1登戸駅;3染地せせらぎ散歩道;4調布駅;5味の素スタジアム;6武蔵野の森公園;7西部多摩駅
■ 1 ⇒ 2; 登戸駅 → 多摩川渡河 → 多摩川団地
タワービルの左右に杵状の塔がいくつも見えた。この時点では何であるか不明だった。
杵状の塔が見えたので、河川堤防沿い道から降りる。
団地。多摩川住宅と看板に書いてあった。wiki
杵状の塔をまじかに見る。団地の不随設備だった。帰って、給水塔と知る。
昔の航空写真から多摩川住宅は、水田をつぶして造成されたとわかる。
■ 多摩川住宅 → 3 染井せせらぎの散歩道
染井せせらぎの散歩道(google)
小さな茂みがあり、階段があった。上ると、平地。道を進むと、崖を背にする住宅。このとき初めて、段丘崖だとわかった。布田崖線(google)らしい。立川面に登ったのだ。
■ 4 → 5 調布市 国領→布田→小島を経て、味の素スタジアムへ
平坦な武蔵野台地・立川面を西へ、北へ。
旧甲州街道
■ 味の素スタジアム → 旧「関東村住宅地区及び補助飛行場」(レコンキスタ史跡探訪)
味の素スタジアム。旧米軍敷地。
味の素スタジアムは旧米軍敷地の南西端に当たる。現在調布飛行場は調布基地であり、西側は関東村とよばれる米軍住宅区域であった。彼らは、Kanto mura family housing annex(google)といっていた。上の航空写真は1970年代の状況。住宅が確認できる。このKanto mura family housing annexは、オキュパイ物ではない。1960年代にできたのだという。すなわち、東京オリンピックでワシントンハイツが米軍から日本へ返還され、その補償としてこの地に米軍住宅ができた。ただし、敷地そのもの敗戦時に米軍に接収された。その敗戦時の接収という恩恵のおかげで、できた住宅の間隔が広く建設されている。
調布飛行場のアメリカ軍による占領
第二次世界大戦敗戦後の1945年(昭和20年)9月、調布飛行場は日本を占領下に置いた連合国軍の主力であるアメリカ軍によって接収された。舗装滑走路はアメリカ軍の飛行場として使用され、戦時中に拡張された未舗装の西側地区は当初、アメリカ軍の水耕農場(人糞堆肥を用いない衛生的野菜の生産場)とされた。また、これら物資輸送のため、西武多摩川線から専用線が引かれていた。なおその後、その専用線は廃線となる。
1952年(昭和27年)になると、対日講和条約と日米安保条約が発効し、それに伴って日米安保条約付随の日米行政協定により、飛行場とともに「調布水耕農園(施設番号 FAC 3702)」の名称で、接収財産から在日米軍の提供施設区域に切り替えられた。その後、東京都渋谷区にあったアメリカ軍兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」が、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催にあわせて日本に返還されることになったことから、代替住宅施設が建設され、「関東村住宅地区及び補助飛行場」と名称変更された。
味の素スタジアム横の甲州街道を跨ぐ歩道橋から見た様子。
甲州街道からスタジアム通りに入る。
地図の右が北。
スタジアム通り
「調布基地」の文字が見える。
旧「関東村住宅地区及び補助飛行場」の飛行場以外の西地区はさらにスタジアム通りで東西に2分されている。西側が国関連の施設で設備投資が著しい。東側は、調布基地跡暫定市民スポーツ施設となっている。つまり、今後、別用途に転用できる可能性はある。
■ 6 武蔵野の森公園
■ 6 → 7 武蔵野の森公園から西武多摩駅へ
西武多摩駅。単線だと知る。
● まとめ
ワシントンハイツもKanto mura family housing annexも、今はノッパラになっている。