― 人のふり見て、我がふりを思い出せ ―
―1872年(明治5年)8月27日、筑波山の中禅寺を破壊する薩長新政府一派、
文化大革命的所業 (支那に先立つこと約100年) ―
・絵は、筑波東山の住人の塚本勇吉。 「勇範日記」より。関連愚記事;愚記事
明治の神仏分離で、筑波山中禅寺は廃され(破壊され)、筑波山神社が捏造される。
「有範日記」では、そのときの様子が挿絵とともに記録される。
※神仏分離での破壊が「絵」で残されている稀有の例と思われる。 (出典)
▼ 100年後の支那;
― 支那文革で焼かれる仏像 (ネットでのパクリもの) ―
― 1964年に始まった支那での文化大革命で寺院を破壊する毛沢東の肖像を掲げた一派 ―
撮影:写真家、李振盛 (google 画像)
-21世紀の「彼ら一派」- 再掲
日本を励ます、毛沢東の亡霊と生霊、あるいは、日本への恩返し
顔にXをつけられ、三角帽をかぶせられた仏像、支那文革。撮影:写真家、李振盛
首を折られた仏像。 支那文革。撮影:写真家、李振盛
― 焼かれる仏教絵画 、ぬっぽん文革 ― 再掲 (愚記事)
▼ 筑波山と周恩来
(再掲; 愚記事、上海参り)
支那の文化大革命時代を、毛主席語録を片手に掲げ、宰相を務めた周恩来さんは、筑波山に来たことがあるのだ。
周恩来元首相が筑波山登山=留学中の思い出、元市長に明かす
中国の故周恩来元首相が日本留学中、茨城県の筑波山に登ったと、故木村 操元つくば市長が自伝に記していることが分かった。日中交流研究所の段躍中所長がこのほど発見した。周氏が京都・嵐山を訪れたのは有名だが、筑波山に登っ たことはほとんど知られておらず、段氏は「留学時代の様子を知る貴重な記述だ」と語る。
周氏は1917~19年に日本に留学。木村氏が72年に 日中友好訪中団メンバーとして周氏と北京で対面した際、日本語で「私は学生時代、友人とあの山(筑波山)に登りましたよ」と明かしたという。木村氏はこの エピソードを、95年に出版した「つくばからのメッセージ」で紹介している。
周氏が嵐山で詠んだ詩が刻まれた石碑は、2007年に来日した温家 宝首相をはじめ多くの中国指導者が参観している。つくば市教育委員会は「(筑波山登山は)郷土史にも触れられていない」としている。段所長は「周首相は嵐 山を訪問したころに祖国を救う志を固めたが、筑波山登山はそれ以前の気 楽な観光だったのでは」と解説した。(了) 2009/07/11-14:52
ソース; google
1917~1919年といえば、筑波山・文革から、約半世紀後だ。
でも、支那プチブル子弟であり、物見遊山の留学生であった周恩来 (江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた) は、半世紀前にここで文化大革命があったなどと思いもしなかっただろう。
そして、なにより、将来、支那史上最大の「狂」皇帝に仕える宰相となるとは、想像もしなかったであろう。
蛇足ながら、上記支那史上最大の「狂」皇帝の「狂」とは;
実は彼らは きちがい なんです。
おいらが最初彼らを知って調べたとき、外国船に砲撃するわ、英国公使館を焼き討ちするわ、老中暗殺を企てるわ、こいつら きちがい だな!と思っていたら、なんと!松陰は 狂 をキーワードに掲げ、山縣はそれに呼応して号を 狂介 と称していた。 (愚記事; 狂人=グル)
の「狂」である。 もちろん、万感の御尊敬をこめた称号である。
儒教に起因するものらしい。 まさに東亜を混乱(confusion)に陥れるconfucianではないか。
■ 革命国家、日支;
出典: 薩長のテロリストあがりの「高官」たち。 党内権力闘争で生き残ったのは何人?
かつ、仲間われの前だとわかります。
まとめ; 近代日支は革命国家である。 国内においては伝統を破壊する狂人的文革者、対外的には相似た者いがみあう厄介な人々である。