alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

パリの哲学カフェでまた考える

2011年11月21日 | 哲学カフェ


 「どうしてフランスからはあんなにも現代思想が
生まれていたのだろう?」とよくクルミドコーヒーの
影山さんは口にしていた。「それはカフェがある国だから?」
と私の本を読んでくれて言ってくれたりもするのだけれど
おそらくそれは カフェがどうこうではなくて
フランスがノーと言える国だからだろう。


 昨日は朝バスチーユの哲学カフェに行き、
またしても遅刻してしまったけれどもなんとかして
席をみつけ(70人以上入ってますよ!!)
議題をなんとなく追ってみるとどうも
「現代において哲学が果たしうる役割はあるのか」
といった そんな感じ。今回も議論は抽象的な
ことだったり 言葉をかえて考え直してみたりというのが
多かったので そこまで「うっわー面白い!」という
わけでもなかったけれど それでもフランスにおいて
哲学がいかに重要なのかがなんだかわかってためになる。


 哲学っていうのは批判をしたり、「こうだ」と
思われていることにたいして「違うんじゃない?」と
他の視点を提供したり、考える、思索するきっかけや
思索をしてみるというそのこと自体を人間に与えるらしい。
哲学と科学との違いは哲学は「何故?Why」の分野で
科学は「どうして?How」を解明する分野らしい。
だから科学に人間はどうして生きるのかと問うてみても
答えはでなくて それは哲学の範疇らしい。


 そういえば私は中学3年生の時、人間は何故、何の
意味をもって地球にやってきたのかを考えてどうしようも
なくなってひたすら本を読んだけど そのとき哲学が
答えを与えてくれるのかなあと思って哲学書の分野に
近づいたけど なんだかあまりに難解そうで
けっきょくお近づきにはなれなかったな。だけどもしかして
それは日本とフランスの哲学に対する姿勢の違いで
昨日の哲学カフェの議論をきいていると もっと
フランスにおける哲学は 難解なものだけじゃなく
私が抱いた様な「なんで?」という疑問に答えようとする
そういうものが沢山存在しているのかもしれない。
(以前読んだ哲学マガジンの「人生は変えられるのか?」
という特集だって よく考えたら通常人が送る様な
人生を途中で変えることにしたけど それも
その人にとっての幸せが僧侶になることだったとか
彼ら自身の「私の幸せとは一体何なのだろうか」という
内面にある疑問と素直な気持に従った結果を書いたものだと思う)


 日本では深い問いを投げかけることが許されない。
それにノーということもできない。だから思想にならないんじゃない?
と私は思ってしまうけど。この国の人たちはわりと簡単に
深い疑問を投げかけている。「何のために生きているのか?」
「どうして働かないといけないのか?」とか
私はたまに「日本人はどうして真夜中まで働くの?
家族のことはどうでもいいの?」と質問されることがあるけど
日本でそんなことをいったら「お前な そういうものなんだよ!」
でおしまいだ。根本的な どうして?という問いかけを
してしまったら それ自体が許されない。そういうことが多いと思う。


 私は何故か昨日「実録連合赤軍」という 前から観てみたかった
だけどめちゃくちゃ恐ろしくてみた後に頭からいろんなことが
焼き付いて離れない映画をみてしまい そこに昔から
気になっていたけどわからなかったいろんな言葉やシーンが沢山あって
仲間内でどんどんと人を殺していってしまう 「総括せよ」
「自己批判せよ」という名目のもと 誰かと少しでも
違っていたり 違う意見や素朴な疑問をもっていること
「やっぱり私には意味がわかりません」と言ってしまうこと
そういうだけで どんどんと人がリンチにあっていく。
世界には沢山の運動が存在していたけれど こういう状況は
とても不可解なものらしい。だけど私にはよくわかるような気がしてしまう。


 外国の人たちが「わからない」という神風も 連合赤軍も
戦時中に起こったたくさんの恐ろしい日本の「空気」も
私にはなんだかよくわかる。誰一人ノーとは言えなかった。
誰一人それを言うことが許されなかった。例え もしかして
半分以上の人が 心のどこかで それはおかしいんじゃない?
そこまでする必要が本当にあるのだろうかと思っていても
誰一人ノーとは言えなかった。それは「非国民」に値するから。
だから日本では 何かを変えるのが難かしい
だって何かを変えるには「そんなのは嫌だ」とか
「そんなのおかしい」って言わないことにははじまらないはずだから。


 日本では思考することが決して求められていないと思う。
「どうしてしないといけないの?」「そういうものだからなんだよ!」
「そうしたら幸せになれるの?」「しるかそんなもん!」で終わってしまう
「みんなしてんだからお前もしろよ!」が日本のルール。
お前だけ異なってること みんながやっているのに
「私にはできません」といってしまうこと それはとても許されない。



 私はフランスがうらやましい。
「それで あなたたちは幸せなの?」って向こう岸から問うていられる
「じゃあどうやったらもっと豊かに生きられるのか」と問うていられる
それが私にはうらやましい。彼らはいつも 外から日本を眺めていられる
「美しいけどきっと大変なんだろうね なんだか不思議な国だなあ」
って彼らは眺めているのだろうか 世界の多くの国の人たちが
日本の「特殊で例外的」な状況を不可思議に眺めていても
日本にはその「世界では特殊で例外的な」状況1つしか存在しない。
だけどそれからはみでてしまったら どうしていったらいいのだろう?
だから私は ものすごい叫びをこめて「せめてカフェくらいは
そんな逸脱者たちを受け入れる場であってほしい」と本に記した。
でなかったら どこに行き場があるというのだろう?


 もうすこし 素直に問うてみることは どうして許されないのだろう
一体何のために生まれて来たのか 幸せとは何なのか
他の人が「あなたは幸せなはずだ」といえばそれで自分は幸せなのか
マクロビオティックさえしてれば本当に幸せになれるのか
23時まで働いて 家庭にほとんど姿をみせないという父親の姿が
幸せな家庭なのだろうか 私は沢山の疑問を抱いて生きてしまった
だからそんな疑問に率直になり じゃあこうしてみたらどうだろうかと
社会の仕組みを変えて行った そんなフランスがうらやましい。
映画の最後に「革命戦士」たちは叫んだりする。「俺たちは
結局みんな勇気がなかっただけじゃないかよ!」
「こんな風に殺し合うことが革命なのか?」
本当はどこかでそう思ってた だけどだれも 死ぬ間際まで
それを口にできなかった あのあさま山荘事件の後から
日本がどう変わって行ったのか 私にはわからないけれど
やっぱり私にはなんだか怖い。思想というのは誰かが口を開くこと
誰かがノーといってみることから きっとはじまるものだと思う。

フランスに行くなら

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