- - シンガポール国立博物館、戦間期展示コーナー。 結束を呼かける大英帝国のプロパガンダの例示 - -
- - 日本兵が私に家を仮の宿舎にしている間の二月十七日から二日間、連合軍兵士は重い足取りで家の前を通りレッド・ブリッジを渡って収容施設のあるチャンギへと連行されていった。ベランダに座って彼らを見つめていた私の心は鉛のように重かった。多くの兵士たちはいともたやすく、そして決定的にうち負かされたことで、途方にくれた表情をしていた。降伏した兵士の姿は哀しい。 - -
その中でスコットランドの帽子をかぶったスコットランド地方出身の兵士たちは称賛に値した。敗北はしたけれど軍曹の「右左、右左、右左、」のかけ声にあわせて背筋を伸ばし敗北にもめげず歩いていた。グルガ人もスコットランド人と同じようにしっかりしていた。彼らも背筋を伸ばし敗北にもめげず歩いていた。私は心の中で彼らにエールを送っていた。グルガ兵も強く印象に残っている。(中略)オーストラリア兵はやる気がなくだらだら歩いていた。インド兵もそうだった。彼らは今回のシンガポール派遣が自分たちの戦争だと思ってはいなかったにちがいない。
『リー・クアンユー回顧録』
■スコットランド兵、大英帝国・大日本帝国、帝国の多様性と均質性、国民皆兵/ 地方割拠■
日帝の国民皆兵は英国より早い。国民皆兵は民主革命国家フランスの成果であり、徴兵と教育による国民の創出が大原則である。日帝は慣習の上に成り立つ英国社会よりも、成文憲法に基づく制度のフランスに近かった。なぜなら、明治維新という革命で貴重な伝統や慣習をぶち壊してしまったからである。革命国家!大日本帝国!
スコットランドは英国の一部である。スコットランドと我らが仙台は帝国の「最初」の生贄 ( 『羊をめぐる暴言 』) となった点で共通する。
旧大英帝国のカナダのフランス系住民が住むケベックの分離独立が議論を巻き起こし、投票の結果かろうじてカナダ残留が決まった1990年代後半、驚いたことは、カナダどころかイギリス本国で、スコットランドが英国からの分離独立を地方議会で決めたことである。この問題は現在まで続いている。相対的独立は進行している。スコットランドは大英帝国が隆盛を極めていたときは黙っていたが、分離独立の機を狙っていたのだ。それが現実にできたのは、大英帝国でスコットランドというくくりが認められていたからだ。つまりは、リーセンセが目撃したように、スコットランド人であることを明徴化する帽子をかぶり、「彼らも背筋を伸ばし敗北にもめげず歩いていた。」のである。
さて、英国は第二次世界大戦でも軍隊は地方の貴族が率いる部隊という形をとっている。つまりは固有名詞でなんとか公爵の部隊とかそういうことである。これは日帝では考えられない。たとえば、我らが仙台の陸軍部隊は大日本帝国陸軍第二師団であるが、あたりまえだが、それは決して伊達兵ではないのである。その第二師団は終戦時はサイゴンで武装解除を受けたのであるが、その部隊は他の地域でそれぞれ武装解除された日帝陸軍とその外装は変わらなかったはずである。つまりは、日帝には「スコットランド兵」の存在がなかった。伊達政宗を祖とする誇り高いはずの仙台兵は、薩長ちんぴら皇軍に負けて、全国ただの兵士化政策に乗り、ただの日帝兵士として皇軍に参加していたのである。それが奥羽越列藩同盟の盟主たる仙台兵の近代である。
つまり、天皇の軍隊という名のもと、伊達兵も前田兵も細川兵も尾張徳川兵も、のっぺらぼうの日帝皇軍兵士にされたのである。第二師団、第四師団、第五師団、第六師団とか極めて即物的な序数番号が割り振られたのであった。
薩長新政府時代、とーほぐから世に出たい人は地元の藩政経由ではなく直接日帝に接続することとなった。それらの人々の物語は、226事件 高橋是清 は竹雀系 、靖国宮司は南部の殿様 、パパと呼ばないで で書いてきた。
■後藤新平が竹雀だと初めて知った。
May 27, 2007 吾、帝都復興す
ネタ帳から探し出した後藤センセ像。向かって右端。今は無き秋葉原の鉄道記念館にて。国鉄総裁ということで展示されていたのだろう。 この撮影のとき、おいらは、後藤センセは偉いお人だなー、と思っていたのだが、今日竹雀系と知って、ビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!が脳内に響きわたったことはいうまでもない。恐るべき、竹雀!
なぜこれまで気づかなかったかというと、伊達・南部/宮城・岩手問題のせいだ。現在の宮城県は仙台伊達家の領地より小さい。旧仙台伊達領の北部は現在岩手県になっている。そして、旧南部藩もずたずたにされたのであり、盛岡の外港だった八戸は現在青森県である。これらのめちゃくちゃな線引きは薩長新政府の所業に他ならない。岩手県出身と言っても竹雀であるかもしれないという意識がこれまでおいらには低く気づかなかった。
■さて、その後藤新平の名を冠した、昨日今日できた賞、第一回目だそうだ、のために今日本に来ているのが、1923年生まれの李登輝センセである。
サンケイ李登輝氏が授賞式で講演
アサヒ李登輝氏が日本で初講演 後藤新平は「台湾開発の父」
なんとリークアンユー/李光耀センセと同い年なのだ。同姓であるばかりか、その名もbrightnessであることが似ている。御存命この二人を考えることはこのブログの使命である くんだいぬほん を考えることに寄与する。
この二人、0)生い立ちと日帝、1)経営する国の状況、2)国内統治の方針、3)北京政府との距離の取り方、そして4)昭和天皇や歴代の日本総理大臣との会見の有無など大いに異なり、しばしば対照的である。共通点は支那語以外の言語と「文明」を習得し操ることができること。
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ハーバード大学の政治学教授、サミュエル・ハンチントンは九十五年八月台北で講演し、シンガポール・モデルと民主的な台湾モデルを比較した。教授は、両地の違いを「清潔だが見劣りする」シンガポールと、「不潔で自由な」台湾とした「ニューヨーク・タイムズ」紙の見出しを引用し、「李登輝総統が台湾に導入した自由と創造性は後世まで残る。一方、リークアンユー上級相がシンガポールに広めた清潔さと効率性はリー上級相と一緒に墓に入るだろう。独裁政治は場合によっては短期的にうまくいくことがあるが、長期的には民主政治だけがいい政府を作れることは経験が証明している」と述べた。
蒋経国は八八年一月、死去し、李登輝副総裁が後継総統に就任した。私は彼が台北市長のときに初めて会い、ついで台湾省長のときに会った。時々、我々はゴルフをした。彼は有能かつ勤勉で、目上の人たちと、とりわけ総統と大陸出身の閣僚に敬意を持つ人間だった。(中略)蒋経国は、彼が頼りになり、政策継承を安心して任せられ、決して台湾独立を許さないと確信していたにちがいない。
李登輝は熱心な読書家で、情報収集のキャパシティーが莫大だった。彼は日本植民地統治下の台湾で日本の学校で学び、選抜され京都帝大に留学した。戦後、台湾に戻り、台北で大学教育を終了。その後、アメリカに留学し、コーネル大学の博士課程で農業経済を専攻した。
彼は自分から、誇らしげに、日本の四新聞を毎日読み、NHKの衛星放送を見ているといい、読書も、英語の原書よりも日本語の翻訳のほうがすらすら読めるという。日本の歴史と文化にどっぷりつかっていて、李登輝は大陸を重視せず、中国の歴史、文化、共産党指導者を日本で訓練を受けたエリートの目で見ていた。共産党指導者を蔑視し、公然と「あほ」「愚か者」などと呼んでいた。
李登輝は、自身があり、博学で、関心のあるあらゆるテーマに通じている。しかし、台湾が孤立しているため、なぜ世界の指導者たちが日本のように台湾に同情しないのか理解できない。彼は日本の同情と台湾への支援を極めて重要とみなしていた。彼はまた、アメリカのリベラル派とアメリカの議会が示す民主化と人権の処方に従えば、アメリカは共産中国に対し彼を守ってくれると考えていた。
私には李登輝の立場を理解することはできなかった。彼の旧友が説明してくれた。彼は日本の訓練を受け、武士道精神が染み込んでいる。そして、台湾の人々を「約束の地」へと導くことを自分の任務と考えている。李登輝は敬虔なクリスチャンでもある。武士道精神に燃え、神の意思を万難を排して実践する用意があるのだという。
『リー・クアンユー回顧録』
日本への思い篤い李登輝センセとは皮肉にも大いに異なり、池田から宮沢までの日本の歴代総理と会談し、昭和天皇とも会見し、そして大喪の礼に参列したのはリークアンユーセンセであった。
リークアンユーセンセは北京政府への理解も深く、それがシンガポールの「独裁性」も北京政府同根ではないかと見られることもある。リークアンユウーセンセは北京語/Mandarinの習得を勧奨し自らもその習得体験記を出版している。その本では言語習得を文明へつながることと認識していることは重要である、とおいらは思った。Mandarinを習得して北京へつながりたいリークアンユーセンセにとって、日本語を学ぶことはあの悪夢の源泉の武士道へつながる第一歩に見えるのだろうか?
そして、本日三番目の李さん、李鵬さん(1928年生まれ)の登場。李鵬センセは1995年豪首相ハワードに日本なんて20年後には消えてなくなっていると言ったとされている。
おいらも、20年後か40年後か知らないが現行日本政府は存続できていないと思う。多分、今の御皇孫が即位される頃、だれがだれに担がれて即位するのか、そもそも即位できるかどうか、波乱があるだろ。 ありうるケースは米中がそれぞれ天皇を立てて日本を分割統治するのが最もありうる。
客観的に見て、かつどう贔屓目に見ても、日本政府は国家の基本である軍事面と財政面で破綻しており、それがどうにもならずにクラッシュするのは必至である。これは李鵬が反日だから上記のことをいったのではなく、いささかでも知性のある人間なら下す判断である。なので、こういう日本を頼みとする李登輝センセは政治音痴なのか?、はたまた日本破滅後を睨んだ高等戦略なのかおいらにはわからない。
で、「スコットランド」に戻ろう。現行日本政府破綻後を睨んで、われわれ とーほぐずん がすべきことは、とーほぐに割拠して、ポスト日本を生きることである。つまりは、薩長のいんちき維新が、いか@サマ日本近代が、完全に破綻して、時代が1868年以前に戻るのである。しかし、かつて天皇の軍隊の元、のっぺらぼうにされたサムライたちは、天皇がこければ、のっぺらぼうの亡兵として混沌にほうりだされるのである。伊達兵や前田兵や細川兵や尾張徳川兵には簡単には戻れない。これこそが、明治維新という革命で貴重な伝統や慣習をぶち壊してしまった深刻な負債に他ならない。
一方、その時、支那大陸だってどうなっているかわからない。各地域分裂しているかもしれない。支那滅裂である。 ぬっぽん滅裂・支那滅裂、これが21世紀中盤のおいらが空想するアジアの描像である。
だから、われわれ、とーほぐずんには、「スコットランドの帽子」が必要なのだ。
↓こんなんあります。京童のどぎもを抜いた伊達衣装。でもこれじゃ、21世紀ではちょっと、ちょっと、だね。
■まとめ。日高義樹ワシントン・リポート風(笑)■
1.現行日本政府は40年以内に破綻・消滅する。
2.その時、列島は米中の分割統治するところとなる。
3.可能性は低いが、ローマ帝国に屈しなかったスコットランドが21世紀の今日、分離独立を志向するように、朝廷にまつろわなかった真性列島民が伊達政宗公の偉業と遺訓を継承し、列島において米中占領地域とは別途、とーほぐ地方を統括していることを期待したい。
- - 公式訪問の折、皇居で天皇皇后主催の昼食会が開かれた。かつて神として祭られた天皇と向かい合い語り合ったひとときは私の人生において忘れ難いものである。日本軍が占領した三年半の間、天皇は神であった。私は四十三年から一年間シンガポールの日本軍報道部で働いたが、その間何度となく深々と頭を下げ東京の皇居遥拝をさせられたものだ。いまその人物が私と妻の前にいるのだ。小柄でほっそりとした猫背の体。友好的で丁寧で、低い声でささやくように話す。天皇はまったくいかなる害も及ぼさないような人のようにみえた。我々は儀典官に導かれ天皇皇后と一緒に写真を撮った。そのあと座っていろいろと言葉を交わす中で、天皇は突然、戦争中シンガポール国民の味わった苦難に対して遺憾の意を述べたのであった。私は黙って頷いた。心の準備ができていなかったのだ。沈黙を保つのが一番いいと思った。 - -
『リー・クアンユー回顧録』
追記;
昭南神社は、四十五年八月二十五日、昇神祭を行い、同夜、暁部隊が用意した船で海へ出て、神体の鏡と連隊旗、そして、山下奉文が天皇から受領し、昭南神社に寄贈、神宝とされていた月山定勝銘の刀二振りを海に沈め、社殿は、軍自ら忠霊碑と共に爆破破壊し、わずか二年でその存在が消滅した。
- 「昭和の戦争記念館」、辻子実『侵略神社』から孫引き。 -
■
リー・クアンユーセンセは御存命である。雑誌TIMEの最新号はSingapore's New Lookと題し、North Carolinaからきた家族5人+犬の写真を表紙に掲載している。
「シンガポールはより多くの外国人を求めている」
記事によると、リークアンユーセンセの年頭の挨拶つまりはシンガポールの国家方針演説では、;
Lee spoke dryly of free-trade agreement and strengthening economic ties with the region. But then he started talking about art exhibitions, jazz bands, museums and alfresco dining.
だそうだ。がんばれシンガポール!
国家の大局・施政方針で、alfresco dining!
それより、大カジノ構想が実現の途にあるとのこと。
*者の楽園になるだろ。
alfresco dining!
でも、よーく考えよう。
そういえば、昔からやってんだ。
alfresco dining!
恐るべし!シンガポール! リー・クアンユー大宰相!
『リー・クアンユー回顧録』

ミリオタパーク・シロソ砦のショップに売っていた、日帝皇軍対英降伏文書のコピー。

律儀に「板垣」の印鑑(はんこ)! 泣けるね!

「新たな自分の役割として真面目に街を掃き清め」
日帝皇軍敗残兵がシンガポールの街を掃除する写真はおいらは未発見。
この写真は日帝皇軍によるシンガポール陥落直後、掃除させられる豪兵。帽子でわかる。そして、それを見つめる「アジア」人。こんな光景は世界史上なかったのだ。
日帝壊滅後、皇軍敗残兵士が掃除したとするなら、敗残兵の役割を、一般的に、よくわかっていたに他ならない。
■

模型↑ 実写↓



東京に去った板垣は、さらにあの世に去って行ったことは言うまでもない。

ちいさく、つぶやいた サヨナラ。こころに届くかしら?
■


日本人は、我々の支配者や主人の立場から今度は良心的で勤勉な模範的戦争捕虜に変貌した。
↓
新たな自分の役割として真面目に、マック憲法公布。


KUMONの広告;シンガポールのホテルの電話帳でみつけたもの。
■人の志も頼むべからず。必ず変ず。■
『徒然草』第二百十一段
よろづの事は頼むべからず。
愚かなる人は、深く者を頼む故に、
恨み怒ることあり。
勢いありとて頼むべからず。
こはきもの先ず滅ぶ。
財多しとて頼むべからず。
時のまに失いやすし。
才ありとて頼むべからず。
孔子も時にあはず。
徳ありとて頼むべかrず。
顔回も不幸なりき。
(以下、略)
すごいぞ! 兼好!
で、なぜ突然、徒然草かというと、
この段を、NHKのラジオは、高校講座・国語でやっていたのだ。
この世に至っても、あるいは、こんな世のだからか?、
現世のぬっぽんずん高校生諸君は、
よろづの事は頼むべからず。
とか オベンキョウ なさる。
すごいぞ! ぬっぽん、高校生。
よろづの事は頼むべからず。
これって、旧教育基本法の理念、つまりは、啓蒙された主体的な近代人の理念ではないだろう。
もちろん、啓蒙された主体的な近代人の理念から、徒然草を批判するという教材にもなりうるのだが、ラジオ講座では、そういう雰囲気でもなかった。
すごいぞ! ぬっぽんずん!
よろずの事は頼むべからず!
そうなのさ。ぬほんこくセーフや社会保険庁をすんずた、おまいが、ばかなのさ!
よろずの事は頼むべからず!
▼英語教育拡大反対の理由のひとつに、まずは日本語! 日本語をまずはしっかりやるべしという意見がある。
ある意味まちがい。 なぜなら、ぬんげんの言語行動、つまりは思考そのものは、その媒体、つまりは日本語か英語かで、異なる。端的に言って、ある一人の人が、日本語と英語では語る内容が異なるというのは、おいらはすばすば見ることである。
■別の視点から。 たとえば、選挙なんかで何も変わらないんだよ!という命題はなんら新規性のないもので、『徒然草』のn番煎じに過ぎない!
外山センセなぞ、兼好のエピゴーネンの、お祭りに過ぎない!
日本古来の美意識に沿って、ネタを振ったって、受けるにきまってるじゃないか!
■「まずは日本語! 日本語をまずはしっかりやるべしという意見」のひとは、英語・日本語を越えた「客観的世界」があって、それを表現するのは英語でも日本語でも互換可能的にできると思っているのではないか? まちがい。
日本語人には、日本語的世界が立ち現れるのであり、
英語人には、英語的世界が立ち現れるのである。
本質/言語は、現象する!
たとえば、上記、『徒然草』第二百十一段なぞ、英語になるとは、おいらは、すんずられない。実は、『徒然草』の英語訳はあるのだが、それは『徒然草』ではないのだよ。同様に、日本語に訳された「英語」ならざる「英語」もゴマンとある。
それにしても、『徒然草』第二百十一段を読んで、その腑に落ちること限りなすのおいら。 でも、現世高校生が、、『徒然草』第二百十一段を「理解・納得」してもらっては、これまた、こまるのである。 なぜなら世界は君たちのものだ、それは僕たちのものでもあるが、結局は君たちのものだ。 からである。
おそるべし、日本語教育!
こういう日本語教育が、例えば、次のようなぼやきを産む;
最近よく耳にするのは、われわれ日本人の発言が論理性に乏しいとか、あいまい、不明瞭で、共感を呼ぶには程遠いなどの批判です。この原因は、日本人が論理的思考法を学んでいないからなのです。とくに教育の現場での訓練のなさがその原因の一つに挙げられましょう。 (『新しい英文作成法』 天満美智子)
つまりは、天満美智子センセは、日本のガッコの『徒然草』教育をぼやいているのである。
その言やよし。 さりとて、もしそうであるなら、日本人が論理的思考法を学ぶための「日本語教材」をなんとする? 誰のどの日本語文章を教材にする?
『リー・クアンユー回顧録』

シンガポール国立博物館、歴史部門、Syonan-To:1942-1945, 日侵時期、の展示より。



禿同、原爆やむなし。
- - 我々には白人に対する怨みなどの問題はまったくなかった。政府や社会における英国人の優越的な地位は単なる世の中の事実だったにすぎない。英国人は結局のところ世界で最も偉大な人たちだったのである - -
『リー・クアンユー回顧録』
現世ぬっぽんずんが、「ごっこ」として、ラッフルズ・ホテルで楽しむ High Tea の「本物」の写真。
もちろんこれはシンガポールでの英国統治下の写真であり、清人である。我らが高杉晋作は、これと同じ光景を上海で見て、おれたち ぬっぽんずん はこんな風だけにはなりたくない、と強烈に思ったのだ。 その強烈な体験が、これまた我らが・大日本帝国建国の、強烈な動機に他ならない。
辮髪
「単なる世の中の事実だった」ことを覆すため、
我々、大日本帝国は、
「蛮行」を、行ったのである。
アジア近世・近代の歴史で最も「偉大」なる、
コペルニクス的転回
を、支那人虐殺という蛮行をテコに、
行ったのである。
それが、シンガポール陥落、に他ならない。
今夜も唱えよう!
大ぬっぽん帝国、マンセー!
マンセー!
マンセー!
マンセー!

シンガポール国立博物館、歴史部門、Syonan-To:1942-1945, 日侵時期、の展示より。
今夜も 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
教育勅語
■将校の生き方
話は全然、変わって、5/6のフジテレビ、報道2001には五百旗頭真センセが中曽根元首相と共に出演。戦後日本論。現在、五百旗頭真センセは米国の保護国なる属領日本の「米」衛隊の幹部将校を養成するガッコの校長センセであることはいうまでもない。
現在に至るまで、「自」衛隊と憲法の齟齬が問題となっているのは、両者とも当時の絶対的統治権力者の矛盾する指示で各々別個に形成されたからに他ならない。
つまりは、昨日まで玉砕白兵戦で素手でも立ち向かってくる日帝皇軍を無化するため、マッカーサー将軍は、国家存立の第一原理である交戦権を禁じたマッカーサー憲法を、すめろぎ・ひろひとさんを以って、公布せしめた。
ところが、「次の日」、朝鮮戦争勃発!せにはらを変えられず、国家存立の第一原理である交戦権を禁じた「平和」憲法に悖る事実上の再軍備を、これまた絶対支配権力者であるマッカーサー将軍は、日本に命じたのであった。
この、権力者による恣意的な矛盾する指示・命令が半世紀以上たった日本をちぢにみだし、国民を以って、絶望と・冷笑癖と・無力感にさらす人生を送ることを強いている源泉に他ならない。
さて、この現状を打破するひとつの方法はクーデターに他ならない。クーデターこそ、民主制など昔から今に至るまで我らがぬっぽんずんに無縁なものもめずらしいのにもかかわらず、なぜかしら、民主制という建前で欺瞞的に生きている今日を打破するものに他ならない。クーデターをやってくれるはずの将校さまはどうしているのだろうか?
上記の五百旗頭センセこそ、戦前日本は将校の下克上で国が滅びたという見識の元、将校養成ガッコの校長センセの任務を遂行されているのである。この日の番組でも、下克上という語彙が繰りかされた。校長センセの任務は、よき「米」衛隊の将校たれ!に他ならない。とにかく、クーデターを起こす将校だけは絶対困るということだ。つまりは、究極の『「魂」なき専門人』の養成に外ならない。
さて、そんな真摯な戦後日本「文明」(大爆笑)のおりこうさん筆頭の五百旗頭校長センセのはしごをはずすがごとき発言を、内閣総理だいずんがすてくれるから、やっぱ、ぬっぽんはわくわく・どきどき、腹腹時計である。
半年ぶり党首討論・参院選の争点、終始探り合い
小沢氏は冒頭、首相が3月の防衛大学校の卒業式で「危機には自らの信念に基づいて的確な判断で行動すべきだ」と訓示したことを取り上げ「危機での判断は首相、政治家がやるべきで、1人ひとりの将校の判断ではない」と迫った。首相は「万が一、外国から侵略された際は判断を彼らがしなければならないこともある」と反論、文民統制とは別問題といなした。(00:06)

思いて学ばざればすなわち殆うし

学びておもわざればすなわちくらし
シンガポールには、Hawker centre ホーカーセンターという、安く食事が出来る場所がたくさんある。ファーストフードであり個人経営小食堂であり、屋台であり、日本の昭和にあったデパート最上階大食堂なのである。
多種多様の種類の食べ物があるのだが、おでん+麺というおもしろいのを発見。
並んでいる具から、例えば、5種類を自由に選んで、定額を払う。
こんなん、選びますた。
実はひとしきりこのホーカーセンターで飯を食ったあとで、満腹だったので、麺はスキップ。
さいごにお金を払って、汁を入れてもらう。 だしがきいていておいしかったです。
でも何だしだったか聞かないように。わすれちゃったから。
ちなみに、これを、ホメイニさんやビンラディンさんは、食することが出来ます。なぜでしょう?この記事で示された情報の中から答えなさい。 答えはコメント欄に書きなさい。(30点/100点)
▼尊皇&現世・世俗を呪う人のためのニュース;
靖国の母、トラックにはねられ死亡。
ニュースの画像を見ると、どうやら佐川の宅配トラックに殺されたらしい。
親より先に死ぬことを 不孝 という。つまり、親の老後の面倒を看ずに死ぬからだ。すめろぎサマ率いる日帝陸海軍部は、数百万の 不孝息子 を創出したことはいううまでもない。
親不孝者は、ならず者に他ならない。
数百万の「ならず者」がいる、靖国神社!
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
from 教育勅語。 親不孝のススメ!
(みんな! 母の日に、ちゃんと、感謝したかな?)
そんな、親不孝息子をもつ100歳を越える老婆@靖国の母の最期こそ、あわれなり。
今日も、おいらたちは、唱えよう!
大ぬっぽん帝国、まんせー!
まんせー!
まんせー!

ていだいせい たもつクン
シンガポールの街路にて。
■おもいついたこと
1776 - 1947
米国がインドに肩入れして、特に核技術の転移を推進していることについて。核武装が現代の大国の独立自尊の基本的条件である。大国として存続してほしい相手だからこそ米国はインドに核技術を供与するのだろう。
そうなのだ。米国とインドは、長兄・末弟なのだ。
つまりは、米国は18世紀の大英帝国の王冠の宝石であり、インドは19-20世紀の大英帝国の王冠の宝石だったのだ。そして、米国はワシントン、インドはガンジーを象徴とする独立・建国の「神話」を持つ。ここで神話とは、歴史的事実なのではあるが、それにしても両国民には、国の原点として神々しいという意味。
恐るべき、大英帝国。 たぶん、米国とインドはただの国となった旧大英帝国の存続には尽力をつくすであろう。
これは、朝鮮人諸君や旧五族共和諸君が、現在のただの国でさえない、米国属領・ぬっぽんが没落・崩壊していくことになんら尽力しないこととは大違いではある。
大ぬっぽん帝国ばんぜー!
ばんぜー!
ばんぜー!