ヒュースタ日誌

相談機関「ヒューマン・スタジオ」の活動情報、ホームページ情報(新規書き込み・更新)を掲載しています。

コラム再録再延長(3)『本物の自分・本物の対応』

2013年06月29日 18時50分14秒 | メルマガ再録
 当メルマガを配信している相談機関「ヒューマン・スタジオ」が、10年目に入りました。

 この9年間の、相談をはじめとする支援業務を通じての結論は、前号で申し上げたとおり、子どもの不登校と青年のひきこもりは「本人の生きざまであり、無理にやめさせるべきものではなく、本人が自分の足で踏破する(歩き通す)ことを応援すべきものである」ということです。

 そこで私は、面接相談や家族学習会などの現場で「本人が歩んでいるペースに合った対応を」と訴え、本人の前を歩かないのと同時に本人の歩みに遅れ過ぎないような対応を、親御さん方に提案しています。

 その結果「つい先を急ぎたくなってしまう」と自覚している親御さんにとっては、私の援助がブレーキになっている一方、前号や6月配信号でお話ししたような「どう話しかけたらいいかわからない」「わが子の荒れをいつまで我慢していなければならないのか?」などとお迷いの親御さんにとっては、私の援助がアクセルになっているようです。

 「丸山は親御さんのペースメーカー」といったところでしょうか。

 いずれの場合も、前提にしているのは「本人のペース」であり「家族をはじめとする周囲が想定(このくらいだろう)または期待(このくらいであるべきだ)するペース」ではありません。

 すなわち、彼らの願いと思いを前提に据え、彼らが持っている良さや力、そして可能性を引き立たせることによって、彼らが納得できるプロセスを、彼らに合ったペースで歩んでいくことができるよう「控えめながら着実な対応・支援に徹する」ということです。

 このような私の援助方針は、料理では「素材の味を活かす」という言葉に、メイクでは「ナチュラルメイク」という技法に、それぞれたとえることができるでしょう。

 工夫を凝らした味付けや別人のように変身するメイクもいいものですが、不登校児やひきこもり青年の多くは、自分の心を他者に味付けされたり、別人の心のように変身させられたりすることを望んではいないようです。

 「変わりたい」と思っている青少年も、あくまで「納得できる方法とペースで主体的に」という条件が付いているように感じられます。

 これらを考えあわせると、彼らは「“作り物の自分”ではなく“本物の自分”でありたい」という思いを持っているような気がします。
 言い換えれば「自分の気持ちをごまかして/自分に嘘をついて」「学校/社会に復帰したくない」と思っていると考えられるのです。

 しかし、親御さんや関係者のなかには「自分の気持ちをごまかしてでも/自分に嘘をついてでも」「早く復帰すべきだ」と信じている方がおられます。一方私は、前述のような彼らの思いが活かされる方向で生きていける方法を、ギリギリまで追求しながら支援しているわけです。

 では、親御さんはどうでしょうか。本や講演から得た「知識」や関係者から伝授された「技術」に納得できなくても「自分の気持ちをごまかして/自分に嘘をついて」わが子に対応して、うまくいくでしょうか。

 「知識」として頭で理解されているだけでは「わかってはいるんだけど・・・」ということで、なかなか実行できませんし「技術」として指示されたことを実行されていても、わが子が動き出さないと「いつまでこの対応を続けなければならないの?」(179号)という思いがわき上がってくるのではないかと思います。

 このことは、その「知識」や「技術」が、親御さんにとって“借り物”であって“本物”ではない、ということを示しているのです。

 たとえば、前号でお話しした<受容><肯定>にしても、親御さんが自分なりに手探りで接しているうちに「知識」としてではなく「本人とのつきあいが楽だ」「本人とうまく話せる」などといった「実感」を得たり「技術」としてではなく、日常的に自然にできる対応なのだと気づいたりすることによってこそ「納得」でき、ご自身に合った無理のない方法で本人を「受容/肯定する」ことができるようになります。

 このように「模索」から「納得」にいたるプロセスを歩まれることで初めて、<受容>や<肯定>が“本物の対応”になるのです。

 もちろん、100%の納得ということはなかなかありません。親御さんも私も、常に模索と納得の繰り返しです。ただ確実に言えることは、親御さんがいくら「知識」を得ても「技術」を伝授されても、それに納得できなければ“本物の対応”はできない、ということです。

 ところで、前号で「私は<肯定>という言葉はよく使いますが、当コラムのなかでは<受容>という言葉は一度も使ったことがないと思います」とお話ししましたが、現場でもこの言葉はまず使いません。
 私がよく使うのは<認める>とか<受け止める>などの言葉です。

 前号でお話ししたように<受容>というのは誤解を招きやすい言葉ですし、正しく理解できてもそう簡単に実行できるものではありません。

 <受容>というと「積極的に受け入れる」というニュアンスが感じられますが、<認める>とか<受け止める>というと、必ずしもそれだけではなく「現状を認める」「とりあえず受け止める」といった消極的な意味でも使えますし、それでいいと私は考えています。

 大切なことは、用語を頭で理解することではなく、本人と日々つきあうなかで実感を積み重ねていくうちに「これが受容だったんだ・・・」などと、だんだん気づいてくることだと思うからです。

 最初は「この子にいくら言っても無駄だな」程度のレベルでいいのです。とにかく<認める>とか<受け止める>ことさえできれば、それが“本物の<受容><肯定>”への第一歩になるのですから。


2010.10.13 [No.182]


文中「前号」として引用している号のコラムを再録した日の本欄を読む

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コラム再録再延長(3)掲載のお知らせ

2013年06月29日 18時27分43秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して本欄で実施していた「コラム再録」を3か月間延長のうえ、半分の頻度で実施する「コラム再録延長」が終了しましたが、ご好評につきさらに月1回だけで3か月間延長し、当スタジオの援助方針をストレートにお伝えしている3本のコラムを毎月転載している標記企画も、いよいよ今月で最後になりました。


 半年間にわたるコラム再録企画の“大トリ”は『本物の自分・本物の対応』。不登校やひきこもりから、本人はどのように生きたいのか、そして親御さんはどのように対応したいのか、ということについて「こうではありませんか?」と問いかけ、そういう思いを活かしながら進めていく援助方針を説明しています。

 “ヒューマン・スタジオ流相談援助”の理念と方針がよくわかる1編です。

 最終回ですので、半年前からの再録分をお読みくださった方には、よろしければ総評をコメント欄にお書きください。


 都合により3日遅れてしまいまして恐縮ですが、このあと掲載します。
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コラム再録再延長(2)『筆者は反支援論者?』

2013年05月22日 17時35分00秒 | メルマガ再録
 若い女性タレントが3人でトークするテレビ番組をご存知の方がいらっしゃると思います。

 3月に放送されたその番組のなかで女優のKさんが、かつて交際男性から暴力を受けていた経験を語りながら、暴力を受けている女性は「逃げたら最後、絶対戻らない」という強い覚悟がなければ別れることはできないので「かくまってくれ」とでも言われないかぎり相談に乗っても無理だと思っている、といった話をしていました。

 Kさんは悩んでいる女性の気持ちを考えない、冷たい人なのでしょうか? 自分自身も経験した悩みですから、そんなことはないでしょう。

 暴力を受けている女性は、当然「相手の男性から逃れたい」と願っています。ところが、その願いがかなうようにと、周囲が親身になって支援しても、脱出することの困難さや、両者の間に生じている心理メカニズムによって、相手の男性のもとに戻ってしまう女性が多いようです。

 Kさんは、このような女性たちをかつての自分の姿と重ね合わせ「願いを実現する意思を貫き通す覚悟が決まるレベルまで気持ちを熟成させることは、本人にしかできない(周囲が熟成させてあげることはできない)」ということを実感しているのだと思います。

 同時に「本人には自分の気持ちを熟成させる力がある」という信頼を持ちながらも、最終的には「本人の人生は本人のもの」と腹をくくっていて、本人の気持ちが熟成するときが来るのを待つ覚悟が固まっていることもうかがわれます。

 これは「ドメスティックバイオレンス(家族や恋人など親しい相手からの暴力=DV)」の話ですが、どのような問題であれ「支援」のあり方に対する考え方に共通するものです。

 おかげさまで当メルマガは7年目を迎えましたが、長い読者の方はご存じのとおり、子どもの不登校と青年のひきこもりへの対応や支援について、私は似たようなことを繰り返し申し上げてきました。

 不登校・ひきこもりの“終わらせ方”はなく、終わらせることができるのは、当の本人以外にいないからです(97号)
 (堂々巡りは)自分でしかやめられないのです(119号)

 このような「本人に厳しい記述」(何人かの読者の方)に対して「支援を求める当事者や支援する関係者の気持ちをどう考えているのか?」というご質問をいただいたことがあります(この場合の「支援」とは、家庭訪問やフリースペースなど、本人への直接支援のことをさしていますので、以下「直接支援」と呼びます)。

 結論から言いますと、私の考え方は、今挙げたKさんと同じです。

 すなわち、不登校児やひきこもり青年は「学校に戻りたい」「社会に戻りたい」と願っています。それは切なる願いです。
 ところが、その願いがかなうようにと、周囲が親身になって学校や社会に戻れるように支援しても、ほとんどの青少年は拒否反応を示すか支援を受けても長続きしないのか、のどちらかです(これは本人の問題ではなく、そういう心理メカニズムだということです)。

 私は、このような青少年たちをかつての自分の姿と重ね合わせ「願いを実現する意思を貫き通す覚悟が決まるレベルまで気持ちを熟成させることは、本人しかできない(周囲が熟成させてあげることはできない)ということを実感しているのです(もちろん、熟成した結果学校に戻るかどうか、どのような社会生活を選ぶか、は人それぞれです)。

 同時に「本人には自分の気持ちを熟成させる力がある」という信頼を持ちながらも、最終的には「本人の人生は本人のもの」と腹をくくっていて、本人の気持ちが熟成するときが来るのを持つ覚悟が固まっている――そういう相談員でありたいと、日々自問自答しているしだいです。

 そのため当メルマガでは、直接支援を求める当事者や直接支援する関係者の気持ちに、ストレートに応える記述が少ないのかもしれません。

 ただそれは、そういう自分の立場を明確にしておかないと、メルマガでは言いたいことが伝わらなくなるからであって、当事者や関係者の気持ちを考えていないからではないことを、今の説明でおわかりいただけたでしょうか。

 それどころか、相談場面での私は、本人や親御さんの気持ちを決して否定していないつもりです。

 たとえば「直接支援を利用したい」という本人に「その程度の覚悟では無理だよ」とは言いませんし「家庭訪問してほしい」という親御さんに「そう急ぎなさんな」とは言いません。
 むしろその願いに応えるように「どうしたらそれが実現するか」という視点に立って話し合いを始めます。

 そして「あの直接支援団体を利用したい」とか「就労支援を利用したい」などという希望が本人から出れば、その情報を提供します。「まだその段階ではないから利用するな」と説得することはありません。

 大事なのは、相談員がアドバイスしてわからせることではなく、本人や親御さんが自分自身で実感することだからです。

 もっとも、情報を提供してもすぐ利用する本人は少ないし、話が進むにつれ「今はどういう段階か」という私の説明とその意味を理解なさって、先を急がずじっくり取り組む気になられる親御さんは多い、というのが、私が相談業務で経験している事実です。

 私は直接支援を否定していません。ただこのコラムは、直接支援を利用する意思が固まるほどに気持ちが熟成するまでの道のり(気持ちが熟成したら直接支援を利用せずに再出発する青少年もいます)を大切に考え、その道のりに必要な対応を中心に書いているのです。


2008.10.8 [No.158]


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コラム再録再延長(2)掲載のお知らせ

2013年05月22日 17時30分00秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して本欄で実施していた「コラム再録」を3か月間延長のうえ、半分の頻度で実施する「コラム再録延長」が終了しましたが、ご好評につきさらに月1回だけでさらに3か月間延長し、当スタジオの援助方針をストレートにお伝えしている3本のコラムを毎月転載しています。


 今月は『筆者は反支援論者?』。親しい読者のなかに「当事者に厳しい記述」と評したり「支援を求める当事者と支援している人たちのことをどう考えているのか?」と疑問を呈したりする人がいらしたことから、それらに答えるために書かれた号です。

 いわゆるDVの被害者経験のある有名女性タレントの言葉を引きながら、不登校・ひきこもりの経験者ならではの視点に立ち続けて、一般的な支援と一線を画しながらも支援を否定せず、当事者やそのご家族の願いに寄り添い続けることの意味を、自らに言い聞かせるように語っています。

 不登校・ひきこもりへの相談援助に対する、筆者の一貫した信念をお読み取りいただき、よろしければコメントをお書きくだされば幸いです。


 では、このあと掲載します。
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コラム再録再延長(1)『旅は道連れ』

2013年04月25日 11時03分07秒 | メルマガ再録
 8月26日~28日、私は出張研修のため関西に滞在しました。メインのスケジュールは「第11回登校拒否・不登校問題全国のつどい(大阪大会)」への参加です。

 そこで私は、青年のひきこもりを考える分科会で、1日目と2日目とで違うグループに入ったのですが、1日目に入ったグループで考えさせられることがありました。

 そのグループには、関西を代表する不登校の専門家のひとりである、某大学の先生がおられました。そして、参加している親御さん方が、相次いでわが子への対応に関する迷いを語られたことから、話はしだいに「親の本気」「親の覚悟」についての内容になりました。

 そして時間がたつにつれ、その先生をはじめ何人かの参加者が、長引くひきこもりへの対応のあり方として「わが子に自立を迫るか、わが子を一生支えていくかのいずれかを、親は覚悟を決めて選択しよう」と、親御さん方に本気になるよう盛んに助言していました。

 聞いていて私は「親御さんにとって、覚悟を決めるのは難しいこと。だから助言は親御さんを楽にしないだろう」と感じていました。

 もっとも、こういう研修会は1回限りのものですし、時間にも限りがあります。そのような場では、出てきた話題について「こうするべき」という結論を導き出して時間内にまとめる、という進行の仕方になるのは、当然のことでしょう。
 私だって、同じような場である青少年支援セミナーや、一方的に発信するメルマガでは、似たようなことをやっているわけですから。

 ただ、あの場では、親御さんに「○○だから覚悟が決まらないんですね」などと、覚悟が決まらない事情や気持ちをみんなで共有し、そのことについて一緒に考える時間を過ごしたほうが、参加していた親御さん方が楽になれたのではないかと思ったのです。

 結論をはっきりと打ち出せば、その話題に該当する参加者への助言にはなります。しかし、そこはあえて結論を出さずに、みんなで「ああでもないこうでもない」と、グダグダ語り合ううちに終わってもよかったのではなかったか、というわけです。

 当メルマガでも再三お話ししているように「そんなこと気にするな」とか「常識を捨てようよ」とか「親はこうすべきです」とか、それらは本人自身・親御さんご自身が、とっくにわかっていることばかりです。
 わかっているけど実行できない、実行できるようになることを阻む状況があるわけです。

 そのような状況は、助言や指導によって一朝一夕に変えられるものではありません。
 なぜなら、本人や親御さんは、日々苦しい思いに耐えながら過ごしています。気持ちに余裕はなく、したがって状況を変える力を発揮することは難しいと思うのです。

 本人や親御さんが楽になり、気持ちに余裕ができてこそ、初めて状況を変える力が発揮できるようになるわけです。
 そしてそれは、先ほど研修会の例でお話ししたように、助言するよりも、本人や親御さんの現在の状態を肯定し、そこに寄り添って共に歩むことでしか実現しないと思います。

 確かに、これを研修会でやれば時間がつぶれます。つまり、このような考え方での援助によって、本人や親御さんが楽になり、気持ちに余裕ができるまでには、ある程度の時間が必要です。それでも、時間をかけたらかけただけの効果はあるわけです。

 さて、私はまさにそういう考え方を相談業務で実践しています。

 不登校やひきこもりになって、どうすればよいか悩んでいる本人はもちろん、そういうわが子にどう対応したらよいかお迷いの親御さんに対して、私は「こうすべきだ」と助言することはほとんどありません。

 せいぜい、話し合っていてお互い見えてきたことについて「そういうことならこうしたらどうですか?」と提案する、という程度です。
 しかも、私の提案と違うことをおやりになっても、問題にすることはありません。次にそこから話を続ければいいだけのことです。

 つまり私の援助は、本人や親御さんを「望ましい方向にまっすぐ進むよう導く」のではなく「歩いている本人や親御さんに付いて歩き、一緒にあっち行ったりこっち行ったりしながら、望ましい方向を見つけ出していく」というイメージなわけです。

 このような私の援助方針のもとになっているのは「スクールソーシャルワーク(SSW)」という、本人や親御さんに寄り添い、共に歩むパートナーになる方法です。
 同時にSSWは、家族・学校・地域といった環境全体を視野に入れて、それに関わっているあらゆる要因や人の関係を調整し活用して、協力体制をつくります。

 そうすることで、本人や親御さんが楽になり、気持ちに余裕ができて、状況を変える力が発揮できるようになるわけです。

 「旅は道連れって言うじゃないですか。幸せを見つける旅にお供させてください。幸せのありかは誰も知らないけど、私は地図を持っているのでお役に立てます。幸せに通じる道を一緒に探しましょう。」

 私はこう言いたいのです。


2006.10.04 [No.130]


このコラムに続く3回シリーズ「周囲の助言、ウソとホント」の第1回に読み進む
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コラム再録再延長(1)掲載のお知らせ

2013年04月25日 10時48分28秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して本欄で実施していた「コラム再録」を3か月間延長のうえ、半分の頻度で実施する「コラム再録延長」が終了しましたが、ご好評につきさらに月1回だけでさらに3か月間延長し、当スタジオの援助方針をストレートにお伝えしている3本のコラムを毎月転載します。


 今月は『旅は道連れ』。7年前、筆者が参加した不登校・ひきこもりの全国研修会で体験した場面で感じたことをもとに、拙速な助言や強制的な指示を戒め、旅のお伴をするように当事者や親御さんのあとをついて歩くという基本方針を語っています。なかでも「それらは本人自身・親御さんご自身が、とっくにわかっていることばかりです」というくだりに激しく共感し「こんな人に相談したい」というご感想をくださった方がいらっしゃった文章です。


 では、1日遅れになりましたがこのあと掲載します。
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コラム再録延長(5)『ハードランディングとソフトランディング』

2013年03月27日 16時59分34秒 | メルマガ再録
 ここ2回の本欄をお読みになって「自分(の子)の場合とはぜんぜん違う」「そこまで落ちないと不登校やひきこもりは終わらないのか?」などと違和感を感じた方が少なくないと思います。
 そこで最後に、私のようなケースとそうでないケースを、比喩を用いて比較してみましょう。

 飛行機の着陸の仕方で「ハードランディング」と「ソフトランディング」という用語をご存じだと思います。前者は強行着陸=減速せずに激突して着陸すること、後者は軟着陸=減速しながらふわりと着陸すること、ですね。

 ご存じのとおり、このふたつの用語は、いろいろな分野で比喩として使われますが、私は、不登校やひきこもりの“終わり方”にも使えると思っています。

 すなわち、私のように<底つき>までいったことで楽になる、という“終わり方”は「ハードランディング」と表現できます。
 「<学校復帰、社会復帰しなければならない>というこだわりがとれないまま、文字どおり走り続け、壁に激突してようやく止まった(=葛藤を抱えたまま生き続け、ついにはその生き方が破綻した)」というイメージです。

 それに対し<底つき>までいく前に、徐々にこだわりがとれ、楽になってきた、という“終わり方”は「ソフトランディング」と表現できます。
 「前記のようなこだわりが徐々にとれ、走る速度が落ちてきて、壁の前に立ち止まった(=葛藤がうすれていき、新しい生き方を探せるようになり、ついにはそれが見つかった)」というイメージです。

 そこで、このふたつの終わり方を比較すると、本人にとって、より楽なほうは「ソフトランディング」でしょう。
 つまり本人の葛藤が早く収まれば、暴力や神経症的症状などの二次症状と呼ばれる行動も、あまり続かないか起こらないですみます。
 さらに、早く心理的安定を取り戻せば、自分で家庭の外に居場所を探してそこに通えるようにもなります。

 近年、フリースペースやスリースクールなど、学校や一般社会以外に居場所や学びの場が増えていくにつれ、私のような「ハード~」が減っていき「ソフト~」が増えているようです。
 この事実は、彼らの選択肢が増えれば、彼らから無用の苦しみが取り除かれ、人とのつながりが回復しやすくなることを示しています。

 ただ、ここで注意しなければならないことがあります。
 それは<学校復帰、社会復帰しなければならない>というこだわりがとれないままで、学校や社会に復帰する青少年がいることです。

 すなわち、不登校やひきこもりは、一般に「学校に行くべき」「就職すべき」という規範意識と「学校に行きたくない」「就職したくない」という本音とが拮抗していて、わずかに後者が勝っている状態です。ということは、前述のこだわりを抱えたまま、学校や社会に復帰する青少年の場合「規範意識が本音に勝った」と言うことができます。

 見かけ上は、このような終わり方も「ソフトランディング」です。そしてこれは、学校や社会にとっては、とても望ましいことでしょう。しかし本人にとっては、必ずしもそうとは限りません。なぜなら、終わり方に無理があるからです。本人が無理しているからです。

 これまで繰り返し述べているように、無理なプロセスは、あとでもっと深刻な事態を引き起こす可能性をはらんでいます。
 実際、ひきこもりや神経症に悩む青年のなかに「子どもの頃、不登校になりそうだったけど我慢して学校に生き続けていた」という人がいるのです。

 規範の大切さにとらわれて、無理して見かけ上の「ソフト~」を演じるくらいなら、苦しみ抜いた末、規範より大切なことに気づく「ハード~」のほうが、得るものははるかに大きいです。
 もっともこれは、不登校とひきこもりの終わり方が「ハード~」だった私だから言えることかもしれません。

 確かに私は、相談を受けるにあたって「早く終わらせるべきだ」ではなく「どんなに苦しんでも大丈夫、必ず終わる」という前提に立ちます。
 本人の苦しみを無理に除去することより、苦しんでいる本人の支えになる対応を重視しているわけです。
 不登校とひきこもりの“終わらせ方”はなく、終わらせることができるのは、当の本人以外にいないからです。

 ただし私は「ハード~」を勧めているわけではありません。「最悪、ハード~でも大丈夫」ということなのであって、もちろん「ソフト~」に越したことはありません。要は、不登校とひきこもりの終わり方は、どちらでもいいのです。

 なぜなら「ハード~」「ソフト~」のどちらの終わり方も、前号で述べたプロセス──「常識」とか「あるべき自分」といった“つくられたもの”ではなく「自分の命」という“もともとあったもの”を基準に、物事を感じ、行動に反映させるようになる──であることに違いはないからです。その最中に現れた葛藤が、強いか弱いか、葛藤が長く続くか短く終わるか、という違いに過ぎないからです。


2005.03.16 [No.97]


『不登校・ひきこもりの“終わり”へ 〔中〕「命」という出発点に立ち返る』を読む
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コラム再録延長(5)掲載のお知らせ

2013年03月27日 16時42分14秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して本欄で実施していた「コラム再録」を3か月間延長のうえ、半分の頻度で実施する「コラム再録延長」も、いよいよ最終回を迎えました。


 きょう転載するのは『不登校・ひきこもりの“終わり”へ 〔下〕ハードランディングとソフトランディング』。この3回シリーズの第1回『〔上〕心は不死鳥』を去年12月に転載した際、末尾に〔中〕のリンクを貼っておきましたので、続けてお読みになった方もいらっしゃるかと思いますが、あえてきょう転載するのは、不登校やひきこもりが終結するときの様相とその意味を伝えるものとして、7年以上経った今でも高く評価していただいているからです。

 特にタイトルの「ハードランディングとソフトランディング」というたとえ言葉は、筆者の周りの当事者や親御さんや研究者の方々によく引用されています。

 不登校やひきこもりがどのような感じで終わるのか、そして無理のない終わらせ方はどういうものなのか、対応や支援を考える参考にしていただければ幸いです。



 では、遅くなりましたがこのあと掲載します。
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コラム再録延長(4)『角をためて牛を殺すな 〔上〕“お手伝い”することから』

2013年03月14日 11時27分59秒 | メルマガ再録
 去年の春から夏にかけて、不登校やひきこもりの青少年を持つ親御さんの「考えさせられる印象的な言葉」や「多くがおっしゃる言葉」に対して、私の意見をお伝えしてきました。
 それに関連して「言葉にはしないが、そう思っておられる方が多いだろうこと」を、このシリーズの最初にひとつ取り上げたいと思います。

 それは「家でどんなにいい子であっても、学校・社会に復帰しなければ意味がない」という親御さんの思いです。

 不登校やひきこもりのお子さんを持つ親御さんのお話をうかがっていて、印象的なことがあります。
 それは「家でいい子である」というケースが少なくないことです。

 本欄でも折にふれ指摘しているように、不登校やひきこもりは、暴力や神経症的行動などの「二次症状」がよく見られるものとされています。
 しかしその一方で「家事を頼むとやってくれる」「弟妹の面倒をよく見る」「祖父母の介護を手伝ってくれる」など、本人が家族のよき一員として生きていることを示すお話をしばしば聞くのです。

 この事実は、本人のどんな心理を表しているのでしょうか。

 当然のことながら、人の生活には「公」の部分と「私」の部分があります。

 「公」の部分は、子どもの場合「学校をはじめとする家庭外の場での生活」であり、おとなの場合「仕事をはじめとする社会的に認められた営み(主婦業やボランティアなど)での生活」とされます。

 「私」の部分は、それ以外の生活、たとえば、家族どうしの交流、友だちづきあい、勉強、家の手伝い、趣味、・・・等々です。

 そして「公」の部分を実行することは人としての義務であり、実行していないと「やるべきことをやっていない」「何もしていないに等しい」などと見られます。親御さんをはじめ周囲の人々も、本人をそう見ますし、本人自身もそう思って葛藤していることがよくあります。

 このような状況で「今の自分にできることをする」という発想が生まれる不登校児やひきこもり青年がいます。
 それは「自分は何もしていない」という負い目と罪悪感の苦しさから少しでも楽になりたい一心ゆえの、窮余の策なのではないでしょうか。

 「公」の部分が実行できない彼らに実行できることは「私」の部分しかありません。だから「せめて家庭のなかで役に立つことをしよう」という、彼らなりの精一杯の姿勢だと思うわけです。

 そこには、学校・社会で役に立っていない自分が、家庭で役に立つことで「自分はこの家で生きていていいんだ」と、家族の一員としての存在価値を自己確認しようという、切ない気持ちが働いているように感じるのです。

 つまり彼らは、まず「私」の部分を実行することで自己肯定感を取り戻してから「公」の部分を実行する、というプロセスを歩もうとしている、と考えられるわけです。

 それでは、そういう彼らに対して、親御さんはどう感じていらっしゃるでしょうか。

 「やってくれるのはうれしいんだけど・・・」という複雑なお気持ちではありませんか?
 できれば「私」の部分を実行するより、早く「公」の部分を実行できるようになってほしい、そのための訓練を受けてほしい、というのが本音ではないでしょうか。

 これは「私」の部分に専念する時期を取り上げてでも、早く学校などの場や社会に復帰させようという対応につながる考え方です。

 58号でお話ししましたが、ひきこもり時代の私は「公」の部分を実行すること=仕事を始めることを焦るあまり、実行できない状態のうちから仕事を始めようとしては挫折していました。
 先を急いで挫折を繰り返したら、ますます自己否定感が深まり、生きる喜びも遠ざかります。

 それとは反対に、不登校児やひきこもり青年が「私」の部分に専念して家族のよき一員として生きることによって、家庭のなかでの役割を獲得し、その役割における実績を積み重ねることは、自己肯定感や生きる喜びへとつながっていきます。

 それを基盤に「公」の部分を実行できるようになるのと、自己肯定感も生きる喜びも抜きに「公」の部分を実行できるようになるのと、どちらのプロセスが本人に豊かな人生をもたらすか、明らかだと思います。

 まずは「家庭内で役割を果たす力」を本人の力として認め、大いに発揮してもらいましょう。その力こそ、次のステップで発揮される力の基礎となってくれるのです。


2007.1.19 [No.136]


続けて『〔中〕家庭生活を楽しむことから』を読む(さらに〔下〕へ読み進む方は右側のカレンダーの「21日」をクリックしてください)
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コラム再録延長(4)掲載のお知らせ

2013年03月14日 11時02分57秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して本欄で実施していた「コラム再録」を3か月間延長のうえ、半分の頻度で実施する「コラム再録延長」も最後の月を迎えました。


 きょう4回目に転載するのは『角をためて牛を殺すな 〔上〕“お手伝い”することから』。「小さな問題点を直そうとして、かえって全体をだめにしてしまう」というたとえ言葉「角を矯(た)めて牛を殺す」を不登校・ひきこもりに応用し「本人の現状を必要以上に問題視し、それを解消しようとして、本人の人生全体をないがしろにしてしまう」という危険を回避する考え方と対応を示した3回シリーズの第1回です。
 
 この文は、ある当事者読者の方から「私たちはほんとうにそういう気持ちなんですよね」という意味の共感のメールが届いたほか、シリーズの第3回『〔下〕エネルギーを保つことから』を読んだある支援者の方は、ご自身のブログに「とても素敵な文章を読んだ」とほめてくださいました。

 このように全体として好評だった連載のひとつですので、末尾のリンクから〔中〕と〔下〕も続けてお読みくださいますよう、またよろしければコメントをくださいますようお願いいたします。


 では、このあと掲載します。
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