いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

江藤淳自身が「国が、無条件降伏」したと云っている(1965年)

2019年06月02日 18時49分41秒 | 日本事情

江藤淳の伝記での大きな出来事のひとつが本田秋五との「無条件降伏論争」である。1978年(昭和53年)。

wikipediaにはこう書いてある;

1978年、文芸評論家の江藤淳と本多秋五の間で「無条件降伏論争」が行なわれた(江藤『全文芸時評』『もう一つの戦後史』、『本多秋五全集』第13巻)。論争は文学者間で行われたもので、日本の降伏の本質の捉え方と野間宏ほかに代表される戦後文学をどう評価するかの二点が問題となった。降伏について、江藤はポツダム宣言にある条件を受諾した降伏であるから無条件降伏ではなく、宣言中にある無条件降伏は日本国軍隊についてのみであるから、無条件降伏したのは日本国ではなかったと主張した。本多はカイロ宣言にあった日本国の無条件降伏の思想はポツダム宣言にも通底していたとし、「大括弧でくくられる『無条件降伏』の思想と小括弧でくくられる『有条件降伏』の方式とが同時に存在する」と主張した。

この論争に関し、加藤典洋は彼の著『アメリカの影』で江藤がかつて「日本は無条件降伏した」と自ら書いていると指摘した;

 たとえば江藤淳は、なぜ一九七四年に自ら「日本は無条件降伏した」と英文の著作に明記し、平野謙の文学史の記述に見られる、彼のいう「重大な事実の誤認」を彼自身犯しながら。それを隠してまで、あのような形での「問題提起」にこだわらなくてはならなかったのか。 (『アメリカの影』 p197)

加藤がこういう指摘をしたことは、平山周吉、『江藤淳は甦る』で知った。

一方、さっき、おいらは見つけた。別に英文でもなんでもなく、単行本に書いてある;

(前略)その意味で、大江氏の文学はまぎれもない「戦後」の文学である。つまり、満洲事変以来十五年つづいた大戦争のあげく、三百万余の犠牲者を出して無条件降伏し、今なお外国の政治的・軍事的・文化的影響下にある国の文学である。 (解説 自己回復と自己処罰 -『性的人間』をめぐって-、1965年9月7日)

この解説は、講談社、DeLuxe われらの文学 18 大江健三郎 (1969年、昭和44年刊) の巻末の江藤の解説文である。(いま、DeLuxe デラックス!にびっくりした。デラックスって死語だよね ググったら結構使われていた。)あるいは、『江藤淳著作集 続3 作家の肖像』の"大江健三郎 I 自己回復と自己処罰"。

満洲事変以来十五年つづいた大戦争のあげく、三百万余の犠牲者を出して無条件降伏し、今なお外国の政治的・軍事的・文化的影響下にある

「日本は無条件降伏した」とは直截には書いてないが、国(=日本国)の属性として①三百万余の犠牲者を出して無条件降伏した、②今なお外国の政治的・軍事的・文化的影響下にある、と書いている。「日本国は無条件降伏した」という判断を含んでいる。

つまり、満洲事変以来十五年つづいた大戦争のあげく、三百万余の犠牲者を出して自国の軍隊が無条件降伏し、今なお外国の政治的・軍事的・文化的影響下にある国の文学である。 とは書いてない。

江藤淳は「日本国無条件降伏論」者であったのは間違いない。さらには、「大戦争」という語句も注目すべきである。なぜなら、あの戦争をどう呼称すべきかということ自体が歴史観を表明してしまうからだ。のち江藤の常套句、「過ぐる大戦」(平山周吉、『江藤淳は甦る』、江藤好みは「過ぐる大戦」)ではないのだ。

なので、1965年-1974年の間に転回があったのだ。江藤が戦後批判を始めるのは1968騒動と同期している。
「もっと崩れろ!」の話だ。

それにしても、本田秋五のまわりには、「江藤自身が昔、日本は無条件降伏したと云ってましたで」と情報提供してくれる人がいなかったのだろうか?

ということで些細なことだが、曇天の日曜、のんべんだらりんと本をみてたら、発見! うれしくなり、ブログに書いた。