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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

Chalo Delhi! INA :インド国民軍

2007年05月21日 20時53分22秒 | インド・3回目・シンガポール

シンガポール陥落とは、何であるのか?

数千、(万?)の毛唐さんを生け捕りにした。

近代で、これほどの毛唐さんを生け捕りにした「有色」民族はいない。

数千の支那人を殺した。

数千の英帝インド人兵士を I N A として組織して、インドを大英帝国の頚木から放たんとした。

要は、当時の『世界』を、壊したのである。


祖父がよりどころにしていた世界、つまり英国と英国にまつわるすべてが崩壊してしまったからだ。
- -リークワンユーセンセの回顧より
- -

■シンガポール国立博物館にもシロソ砦にも、I N A :インド国民軍がシンガポールで健軍されたことに関する展示はあった。表題のChalo Delhi!は、デリーへ進め!という意味。1857年のメーラットのインド大反乱でシーパーヒーたちはChalo Delhi!、デリーへ進め!と叫んで、デリーのラールキラーに向かった。そして1942年シンガポールではチャンドラ・ボース率いるINA・インド国民軍がChalo Delhi!、デリーへ進め!と叫んで進軍を開始することとなる。今回のおいらのインド・シンガポール巡業は、たまたま、A "Chalo Delhi!" traceなのであった。

ボースはデリーのラールキラーにたどり着くことなく、終戦の3日後航空機事故で台湾で死ぬ。インパール作戦での幾万の日帝皇軍の屍をビルマにさらして。そんなボースではあるが、現在のインド軍は I N A インド国民軍の正嫡と自認しているらしく、現行インド軍が管轄するラールキラーの展示館にはボースコーナーがあるのでした。

ボースの正統的な解説はこちらがおすすめ;Subhas Chandre Bose Academy アカデミー事務長 林 正夫 さま








マナベニッポンゴ

2007年05月20日 20時42分42秒 | インド・3回目・シンガポール
- - ところが日本が決然立って英米を敵として、たちまちにして東亜の諸地域から英米の勢力を粉砕し去るにいたって、日本の前述のごとき理想は現実を顕し来り、従来の日本の日本の宣言が驚くべき魅力をもって東亜十億の民衆に呼びかけこれを招くこととなったのであります。フィリッピン及びビルマに対する独立の保障は、これ等の諸国をして心から日本に協力する方向をとらしめました。タイ国の熱誠ある戦争協力もまた東亜共栄の理想達成の深い意義を感じているからに他ならないのであります。蘭領東印度からオランダの抑圧の手を除き、マレイ半島から執拗な英国の勢力を駆逐し去ったことは、東亜に新たなる自由を将来性を約束するものでありました。 - -

Amazon, 尾崎秀実 『ゾルゲ事件 上申書』

ゾルゲ事件の尾崎秀実は対米英蘭宣戦布告の2ヶ月前に逮捕される。彼は国際共産主義運動の信奉者でありその実行者であると主張している。国際主義者であるから、国家主義者にはなりえない。しかし、「民族」という概念にたより、米英撃滅の根拠としたらしい。今日改めて『ゾルゲ事件 上申書』をみててきづいた。この上申書は逮捕拘束されている時、つまりは日帝皇軍が東南アジアで破竹の進撃を続けているとき、そのニュースをもふまえて、書いたものである。


シロソ砦での展示。 白黒の写真に、お子様ランチ用みたいな日の丸がさしてあった。








習得するともらえるバッチかな? 日本語は、ニッポンゴです。



Brutal politeness

2007年05月19日 21時58分13秒 | インド・3回目・シンガポール
- - I didn't want to learn Japanese because I disliked them; they were very brutal. - -

Lee Kuan Yew, 『Keeping my Mandarin Alive』




シロソ砦の話から、シンガポール国立博物館の日帝統治期間、昭南島時代、の展示に再び戻って。

当時シンガポールで出版あるいは日本から持ってきて流通していた文書の展示。 日本は禮儀の正しい国ですという自己認識が書かれている。 朝日新聞の展示と並んで、プロパガンダのサンプルの展示である。

上記、リークアンユーセンセをはじめ、シンガポールの支那人はだれも、日本は禮儀の正しい国なんておもっちゃいなかったであろう。

リークアンユーセンセの証言;

日本の支配が始まった最初の数日間は、通りで万年筆や腕時計を持っていた人は日本兵にすぐに取り上げられた。兵士たちは公式の捜査で、あるいはそう装って家に押し入り、個人的に着服できるものを奪っていった。日本兵は高級な自転車を取り上げたが、数週間でそれは止まった。日本兵のシンガポール滞在時間は短く、より広大な領地を獲得するためにジャワ島やその他の島々へ向かい、自転車は持っていけなかったのである。


それにしても、negative/positive問わず、自画像(自分中の「日本」像)と他人がどう見ているか(つまりは他人の中での「日本」像)の、時に大きな、相違は、昔から今に至るまでの、ぬほんの挙動不審の源泉である。

さらには、他人のもつ「日本」像が、自分の都合/ナルシズムを満たすのあれば、その相手を好きになり、逆だと、反日とののしるのは、よく見る真性ばかである。

これは、ウヨサヨ関係ないのであって、日本に感謝する外国/人を無条件で喜ぶウヨと従軍慰安婦をはじめ日本への怨念を証言する外国/人を重宝するサヨは、典型的ぬほんずん的双生児といわねばならない。







彼はなぜ風采の上がらない人間が背筋のしっかり伸びた英国将校を

2007年05月18日 20時25分46秒 | インド・3回目・シンガポール

シンガポール陥落とは、何であるのか?

数千、(万?)の毛唐さんを生け捕りにした。

近代で、これほどの毛唐さんを生け捕りにした「有色」民族はいない。



- -私は両親や祖父から英国の優越性を前提とした社会を自然のこととして受け入れるような教育を受けて育った。私の記憶では、言葉であろうと行動であろうと、白人の優越性に疑問を差しはさんだ現地人はいない。英語による教育を受けたアジア人で、英国人と平等の地位を求めて、毅然と闘う人はいなかった。一方で私は中国でしか教育を受けていない華人たちが、実は英国植民地支配の内側には組み込まれず、その枠外にいたことも知らなかった。中国から派遣された教師も白人の優越性を受け入れていなかった。大英帝国の美徳や使命を受け入れるように教育を受けていなければ、吹き込まれていなかったからである。私は戦争が終わってからこうした華人の実態を深く知ることになる。
 以上、述べてきたことが、13万の英国兵、インド兵、オーストラリア兵を向こうに回し、日本が11万の兵力を動員して攻撃し獲得したマラヤとシンガポールの実情だった。人々が驚き、動転し、それに愚かさが入り交じった70日間で、シンガポールの英国植民地社会は、英国人が優秀だという虚構とともに吹き飛んだのである。アジア人は砲撃が始まるとうろたえると思われていたが、実際には冷静で犠牲を受け入れ死んでいった。これとは対照的に日本軍の爆撃や砲撃が始まると、まっさきにテーブルの下に潜り込んだのは白人のボスたちだった。41年12月16日、暗闇の中、アジア人を見捨ててペナン島からシンガポールへ脱出したのは白人公務員や民間人だった。英国軍は壊せるものは何でも破壊して退却していった。英国人は病院、公共建物をはじめ重要な施設は無人のまま放置したのだった。火事を消す消防士もいなければ水道を管理する役人もいない。責任がある立場の白人はみんな逃げた。自分たちだけは無事に逃げようとあわてふためく白人を見て、アジア人たちは白人が利己主義で臆病なことを見てとったのである。このような話の多くは明らかに誇張されておりバランスはとれていなかったとしても、事柄の本質はその中にあった。アジア人は白人のリーダーシップに期待していたけれど、白人にはその期待に応える力はなかったのだ。 - -

- - 私の祖父のリー・ホンレンは7月に病気の症状が悪化し、私が日本語学校を卒業した3週間後に他界した。その前、私は祖父が養女と住んでいたプラス・バサー・ロードを何度も訪ねた。祖父に会うのは本当につらかった。彼の病気が重いためだけではなく、祖父がよりどころにしていた世界、つまり英国と英国にまつわるすべてが崩壊してしまったからだ。英国の海軍、船長、規律、優越性などが見慣れない顔をした日本人によって粉砕されてしまったからだ。彼はなぜ風采の上がらない人間が背筋のしっかり伸びた英国将校をうち破ることができたのかどうしても理解できなかった。日本がどうやって英国が誇る軍艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスを撃沈し、英国艦隊を粉砕したのか、英空軍機を撃墜し、11万の兵力でシンガポールを2週間で包囲し13万人の英国軍を捕虜にできたのか。彼が昏睡状態になるにつれ私は、祖父は戦争が起きる前に死んでいればよかったのに、と思わざるをえなかった。 - -


『リー・クワンユー回顧録』

以上、ブログ;右翼討伐委員会殿より勝手にコピペさせていただきました。もとより著作権はリークワンユーセンセおよび翻訳出版者にあるのですが、もしブログ;右翼討伐委員会殿が手入力されたのであれば、その労を、討伐されるべきウヨのおいらとすても、多とすべきだと存じます。

■シロソ砦での展示










むしろ、この毛唐さんたちの笑顔が、罰あたりのおいらにでさえ、悲しさを誘う。

▼毛唐さんとは、やるか!、やられるか!しかないと、おいらは、おもうべな。












シロソ砦III, Fort SilosoIII

2007年05月17日 20時51分14秒 | インド・3回目・シンガポール

シロソ砦、見学コースの取っ掛かり。平和なソロソ砦の日常の展示。


がきんちょたちが、大人に引率されて見学していた。後ろで見学するがきんちょたちを見学する。目的は使用言語。

シンガポールに来て予想と違っていた一番のことは、英語が通じないこと。おいらが滞在中5-10回ほど利用したタクシーの運ちゃんはほとんど中国系で、おいらの英語をほとんど理解しなかった。たとえば、Elizabethは、Elizabethではなく、elizbal. thの音は日本風にsでも、インド風のtでもなく、luなのであった。

とまれ、がきんちょたちを観察していると、中国系のがきんちょたちは、彼らが大半なのであるが、お互い中国語で話していた。



そして、引率者の大人、中国系のようであるが、大半を占める中国系のがきんちょとは中国語で話していた。



ところが、そんな引率者も、がきんちょ全体に号令をかけて、移動するときには、英語をつかうのである。これは、マレー系など非中国系のがきんちょたちが中国語を理解せず、英語が多民族の共通言語の役割をシンガポールでは担っているからに他ならない。

現在はシンガポールに住む、かつては長く日本にいたインドネシア人に久しぶりで会った。彼は中国系住民の少ない地域に住み、中国系がきんちょの比率が低い小学校に子供を通わせていると言っていた。理由は、中国系のがきんちょが多い学校に子供通わせていては、我が子の英語が変になるからだそうだ。

ちなみに、シンガポールに来て1年ほどの彼が言うに、シンガポール人は、つまりは多数派の中国系のことだろう、「ポリシー」がないそうである。 具体的には、このシンガポール島は、シンガポール人の少なからずの人は米国のグリーンカード取得希望者の待合島のようであるとのことらしい。


そうなのだ、ポリシーがあるのは、リーセンセだ。イラクのクウエート侵略の時(湾岸戦争)、日本が自衛隊を出す出さないと日本国内で世論を二分させ大激論が起きたとき、リークワンユーセンセは、日本人にはウイスキーボンボンでさえ与えてはだめだ。酒乱の本性が惹起されるから、との主旨をおっしゃられたと、おいらは、記憶する。

立派なポリシーをお持ちなのは国家指導者ばかりのようで、一般庶民はそうでもないようだ。

シンガポール滞在中、ファースフードのテーブルで、となりの中学生くらの中国系がきんちょがふたりいた。お互い中国語でしゃべっていた。そうなのだ、シンガポールの中国系の人たちは私生活では中国語で暮らしているのだ。

で、その「中国語」がどんな中国語なのかは、おいらには、わからない。

リー・クワンユーセンセは、シンガポール市民たるもの、英語とマンダリン(中国官語)をしっかり操るべしとの思想らしいが、道遠し、と言わざるを得ない。

北京はマンダリンの正嫡のがきんちょたちはここ。


シロソ砦I I, Fort SilosoII

2007年05月16日 20時40分13秒 | インド・3回目・シンガポール





パーシバルぬほんに降参する。






板垣征四郎、えげれすに降参する。



イメージ・オブ・シンガポールのもぎりの兄ちゃんに、General Yamashitaはあそこだ!と教えてもたっら、ミリオタ遊園地・シロソ砦の展示に、Surrender Chambersなるものあり。いとものぐるおしける気配紛々なりけり。

あー、Surrender! Underdogに成る為の儀式!

あー、Surrender! Surrender儀式さえ出来なかった なつすどいつ が、
なぜ、今じゃ、われらがぬほんより、えらそうにすているのか!

礼にはずまり、礼におわる、剣道。

Surrender儀式にはずまり、Surrender儀式におわる、わが帝国。

あー、Surrender儀式!!

あまたの殺戮のあとの、Surrender儀式!!


さて、本日のユーレカ。

藤原岩市が、山下・パーシバル会見に同席していたと知る。

藤原岩市は、F機関の責任者であり、このシンガポール陥落のあと、本格的にインド独立を、旧英帝インド人兵士とともに、工作していたことはいうまでもない。

さらには、そういうシンガポールで日帝陸軍の中枢にいた藤原が、日帝皇軍が、あまたの支那人をとっ捕まえては殺したことを証言している。

シンガポール陥落とは、何であるのか?

数千、(万?)の毛唐さんを生け捕りにした。

近代で、これほどの毛唐さんを生け捕りにした「有色」民族はいない。

数千の支那人を殺した。

数千の英帝インド人兵士をIMAとして組織して、インドを大英帝国の頚木から放たんとした。

要は、当時の『世界』を、壊したのである。

祖父がよりどころにしていた世界、つまり英国と英国にまつわるすべてが崩壊してしまったからだ。 - -リークワンユーセンセの回顧より - -

このセカイは、最悪だ!

こんなセカイは、もう滅ぼせ!

われわれ日帝には、建設的プランなど、何もない!

スクラップ!&スクラップ!

英米人の平和は自己に都合よき現状維持にして之に人道の美名を冠したるもの、ショウ*のいわゆる自己の野心を神聖化したるものに外ならず。 #

セカイ平和なぞ、英米の おまつり に過ぎない!

やつらはやりたい放題だ!

市場原理の「自由」競争でものごとを決めれば、金持ちが勝つに決まってるではないか!

もはや、セカイ転覆しかない!



*バーナードショウのこと
#近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」より














シロソ砦I Fort SilosoI

2007年05月15日 21時24分19秒 | インド・3回目・シンガポール
昨夜の記事に書いたとうり、イメージ・オブ・シンガポール (Image of Singapore)のもぎりの兄ちゃんに聞いた、山下・パーシバル両将軍の会見蝋人形があるという、シロソ砦 (Fort Siloso)に行く。想定外の日帝日程となる。


入り口までは、セントーサ島巡回バスでたどり着く。




麓の入り口から構内・本丸までは構内専用バスだ。


構内バスに乗って、進むと、迷彩服を着たスタッフ3-4人がおいら一人のお客に向かって手をふるではないか(画像なし、残念)。 どうやら、ここは、ミリオタのテーマパークらしい。 遊園地フォビアのおいらは少し気が重くなってしまった。


今は昔





やっぱ、ミリオタ・テーマパークだった。なんちって、砲撃を披露あそばされるのでした。

■歴史展示館もありました。







実写フィルムではなく、再現フィルムで、オーチャード(シンガポールの最も有名な繁華街)で支那人が日帝皇軍の砲撃・爆撃でずこばこ殺されていく様子を映し出していたのでした。


シロソ砦から眺望した海。 こういう地点から外来の敵艦船を撃滅するのがこの砦の目的。

われらが日帝は、この砦の背後、北から、ずてんしゃで、きたのですた。




The General Y. has gone.

2007年05月14日 20時17分05秒 | インド・3回目・シンガポール

シンガポールの市街から南にある島、セントーサ島に、ケーブルカーで行く。


ケーブルカーの4人乗りのゴンドラでは、インド人旅行客と一緒になる。「おいらはデリーから来たんだぜ」と話し掛けるも、話がはずまず。こんなしゃべらないインド人ははじめてだった。インド人と話始めると収拾がつかなくなるのが困るくらいインド人は話す。この日はゴンドラが着いたらおわりだからなという見込みで安心して話かけたが、全然のってこなかった。

彼らは医者か医療関係の仕事でconferenceかなんかで来たと言っていた。最新のデジタル製品を持つ、典型的インド中産階級の御仁たちである。インド中産階級の中年男子はたいてい腹が出ている。


セントーサ島に行った目的は「イメージ・オブ・シンガポール」, Image of Singaporeという蝋人形館に行くこと。例の山下将軍のパーシバルとの会見、YesかNoか!?の展示があるところ。


まずは、ラッフルズと「地元」王との租借契約。


戦争期展示の最初は、中国本土、上海の戦争の映像をリピート・エンドレスで壁に映していた。つまりは、国民党が上海で日本を「挑発」して市街戦に持ち込み、租借地・国際都市上海で日本の「悪行」を世界に知らしめた作戦である。その時国民党が撮った映像が米国の世論工作に使われ、宋美玲をシンボルとして、いたいけな支那を蹂躙する日本を糾弾する、反日世論形成に役立ったことはいうまでもない。そのプロパガンダ映像が今日でも映し出されているのが、ここ「イメージ・オブ・シンガポール」。上海はシンガポールじゃないんですけど。

で、別に日帝を擁護する気もなく、やすやすと国民党の挑発にのって、プロパガンダ映像の出演に「まじ」演技で参加した日帝・皇軍は、やはり、純粋まっすぐ君なのであった。








さて、あれれ!である。戦争期の展示、蝋人形が全然ない展示、はあっというまに、陸軍大将板垣征四郎率いる対英降伏団の、昭和20年の、これまた、動画映像である。

えっ?  a General Itagaki ではなく、the General YAMASHITAはどうした?!

ない! どんな旅行ガイドでも乗っている、昭和17年の山下とパーシバルの机をはさんだ蝋人形!

ここで、おいらは、かなり動揺した。今から思うと、この先戦後シンガポールの風俗の展示がかなりあったのだが、おいらは、とにかくスタッフに、「Where is the General Yamashita?!」とお尋ね申し上げたく、戦後シンガポールの風俗の展示を見飛ばして、外へ出た。

その間、常軌をやや逸しかねたおいらが必死に考えたことは、なぜないんだ?もしかして、日本人観光客の対シンガポール感情悪化をおもんばかって、展示をやめたのか? 

いやいや、そうではない。なぜなら、日帝・皇軍に支那人がずこばこ殺される上海の市街戦プロパンガンダ映像を、わざわざ、ここシンガポールで、リピート・エンドレスで流していたからである。

ん~、わからん。山下像は展示の目玉だろう。などと早足で歩きながら、アタマをぐるぐる回していた。

ひとつ考え付いたのは、日帝勝利の山下・パーシバル会見の展示がなくなり、一方、日帝壊滅の板垣征四郎の降伏文書調印式の動画が流されていることは、日帝の華は許さん!ということなのか?そう考えればつじつまがあうな、とあたまがまわった。

そう、考えると、シャクでもあった。

聞いた。 聞き方も、頭に血がのぼっていたのか、もぎりの兄ちゃんに、開口一番、"I'd like to see the exhibition manager"とつめよった。 

すかす、もぎりの兄ちゃんの、 おいおいどうすた、お客さん、という表情を見て、おいらはずぶんをとりもどすた。

そんで、あらためて、Where is the exhibition of the general Yamashita? とお尋ね申し上げると、

Fort Siloso

とのおこたい。


そうなのだ、the General Yamashia has gone to the Fort Silosoなのだ。

パーシバル将軍も満州に行ったように、 the General Yamashitaも落ち着いていられないのだ。


■失われし会見をもとめて...

宮本三郎 『山下・パーシバル両司令官会見図』 昭和17年作 東京国立近代美術館所蔵

宮本三郎美術館 web site








Every dog has his day. 

2007年05月12日 19時47分07秒 | インド・3回目・シンガポール


YouTube  降伏  幸福論 by 椎名林檎  現在リンク切れ

おいらが、ちいぃとは知っていて、好きな歴史上のずんぶつは松平容保公と重光葵外相。つまりは薄汚いunderdogのおいらとしては、せめて立派な品位ある気高いunderdogに憬れているにすぎないのであるが...。

彼らの降伏文書調印により、われらが大日本帝国は誕生し、そして終焉した。



キチガイのくりごとをさせていただくと、


奥羽越列藩同盟系ウヨのおいらにとって、

大日本帝国とは、

最愛の娘がチンピラに強姦されて、できた



に他ならない。

ずぶんの血を引く孫であるなら、誕生のいきさつで、殺すわけにもいかんべ。

ところで、英和辞典のdayの項目を引くと、

(しばしばone's ~): 人生のよい時、活動・全盛時代、
have one's day 日の目を見る
He has been better days. 彼にも羽振りのいい時代があった

そして、

Every dog has his day. (ことわざ) だれでも人生得意の時があるものだ。



シンガポール陥落こそ、大日本帝国の  Every dog has his day. 
ところで、歴史上の写真で、シンガポール以外に、白旗とユニオンジャックの並走はあるのかな?