常陸野に住む親類縁者と東京で会おうということになった。それでは、椿山荘での食事にしようと決めた。理由は椿山荘の庭を見物したかったからだ。椿山荘は元来山縣有朋の庭、というか一万八千坪の大邸宅であった。山縣の生前の1918年(大正7年)に「一木一石も旧観を失わないこと」を条件に藤田平太郎に譲渡される。現在は藤田観光のホテル椿山荘となっている。
今年は、春に京都の無鄰菴[A]、秋に小田原の古希庵[B]と山縣有朋の庭に行った。椿山荘はもちろん知っていたが、ホテルに用がないので、行く機会がなかった。なお、数年前は神田川沿いの冠木門から入って庭が見れたらしい。現在は、庭見物はホテル利用者のみとweb siteで云っている。
[A] 京都・無鄰菴再訪 2021年春 ;プロポーザル入札制度のあとさき
[B] 小田原散歩:古稀庵(山縣有朋 庭園)⇒ 皆春荘 ⇒ 小田原城
椿山荘は神田川の北の目白台地の東端の関口台にある。上記地形図の矢印で示す場所の局部的な開析谷を含む敷地が椿山荘だ。ただ段丘崖を含むだけでなく、小さな開析谷をもつ。ちなみに椿山荘の西隣が肥後細川庭園である。肥後細川家の戦時中の当主は細川護貞であり、近衛文麿の娘(温子)と結婚。すなわち、細川護貞は近衛文麿の娘婿であり、戦時中は近衛文麿の側近であった。現在、近衛家の当主は細川家からの養子らしい[1]。
つまり、このあたりは目白台地の端辺の段丘崖を利用した壮大な屋敷が並んでいたのだ。
[1]山縣有朋と近衛文麿。いうまでもなく、国を肇[はじ]めた公爵さまと国を亡ぼした公爵さまである。
■ JR目白駅
■ 椿山荘
上の航空写真で、北側(図の上)の棟(バンケット棟)から入る。
バンケット棟
料理屋がある「ホテル棟」まで渡り廊下を行く。
渡り廊下から見えた庭
▼ お昼ご飯 日本料理・みゆき[google]に行きました。
お料理をいただく。
■ そして、お庭へ
庭園で歩いた順番を①から⑥まで記した。⑥のあと、①に戻り、ホテル棟に帰った。以下写真での番号は上の道順の番号に対応する。
①
滝。水は段丘崖の湧水。椿山荘の隣から水を引いている。このような「派手」な水の流れは有朋のどの庭(無鄰菴、古希庵)にも認められる特徴。有朋は流れる水が好きなのだ。
椿山荘の航空写真。左より、終戦前、終戦直後、現在。
椿山荘が無鄰菴、古希庵と大きく異なるのは、戦災にあったこと。空襲[1]で椿山荘の建物はほぼ焼失。樹木も焼けている。ただし、三重塔は残った。
[1] 1945年(昭和20年)5月25日の空襲。この空襲では、椿山荘から神田川を挟んで1km離れた、漱石山房[C]も焼尽。なお、漱石は有朋より先に死んだ[49歳]。
[C] 東京散歩;早稲田・漱石山房記念館 ⇒目白・肥後細川庭園 ⇒雑司ヶ谷・宣教師邸 ⇒池袋
椿山荘、無鄰菴、古希庵の三庭のうち、椿山荘は一番古い。1877年(明治10年)だ。つまり、西南戦争の年だ。
明治維新を経て西南戦争の功により、元勲の山縣有朋は年金740円を与えられ、それを元手に1878年(明治11年)旧屋敷を購入。「椿山荘」と命名して趣味である作庭を行った。(wiki)
庭師は、岩本勝五郎。椿山荘についての説明がweb siteにあった;
明治11年、東京の本邸として有朋が、つばきやまと呼ばれていたこの地を購入し、その名にちなんで「椿山荘」と名付けました。南には牛込を越して宮城の森が見え、西に富士、北には筑波、東に房総の山々が見える絶好の丘に、自ら指揮して築庭し、約2万坪(東京ドームの約1.5倍)の起伏豊かな地形を巧みに生かし、林泉回遊式庭園を造り上げました。椿山荘は単なる築庭師では考え及ばない眺望雄大な名園として、いまも定評があります。当時、明治天皇をはじめ政財官界の第一人者がしばしば椿山荘を訪れ、重要会議を開いたと伝えられています。現在は、結婚式場「椿山荘」としてよく知られています。(山縣有朋記念館)
③
段丘崖を登る。
イベントの「雲海」
庭園の頂上に建つ三重塔は、元々広島県賀茂郡入野(現東広島市)の竹林寺にあった塔で、創建時期は明らかではないが、平安前期に小野篁が創建し平清盛が第1回の修復を執り行ったという言い伝えがある。大正時代に強風にあって三層目が大破してしまったものを藤田平太郎が譲り受け、1925年(大正14年)に椿山荘に移築し、三層目を復元した。太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で発生した早稲田の火災の際も、木立に囲まれた環境もあり奇跡的にも三重塔と御神木は焼失を免れた。(wiki)
東京雲海なる「パフォーマンス」。20分に1回、蒸気を噴霧して、雲海をつくる。ホテルweb site.
⑤
神田川の方へ
⑥
冠木門から来た道を引き返す。
庭からホテル棟に戻る。
ホテル棟から出る。
さよなら、椿山荘