▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第379週
■ 今週の武相境斜面
■ 今週のメタセコイア
■ 今週の草木花実
■ 今週の東京
■ 今週の昭和の遺物@真新しい更新品
横断旗
■ 今週の不在(みきゃん)
愛媛産の柑橘類が売っていたが、みきゃんの姿は見なかった。
■ 今週の、チャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?
愚ブログで、チャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?がある。
これまで確認できているのは、重光葵と上皇陛下(当時、皇太子)だ。今週、見つけた。岸信介。1962年らしい。
チャーチルがハイドパークの片隅に住んでいたけれど訪ねて行きました。現役の海軍の佐官が秘書官としてついていたんですよ。チャーチルさんはもう八十八歳ではなかったかな。
その時の話で印象的なことといえば、皇太子殿下の訪英でご苦心してもらったお礼を言ったんですよ。すると、「日英同盟を廃棄したことはイギリス外交の大きな失敗です。あれが存続しておったら、今度の世界対戦の様相も非常に変わったろう。しかし当時のアメリカがその廃棄を強く迫ったのでやむを得なかったけれども、やはりイギリス外交の誤りでありました」という風に言った。印象に残っていますね 。(『岸信介の回想』)
■ 今週のバジパイ違い
朝鮮戦争についての本を読んでいるとインドの外交官の名前としてバジパイ卿というのが出てきた。
一方、インドの首相でバジパイという人がいた。インド人民党の初代総裁。バジパイは、1998-2004年に2度目の政権で、核実験を成功させた。
インド人民党はヒンドゥー民族主義的性格が強い、いわゆる、右派勢力。現在のモディ首相もこのインド人民党である。
こういう事情で、冒頭のバジパイ卿とバジパイは同じ苗字なのだろうなと思い。あまつさえ、インドの「名門」の名前なんだろうか?とか思った。調べた。全然、違った。
インドの外交官の名前としてバジパイ卿は、Girija Shankar Bajpai であり、バジパイ首相は、Atal Bihari Vajpayeeであった。
Girija Shankar Bajpai :wikipedia 日本語wiki
Atal Bihari Vajpayee :wikipedia 日本語/コトバンク
カタカナ日本語にすると、BajpaiもVajpayeeも、バジパイにされてしまうのだ。
▼ 朝鮮戦争におけるインド外交官;マッカーサーの「北進」を牽制する周恩来の伝言係
金日成の北朝鮮による南侵で始まった朝鮮戦争。マッカーサーは仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪還した。38度線まで、北朝鮮軍を押し返した。ここで、38度線を越え「北進」[1]することをマッカーサーは決断し、実施した。ワシントンの統合参謀本部で反対した首脳を押し切った。今からみると、マッカーサー敗退、失脚の始まりである。マッカーサーは「北進」を二手に担わせ、指揮した。すなわち、第1騎兵師団を核とする第8軍と第1海兵師団を核とする第10軍団である。前者は雲山[1]で、後者は長津湖で中共軍と対決し、大敗・撤退、あるいは、死闘・退却する。中共軍は数万規模で戦死者を出しながら、米軍を追い返した。
[1] マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還
[2] 長津湖」とアメリカ第1海兵師団の死闘・敗退
さて、結果的に米軍を押し返した中共軍は、マッカーサーが「北進」する頃、米軍が「北進」すると中共軍が参戦するぞと警告していたという話。警告したのは周恩来。当時、当然、米中は外交ルートがなかった。北京のインド大使のパニッカーが周恩来の主張を預かる役回りとなった。さらに、ロンドン経由となる。
中国による第3の警告は、事態の緊迫性を伝えるために極めて劇的な方法でなされた。10月2日から3日にかけての深夜、周恩来が既に就寝中のパニッカーを彼の公邸に召喚したのである。12時30分から始められた会談において、周恩来は「もし米国が三十八度線を越えれば中国は朝鮮に介入せざるを得ないだろう…南朝鮮問題ではないが米国の北朝鮮への侵入は中国の抵抗に遭遇するであろうと述べ、これ以上ないほど明確な表現で中国の参戦条件を提示した。 (小此木政夫、『朝鮮戦争』)
パニッカー駐中共インド大使は、本国インドにすぐに報告する。デリーでインド外務省は英国に報告する。ロンドン経由でワシントンへは10月3日の夕方伝えられた。これを受けて米国はデリーの駐インド米国大使のヘンダーソンがインド外務省を訪れ、インド外務省のバジパイ卿からパニッカーの電文をみせてもらう。
こういう経緯の話で、最上部の「バジパイ卿」が出てきたのだ。
史実は、ワシントンも中共の警告を認知したが、中共参戦を信じず、あるいは重大事と認識しなかった。
■ 今週の購書(古本)
マイケル・シャラー、『「日米関係」とは何だったのか』。なお、この本は今、Amazon及び日本の古本屋で品切れである。その理由は察しがつく。おいらもその理由で買ったのだ。YouTube (ライブ)[1]中に3冊売れていったのを見た。
[1] 【伊藤貫の真剣な雑談】第4回「アメリカ人も呆れた、属国主義で核武装議論から逃げてきた日本の保守政治家達」[桜R4/2/5]
朝鮮戦争で、マッカーサーと米軍、米国が初めて理解したことがある。それは、韓満の地政学的重要性であり、大日本帝国及び満州帝国の意味である。近代日本が半島・大陸でやったことはロシア帝国の膨張の阻止、さらに赤化したソヴィエト・ロシアの阻止である。満州帝国は防共帝国であった。この防共帝国がないと朝鮮半島は「守」れない。あまつさえ、赤化勢力を半島・大陸で発生・存在させてはいけない。それなのに、米国はソ連と組んで防共諸帝国(日本、満州)を亡ぼした。亡ぼした後、きちんと統治すればまだしも、赤化勢力が膨張し始めた。国共内戦での中共軍の勝利。朝鮮戦争。何やってんだ!米国。日本を亡ぼせばそれで済むと思って、ボサっとしていたのだ。ソ連、中共を巻き込んで金日成の北朝鮮が南下して来たのを押し戻し、最後に成敗しようとしたマッカーサーは中共軍に押し戻され、敗退。押し戻してきた中共軍の出撃地は満州と認知。満州に反撃しようとするも本国に止められ、解任。つまり、朝鮮半島の半分しか統治できなかった。韓満を支配した大日本帝国以下である。日清・日露の山縣有朋ら日帝軍人の業績以下である。
こういう事情で、マッカーサーと米軍、米国の反共勢力は大日本帝国及び満州帝国の意義をようやく悟ったのだ。こういう悟りを背景に、吉田-マッカーサー時代から岸-ダレス時代と戦後は推移していく。この過程も描いているのが、マイケル・シャラー、『「日米関係」とは何だったのか』だ。主旨は、ともかく、些細な点
でおもしろかったのは、これまでの岸の回顧、回想、伝記に書いてなかったこと。
1960年1月19日岸はアメリカで歓迎を受けた。それは暴動の傷跡を残した東京出発の時とは鋭い対照をなしていた。『タイム』誌は表紙に、活気にあふれる工場を背景にした、笑みを浮かべた岸の顔を載せ、『ニューズウイーク 』誌は「友好的で抜け目のない、日本のセールスマンの到着だ」と報じた。 (マイケル・シャラー、『「日米関係」とは何だったのか』)
ネットで見つかった。活気にあふれる工場というシャラーの描写は「片手落ち」で、廃墟の日本都市と不死鳥と組で表紙は構成されている。不死鳥、岸信介なのだ。巻頭ページの文章も読める⇒ web site
初代セールスマン
ニューズウイーク誌には、セールスマンと云われたとある。日本の首相でセールスマンといえば、フランスのド・ゴールにトランジスターのセールスマンと云われたとされる池田勇人だろう。でも、それに先駆け、岸信介は海外で「セールスマン」といわれていたと知る。もっとも、「日本のセールスマン」という表現なので、トランジスタのような具体的商品ではなく、日本の価値を宣伝するという意味かもしれない。しかし、国を売るという意味にもとれるかもしれない。このマイケル・シャラー、『「日米関係」とは何だったのか』には岸政権の与党の自民党の川島幹事長が選挙資金を米国(マッカーサー大使)に無心した詳細が書かれている。そして、この本で岸信介が訪米した時、米メディアに大きく扱われたと知り、ググるとあった。
さて、朝鮮戦争で敗戦後日本の状況が大きく変わったと書いた。この朝鮮戦争の意味を岸信介はどう認識していたのか、見てみた、岸の回顧録、回想録はおいらが10代の頃読んだ本だ。今週改めて読むと、なんと、岸信介は朝鮮戦争について全く言及していない。これは一体どういうことだろう。おそらく、朝鮮戦争が決定的すぎて、すなわち朝鮮戦争は岸信介ら反共主義者には天祐であったので、言及できなかったのであろう。棚から牡丹餅が落ちてきましたと臆面もなく書くのが憚られたのだろうと邪推している。
■ 今週の購書(新刊;復刻本)
有田八郎、『馬鹿八と人はいう』。この本は1959年に出た本で、古本で高値であった。先月、復刊された。
有田八郎は外務大臣を4度務めた外交官あがりの政治家。
戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、1936年(昭和11年)の広田内閣時代に何度も蔣介石の国民政府との防共協定を提案しており、近衛内閣時代に「東亜新秩序建設」を推進した。日独防共協定を締結したが、日独伊同盟の締結には最後まで反対した。(wiki)
復刻ということで、元と違うのが、解説がついていること。解説は教育社会学者の竹内洋。政治学者でも国際政治学者でも外交史家でも歴史家でもない竹内洋が、なぜ解説者なのか? 解説文にはその謎解きはない。でもおいらはすぐわかった。表紙の帯にも示されている。有田も竹内も郷里が佐渡島なのだ。おいらもふたりいる祖母のひとりが「本間」という性で佐渡ヶ島出身だ。佐渡島の本間さまとして本間雅晴中将がいる。
三輪寿荘: 有田八郎は戦後、「護憲」派となり、社会党かた都知事選に立候補する。その理由は、社会党の三輪寿荘から立候補を懇請されたからだという。さて、三輪寿荘。岸信介の親友である。上記、岸信介回顧録に書いてある。何より、岸信介は戦後(巣鴨から出たあと)、政界入りするため国会議員に立候補するとき、社会党から出馬したいとのことであった。その経緯は、三輪寿荘が親友で政治的同志であったからとのこと。
有田八郎、『馬鹿八と人はいう』は今日買って、パラ見だが、三輪寿荘が出て来て、岸信介とビンゴしたので、書いた。
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