フランスのテロが起きてからもう1ヶ月以上が経って
その間あれは何だったのか この先どんな社会になればいいのか
沢山のことを知ろうと思い 出来る限り本を読んできた。
特に私が興味を持ったのはイスラムについてだったから
子育てと仕事の合間を縫って、電車に乗る度 時間が
ある度 少しでもページを進めようとした。
私は理解したかった。世界で一体何が起きているのか?
どうしてそんなことになっているのか・・・?
シャルリーエブドの事件のすぐ後、フランスのメディアは
イスラム教の指導的立場にある人たちの見解を伝えていた。
「イスラムは平和を願う宗教だ」
「あんな事件にあまりにショックを受けている・・・」
イスラム教とイスラム過激派とは違う。それはフランスの
メディアが折に触れて伝えようとしてきたことだったと思う。
アラブ世界研究所での演説の際、「原理主義によって一番の
被害を受けているのはイスラム教徒の人々だ」とオランド大統領は語ったし
それと全く同じことはあの緑色の表紙のシャルリーエブドをめくると
書かれている。だからこそ事件が起こった当初、
イスラムの指導者達は多くのイスラム教徒に対して
日曜日のデモに参加するよう訴えかけていたのだろう。
日本でシャルリーエブドについて書くこと、それ自体
もはや私には恐ろしい。それだけで「お前はあんな侮辱雑誌を
擁護するのか」とたたかれるような空気を感じてしまう。
シャルリーエブドを読むことも、その雑誌を持つことも、
その雑誌が言わんとしていることを真剣に考えることも
今の日本では難しい。でもその状況に、日本における
イスラム社会が一役買ってしまったことは否めない。
私はもっとイスラムについて知りたくて
読めば読む程頭の中には疑問が一杯になっていたから
イスラム教徒の人の話を聞きたいと思っていた。
さんざん読んでもわからないから、そろそろコーランを
読まないと、謎は深まるばかりだろうと思っていた。
そんな折り、日本在住のイスラム教徒の方たちが
意見表明するセミナーがあり、えいやっと訪れてみることにした。
一体どんな人がどんな意見を言うのだろうかと思っていたら
そこにはテレビで何度か目にした 日本在住の
イスラム教徒を代表するような方も参加し、意見を述べていた。
彼らの中には後藤さんと湯川さんのために祈り
出来る限りのことをし続けてくれた人もいて
ニュースを見る度にありがたい、いつか
会ってみたいと思っていた人たちと偶然にも会えたのは
私にとっては喜びだった。
参加して実際の声を聞き、多くのことを感じた中で1つ
残念に感じたことは、意見表明をする登壇者たちの中に
ほぼ共通して「シャルリーエブド あれはひどい」
という認識が当然のようにあったことだった。
はじめに話をした方は「インターネットでちらっと
見ただけですがショックを受けました」と語っていた。
インターネットで・・・きっと私がしたのと同じように
画像検索をしたのだろう。そしてショックを受けただろう。
何これ?!というのが第一印象だっただろう。
それで、それから?絵と共に書いてあるフランス語の意味は?
解読しようとしたのだろうか?それともすぐに「ひどい」
と思って投げ捨ててしまったのだろうか。
私は講演を聴きながら思うところが一杯だった。
画像検索で出てくるようなのはほとんど表紙だろうけれど
表紙の裏に隠れているであろう その時の雑誌自体の内容も
読んで判断しているのだろうか?
表紙に現れた表現が、その時の時事問題に対応した
彼らなりの批判だったとしたらならば?
私はこれまでも出来る限りシャルリーエブドに関する情報を
読んできたけど、侮辱だ!無礼な!遣り過ぎた!これは暴力ではという
批判はあっても、じゃあ具体的にどこが侮辱なのかを
論じている文章にはほとんど出会ったことがない。
シャルリーエブド自体はイスラム教自体を批判しているのではなく
イスラム原理主義を批判していると言っているし、
「神の名のもとに」全体主義的になり、自由が奪われ
最悪なことに人が殺されることがある。現実として
それは今でも、おそらく今日も、「神の名の下に」行われている。
そこを批判して、だからこそ黒い服を着たマホメットらしき人物は
「こんな馬鹿な奴らに愛されるなんて・・・」と嘆いているんじゃ
ないんだろうか?もちろん敬虔な信者にも慕われている。
でも残念なことに、現状では世界中の多くの
イスラム過激派、原理主義と言われる人たちが、
(一般のイスラム教徒からはあんなのはイスラムじゃないと言われても)
同じ神の名の下に各地で戦い、自爆テロを起こしてる。
パキスタンではモスクすら過激派に襲撃された。シャルリーエブドは
原理主義者たちについては確かに小馬鹿にした描き方をした。
だから原理主義者の側から怒りを買うのはよくわかるにしても
原理主義者が本当のイスラムとは「違うし全く関係もない」のであれば、
穏健なイスラム教徒の側は、もう少し違う目で物事を見つめないといけないだろうし
状況が悪化の一途をたどっている日々だからこそ、
穏健なイスラム教徒の指導者達が、イスラム教徒に向かって、そして
世界の他の人々に対して、声を大にしてその違いや追求している精神を
訴えなければいけないのではないかと思う。
シャルリーエブドが新たにマホメットの絵を掲載し
世界には非難が巻き起こった。そのデモによって今度は死者すらも出た。
私だってまたしてもマホメット?とショックを受けたし、
それが穏健なイスラム教徒の方達を不快にしたことは否めない。
相変わらずあの絵をあのタイミングで出した意図はわからないけれど、
おそらくそれにも深い意味があるとは思う。
あんな中でも、あえてあの絵を掲載した。
それが意味するところを全く考えないほどに、彼らは「傲慢なフランス人」なのだろうか?
12人もの敬愛する先輩や関係者が亡くなった中、あえて
挑発し、侮辱し、社会を馬鹿にするような絵を描くほど、
シャルリーエブドの中にいる人たちは気が狂っているのだろうか?
その意図やニュアンスをほとんど考慮することなしに
「またしてもマホメットが描かれた」ことを侮辱ととらえ
世界の多くの人たちはただ嫌悪感を表した。
パキスタンやチェチェンではデモが行われ、フランスの国旗も焼かれた。
日本でも東京新聞と中日新聞が絵を掲載したことに怒った人たちがいた。
そして穏健なイスラム教徒の偉い人は 東京新聞が素直に絵の転載を
謝罪したことを語り 日本の良さを褒めていた・・・
私はシャルリーエブドを強く擁護したいわけではない。
けれども特に日本においてはあまりに早急に「侮辱雑誌」として
認識された感があり、それが果たしてそうなのか、もっと問う必要が
あるんじゃないかと言いたいだけだ。
シャルリーエブドの絵は一目見た時 確かにショックを起こさせる。
うわ、何これ・・・ここまで描くか
そう思うこともあるだろう。だけどそれから激しいモヤモヤが
残ってくる。何故そこまで描くのだろう?一体何を意味しているのだろう?
彼らはそんなにも馬鹿で傲慢な人たちなのか?
私はそうではないと思う。
本来だったらシャルリーエブドのバックナンバーをいくつか取り出し
フランス語がわかる人たちが頭を突き合わせて意味を解釈し
本当に意図していたことは何だったのか、それを考え
それから判断するべきだと思う。けれども日本には
アンスティチュにも都立中央図書館にもバックナンバーがないわけで
実際には判断のしようがない状態が続いているのでは?
(オランド大統領は彼らの事務所が襲撃されてすぐ
現場を訪問し、ショックを受けている関係者たちに
「私たちは来週の号を出すべきでしょうか・・・」と
問われた際に、「絶対に出すべきだ。」と力強く言ったという。
オランドや彼らを助けて事務所を貸したリベラシオン紙の
人たちはそんなにも侮辱を良しとする人たちなのだろうか?)
もしかすると忙しい現代人にはそんなことを考える暇はないのかもしれない。
携帯でちらっと画像を見るだけで、この野郎!と思ってしまう。
そしてすぐに、自分の経験に基づいた判断を下してしまう。
もちろん当事者だったなら、受けるショックは大きいだろう。
けれどシャルリーエブドが大事にしようとしていたことは、ライシテと同じように
物事を相対的に、客観的に、一歩引いて眺める姿勢ではないのだろうか。
フランスの風刺画は明治の日本を揶揄していた。
西洋の猿真似をする日本の鹿鳴館の貴婦人たち。
描かれた方はただ描かれただけでも悔しかったかもしれない。
好きでそんなことしてるんじゃないと思った人もいるだろう。
それを客観的に眺められる立場にいる側と、渦中でもがいている側とでは
「力」の格差が存在するのはきっと確かなことだろう。
けれども今になって振り返ると「果たしてその道でよかったの?」と
むしろそれを描いた西洋人のような気持で、私たちもその絵を
眺めてる。シャルリーエブドがしたかったことというのは
「果たしてこんな状況でいいのだろうか?」と絵を通して
そしてもしかすると、笑われた悔しさまで通して
人々に考えさせることだったのではないのだろうか。
私はずっと考えている。
どうしてあの絵のマホメットは涙を流しているのだろう。
けれど誰もそんなことを解説しようとしてくれない。
あのマホメットが舌を出してアッカンベーとしているのなら、
確かに侮辱といわれるだろう。でも彼は泣いている。
"Je suis Charlie"ということが、「私はシャルリーエブドに大賛成だ」
という意味でなく、「私も自由を支持する」(これが一般的な
Je suis Charlie の意味だ とフランスのプレスは解説している)というか
「私も(弾圧でなく)自由の方がいい」という意味ならば
平和を愛し、忍耐を唱えたはずのマホメットだって、(人殺しという
イスラムの通常の教えに反したことではなく)違う表現手段を支持する、
という意味合いだってあるのかもしれない。そう考えると
もういい、もうやめてくれ、このテロすら、すべてを一旦水に流そう(全ては許された)
神の名の下に人を殺すのはもう終わりにしよう・・・という意味にすら見えてくる。
私にはあのプレートが、なんだか白旗のようにすら見えてしまう。
神様が本当にいるのなら、神は神の名の下に殺し合いをすることなんて
望むはずがないだろう。宗教は、どの宗教だって、本来平和を求めるはずだから。
批評雑誌や風刺画を出版するのはもちろん勇気がいるものだ。
殺される、かもしれない そう思いながらそれでも一歩を
踏み出すのはそうまでして伝えたいことがあるからだ。
表現の自由がなければ革新的な文化や芸術は生まれない。
サルトルは「文学作品とは呼びかけである」と言っていた。
誰一人との呼びかけに応じなくても、それでも信じるものを書く。
一人でもいい、いつの日か、わかってくれる人が存在するなら。そう思って書いていく。
おかしいものには勇気をふりしぼっておかしいのじゃないかと問うてみる。
迎合して言いたいことが言えないくらいなら広告なんてもらわない。
コーヒーマシーンがいつも壊れていてもそれでもなんとか描き続ける。
少なくてもいい、購読して、愛してくれる人がいるのなら
それでもなんとか続けていこう・・・例え倒産しかけても。
コーランを読んでいない私にイスラムを語る資格はないかもしれない。
それならばシャルリーエブドの表紙のみを一瞥したことしかない人にだって
それを決めつけて語る資格はないと思う。
混迷をますます極める今の社会の中で、問題を大きくしているのは
決めつけや先入観、思い込みによる判断ではないかと思う。
果たして本当にそうなのか?できる限り自分の頭で考えること
早急に結論を出す前に もう少し違う角度からも情報を集めてみること
そんなことを言ってる場合じゃない という程に 世界の情勢は緊迫している。
もはやシャルリーエブドも自由があった過去の幻影にすぎないのかもしれないけれど
それでも少し 考えてみる 両者の言い分を聞いてみる。
西洋でもない、イスラムでもない、歴史的な利害関係が多くない
中立的な立場の日本にいるからこそ できることはあると思う。
追記:東京新聞に掲載された文章を読んだところ、
文章自体はシャルリーエブドがマホメットの絵を載せたことに批判的な
ニュアンスでした。(むしろ侮辱雑誌という感じすら伝わってくる)
私がその中でショックを受けたのは明らかにその訳が間違っていたことです。
直訳すると「全ては許された」なところが、東京新聞では
「全ては許される」と書かれていました。この最後の1文字の違いで
どれほどのニュアンスが異なることでしょう?
「全ては許される」そう、まさマホメットにだってJe suis Charlieと
言わせてやれ?どうせ侮辱してるんだから。そんなニュアンスで伝わります。
これはかなり簡単なフランス語の間違いで、どうして一人でもいいから
フランス語がわかる人に相談しなかったのだろう?と残念でなりません。
その「誤訳」により、そう思い込んだ人はそう思い込んで受け取ります。
私は個人的にはそちらを謝罪してもらいたいと思いました。
その間あれは何だったのか この先どんな社会になればいいのか
沢山のことを知ろうと思い 出来る限り本を読んできた。
特に私が興味を持ったのはイスラムについてだったから
子育てと仕事の合間を縫って、電車に乗る度 時間が
ある度 少しでもページを進めようとした。
私は理解したかった。世界で一体何が起きているのか?
どうしてそんなことになっているのか・・・?
シャルリーエブドの事件のすぐ後、フランスのメディアは
イスラム教の指導的立場にある人たちの見解を伝えていた。
「イスラムは平和を願う宗教だ」
「あんな事件にあまりにショックを受けている・・・」
イスラム教とイスラム過激派とは違う。それはフランスの
メディアが折に触れて伝えようとしてきたことだったと思う。
アラブ世界研究所での演説の際、「原理主義によって一番の
被害を受けているのはイスラム教徒の人々だ」とオランド大統領は語ったし
それと全く同じことはあの緑色の表紙のシャルリーエブドをめくると
書かれている。だからこそ事件が起こった当初、
イスラムの指導者達は多くのイスラム教徒に対して
日曜日のデモに参加するよう訴えかけていたのだろう。
日本でシャルリーエブドについて書くこと、それ自体
もはや私には恐ろしい。それだけで「お前はあんな侮辱雑誌を
擁護するのか」とたたかれるような空気を感じてしまう。
シャルリーエブドを読むことも、その雑誌を持つことも、
その雑誌が言わんとしていることを真剣に考えることも
今の日本では難しい。でもその状況に、日本における
イスラム社会が一役買ってしまったことは否めない。
私はもっとイスラムについて知りたくて
読めば読む程頭の中には疑問が一杯になっていたから
イスラム教徒の人の話を聞きたいと思っていた。
さんざん読んでもわからないから、そろそろコーランを
読まないと、謎は深まるばかりだろうと思っていた。
そんな折り、日本在住のイスラム教徒の方たちが
意見表明するセミナーがあり、えいやっと訪れてみることにした。
一体どんな人がどんな意見を言うのだろうかと思っていたら
そこにはテレビで何度か目にした 日本在住の
イスラム教徒を代表するような方も参加し、意見を述べていた。
彼らの中には後藤さんと湯川さんのために祈り
出来る限りのことをし続けてくれた人もいて
ニュースを見る度にありがたい、いつか
会ってみたいと思っていた人たちと偶然にも会えたのは
私にとっては喜びだった。
参加して実際の声を聞き、多くのことを感じた中で1つ
残念に感じたことは、意見表明をする登壇者たちの中に
ほぼ共通して「シャルリーエブド あれはひどい」
という認識が当然のようにあったことだった。
はじめに話をした方は「インターネットでちらっと
見ただけですがショックを受けました」と語っていた。
インターネットで・・・きっと私がしたのと同じように
画像検索をしたのだろう。そしてショックを受けただろう。
何これ?!というのが第一印象だっただろう。
それで、それから?絵と共に書いてあるフランス語の意味は?
解読しようとしたのだろうか?それともすぐに「ひどい」
と思って投げ捨ててしまったのだろうか。
私は講演を聴きながら思うところが一杯だった。
画像検索で出てくるようなのはほとんど表紙だろうけれど
表紙の裏に隠れているであろう その時の雑誌自体の内容も
読んで判断しているのだろうか?
表紙に現れた表現が、その時の時事問題に対応した
彼らなりの批判だったとしたらならば?
私はこれまでも出来る限りシャルリーエブドに関する情報を
読んできたけど、侮辱だ!無礼な!遣り過ぎた!これは暴力ではという
批判はあっても、じゃあ具体的にどこが侮辱なのかを
論じている文章にはほとんど出会ったことがない。
シャルリーエブド自体はイスラム教自体を批判しているのではなく
イスラム原理主義を批判していると言っているし、
「神の名のもとに」全体主義的になり、自由が奪われ
最悪なことに人が殺されることがある。現実として
それは今でも、おそらく今日も、「神の名の下に」行われている。
そこを批判して、だからこそ黒い服を着たマホメットらしき人物は
「こんな馬鹿な奴らに愛されるなんて・・・」と嘆いているんじゃ
ないんだろうか?もちろん敬虔な信者にも慕われている。
でも残念なことに、現状では世界中の多くの
イスラム過激派、原理主義と言われる人たちが、
(一般のイスラム教徒からはあんなのはイスラムじゃないと言われても)
同じ神の名の下に各地で戦い、自爆テロを起こしてる。
パキスタンではモスクすら過激派に襲撃された。シャルリーエブドは
原理主義者たちについては確かに小馬鹿にした描き方をした。
だから原理主義者の側から怒りを買うのはよくわかるにしても
原理主義者が本当のイスラムとは「違うし全く関係もない」のであれば、
穏健なイスラム教徒の側は、もう少し違う目で物事を見つめないといけないだろうし
状況が悪化の一途をたどっている日々だからこそ、
穏健なイスラム教徒の指導者達が、イスラム教徒に向かって、そして
世界の他の人々に対して、声を大にしてその違いや追求している精神を
訴えなければいけないのではないかと思う。
シャルリーエブドが新たにマホメットの絵を掲載し
世界には非難が巻き起こった。そのデモによって今度は死者すらも出た。
私だってまたしてもマホメット?とショックを受けたし、
それが穏健なイスラム教徒の方達を不快にしたことは否めない。
相変わらずあの絵をあのタイミングで出した意図はわからないけれど、
おそらくそれにも深い意味があるとは思う。
あんな中でも、あえてあの絵を掲載した。
それが意味するところを全く考えないほどに、彼らは「傲慢なフランス人」なのだろうか?
12人もの敬愛する先輩や関係者が亡くなった中、あえて
挑発し、侮辱し、社会を馬鹿にするような絵を描くほど、
シャルリーエブドの中にいる人たちは気が狂っているのだろうか?
その意図やニュアンスをほとんど考慮することなしに
「またしてもマホメットが描かれた」ことを侮辱ととらえ
世界の多くの人たちはただ嫌悪感を表した。
パキスタンやチェチェンではデモが行われ、フランスの国旗も焼かれた。
日本でも東京新聞と中日新聞が絵を掲載したことに怒った人たちがいた。
そして穏健なイスラム教徒の偉い人は 東京新聞が素直に絵の転載を
謝罪したことを語り 日本の良さを褒めていた・・・
私はシャルリーエブドを強く擁護したいわけではない。
けれども特に日本においてはあまりに早急に「侮辱雑誌」として
認識された感があり、それが果たしてそうなのか、もっと問う必要が
あるんじゃないかと言いたいだけだ。
シャルリーエブドの絵は一目見た時 確かにショックを起こさせる。
うわ、何これ・・・ここまで描くか
そう思うこともあるだろう。だけどそれから激しいモヤモヤが
残ってくる。何故そこまで描くのだろう?一体何を意味しているのだろう?
彼らはそんなにも馬鹿で傲慢な人たちなのか?
私はそうではないと思う。
本来だったらシャルリーエブドのバックナンバーをいくつか取り出し
フランス語がわかる人たちが頭を突き合わせて意味を解釈し
本当に意図していたことは何だったのか、それを考え
それから判断するべきだと思う。けれども日本には
アンスティチュにも都立中央図書館にもバックナンバーがないわけで
実際には判断のしようがない状態が続いているのでは?
(オランド大統領は彼らの事務所が襲撃されてすぐ
現場を訪問し、ショックを受けている関係者たちに
「私たちは来週の号を出すべきでしょうか・・・」と
問われた際に、「絶対に出すべきだ。」と力強く言ったという。
オランドや彼らを助けて事務所を貸したリベラシオン紙の
人たちはそんなにも侮辱を良しとする人たちなのだろうか?)
もしかすると忙しい現代人にはそんなことを考える暇はないのかもしれない。
携帯でちらっと画像を見るだけで、この野郎!と思ってしまう。
そしてすぐに、自分の経験に基づいた判断を下してしまう。
もちろん当事者だったなら、受けるショックは大きいだろう。
けれどシャルリーエブドが大事にしようとしていたことは、ライシテと同じように
物事を相対的に、客観的に、一歩引いて眺める姿勢ではないのだろうか。
フランスの風刺画は明治の日本を揶揄していた。
西洋の猿真似をする日本の鹿鳴館の貴婦人たち。
描かれた方はただ描かれただけでも悔しかったかもしれない。
好きでそんなことしてるんじゃないと思った人もいるだろう。
それを客観的に眺められる立場にいる側と、渦中でもがいている側とでは
「力」の格差が存在するのはきっと確かなことだろう。
けれども今になって振り返ると「果たしてその道でよかったの?」と
むしろそれを描いた西洋人のような気持で、私たちもその絵を
眺めてる。シャルリーエブドがしたかったことというのは
「果たしてこんな状況でいいのだろうか?」と絵を通して
そしてもしかすると、笑われた悔しさまで通して
人々に考えさせることだったのではないのだろうか。
私はずっと考えている。
どうしてあの絵のマホメットは涙を流しているのだろう。
けれど誰もそんなことを解説しようとしてくれない。
あのマホメットが舌を出してアッカンベーとしているのなら、
確かに侮辱といわれるだろう。でも彼は泣いている。
"Je suis Charlie"ということが、「私はシャルリーエブドに大賛成だ」
という意味でなく、「私も自由を支持する」(これが一般的な
Je suis Charlie の意味だ とフランスのプレスは解説している)というか
「私も(弾圧でなく)自由の方がいい」という意味ならば
平和を愛し、忍耐を唱えたはずのマホメットだって、(人殺しという
イスラムの通常の教えに反したことではなく)違う表現手段を支持する、
という意味合いだってあるのかもしれない。そう考えると
もういい、もうやめてくれ、このテロすら、すべてを一旦水に流そう(全ては許された)
神の名の下に人を殺すのはもう終わりにしよう・・・という意味にすら見えてくる。
私にはあのプレートが、なんだか白旗のようにすら見えてしまう。
神様が本当にいるのなら、神は神の名の下に殺し合いをすることなんて
望むはずがないだろう。宗教は、どの宗教だって、本来平和を求めるはずだから。
批評雑誌や風刺画を出版するのはもちろん勇気がいるものだ。
殺される、かもしれない そう思いながらそれでも一歩を
踏み出すのはそうまでして伝えたいことがあるからだ。
表現の自由がなければ革新的な文化や芸術は生まれない。
サルトルは「文学作品とは呼びかけである」と言っていた。
誰一人との呼びかけに応じなくても、それでも信じるものを書く。
一人でもいい、いつの日か、わかってくれる人が存在するなら。そう思って書いていく。
おかしいものには勇気をふりしぼっておかしいのじゃないかと問うてみる。
迎合して言いたいことが言えないくらいなら広告なんてもらわない。
コーヒーマシーンがいつも壊れていてもそれでもなんとか描き続ける。
少なくてもいい、購読して、愛してくれる人がいるのなら
それでもなんとか続けていこう・・・例え倒産しかけても。
コーランを読んでいない私にイスラムを語る資格はないかもしれない。
それならばシャルリーエブドの表紙のみを一瞥したことしかない人にだって
それを決めつけて語る資格はないと思う。
混迷をますます極める今の社会の中で、問題を大きくしているのは
決めつけや先入観、思い込みによる判断ではないかと思う。
果たして本当にそうなのか?できる限り自分の頭で考えること
早急に結論を出す前に もう少し違う角度からも情報を集めてみること
そんなことを言ってる場合じゃない という程に 世界の情勢は緊迫している。
もはやシャルリーエブドも自由があった過去の幻影にすぎないのかもしれないけれど
それでも少し 考えてみる 両者の言い分を聞いてみる。
西洋でもない、イスラムでもない、歴史的な利害関係が多くない
中立的な立場の日本にいるからこそ できることはあると思う。
追記:東京新聞に掲載された文章を読んだところ、
文章自体はシャルリーエブドがマホメットの絵を載せたことに批判的な
ニュアンスでした。(むしろ侮辱雑誌という感じすら伝わってくる)
私がその中でショックを受けたのは明らかにその訳が間違っていたことです。
直訳すると「全ては許された」なところが、東京新聞では
「全ては許される」と書かれていました。この最後の1文字の違いで
どれほどのニュアンスが異なることでしょう?
「全ては許される」そう、まさマホメットにだってJe suis Charlieと
言わせてやれ?どうせ侮辱してるんだから。そんなニュアンスで伝わります。
これはかなり簡単なフランス語の間違いで、どうして一人でもいいから
フランス語がわかる人に相談しなかったのだろう?と残念でなりません。
その「誤訳」により、そう思い込んだ人はそう思い込んで受け取ります。
私は個人的にはそちらを謝罪してもらいたいと思いました。