<私は、「紅白歌合戦」は大きな意味を持っていると思っています。東京拘置所でも「紅白歌合戦」は流れました。ふつう東京拘置所では、ラジオはぴったりと8時55分に終わります。それで9時に減灯する。消灯ではありません。監視の関係で、独房の中には少し電気がついており、減灯というのです。そのため、私は檻から出て娑婆に戻って来ても、夜電気がついていないとよく寝られません。また、独房の中は静かなため、時計の音がうるさくて眠れませんでした。それで、時計を止め、蛍光灯を点けて寝ることがしばらく続きました。
そのような東京拘置所であっても、12月31日は特別な日です。まず、午後2時ぐらいに、お菓子セットが差し入れられました。結構いろいろ入っていました。大きな袋の中に、揚げせんべいやなんとかまんじゅうが入っている。ところが、何か口に残る感触があります。包みの表示を見ると、賞味期限が1月2日までと書いてありました。大晦日の日に、どこのバッタ屋で買ってくるのかわかりませんが、1月2日、3日が賞味期限という菓子が支給されます。それから夕方には、どこかのコンビニで買ってきたようなもりそばが出ます。ざるそばではなく、海苔の付いていないもりそばです。囚人は海苔を食うなという話です。しかも、生ものは食べさせないことになっているため、ネギ抜きです。
夕食が済んだあとに、ラジオ放送の特別延長があり、「紅白歌合戦」がすべてかかります。終わると11時45分。すると、蛍の光が流れ、急に静かになり、滋賀三井寺からの中継ですといった声が入り、「ゆく年くる年」になる。
カオスを起こし、そこからもう一回、静かな形でコスモスをつくる。これが、日本の神道的な世界観における創造です。つまり、混乱と想像というものを人為的につくり出している。だから、「紅白歌合戦」は宗教行事です。歌番組であれだけの視聴率を取れるのも、そのような意味合いでわれわれが見ているからでしょう。大晦日以外の日でつくったら、5%も取れないのではないでしょうか。
こういうテレビ番組にでも、埋め込まれている。何が埋め込まれているかといえば、時間は円環して、またやり直せるという感覚が埋め込まれているのです。ですから、多くの人は、物事には一回しかなく、その前とその後で違うという時間観を、なにかギスギスしているように感じるわけです。日本人にはこのような時間理解があります。
日蓮を読んでいると、彼がどのような時間理解を持っていたのか、いま一つわからないところがあります。しかし、少なくとも世界宗教化していくことが日蓮的な仏教においては可能で、時間感覚においても、直線的な時間と何らかの形で折り合いはつけられるのでは、と考えています。『立正安国論』をどこまで読み込んでいけるかは、私にとってもチャレンジです。>
□佐藤優『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』(KADOKAWA、2018)の「第一講 東と西の革命児」の「東京拘置所でも12月31日は特別な日だった」を引用
【参考】
「【佐藤優】歴史的時間の「カイロス」と「クロノス」 ~「日本」論(3)~」
「【佐藤優】点と線の意味づけによって複数の歴史が生じる ~「日本」論(2)~」
「【佐藤優】江戸時代の「鎖国」は反カトリシズムだった ~『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』~」
そのような東京拘置所であっても、12月31日は特別な日です。まず、午後2時ぐらいに、お菓子セットが差し入れられました。結構いろいろ入っていました。大きな袋の中に、揚げせんべいやなんとかまんじゅうが入っている。ところが、何か口に残る感触があります。包みの表示を見ると、賞味期限が1月2日までと書いてありました。大晦日の日に、どこのバッタ屋で買ってくるのかわかりませんが、1月2日、3日が賞味期限という菓子が支給されます。それから夕方には、どこかのコンビニで買ってきたようなもりそばが出ます。ざるそばではなく、海苔の付いていないもりそばです。囚人は海苔を食うなという話です。しかも、生ものは食べさせないことになっているため、ネギ抜きです。
夕食が済んだあとに、ラジオ放送の特別延長があり、「紅白歌合戦」がすべてかかります。終わると11時45分。すると、蛍の光が流れ、急に静かになり、滋賀三井寺からの中継ですといった声が入り、「ゆく年くる年」になる。
カオスを起こし、そこからもう一回、静かな形でコスモスをつくる。これが、日本の神道的な世界観における創造です。つまり、混乱と想像というものを人為的につくり出している。だから、「紅白歌合戦」は宗教行事です。歌番組であれだけの視聴率を取れるのも、そのような意味合いでわれわれが見ているからでしょう。大晦日以外の日でつくったら、5%も取れないのではないでしょうか。
こういうテレビ番組にでも、埋め込まれている。何が埋め込まれているかといえば、時間は円環して、またやり直せるという感覚が埋め込まれているのです。ですから、多くの人は、物事には一回しかなく、その前とその後で違うという時間観を、なにかギスギスしているように感じるわけです。日本人にはこのような時間理解があります。
日蓮を読んでいると、彼がどのような時間理解を持っていたのか、いま一つわからないところがあります。しかし、少なくとも世界宗教化していくことが日蓮的な仏教においては可能で、時間感覚においても、直線的な時間と何らかの形で折り合いはつけられるのでは、と考えています。『立正安国論』をどこまで読み込んでいけるかは、私にとってもチャレンジです。>
□佐藤優『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』(KADOKAWA、2018)の「第一講 東と西の革命児」の「東京拘置所でも12月31日は特別な日だった」を引用
【参考】
「【佐藤優】歴史的時間の「カイロス」と「クロノス」 ~「日本」論(3)~」
「【佐藤優】点と線の意味づけによって複数の歴史が生じる ~「日本」論(2)~」
「【佐藤優】江戸時代の「鎖国」は反カトリシズムだった ~『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』~」