日本の礼儀作法を「教養」という言葉に置き換えて、日本の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
礼節は教養を育み、愛する人を思いやる心に通じると思います。日本の憲法は、西暦603年の冠位十二階に始まります。憲法と言うよりは、礼儀作法と言った方が良いかもしれません。
翌年604年の十七条の憲法に続き、794年の第50代桓武天皇による平安遷都以降、400年間続いた貴族社会の教養である「公家有職(こうけゆうそく)」が、室町時代、第三代将軍足利義満の頃、小笠原流礼法(日本の礼法の基礎にある礼法)を主流として、茶の湯、歌舞伎、生け花、日本建築(書院造り)など、日本伝統文化の大半が形を整えました。更に、貴族の「公家有職(こうけゆうそく)」と武士社会の「武家故実」が足されたような形の「有職故実(ゆうそくこじつ)」の教養学が体系付けられました。
江戸時代になり、孔子の『論語』など、儒教の思想を取り入れた「寺子屋」
を通して、一般庶民の教養教育が勧められました。禅寺の教養を基礎として、農作業、掃除など労働一般の重要性を説いた「作務」という考え方も一般化しました。鹿児島の「郷中教育」もこんな中から生まれました。
時は流れ、明治維新により、貴賎尊卑の差別なく、士農工商の身分が四民平等となりました。明治政府は富国強兵の思想を掲げ、同時に、和洋折衷の中で、日本文化を基盤とし、国際的に通用する教養を模索し始めました。明治5年に学校制度ができあがると、「修身」という科目を設け、その冒頭に教育勅語を載せました。
昭和13年、文部省が「作法教授要綱調査委員会」をつくり、宮内省、文部省、外務省、陸軍省、海軍省から30名の委員を選任し、昭和16年4月、新しい教養体系「作法要綱」を作りました。これを、文部大臣が地方長官に通達し、違反したものには罰則を設けるという厳しいものとし、「国民礼法」と名づけました。ところが、終戦後、国民礼法は幻の礼法となりました。
わが国の歴史において、国が形を整える頃から、常に教養(礼儀作法)というものは、国を治めるために欠かすことのできない教えでありました。教養教育が消えてしまった結果、日本はどんな時代になってしまったかは、周知の通りです。
人は自分のために生きるのではなく、愛する人のために生きるものだと思います。礼儀作法とは、愛する人を思いやる心だと思うのです。日本の文化の根本は、愛する人を思いやる所に全てが始まっているような気がします。そんな思いやりを取り戻した時、本来の美しい日本がよみがえるような気がします。昭和の祭日に徒然考えたことを書いて見ました。