いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1096年のホロコースト

2010年01月24日 16時07分20秒 | 欧州紀行、事情

 - 今日のうめちゃん -

■休みは、八塚春児、『十字軍という聖戦』(Amazon)を読んだ。


■「ヨーロッパの思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシアの思想とヘブライの信仰である。 岩田靖夫、『ヨーロッパ思想入門』 と教科書、子供向け新書、ベストセラー新書に書いてある。日本人の常識なんだなぁ~。アタマいいな、日本人」と愚記事:アヴェロエスに2009年12月13日に書いた。

なぜ、今日、日本のがきんちょはじめ多くの人が"ヨーロッパ思想"を知ろうとするかというと、それは近代においてヨーロッパ文明の覇権が著しいものとなったからに違いない。ただ近代という時代区分にヨーロッパが繁栄したというのではなく、ヨーロッパ文明が近代を作ったと"見える"のである。この近代ヨーロッパへの、"われわれ"のリアクションが近代日本に他ならない。もちろん、おいらが、"われわれ"日本人という意識をこのように書くこと自体、近代の所産である。

 Amazon; 『ヨーロッパ思想入門』 すごいですね、星5つが14件です。

そんな能書きはともかく、ヨーロッパ文明の誕生の契機と真髄は十字軍なのではないかというのが、今日のおいらの思いつき。 (三日ぐらいすると忘れていると思うけど....)

2010年はイラン(ペルシャ)問題

今年のリスク予想の1位が米中関係、2位がイラン問題 (Top risk 10 of 2010)。米中関係は戦争になることはないと思うが、イラン問題はわからない。イランには核開発問題があるし、イスラエルを抹殺すると公言している。米国だけでなくヨーロッパ諸国もイランにびびっている。米国はイランの核開発の先手を打って、イランを核攻撃する計画も検討している。安易に文明の衝突を煽るわけでもないが、欧米文明は自己形成にイスラム文明を出汁にしている。十字軍による外敵形成、ヨーロッパ内部の紛争解消、外敵成敗、そして何より敵を定めた上でのゲルマン/ラテン民族・キリスト教文明の自己形成。

2001年の十字軍

9・11テロの後の反撃をブッシュ米国大統領は"十字軍"と表現した。一部啓蒙ヨーロッパからは眉をひそめられたらしい。⇒Wiki; 第十次 十字軍

もちろん建前上米国は神聖アメリカ帝国であるので、教皇サマから聖槍を授かり、"イスラム原理主義"撲滅のために外征できたわけではない。しかしながら、ブッシュは米国草の根のキリスト教原理主義者たちに熱烈に支持されていた。そういうキリスト教原理主義者たちはアフガニスタン攻撃を十字軍による聖戦と思っていたのだろう。さらには、イラク戦争こそ十字軍による聖戦本番と考えたに違いない。

なぜ、「自分を迫害する者のために祈りなさい」のキリスト教が戦争をするのか?

不思議なのが、なぜ、キリスト教原理主義者たちが、戦争狂のブッシュを支持するのか?ということ。よく知らないけど、キリスト教原理主義っていうのは聖書(福音書)そのものを読むことなんだろう?マタイによる福音書に「自分を迫害する者のために祈りなさい」と書いてあるらしい。一方、戦争していいと聖書(福音書)に書かれていないようだ。

キリスト教会が戦争を是認する論理的根拠

キリスト教会の戦争是認の理論はある。アウグスティヌス、トマスアクイナス、グレゴリオらしい (wiki; 正戦論)。つまりは、ヨーロッパの思想史のお歴々だ。上記『ヨーロッパ思想入門』の章立てではヘブライの信仰、イエスの思想で第2部が終わり、第3部のヨーロッパ哲学のあゆみの扉にはハイデガーの写真。

キリスト教会と戦争の縁ができるのは、キリスト教がローマ帝国に保護されたから。教会と国家の関係というイエスの時代ではなかった状況の中で、キリスト教徒防衛を放棄しても、国家の防衛への協力をしないと教会への国家による保護が危うくなってします。これをアウグスティヌスが合理化したらしい。

さらには、キリスト教の戦争がはじめに必要になったのは、キリスト教内の異端との紛争だった。だから、初めからキリスト教の戦争の合理化は、十字軍のような対イスラム戦争のためになされたわけではなさそうだ。

追ってキリスト教に"不幸"だったのは、キリスト教・ローマ帝国にゲルマン民族という尚武な連中がなだれ来たことである。彼らこそ近代で世界を制覇したヨーロッパ文明の生物学的先祖。ハイデガーのご先祖もこの集団の中にいたのだろう。


・・・教皇グレゴリウス一世により、ゲルマン人の改宗が進められた。
 こうしてゲルマン人がキリスト教世界に取り込まれるにつれ、聖戦概念にも新たな展開が見られるようになる。この民族は元来好戦的で、英雄的に行為を尊び、戦争に高い価値を付す心性を持っていた。教会は当初こうした心性をキリスト教的な愛と平和の倫理により抑制しようとしたが、なかなかうまくいかず、ついにそれに妥協することになる。すなわち、そうした好戦的心性を、教会の防衛へと昇華せしめようとした。そこに成立するのが騎士道である。
 (from "十字軍思想の形成"、八塚春児、『十字軍という聖戦』)

▼なお、ブッシュ親子に呼応(w!)してか、米国のテレビ伝道師にグラハム親子というのがいる。その子グラハムの主張を見つけた↓

──伝道者として発言に影響力があると思います。01年にイスラムに対して「邪悪な宗教」という表現を使われましたがその真意は?

 イエス・キリスト以外に救いに至る道はないと信じています。世界には多くの宗教があり、私は他の宗教に対して敬意を抱いています。彼らの信仰というのはすばらしいものです。彼らは献身的です。しかし、私はそこに救いがあるとは信じてはいません。他の宗教を尊敬しますが妥協も同意しません。

──妥協しないという考えに「戦闘の容認」も含まれるのですか?  

私はいかなる戦争も支持しません。真実なイエス・キリストに仕える人はだれも戦争を支持しません。戦争は悲惨です。ここ沖縄でも24万人もの方が亡くなりました。戦争とは悲惨なものです。しかし、国には防衛する権利があります。それは戦争とは別です。聖書には「人の心」が悪いとあります。その悪い心が戦争を起こすのです。私たち人間の心が変わる必要があります。イエス・キリストから離れるなら戦争が起こり続け、多くの人が犠牲になるのです。イエス・キリストだけが唯一の希望です。国連もジョージ・ブッシュも政治システムにも答えはありません。イエス・キリストだけです。
クリスチャン新聞

1096年のホロコースト
十字軍はビザンティン帝国の東方キリスト教徒をセルジュク・トルコから防衛するという建前で出征したが、その一部はユダヤ人を殺しまくった。

十字軍運動の盛り上がりは、反ユダヤ主義の高まりという側面をもたらすことにもなった。ヨーロッパでは古代以来、反ユダヤ人感情が存在していたが、十字軍運動が起こった時期に初めてユダヤ人共同体に対する組織的な暴力行為が行われた。1096年の夏、ゴットシャルク、フォルクマーなどといった説教師に率いられた1万人のドイツ人たちは、ライン川周辺のヴォルムスやマインツでユダヤ人の虐殺を行った。この事件を「最初のホロコースト」という者もある。
十字軍運動に参加した人々の中のある者は言葉たくみに、ユダヤ人とイスラム教徒はみなキリストの敵であるといい、敵はキリスト教に改宗させるか、剣を取って戦うかしなければならないと訴えた。聴衆にとって「戦う」というのは、相手を死に至らしめることと同義であった。キリスト教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼らの考えであった。
 (wiki; 第一回十字軍

しかし、むしろキリスト教の理念にそむくと司教が判断している事例もある;

・(「十字軍」とは呼びにくい行動を取るものも多かったという説明の)最後は、ライン地方の領主であったライニンゲン伯エミコの率いた隊である。この隊は、ライン地方の諸都市でユダヤ人虐殺に熱中する。それは一〇九六年五月三日、シュパイヤーから始まった。その地の司教はユダヤ人を保護したが、一二人のユダヤ人が殺害された。司教は犯人を捕え、罰として腕を斬った。ついで五月十八日、十字軍がヴォルムスに近づくと、都市民に近郊農民が加わり、ユダヤ人居住区を襲撃した。ここでも司教がユダヤ人を保護し、自らの宮殿にかくまった。しかし五月二十日、十字軍は聖堂の扉を破って乱入し、約五〇〇人のユダヤ人を殺害した。("六 民衆十字軍"、八塚春児、『十字軍という聖戦』)

司教がユダヤ人をユダヤ人という理由で殺すことはキリスト教に反すると考えているようだ。客観的にもこの"ゲルマン人民衆"によるユダヤ人大量殺害の理由をキリスト教に求めることはできないことを示す。そうであるならば、論理的には、"ゲルマン人民衆"によるユダヤ人大量殺害の理由は,"ゲルマン民族"の民族性に帰するしかなくなる。ヨーロッパ思想入門!

   
ヨーロッパ文明の正嫡たち@元来好戦的

まとめ:「ヨーロッパの気概は二つの礎石の上に立っている。反ユダヤ主義と反イスラム主義である。」

■おいらには、地獄からのうめき声として聞こえるよ;
グレゴリオ聖歌1/4Gregorian chant Victrola VV1 90




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真理 (ガイア)
2010-01-24 17:41:09
【因果の壊れと中道のみち】

【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。

原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。

ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。

即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。


《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』‐中道のみち‐》


【知・法の根本】

如何なるものも信じているから成り立っている。私自身は宗教が大嫌いで, 哲学とこれを基礎とする科学さえあれば, 人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが, あくまで信じているからこそ相手が物か人か, はたまた両方をもつ対象なのである。

宗教こそが最も有害である為, 哲人はこれを粉砕し, 想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に, 如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり, 当然, 己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪である。これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし, 偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。

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