いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

アムステルダムで、約半世紀前の日本版Beatlesアルバムを見た

2011年12月01日 20時03分16秒 | 欧州紀行、事情

なぜだかわからないが、画像がアップロードしない。

でけた。ただ、おいらが画像のサイズを縮小せずそのままだったので、1メガを超えていたのだ。やっぱ、おいらはまぬけだ。

今年、夏、アムステルダムに行った時、そう中心街でない街を散歩してたら、中古レコード屋。

何気なく見ると、日本版のビートルズのLP。

LP、って言葉、今の若い人は知らないだろうな。 今の古い人がi-phoneを知らないように。

おいらが生まれる前に日本で発売されたらしいLPレコードだ。

ちなみに、当時LPレコード・アルバムがいくらしたか、ネットで調べてみた。

1200円くらい。

この意味を考える。

当時の、1965年の大卒初任給は2万円ちょっと。おおざっぱに言って、今の10分の1だ。

ということは、1200円のLPレコード・アルバムは、今の価値でいうと、約1万円なのだ!

だから、当時ビートルズのLPレコード・アルバムを買って、聴ける人といのは、今の価格で約1万円を出した人たちなのだ。

ところで、地井武男が最近言うには、1966年にビートルズが来日した時、「演劇を志す若者であった自分、つまり最先端の文化文物に敏感であった自分でも、ビートルズ来日は騒ぎではなかった」と回顧している。

1966年のビートルズの来日の状況はホントのところはどうだったのだろうか?

でも、史実として、騒いだらしい。おまわりさんが。羽田空港から都心までビートルズが車で来る時、首都高は封鎖され、異常な数の警察・機動隊が動員された。

それは、1960年のハガチー事件[1]の経験を踏まえた、来るべき騒乱の時代への演習であったとされている。 

首都と羽田空港を結ぶ攻防戦での佐藤首相訪米阻止闘争(wiki)は、ビートルズ来日の3年後。

すごいぞ!警視庁の先見性。

このアルバムは、英国でのEMI版のアルバムの『please pleasae me』→『with the beatles』→『A hard days night』という流れとは別流。

つまりは、米国経由でのビートルズの受容となった日本では、米国版の焼き直しなのだ。だから、今から見ると、こういう「めちゃくちゃ」な曲編成となっている。

でも、これが日本人が受容したビートルズなのだ。 

そして、何と、日本で『please pleasae me』、『with the beatles』が発売されたのが、1977年だというのだ。(たくさんあり過ぎ!ビートルズの初期のアルバム!

●それにしても、半世紀あまり前に日本で、上記のビートルズのアルバム「ビートルズ No2!」を購入した人は、21世紀になって遥かヨーロッパの街かどで、売られているとは思ってもいないだろう。

そして、今思いついたのだが、このアルバムの中の「ライナーノーツ」は誰が書いているのだろう?

 

 


[1] 1960年、6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した大統領報道官(当時は新聞係秘書と報じられた)ジェイムズ・ハガティ(報道は「ハガチー」表記)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生(ハガチー事件) (wiki;安保闘争