いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

敗戦後、1946年、札幌に進駐した米陸軍、第11空挺師団の演習場所:札幌飛行場、羊ヶ丘、あるいは、接収された北大

2023年09月18日 15時03分38秒 | 札幌

米陸軍の第11空挺師団について、愚ブログでは、何度も言及している。米陸軍の第11空挺師団とは落下傘部隊で終戦前はフィリピンで戦っていた。敗戦後、マッカーサーが「厚木」に到着する数日前にやって来た部隊だ(愚記事:マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?)。

その後、この米陸軍第11空挺師団は、仙台や札幌に進駐する。仙台で過ごした第11空挺師団の元兵士の回顧録の話は少し前にした。仙台駐留組用の訓練所(Jump School  現在の王城寺演習場と思われる)の画像。

 
Jump School, Sendai, Japanとある

The 11th Airborne Division established a Jump School in Sendai during Japanese Occupation Duty, from 1945 to 1949. Months before, in Lipa, Luzon, the 187th GIR, in true airborne fashion, changed the designation of their unit from GIR to PGI – “Para-Glider Infantry”. (ソース)

朝鮮戦争(1950年)前に、この米陸軍第11空挺師団は日本から去った。しかし、去年、再生したことはこの記事(米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947)に書いた。

仙台駐屯組とは別に、スイング少将率いる米陸軍第11空挺師団の一部は札幌に移駐した。その札幌進駐時代の情報がちらほら集まったので、メモする。

▼ 米陸軍第11空挺師団の札幌進駐

米陸軍第11空挺師団の札幌進駐は、昭和21年(1946年)4月7日

▼ 北大の接収

敗戦で北海道大学(北大)は接収されたのだ。あんまり、知らなかった。はっきりした資料があった。北大の低温研は敗戦後、1945年10月3日に接収された。「48時間以内に出ていけ」と通告されたのだという。低温研の所長はあの中谷宇吉郎 [wiki]だ。

岩波新書の中谷宇吉郎、『雪』の初版は昭和13年だ。今は、岩波文庫に入っている。上の『雪』は第10版、昭和24年刊行のもの。まだ、占領下の時代だ。定価、85圓。

このとき北大低温研を接収したのは、米陸軍の第77歩兵師団である。第77歩兵師団はニューヨークの部隊。この記事で話題にする第11空挺師団は第77歩兵師団を交代するため札幌に2番目に来た部隊である。

当時の北大の研究者からみて、第11空挺師団は、前任の第77歩兵師団と比べ、荒くれもので、紛争も起した。

しかし間もなく最初の占領部隊であった騎兵隊が次の空挺部隊に代わるとともに、急に米兵の行状が乱暴となり学内での事故が急増した。 (低温科学研究所.  二 米軍の庁舎接収 引用元

◆ 騎兵隊?

なお、上記の引用元(低温科学研究所.  二 米軍の庁舎接収 引用元)で、「最初の占領部隊であった騎兵隊が次の空挺部隊に代わる」とある。第11空挺師団の前に札幌に駐屯していたのは第77歩兵師団である。騎兵隊ではない。一方、同上の報告には下記ある;

 

最初の進駐軍はニューヨークの騎兵隊(右に置かれた板に馬首のシンボルマークがある)で規律も守られていた。とある。若干、整合性がない。ニューヨークの部隊は第77歩兵師団であり(上の"自由の女神"がシンボルマーク)、騎兵隊ではない。なお、首馬のシンボルマークは第1騎兵師団であり、マッカーサー元帥の「ペット」といわれた部隊でこの時、東京およびその周辺にいた。したがって、この写真に写っているシリー軍曹なる兵士が第1騎兵師団の所属とは思えない。ただし、きちんと「右に置かれた板に馬首のシンボルマークがある」と自覚的にかいてある。でも、上記写真では我々は確認できないが。もし、本当に第1騎兵師団の兵士であるのであれば、東京から部隊を超えて出張してきていたのもおしれない。というのも、当時占領とは軍政を担う軍人がいた。占領政策を立て、日本の部署、部局に実行させる軍人。本国では民間人だが日本占領のため軍に出仕していた米国人は多かった(例えば、ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse))[1]。何しろ、彼は工学士と自称しているのだ。何か専門人で、東京の第1騎兵師団からの軍人かもしれない。

一方、第11空挺師団は、軍政よりも、訓練をたくさんやっていたより実践的な部隊らしい。

[1] 敗戦後、米占領軍の住宅を設計したのは、太平洋陸軍總司令部技術本部設計課、ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse) という人と知る。少佐とはいっても徴用/出向してきた建築家 or 工業デザイナー。"シカゴに本拠地があるシアーズ・ローバック⑤のチーフデザイナーであった"  (愚記事

◆岡田大学?

この第11空挺師団の札幌進駐に参加した人の回顧をネットでみつけた。 ソース(Cpl. Wayne Hilton served in 11th Airborne Division during the occupation of Japan after WW II )

We were housed in dorms at the University of Okada. = 「我々は"岡田"大学の寮に住まわされた」とある・

University of Okada? 前後の文章からわかる;

“I was sent to Japan as part of the occupation troops. I went to Sapporo on Okada, the northernmost island of the Japanese island chain,” = 私は占領部隊の一部として日本に送られた。オカダの札幌に行った、オカダは日本列島の最北の島だ。 つまり、北海道だ。彼には、Hokkaido がOkadaと聞こえ、晩年にいたるまで、日本の最北の島は、Okadaだったのだ。

わかることは、北大の寮も進駐軍に接収されたらしい。ただし、ネットでググると(Google [北大 恵迪寮 "進駐軍"])、そんなに情報は出ない。ただし、

昭和20年9月、進駐軍が事前連絡無しに部内の備品を農学部側の倉庫に押し込めてしまい、学生ホールは使用できなくなる。ソース) とあった。

▼ 訓練場 札幌飛行場、羊ヶ丘・牧場

第11空挺師団は、落下傘部隊であり、よく訓練をしていたらしい。仙台ではキャンプ・シンメルフェニヒ(現在、苦竹の仙台駐屯地)に駐屯し。訓練は、Carelus operation field in Yamato (現在、王城寺原演習場 [wiki])に列車で通い、実施した。一方、札幌での訓練は?札幌飛行場だというのである。札幌飛行場というのは丘珠飛行場ではなく、北大の北端の北、北24条と西5丁目から北西の広がっていた飛行場。


1945-1950年の航空写真

昭和20年8月15日の終戦に伴い、9月には「繰り上げ卒業」と言うことで学窓を押し出され、仙台から帰札した私は進駐軍のスイング少将指揮下の第十一空挺師団が、愛する「飛行場」で盛に降下練習をしているのを望見し、敗戦の惨めさをしみじみと感じて、もう二度と行くまいと強く決心した。(札幌原人 様 「札幌飛行場」の巻(1980. 4.№1) )

一方、羊ヶ丘も演習場であったとのこと。なお、下記の「真駒内の現場」とは当時建設中のキャンプ・クロフォードの建設現場のこと。のち、このキャンプ・クロフォードに第11空挺師団は駐屯する。

昭和22年頃のことだ。真駒内の現場で、大工達が南東方面を指さして騒ぎだしたので、フト目をやると、何と空一面にパラシュートの華が咲いているではないか。この記憶は鮮明に残されているので、記録をたどってみたら、「昭和22年、種羊場の南700haは、米軍の演習地となる」とあった。
 成程、当時スイング少将指揮下の「第11空挺師団」というのが進駐していたので、彼等の降下演習場になっていたのだ、と云うことが今更のよう納得できた次第だった。(札幌原人 様 覚書その三「月寒種羊場」の巻

空一面にパラシュートの華というのはこういう情景でしょうか。下記は第11空挺師団のの表紙です。