--今日のうめちゃん--
下記の3報道を見ると、なかなか因果なものだと思わざるを得ない。なぜなら、1970年代の中ソの本格的核武装に対し、米国は日本に「核の傘」を提供したわけだが、その理由は日本はとんだ裏切り者だから、日本に核武装させると危なくてしょうがないという米国政府の判断であること。
だから昨今の「お行儀のよい」対米従属/協調路線だと、むしろ、米国は安心して日本に軍事力強化を強いることができる。だから、ばかサヨのような「平和」勢力は、いつ米国の寝首をかくかわからない、裏切りジャップ、すなはち、軍国主義の亡霊を呼び戻すことが、案外、いい戦略かもよ。
■1.
中曽根康弘元首相は、先月26日、88歳の米寿を祝う会の演説で、
「戦後60年、大きな変化の一つは、佐藤さん(栄作・元首相)が作った非核三原則だ。核兵器によらない防衛をやらざるをえない。アメリカに頼らざるをえない。しかし、日米がいつまでも良好な関係にあるとは限らないし、自分の国は自分で、の決意が大切だ。ほかの国に安全保障を依存するのは完全な国家とは言えない。非核三原則がいまの日本を運命づけている」と、米国頼みに安住する戦後体制への疑問を述べた。
近聞遠見:小泉を挟撃する「2長老」=岩見隆夫
■2.
--日本の核武装に懸念 74年にキッシンジャー氏--
【ワシントン3日共同=太田昌克】一九七〇年代の米外交を主導したヘンリー・キッシンジャー氏が大統領補佐官と国務長官を兼務していた七四年、インドが地下核実験に踏み切った直後に、日本が核開発に乗り出すとの認識を表明、独自核武装の動きを懸念していたことが三日、機密指定を解除された米公文書から分かった。
七〇年代の対日政策形成に大きな影響力があったキッシンジャー氏が、日本の核保有に懸念を示していたことが、文書で裏付けられた。日本が当時、核拡散防止条約(NPT)を批准していなかったことなどが情勢分析の背景にあったとみられる。
フォード大統領は翌七五年、三木武夫首相との首脳会談で初めて日本への「核の傘」供与を文書で確約するが、日本の核武装に対するキッシンジャー氏の懸念が影響を及ぼした可能性がある。
文書は、インドの核実験から三日後の七四年五月二十一日にシリアで行われた同国のアサド大統領とキッシンジャー国務長官の会談録。シンクタンク「国家安全保障公文書館」が国立公文書館で発見した。
会談録によると、アサド大統領がインドの核実験の評価を尋ねたのに対し、国務長官だったキッシンジャー氏は「パキスタン、中国を神経質にするだろう」と発言。
さらに同氏は「日本も核を開発すると思う」と指摘。「八〇年までに日本の軍事力は甚だしく増大するだろう。核に対する大衆の感情も克服する。日本の歴史は実に好戦的だ」と語った。
アサド大統領との会談は、ゴラン高原でのシリア、イスラエル両軍の兵力引き離しを話し合うことを目的に開かれた。
日本の核武装に懸念 74年にキッシンジャー氏
■3.
--キッシンジャー氏、田中元首相をジャップ--
ニクソン米大統領の中国訪問など70年代の米外交政策を主導したキッシンジャー大統領補佐官(後に国務長官)が72年夏、田中角栄首相が訪中して日中国交正常化を図る計画を知り「ジャップ(日本人への蔑称(べっしょう))」との表現を使って日本を「最悪の裏切り者」と非難していたことが、26日までに解禁された米公文書で分かった。
キッシンジャー氏の懐疑的な対日観は解禁済みの公文書から既に明らかになっているが、戦略性の高い外交案件をめぐり、同氏が日本に露骨な敵がい心を抱いていたことを明確に伝えている。日米繊維交渉などで険悪化した当時の両国関係を反映しており、70年代の日米関係史をひもとく重要資料といえる。
文書はシンクタンク「国家安全保障公文書館」が国立公文書館から入手。26日の公表前に共同通信に閲覧を認めた。
ハワイで日米首脳会談が行われた72年8月31日付の部内協議メモ(極秘)によると、キッシンジャー氏は部内協議の冒頭で「あらゆる裏切り者の中でも、ジャップが最悪だ」と発言した。
続けて、中国との国交正常化を伝えてきた日本の外交方針を「品のない拙速さ」と批判し、日中共同声明調印のために田中首相が中国の建国記念日に合わせ訪中する計画を非難。首相訪中に関する日本からの高官協議の申し入れを拒否したという。
またフォード大統領訪日を直前に控えた74年11月12日付の国務省会議録(秘密)によると、国務長官も兼務していた同氏は省内会議で田中首相について「日本の標準に照らしてみてもうそつきだ」と言明した。
今回判明した発言内容に関し、キッシンジャー氏は共同通信の取材に応じていない。
[2006年5月26日18時35分]
キッシンジャー氏、田中元首相をジャップ
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「最悪の裏切り者!」 →
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