ヒュースタ日誌

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コラム再録(2)『生きる道はいくつもあるか』

2012年10月17日 14時13分26秒 | メルマガ再録
 「生きる道はいくつもある」ということを言う人が増え、不登校を肯定する理由のひとつになっています。ただ「道はいくつもある」と言ったときの「道」のイメージに注意する必要があります。

 一般に“子どもの生きる道”と言ったら、大通り(メインストリート=通学している子どもたちが歩いている道)と、裏通り(横道・細道=不登校の子どもたちが歩いている道)のふたつがイメージされて、不登校児は「横道にそれて道に迷っているかわいそうな子どもたち」と見られ「早くメインストリートに戻さなければ」と考えられています。これが現代の“常識”です。

 それに対して「横道だろうと細道だろうと、道は無数にあるのだ」とか「メインストリートが良いと思うほうがどうかしている」などといった、不登校を支持する人たちの“脱常識論”が“常識論”と対立したりします。

 一方、私は「道」にもうひとつのイメージを提案したいと思います。

 私が人生を道にたとえるなら「道はひとりに一本ずつ用意されていて、人は自分だけの道を、生まれてから死ぬまでひたすら歩き続ける」というイメージになります。

 各自に一本の道しかない以上、人は横道にそれたり(逸脱)、回り道したりということはありえません。誰もが、ひたすら一本の道を歩き続けているのです。

 そしてその道には、平坦な部分、デコボコしている部分、石や雑草だらけの険しい部分、出口の見えないトンネルの部分、などがあります。
 したがって、歩いている限り、誰もが険しい道を通過しなければならない時期があるわけです。

 通学している子どもは、平坦か、多少デコボコしているくらいの道を歩いているといえます。ところが歩いているうち、道が険しくなってきて、フラフラしたり転んだりしながら、ゆっくり歩かざるをえなくなってくる──「不登校が始まった」ということは、そういうふうにたとえることができます。

 また、不登校やひきこもりの経験者の多くには「あの頃がいちばん苦しかったなあ」と思える時期があります。その時期は、出口の見えないトンネルを歩いていた、とたとえることができます。

 出口の見えないトンネルを歩いているときは、非常に不安です、暗くて周りも先も見えない。怯えながら歩いている姿を想像することができます。
 そして、そのまま歩き続ける(生き続ける)うちに、トンネルを抜けて先が見えるようになったり、険しい道を抜けて、歩くのが楽になったりするときが来るのです。

 道というものをこのようにイメージすれば、誰の道にも平坦な部分や険しい部分やトンネルの部分があって、それらを必ず通らなければならない、ということがわかります。

 不登校やひきこもりというのは、道のなかの険しい部分やトンネルの部分、ということになります。言い換えれば、不登校やひきこもりは、その人の人生の一時期に歩く“途中の道”であるといえるのです。

 2003. 4.23 [No.27]


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