いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

昭和の成仏のために; 幻の五輪、東條演説、占領、実現したオリンピック、そして、建築

2013年09月04日 20時03分50秒 | 日本事情

紀元2600年の昭和15年、西暦1940年に夏、冬両オリンピックが日本で開催されるはずであったことはよく知られている。

・幻の東京五輪 wiki
・幻の札幌五輪 wiki

今夜、愚ブログのこの記事で言いたいこと、そしてその事は公知ではあるが、誰も特に指摘しないことである。

せっかく、愚ブログに来ていただいた あなた には、どこにも書いてない情報をお伝えしたい。

公知ではあるが、特に、どこにも書いてない情報; 
1964年の東京オリンピックと1972年の札幌オリンピックの開会式が行われた場所は、<where: そこには、その時、我らがひろひとさんが御臨席あそばされたのであるが> 、 1945年あとの数年間に占領軍が、たむろ(屯)していた場所である 。

[占領軍がたむろ(屯)していた場所=占領軍駐屯地]。

今日のgoole@ぬっぽんは、丹下健三さんだ。東京オリンピックのために建てられた「代々木第一体育館」の設計者だ。

この東京オリンピックのため代々木第一体育館」は、"ワシントンハイツ"跡地に建てられた。

”ワシントンハイツ”って、知っとるけ???!!!

おいらも、よく知らない。 そういう時は → wiki

● 

さて、この「代々木第一体育館」は、屋内競技用の施設だ。 つまり、ここで、東京オリンピックの開会式が行われたわけではないのだ。

そして、今日、おいらは、初めて疑問に思った。

おいらが生まれる前の1964年の東京オリンピックの開会式の会場はどこだったのだろう?、と。

知らなかった。

ぐぐった。 ありがとう!ネット時代。

何のことはない、「代々木競技場」なのだ。

あの、神宮外苑なのだ!

 google
  ‐ 1943/10/21 -

東條英機さんが、昭和18年(1943年)10月21日に、演説した場所らしい。 →google

すなわち、資本の順調なる蓄積と循環の無理さえなければ、大恐慌もファシズムもなく、1940年には東京五輪の開会式が、1924年(大正13年)にできた東京神宮外苑競技場(wiki)で、行われたはずなのである。

実際の歴史は、東京神宮外苑競技場に1940年に五輪開会式が行われず、1943年に東條英機さんが、演説したのだ。⇒映像が残っている: YouTube  4:38からの部分

             
-もとより、生還を期せず&縛り首-      ‐ なにより、長生き‐

そして、19年後;

昭和39年(1964年)10月10日; 東京オリンピック開会式だ。 もちろん、ひろひとさん御臨席。

▼ 1972年、札幌

東京オリンピック@1964に生まれていなかったおいらも、札幌オリンピックには間に合った。 ありがとう!おいらの運命。

そして、ひろひとさん御臨席の札幌オリンピックの開会式に行った (愚記事; おいらが、畏れ多くもひろひとさん御臨席の場に、衆の一滴としてあったのは、1972年2月3日のことである)。

その札幌オリンピックの開会式だった屋外競技場の設計者は、そもそも、誰だったのだろう?と今日、疑問に思った。

理由は、丹下健三=「代々木第一体育館」のことをきっかけにしてである。


 -1972年2月3日(快晴!)に、ひろひとさん御臨席&ikagenkiも元気に参加した札幌オリンピック開催場-

ぐぐった。 ありがとう!ネット時代。

前川國男、らしい。

でも、前川國男のwikiを見ると、札幌オリンピック開催場である真駒内屋外競技場の業績が見えない。 不思議。

そして、知ったさ。 丹下健三は、前川國男の舎弟だって。

今の日本じゃ、丹下健三の知名度の方が、前川國男より、高いだろう。

さらに、知ったさ。 前川國男が、ル・コルビュジエの舎弟だったって。

 そして、改めて思ったさ、1920年代の「小春日和」と、その後の「革命と戦争」の時代の、仰天的展開・転回を。

そのよい事例が、幻の東京五輪&札幌五輪@1940に他ならない。

さて、この1972年2月3日(快晴!)に開催の現実の札幌オリンピックは、占領軍(関連愚記事群)跡地に建てらた真駒内屋外競技場で行われた。