川駐屯地から移駐。1998年(平成10年)3月26日、中央補給処の統合・改編により、衛生補給処が陸上自衛隊関東補給処用賀支処に改編された。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢として現在に至っている。 (wiki

やはり、旧軍の組織だったのだ。

国立医薬品食料衛生研究所のweb siteの沿革に下記あった;

昭和21年(1946年)には、神田和泉町の庁舎から世田谷区用賀に移転し、昭和24年(1949年)には、国立衛生試験所と改称

厚生省は昭和13年(1938年)に発足。敗戦で、旧軍の施設を引き継ぎ、この地に移転してきた。ところで、戦後、厚生病院というものがあった。これは旧軍の陸軍病院だの海軍病院だのを厚生省が引き継いだ病院である。なお、用賀の旧軍施設の厚生省以外の区域=今の陸上自衛隊の区域がどう利用されたか? 占領軍による接収されたと上記wikiにある。ただし、米軍のどの部隊が駐屯していたかなどは不明。もちろん、第1騎兵師団の一部だと思うのだが。

■ ⇒ 東急田園都市線・桜新町駅

メタセコイア並樹。2017年は新緑の季節だった。実は、国立医薬品食料衛生研究所=用賀駐屯地は、このメタセコイア並樹を見て、思いだして、ここの場所が、国立医薬品食料衛生研究所=用賀駐屯地と気づいた。

建物が、昭和である。