ヒュースタ日誌

相談機関「ヒューマン・スタジオ」の活動情報、ホームページ情報(新規書き込み・更新)を掲載しています。

コラム再録(4)『本人の変わりにくさにどう寄り添うか〔上〕“荷物”と“よろい”』

2012年10月31日 14時52分18秒 | メルマガ再録
 去年の春から夏にかけて、本欄では7回にわたり“荷物”(=自分のこだわり)と“よろい”(=世間の常識)という、ふたつをキーワードにして「本人が“よろい”を脱ぐ(=世間の常識を捨てる)ことや“荷物”を捨てる(=自分のこだわりを捨てる)ことの難しさと、それらを容易にする対応」について考えました。

 この論考は周囲の支援関係者の方々に好評をいただき、所属する学習会やミニ講演会など数ヶ所でテーマとして依頼を受け、内容を再構成してレジュメを作成し、それをもとにお話させていただきました。
 そこで今回から、その話の内容を3回に分けてお伝えします。

 なお、この論考をお読みでない方は、去年6月2日配信の78号から84号までの本欄を、あわせてお読みいただくと理解しやすいかと思います。


         〔上〕“荷物”と“よろい”

 不登校児やひきこもり青年の心理として、よく挙げられるのが「こだわりが強い」という点です。そのため「不登校児やひきこもり青年は、こだわりがなかなかとれないから変わるのに時間がかかる。だから不登校やひきこもりは長引くことが多いのだ」と言われています。

 ただ、ひと口に「こだわり」と言っても、それにはふたつの種類があることを理解して対応すべきであると、私は考えています。

 ひとつは、文字どおりの「こだわり」、すなわち自分のなかから生まれているこだわりです。
 たとえば「健康にいいことなら何でもやる」とか「ブランド物は○○しか買わない」などというものです。私はこれを“荷物”にたとえたいと思います。

 もうひとつは「世間の常識」、すなわち社会から取り込んだ、あるいは社会から与えられたこだわりです。
 たとえば「子どもは学校に通うのが当然」「中学を卒業したら正規の高校に入るのが一般的」「おとなは働くのが当然」「正規に就職して一人前」というものです。私はこれを“よろい”にたとえたいと思います。

 もちろん、どちらも社会や時代の影響抜きにはありえない価値観なのですが、前者は人それぞれの個人的な信念であるのに対し、後者は社会通念として、大多数の現代人の間で共有されている信念である、というところが大きく違います。

 さて、このふたつのこだわりは、多かれ少なかれ誰でも持っているものです。ところが、ひとたび学校へ行けなくなったり社会に出られなくなったりすると、両方強くなって本人を苦しめるようになります。

 前者の「こだわり」が強くなると「親との関係」「学校でいじめられた体験」「職場での失敗体験」などといった、マイナスの記憶や経緯に執着するようになります。過去の出来事や解決不可能な問題をあきらめることができず、どうすればよかったかを繰り返し追求し続けます。
 私はこれを「重い“荷物”を背負っている」と表現しています。

 後者の「世間の常識」が強くなると、前述したような「普通の人生」「常識的なプロセス」に執着するようになります。内申点の関係で普通高校に進学することが不可能なのに、フリースクールを選択肢に加えることを拒否したり、ボランティアやアルバイトをせず、最初から正社員として就職することをめざしていたりします。
 私はこれを「重い“よろい”を着ている」と表現しています。

 現実の生活のなかでだって、重いよろいを着たまま重い荷物を背負っていては、とても動ける、あるいは動き続けられる状態ではないのと同じで、不登校児やひきこもり者は、心理的にそのような状態になった結果、苦しくなり、動けなくなっているわけです。


++++++++++

 「登校するのが(働くのが)普通なのにそうできない」という気持ちと「ひっかかっていることへのこだわりを捨てることができない」という気持ちを両方もっていては、平穏で元気な生活を送ることは、とてもできないでしょう。(78号)

++++++++++


 では、このような心理状態を変えること、つまり苦しみが軽くなって動き出せるようになるためには、本人はどうすればよいのでしょうか。
 私は論考のなかで、次のように述べました。


++++++++++

 結論からいいますと“よろい”(=世間の常識)と“荷物”(=こだわり)の、どちらかを捨てることです。
 そこで「今の自分は、登校できない(働けない)時期なんだ」と、現在のありのままの自分を受け入れるか「今ひっかかっていることをそのままにする」とあきらめるのかの、どちらかを選択することです。
 しかし現実には、周囲は“よろい”を脱ぐことは認めず“荷物”を捨てることだけを要求するものです。(78号)

 常識的に考えると「背負っている“荷物”を捨てればいい」ということで片づいてしまいます。というか、大多数の人々は“荷物”を見つけても拾わず、背負った“荷物”が重ければ捨てているわけです。
 それが“生きる知恵”でもあることは確かでしょう。
 しかし“荷物”を捨てられるかどうかは、本人の性格だけでなく、そのときどきの状況や人間関係など、本人以外の要素も関係します。したがって、本人以外の要素が取り除かれるようサポートしないまま、一方的に「捨てろ」とだけ説得しても、本人は捨てられないことが多いと思います。(78号)

++++++++++


 次号では“荷物”と“よろい”を捨てることができない本人の心理に迫ります。


2005.10.05 [No.109]


78号から84号までの論考をあわせて読む(78号が出ます)
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コラム再録(4)掲載のお知らせ

2012年10月31日 14時05分15秒 | メルマガ再録
 今月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 第4回のきょうは、8年前に“「荷物」と「よろい」シリーズ”ともいうべき7回にわたって執筆した文章を、翌年に3回完結に再構成し一部加筆した連載「本人の変わりにくさにどう寄り添うか」の第1回を転載します。

 “「荷物」と「よろい」シリーズ”とは“荷物”(=自分のこだわり)と“よろい”(=世間の常識)という、ふたつをキーワードにして「本人が“よろい”を脱ぐ(=世間の常識を捨てる)ことや“荷物”を捨てる(=自分のこだわりを捨てる)ことの難しさと、それらを容易にする対応」について考えたもので、完結後は、ミニ講演会や所属する学習会など数か所で講演や話題提供のテーマとして依頼を受けたり他団体のニューズレターに転載されたりしたほか、5年前の創刊5周年記念号の企画「コラムランキング」で1位になるなど『ごかいの部屋』のなかで最も高い評価を得ています。

 そのうち、講演や話題提供のテーマとして依頼を受けた際にレジュメにまとめた内容を文章化したものが、翌年に連載した3回シリーズで、ここではこちらを転載するということです。

 初めてお読みくださる方は、ぜひ前年の7回シリーズのほう(78号から84号)を、あわせてお読みいただくと理解しやすいかと思います。


 では、遅くなりましたがこのあと掲載します。
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コラム再録(3)『子育てが間違っていました』

2012年10月24日 14時02分06秒 | メルマガ再録
 この言葉は本当によく聞きます。私の相談業務のなかでも、半数近くの親御さんは初回面接で自ら口にされます。口にされない親御さんも、お話のなかで心中そう思っていらっしゃることがうかがわれることが少なくありません。

 私の相談業務では、不登校やひきこもりが起きるまでの経緯を把握するために、本人の生い立ちを簡単に聴き取ります。ただ、その結果「不登校やひきこもりの原因は子育ての誤り」と判断したケースは、これまで1例もありません。

 事実、不登校やひきこもりになった青少年のなかには、以前には現在と正反対の印象(活発、友人が多い、頑張り屋、など)だった人が少なくないことが、親御さんのお話からわかっています。そうなると、不登校やひきこもりが、親御さんの子育ての善し悪しで起きたり起きなかったりするような現象ではないことが明らかです。

 にもかかわらず、現代社会の風潮として“子育て原因論”や“親への過剰な期待”が横行しています。そのことが、親御さんに「親として自分(たち)の子育てが間違っていた」と言わせてしまう、という面は否定できないと思われます。

 ただ、そうおっしゃる当の親御さんに「言わされている」という実感はないでしょう。むしろ、親としてのひたむきさや責任感の表れだと思いますし、その反省(必要かどうかは別にして)のお気持ちが、主体的に対応していこうという姿勢につながっている親御さんも多いようです。

 ただ、不登校やひきこもりが生じるメカニズム(専門家は「発症機序」と言います)について、これまでに何度かお話してきたように、私には私の説があります。

 すなわち、不登校やひきこもりは「本人の奥深くから沸き上がってくるエネルギーに突き動かされて起こる行動」です。私はこれを「無意識からの指令」と呼んでいます。

 不登校やひきこもりになるとき、本人のなかには、えも言われぬ違和感や不安感が生じています。それは言葉では言い表せない感覚ですが、あえて強引に言葉にすれば「このままで大丈夫か?」「今の自分でいいのか?」などというものになるでしょうか。
 そしてそういう感覚に導かれるように、本人は不登校やひきこもりという“トンネル”に入っていきます。無意識のうちに、そういう行動を起こすわけです。

 順調に生きることができなくなった本人は、自分の生きざまを受け入れることができずに葛藤するわけですが、逆に無意識の部分では「このままで大丈夫」「今の自分でOK」と納得できる、新しい生き方を探し続ける欲求を、消し去ることができないのです。
 その結果「不登校やひきこもりにならなかったらできなかった体験や出会い」を積み重ねていくうちに、以前とは違う人生観やエネルギーが生まれるわけです。

 こう考えると、本人を不登校やひきこもりへと導いた違和感や不安感は、無意識による「今の生き方はいずれ行き詰まるぞ」という“予言”であり「その前にいったん退却して、自分を創り直してから再出発せよという“指令”であると解釈できます。

 このような“予知能力”は、誰もが持っているわけではなく、本人の資質であり個性です(もちろん人間的な優劣とは無関係ですが)。
 したがって、不登校やひきこもりという困難な方法をとってでも、自分の人生を変えることができる資質・個性を育てたと考えれば「不登校・ひきこもりは、子育ての成果」と言っても過言ではありません。

 「いいえ、私はほんとうに子育てを間違えました。」
 そう確信なさっている親御さんもいらっしゃるでしょう。

 では仮に、ほんとうに誤った子育てによって、人格形成にアンバランスが生じて不登校やひきこもりになったとしましょう。

 そんな場合の不登校やひきこもりの意味は「人格形成のアンバランスを、自分で調整して再構成する作業」なのです。

 繰り返しますが、不登校やひきこもりは「本人の奥深くから沸き上がってくるエネルギーに突き動かされて起こる行動」です。言い換えれば、誰かのせいで起きるのではなく、自分で起こす行動なのです。
 ですから、今大切なことは「どう対応するか」です。「子育て」はともかく「対応」は、これからどうにでもできることなのですから。

2006.06.07 [No.122]「親の気持ち・親の疑問」シリーズ(1)


続けて関連する号を読む
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コラム再録(3)掲載のお知らせ

2012年10月24日 13時27分26秒 | メルマガ再録
 今月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 第3回のきょうは、6年前の6月から6回シリーズでお送りした「親の気持ち・親の疑問」シリーズの第1回『子育てが間違っていました』を転載します。

 これは親御さんがよく口にする言葉ですが、面接相談で本人の成育歴を聴き取っている筆者は「子育てが不登校・ひきこもりの決定的な原因だと判断したケースはない」としたうえで、不登校・ひきこもりについて「なぜ起こるのか」という「原因の解明」ではなく「どのように起こるのか」という「心理メカニズムの理解」が重要だとの信念にもとづいて、心理メカニズムに関する自説を述べていきます。そこには、筆者の援助方針の大前提になっている「原因探しより本人の気持ち」という信念が表れています。

 筆者の援助方針の基盤になっている「不登校・ひきこもり理解」の第一歩を示した一作です。

 ぜひご一読のうえ、コメント欄にご意見ご感想をご記入ください。

 このシリーズは、面接相談や親の会などの場で、わが子の不登校やひきこもりに直面した親御さんと話していて、印象的な言葉に考えさせられたり、親御さんの多くがおっしゃる言葉があることに気づいたりしてきた筆者が、そのような言葉のいくつかを取り上げ、それらに対する意見をお伝えするものです。

 では、このあと掲載します。
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コラム再録(2)『生きる道はいくつもあるか』

2012年10月17日 14時13分26秒 | メルマガ再録
 「生きる道はいくつもある」ということを言う人が増え、不登校を肯定する理由のひとつになっています。ただ「道はいくつもある」と言ったときの「道」のイメージに注意する必要があります。

 一般に“子どもの生きる道”と言ったら、大通り(メインストリート=通学している子どもたちが歩いている道)と、裏通り(横道・細道=不登校の子どもたちが歩いている道)のふたつがイメージされて、不登校児は「横道にそれて道に迷っているかわいそうな子どもたち」と見られ「早くメインストリートに戻さなければ」と考えられています。これが現代の“常識”です。

 それに対して「横道だろうと細道だろうと、道は無数にあるのだ」とか「メインストリートが良いと思うほうがどうかしている」などといった、不登校を支持する人たちの“脱常識論”が“常識論”と対立したりします。

 一方、私は「道」にもうひとつのイメージを提案したいと思います。

 私が人生を道にたとえるなら「道はひとりに一本ずつ用意されていて、人は自分だけの道を、生まれてから死ぬまでひたすら歩き続ける」というイメージになります。

 各自に一本の道しかない以上、人は横道にそれたり(逸脱)、回り道したりということはありえません。誰もが、ひたすら一本の道を歩き続けているのです。

 そしてその道には、平坦な部分、デコボコしている部分、石や雑草だらけの険しい部分、出口の見えないトンネルの部分、などがあります。
 したがって、歩いている限り、誰もが険しい道を通過しなければならない時期があるわけです。

 通学している子どもは、平坦か、多少デコボコしているくらいの道を歩いているといえます。ところが歩いているうち、道が険しくなってきて、フラフラしたり転んだりしながら、ゆっくり歩かざるをえなくなってくる──「不登校が始まった」ということは、そういうふうにたとえることができます。

 また、不登校やひきこもりの経験者の多くには「あの頃がいちばん苦しかったなあ」と思える時期があります。その時期は、出口の見えないトンネルを歩いていた、とたとえることができます。

 出口の見えないトンネルを歩いているときは、非常に不安です、暗くて周りも先も見えない。怯えながら歩いている姿を想像することができます。
 そして、そのまま歩き続ける(生き続ける)うちに、トンネルを抜けて先が見えるようになったり、険しい道を抜けて、歩くのが楽になったりするときが来るのです。

 道というものをこのようにイメージすれば、誰の道にも平坦な部分や険しい部分やトンネルの部分があって、それらを必ず通らなければならない、ということがわかります。

 不登校やひきこもりというのは、道のなかの険しい部分やトンネルの部分、ということになります。言い換えれば、不登校やひきこもりは、その人の人生の一時期に歩く“途中の道”であるといえるのです。

 2003. 4.23 [No.27]


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コラム再録(2)掲載のお知らせ

2012年10月17日 13時49分48秒 | メルマガ再録
 今月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 先週は196号の配信日だったためお休みしましたので、きょうは先々週に続く第2回
です。

 創刊間もない9年半前、2003年の4月23日配信号に掲載した『生きる道はいくつもあるか』。

 理解者の「学校に行かなくても道はいくつもある」というよくある発言に賛同しながらも「道はひとりに一本ずつ用意されていて、人は自分だけの道を、生まれてから死ぬまでひたすら歩き続ける」という、もうひとつの見方を提示して当事者たちの注目を集めたとされている“短編話題作”です。

 なお、人手不足のため通常は閉じているコメント欄を転載から1週間(翌週が配信日の回は2週間)限定で開放。その時間内にいただいたコメントをチェックしたうえ順次公開させていただきますので、お読みになってのご意見ご感想をふるってお送りください。


 では、少し遅れましたがこのあと掲載します。
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『ごかいの部屋』第196号配信

2012年10月11日 14時32分00秒 | ホーププロジェクト
 きのう配信しました。

 2002年10月9日に創刊した当メルマガ、今号は10周年記念特別版です。

 内容は「配信のいきさつから現在の位置づけまでを簡単にたどり、読者の皆様から歴代の配信作業委託先の方々にいたるすべての関係者への感謝を込めたご挨拶」「おふたりの読者の方からいただいたメッセージ」「お読みになった方限定の記念イベント参加者募集告知」の3本立てです。

 特に「ごかいの部屋を読んでいると、子どもというよりも自分が楽になることを考えていいんだなと思えます。丸山さんから飛び出す言葉に、私自身の生き生きとした感情を掘り起こしてもらってる気がします」など、たったおふた方とは言えどのように読まれているかがわかる読者メッセージを、筆者は感動しながら転載していました。

 創刊のいきさつや廃刊危機の場面、そして読者の感想など、めったに読めない話が満載の今号をお読みになるだけで『ごかいの部屋』がどういうメールマガジンかがおわかりいただけることでしょう。

 11年目以降も『ごかいの部屋』をよろしくお願いいたします。


『ごかいの部屋』196号を読む
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「コラム再録」コメント欄開放期間変更のお知らせ

2012年10月04日 13時26分08秒 | メルマガ再録
 創刊10周年を迎えたメールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』のコラム(本文)を毎週1本ずつ選んで転載する「コラム再録」。きのう第1回の転載コラムはもうお読みいただきましたでしょうか。

 最初に「コメント欄を掲載から24時間開放(書き込み可能に)する」とお知らせしましたが、短すぎるので1週間に変更します。掲載から1週間以内に発見してお読みくださった方ならコメントを書き込んでいただけます。

 どうぞゆっくりお読みのうえ、じっくりお考えになって書き込んでください。ご意見ご感想をお待ちしています。
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コラム再録(1)『トンネルを歩き通すために』

2012年10月03日 13時50分41秒 | メルマガ再録
 もうひとつのメルマガ『青少年支援ガイド』41号のコラム「当方見聞読」欄に書いたとおり、去年12月23~24日「第3回民間教育学会」が開催され、初日のシンポジウムで、愛知県の「NPO法人アイ・メンタルスクール」代表理事の杉浦昌子氏が実践報告を行いました。

 氏は、去る2月15日に放送された『緊急大激論SP2006!“子どもたちが危ない”こんな日本に誰がした!? 全国民に“喝”!!』というテレビ番組に出演し「心をなくした子どもたち」というコーナーでは、活動の様子がVTRで流れました。ちょうど1ヶ月前ですので、ご覧になった方は覚えていらっしゃると思います。

 氏は、姉の長田百合子氏と同様ひきこもっている青少年を連れ出して入寮させ、生活に始まり学校復帰や就労への支援を行っています。

 実践報告によると、就労支援では、地元のファミリーレストランや静岡の工場との提携をはじめとする職場開拓、アルバイトしている若者がミスしたときのフォロー、など丁寧な支援を行っているようでした。

 家庭訪問や親子への指導では「親子を責めない」「ときには寮を見学してもらって、お互い納得の上で連れ出す」「寮での生活を日報にまとめて家庭に送っている」など、姉との理念・手法の違いを示しながらも「対象としているのは近所で迷惑をかけている(荒れている)子どもたちであり、警察の協力を得て訪問することが珍しくない」と、その苦労
を語っていました。

 フリーディスカッションの時間に私は「警察の協力を得なければ訪問できない原因が<訪問の仕方>にあると判断したケースは1件もないのか」と質問しましたが、氏は「段階を踏んで慎重に進めている」と、訪問実践に落ち度のないことを強調しました。

 この姉妹のように、不登校児やひきこもり青年を積極的に説得して、あるいは強引かつ乱暴に、連れ出して入寮させる実践者は、不登校児やひきこもり青年を「人生の歩みを止めた人たち」「自分で動き出す力を失っている人たち」と見ているのではないかと、私には思えます。

 私は、不登校児やひきこもり青年をそのようには見ていません。むしろ逆に「人生の歩みを続けている人たち」「その歩みが自分で動き出す力へとつながる人たち」と見ています。

 ただし彼らの多くは、自分で歩んでいる道を“見通しのよい明るい道”ではなく、“出口の見えない暗いトンネルの中”だと感じていることでしょう。

 出口の見えない暗いトンネルを歩いている姿を想像してみてください。先の見通しが立たない不安におびえながら、ソロリソロリと少しずつ歩いている場面が、目に浮かぶと思います。

 そんな彼らに対して、親御さんや学校の先生や関係者がするべきことは何でしょうか。マスコミがしばしば取り上げ称賛するように“熱血家庭訪問”によって連れ出し入寮させることは、よい解決方法なのでしょうか。

 私の表現では、家庭訪問して連れ出すというのは、外からトンネルの途中に穴を開けて、外の世界に引っ張り出すようなものです。つまり、彼らが手探りで歩むことをやめさせ、手取り足取り指導して、通常の道を歩くことができる心身をつくる、ということです。

 彼らは、そのような支援を望んでいるのでしょうか。

 私自身の不登校とひきこもりの体験は、まさに「トンネルを踏破した(歩き通した)体験」でした。苦しみ抜いた末にトンネルを抜けたとき、目の前に広がっていた光景は、トンネルの途中で穴から連れ出される地点からは、決して見ることのできないものでした(64号参照)。

 さらに、現在不登校やひきこもりの相談を受け<連れ出す目的ではない家庭訪問>を含む支援活動を行っていて、だんだん「かつての私と同様彼らの多くも、自分の足でトンネルを踏破するつもりで歩いている」と認識せざるを得なくなってきたのです。

 つまり彼らが望んでいるのは、トンネルの途中で引っ張り出してもらうことではなく、トンネルを歩いている自分を応援し、踏破する(出口まで歩き通す)エネルギーを補給してくれる、そんな支援なのではないでしょうか。

 このような支援を私は、45号で“後方支援”と表現し、次のように説明しています。

 「歩いている本人の前に出て誘導するのではなく、本人の斜め後ろを本人と同じペースで歩き、本人が歩き疲れて後ろに倒れそうになったら頭を打たないよう支えたり、本人の靴がボロボロになったら取り替えたりする、というイメージ」

 もちろん、不登校児やひきこもり青年のすべてがそう望んでいる、と盲信しているわけではありません。本人のタイプや状態、また支援に対する本人のニーズは人それぞれです。その鑑別は常に心がけていますが、それでもなお「トンネルの途中で引っ張り出してもらう」支援を望んでいて、かつそれに向いていると思われる青少年は、これまでに受けた相談にかぎって言えば、ほとんどいなかったのです。

 もちろん「家庭訪問→入寮指導」というシステムを実践している団体はいくつもありますから、それらをひとくくりにして否定することはできません。「このシステムに救われた」と認識している青少年も少なくないでしょう。

 ただ、私は個人的にこう思っているだけです。「不登校やひきこもりの時代に、家庭訪問して連れ出そうとする支援者に出会わなくてよかった」と--。

 2006.03.15 [No.118]


文中で引用した45号を読む

文中で引用した64号を読む
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コラム再録(1)掲載のお知らせ

2012年10月03日 13時40分52秒 | メルマガ再録
 今月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」がきょうからスタートします。

 この企画では、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していきます。また、人手不足のため通常は閉じているコメント欄を転載から24時間限定で開放。その時間内にいただいたコメントをチェックしたうえ順次公開させていただきますので、お読みになってのご意見ご感想をふるってお送りください。


 第1回のきょうは、6年前の3月15日配信号に掲載した『トンネルを歩き通すために』。監禁致死事件を起こした宿泊矯正施設の代表(当時)の実践報告を聴いての感想(話を信じてのものです。事件後ほとんどがウソだったとわかりました)と、それに反論するかたちで自らの体験を交えながらの不登校・ひきこもり論を記述。
 この号を配信した約1か月後に事件が発生し、その後読んだ人に「予言的ですねえ」と言われた“いわく付き”の文章です。

 また、ここで初めて主張した“トンネル論”は、青少年の不登校・ひきこもりへの筆者ならではの理解と支援の基本的あり方を示したものとして、各方面から高く評価されています。

 では、このあと2時に掲載します。
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