alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

孤立する母親たち

2018年09月16日 | 女の生き方
今日は東大の若い研究者たちの集まりがあり、研究内容や
今していることについて話を聞いていると、1人の女性が
子供の虐待や孤立支援のNPOで働いている、というので
思い切って聞いてみた。「あの、虐待って何が原因だと思いますか?」
彼女の答えはこうだった。「母親たちの孤立や、母親自身も
虐待を受けたことなどが原因だと思います」
素晴らしい答えだと思い、私はつい思いのたけを語ってしまった。

私が妊娠中に一度母親教室に参加した時、すでに子供のいる母親2人が
こう言ったのは今でも忘れない。「虐待をする人の気持ちがわかる」
まだ子供を産んでいなかった私としては「なんてことを言うんだこの人たち!」
とぶったまげてしまったけれど、今になったらよくわかる、し
おそらく子供がいる(特に男児の?)母親はほとんどの人が
「確かに気持ちがわかる」というだろう。

今では子供が泣いていたり何か少しでも問題があれば「すぐ通報してください!」
ということであり、私は子供が2−3ヶ月の時夕方に泣きじゃくり、これを
通報されるのではないかと恐ろしくて窓を閉めていた。京都の夏は暑く
1人で泣きじゃくる赤子を抱え、密室にこもるのはトラウマになりそうな程恐ろしい経験だった。
私は途方に暮れながら、どうしようもないのでひたすら童謡のCDをかけ
とりあえず歌うことしかできなかった。(今でもその曲をきくと泣きそうになる)
以前は人で賑わっていた家も「子供が産まれたから」というよくわからない
理由でめっきり訪れる人が減り、フェイスブックもなかった時代
誰かと連絡をとることもできないでいた。

私はおそらくその時間があまりに怖くて家を出るようになったのだ。
密室に閉じ込められ、子供はピーピー泣き、だんだん自分も疲れ果ててくる。
子育ては本当に大変だ。最近私はマインドフルネスを学び、ものすごく
生意気な息子になんとか耐えるようになってきたけれど、
正直いって子育てがまともにできる親というのは相当な経験をつんだ
ビジネスマンや経営者レベルの忍耐力や的確な判断能力のある
持ち主くらいではないかと思う。つまり、20代そこそこの、よくわからないままに
子供を産んでしまった私のような女子には、1人でその責任を全部負うのは到底無理なのだ。

そうして女性たちの多くは途方に暮れたまま子供たちに振り回され、
帰ってきた旦那にせめてもの愚痴を聞いてもらう。旦那はそのあと言うかもしれない。
「でも君は働いてなくていいよね」と。友人たちも言うだろう。
「働かなくていいなんてうやらましい!」たしかにそれはそうかもしれない。
でも彼女たちは社会から孤立してたった1人でマンションの中にこもって
子供の全責任を背負わされる。そんなはずじゃなかったのに。
小学生の時は夢を聞かれたかもしれない。「大人になったら何になりたい?」
少なくとも、私の時代にはすでに「お嫁さん!!」なんていう人は少数派だったと思う。
けれど現実はとても厳しい。

私が篠原涼子や緒方貞子さんのようにすでに自分のキャリアで成功し、
しっかりとお金を稼いで、かつ職場への復帰も保証されていれば話は別だ。
VERYのような雑誌はそんな人の美しい子育てについて語っているが
現実は大いに違うのだ。現実には、夢を追いながら派遣社員をしていた者や
いくつかの仕事を掛け持ちしていた者、数年後には独立することを夢見てた者が
存在する。女性の誰もが素晴らしい待遇の会社で正社員として働いているわけじゃない。
彼女たちが子供を産むと、もはや保育園に提出できる書類がない。
もし提出できても莫大な保育園代(月約5万円)を支払ってしっかりと
お釣りが出るほど稼げていなければ仕方なく専業主婦になり、きりつめた生活を
送るしかなくなっていく。

彼女たちは子供を産んだことでできなくなったことが山ほどあった。
飲み会に行ける友達が羨ましい。海外旅行している人がうらやましい。
京都の田舎に住んでいた私は独身の友人たちが「大手町」とか「表参道」という
言葉を使うたびに喉から手が出るほど羨ましかった。1年前まで研究していた
パリという場所ですら、もはや世界に存在するのかわからなくなってしまった。
大学院という知的な場所は永遠に手が届かなくなりそうだった。
そして子供を抱えた私はいつも「ママ」としか見られず、友達と
やっと会えても子供がぐずってほとんどまともな会話は成り立たない。
仕方ないから携帯を与えると今度は「今時の子供は携帯ばっかりね」という
言葉がぐさりとささる。

確かに児童館やママサークルはあるかもしれない。私は核家族でかつ
京都のニュータウンに引っ越して知り合いがいなかったため、
他の人よりよほどそういう場所に通った方だ。コミュニティカフェにも
お世話になった。しかしそれらの場所ではどこでも「〜ちゃんママ」としてか
扱われず、たとえ私が(将来それがきっかけで東大に呼ばれることになるような)
本を書いていたとしても、そんなことに興味を持ってくれる人も
それを正当に評価してくれる人も1人もいない。
そう そして起こっていくのは アイデンティティクライシス。

私は一体誰なのだろう?「〜ちゃんママ?」「(新しい苗字)の奥さん?」
私をこれまでの私として扱ってくれる人は一体どこかにいるのだろうか?
職場に復帰できる人はいい(これを社会復帰というのが言いえて妙だ
つまり自分で子育てしている人は社会の中にいないということか そうなのだ)
しかし戻れる世界がどこにもなかったら?
フェイスブックやインスタグラムもなかったら?
目の前には泣き叫ぶ子供、自分は半分崩壊しそうで 一体どうしたらいいのだろう?
そんな時に 何かが狂ってく。

しかしそれをわかってくれ、本気で助けてくれる人は1人もいない。
誰も「お母さん、大変ですね、もっと休んでください 私が子供見ますから」
と 温泉のチケットを渡してくれたり、カフェにいったらいいよと言ってくれる
人はいない。(実家に優しい母がいるか相当素晴らしい旦那さんに恵まれた人は別)
疲れていたら「ゆっくりしてね」と人は言うかもしれない。でもどうやって?
目の前に子供がいるのに?また今日も夜泣きをするのに?夕方には1時間泣き続けるのに?
どうやったら子供がいるのにリラックスなんてできるのだろう?

子育ての方法もわからない。
まわりの人の子供は「いい子ね」と言われるけどうちの子は・・・
かといって仕事もできないしまわりはどんどん進んでいく
そんなうちに激しい自己嫌悪におそわれる、が、周りの目が気になるために
子供が「いい子ね」と言われるように必死になって本を読ます・・・
(私は2年間必死で子供が「いい子ね」と言われることを目指してきたように思うが
なんの価値もなかったことを伝えたいと思う。しかもそれをあきらめ、
自分は悪い母だと認識するようになってから「素敵な子育てね」と言われる・・・)

以前ニュースになった「ゆるしてください」と書いて亡くなった女の子は
とてもかわいそうだけど、虐待をしながらも読み書きの練習をさせていた
母親の気持ちはどんな状態だったのだろう。小学生にもなっていないのに
無理やり勉強をさせたのは、母の中にそれだけのプレッシャーが
あったからではなかろうか。母親たちは押しつぶされそうな圧力の中
必死で毎日もがいている。進研ゼミの宣伝は届いても、誰も普通の母親たちに
どうすれば子育てがうまくいくか、子供にとっても母親にとっても
いい方法とは何なのか そんなことは教えてくれない。
私たちが人の目を気にして子供優位の子育てをすればするほど
おそらく10年後には親が大変なことになる。
私はしょっちゅう思っていた。私は虫なわけじゃない。
虫は子供を産んだらそれで終わりで、親が死んでしまうことがある。
でも私だって人間なのだ。母親になっても自分らしく生きることは
そんなにも不可能なのだろうか?もし彼女にお金がなくて
まだ素晴らしい地位も手にしていなかったら?彼女はただ子供を
産んだがゆえに、その夢を50歳になるまで諦めなければいけないのだろうか?


日本は先進国じゃなかったのかな・・・


東京から変わらなかったらこの状況は変わらない
だから私は東大の女性に語ってしまう。
今変えないと 数年後にはあなたの番になるんだよ と。

お金持ちには何もかもが許されている。
でもそれはごく一部の人たちなのだ。
母親がもっと自分らしく生きられること それを認めてくれる人や
支援がまわりにあること パリのようにそれを促す仕組みやまちのデザインが
普通にあること 
児童相談所のスタッフを増やすより
本当にやるべきことは母親たちがもっとリラックスして
子育ても自分の人生も いいなと思える環境をつくることではないのだろうか。

最新の画像もっと見る