- - シンガポール国立博物館、戦間期展示コーナー。 結束を呼かける大英帝国のプロパガンダの例示 - -
- - 日本兵が私に家を仮の宿舎にしている間の二月十七日から二日間、連合軍兵士は重い足取りで家の前を通りレッド・ブリッジを渡って収容施設のあるチャンギへと連行されていった。ベランダに座って彼らを見つめていた私の心は鉛のように重かった。多くの兵士たちはいともたやすく、そして決定的にうち負かされたことで、途方にくれた表情をしていた。降伏した兵士の姿は哀しい。 - -
その中でスコットランドの帽子をかぶったスコットランド地方出身の兵士たちは称賛に値した。敗北はしたけれど軍曹の「右左、右左、右左、」のかけ声にあわせて背筋を伸ばし敗北にもめげず歩いていた。グルガ人もスコットランド人と同じようにしっかりしていた。彼らも背筋を伸ばし敗北にもめげず歩いていた。私は心の中で彼らにエールを送っていた。グルガ兵も強く印象に残っている。(中略)オーストラリア兵はやる気がなくだらだら歩いていた。インド兵もそうだった。彼らは今回のシンガポール派遣が自分たちの戦争だと思ってはいなかったにちがいない。
『リー・クアンユー回顧録』
■スコットランド兵、大英帝国・大日本帝国、帝国の多様性と均質性、国民皆兵/ 地方割拠■
日帝の国民皆兵は英国より早い。国民皆兵は民主革命国家フランスの成果であり、徴兵と教育による国民の創出が大原則である。日帝は慣習の上に成り立つ英国社会よりも、成文憲法に基づく制度のフランスに近かった。なぜなら、明治維新という革命で貴重な伝統や慣習をぶち壊してしまったからである。革命国家!大日本帝国!
スコットランドは英国の一部である。スコットランドと我らが仙台は帝国の「最初」の生贄 ( 『羊をめぐる暴言 』) となった点で共通する。
旧大英帝国のカナダのフランス系住民が住むケベックの分離独立が議論を巻き起こし、投票の結果かろうじてカナダ残留が決まった1990年代後半、驚いたことは、カナダどころかイギリス本国で、スコットランドが英国からの分離独立を地方議会で決めたことである。この問題は現在まで続いている。相対的独立は進行している。スコットランドは大英帝国が隆盛を極めていたときは黙っていたが、分離独立の機を狙っていたのだ。それが現実にできたのは、大英帝国でスコットランドというくくりが認められていたからだ。つまりは、リーセンセが目撃したように、スコットランド人であることを明徴化する帽子をかぶり、「彼らも背筋を伸ばし敗北にもめげず歩いていた。」のである。
さて、英国は第二次世界大戦でも軍隊は地方の貴族が率いる部隊という形をとっている。つまりは固有名詞でなんとか公爵の部隊とかそういうことである。これは日帝では考えられない。たとえば、我らが仙台の陸軍部隊は大日本帝国陸軍第二師団であるが、あたりまえだが、それは決して伊達兵ではないのである。その第二師団は終戦時はサイゴンで武装解除を受けたのであるが、その部隊は他の地域でそれぞれ武装解除された日帝陸軍とその外装は変わらなかったはずである。つまりは、日帝には「スコットランド兵」の存在がなかった。伊達政宗を祖とする誇り高いはずの仙台兵は、薩長ちんぴら皇軍に負けて、全国ただの兵士化政策に乗り、ただの日帝兵士として皇軍に参加していたのである。それが奥羽越列藩同盟の盟主たる仙台兵の近代である。
つまり、天皇の軍隊という名のもと、伊達兵も前田兵も細川兵も尾張徳川兵も、のっぺらぼうの日帝皇軍兵士にされたのである。第二師団、第四師団、第五師団、第六師団とか極めて即物的な序数番号が割り振られたのであった。
薩長新政府時代、とーほぐから世に出たい人は地元の藩政経由ではなく直接日帝に接続することとなった。それらの人々の物語は、226事件 高橋是清 は竹雀系 、靖国宮司は南部の殿様 、パパと呼ばないで で書いてきた。
■後藤新平が竹雀だと初めて知った。
May 27, 2007 吾、帝都復興す
ネタ帳から探し出した後藤センセ像。向かって右端。今は無き秋葉原の鉄道記念館にて。国鉄総裁ということで展示されていたのだろう。 この撮影のとき、おいらは、後藤センセは偉いお人だなー、と思っていたのだが、今日竹雀系と知って、ビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!が脳内に響きわたったことはいうまでもない。恐るべき、竹雀!
なぜこれまで気づかなかったかというと、伊達・南部/宮城・岩手問題のせいだ。現在の宮城県は仙台伊達家の領地より小さい。旧仙台伊達領の北部は現在岩手県になっている。そして、旧南部藩もずたずたにされたのであり、盛岡の外港だった八戸は現在青森県である。これらのめちゃくちゃな線引きは薩長新政府の所業に他ならない。岩手県出身と言っても竹雀であるかもしれないという意識がこれまでおいらには低く気づかなかった。
■さて、その後藤新平の名を冠した、昨日今日できた賞、第一回目だそうだ、のために今日本に来ているのが、1923年生まれの李登輝センセである。
サンケイ李登輝氏が授賞式で講演
アサヒ李登輝氏が日本で初講演 後藤新平は「台湾開発の父」
なんとリークアンユー/李光耀センセと同い年なのだ。同姓であるばかりか、その名もbrightnessであることが似ている。御存命この二人を考えることはこのブログの使命である くんだいぬほん を考えることに寄与する。
この二人、0)生い立ちと日帝、1)経営する国の状況、2)国内統治の方針、3)北京政府との距離の取り方、そして4)昭和天皇や歴代の日本総理大臣との会見の有無など大いに異なり、しばしば対照的である。共通点は支那語以外の言語と「文明」を習得し操ることができること。
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ハーバード大学の政治学教授、サミュエル・ハンチントンは九十五年八月台北で講演し、シンガポール・モデルと民主的な台湾モデルを比較した。教授は、両地の違いを「清潔だが見劣りする」シンガポールと、「不潔で自由な」台湾とした「ニューヨーク・タイムズ」紙の見出しを引用し、「李登輝総統が台湾に導入した自由と創造性は後世まで残る。一方、リークアンユー上級相がシンガポールに広めた清潔さと効率性はリー上級相と一緒に墓に入るだろう。独裁政治は場合によっては短期的にうまくいくことがあるが、長期的には民主政治だけがいい政府を作れることは経験が証明している」と述べた。
蒋経国は八八年一月、死去し、李登輝副総裁が後継総統に就任した。私は彼が台北市長のときに初めて会い、ついで台湾省長のときに会った。時々、我々はゴルフをした。彼は有能かつ勤勉で、目上の人たちと、とりわけ総統と大陸出身の閣僚に敬意を持つ人間だった。(中略)蒋経国は、彼が頼りになり、政策継承を安心して任せられ、決して台湾独立を許さないと確信していたにちがいない。
李登輝は熱心な読書家で、情報収集のキャパシティーが莫大だった。彼は日本植民地統治下の台湾で日本の学校で学び、選抜され京都帝大に留学した。戦後、台湾に戻り、台北で大学教育を終了。その後、アメリカに留学し、コーネル大学の博士課程で農業経済を専攻した。
彼は自分から、誇らしげに、日本の四新聞を毎日読み、NHKの衛星放送を見ているといい、読書も、英語の原書よりも日本語の翻訳のほうがすらすら読めるという。日本の歴史と文化にどっぷりつかっていて、李登輝は大陸を重視せず、中国の歴史、文化、共産党指導者を日本で訓練を受けたエリートの目で見ていた。共産党指導者を蔑視し、公然と「あほ」「愚か者」などと呼んでいた。
李登輝は、自身があり、博学で、関心のあるあらゆるテーマに通じている。しかし、台湾が孤立しているため、なぜ世界の指導者たちが日本のように台湾に同情しないのか理解できない。彼は日本の同情と台湾への支援を極めて重要とみなしていた。彼はまた、アメリカのリベラル派とアメリカの議会が示す民主化と人権の処方に従えば、アメリカは共産中国に対し彼を守ってくれると考えていた。
私には李登輝の立場を理解することはできなかった。彼の旧友が説明してくれた。彼は日本の訓練を受け、武士道精神が染み込んでいる。そして、台湾の人々を「約束の地」へと導くことを自分の任務と考えている。李登輝は敬虔なクリスチャンでもある。武士道精神に燃え、神の意思を万難を排して実践する用意があるのだという。
『リー・クアンユー回顧録』
日本への思い篤い李登輝センセとは皮肉にも大いに異なり、池田から宮沢までの日本の歴代総理と会談し、昭和天皇とも会見し、そして大喪の礼に参列したのはリークアンユーセンセであった。
リークアンユーセンセは北京政府への理解も深く、それがシンガポールの「独裁性」も北京政府同根ではないかと見られることもある。リークアンユウーセンセは北京語/Mandarinの習得を勧奨し自らもその習得体験記を出版している。その本では言語習得を文明へつながることと認識していることは重要である、とおいらは思った。Mandarinを習得して北京へつながりたいリークアンユーセンセにとって、日本語を学ぶことはあの悪夢の源泉の武士道へつながる第一歩に見えるのだろうか?
そして、本日三番目の李さん、李鵬さん(1928年生まれ)の登場。李鵬センセは1995年豪首相ハワードに日本なんて20年後には消えてなくなっていると言ったとされている。
おいらも、20年後か40年後か知らないが現行日本政府は存続できていないと思う。多分、今の御皇孫が即位される頃、だれがだれに担がれて即位するのか、そもそも即位できるかどうか、波乱があるだろ。 ありうるケースは米中がそれぞれ天皇を立てて日本を分割統治するのが最もありうる。
客観的に見て、かつどう贔屓目に見ても、日本政府は国家の基本である軍事面と財政面で破綻しており、それがどうにもならずにクラッシュするのは必至である。これは李鵬が反日だから上記のことをいったのではなく、いささかでも知性のある人間なら下す判断である。なので、こういう日本を頼みとする李登輝センセは政治音痴なのか?、はたまた日本破滅後を睨んだ高等戦略なのかおいらにはわからない。
で、「スコットランド」に戻ろう。現行日本政府破綻後を睨んで、われわれ とーほぐずん がすべきことは、とーほぐに割拠して、ポスト日本を生きることである。つまりは、薩長のいんちき維新が、いか@サマ日本近代が、完全に破綻して、時代が1868年以前に戻るのである。しかし、かつて天皇の軍隊の元、のっぺらぼうにされたサムライたちは、天皇がこければ、のっぺらぼうの亡兵として混沌にほうりだされるのである。伊達兵や前田兵や細川兵や尾張徳川兵には簡単には戻れない。これこそが、明治維新という革命で貴重な伝統や慣習をぶち壊してしまった深刻な負債に他ならない。
一方、その時、支那大陸だってどうなっているかわからない。各地域分裂しているかもしれない。支那滅裂である。 ぬっぽん滅裂・支那滅裂、これが21世紀中盤のおいらが空想するアジアの描像である。
だから、われわれ、とーほぐずんには、「スコットランドの帽子」が必要なのだ。
↓こんなんあります。京童のどぎもを抜いた伊達衣装。でもこれじゃ、21世紀ではちょっと、ちょっと、だね。
■まとめ。日高義樹ワシントン・リポート風(笑)■
1.現行日本政府は40年以内に破綻・消滅する。
2.その時、列島は米中の分割統治するところとなる。
3.可能性は低いが、ローマ帝国に屈しなかったスコットランドが21世紀の今日、分離独立を志向するように、朝廷にまつろわなかった真性列島民が伊達政宗公の偉業と遺訓を継承し、列島において米中占領地域とは別途、とーほぐ地方を統括していることを期待したい。