語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【本】藤沢周平「用心棒日月抄」シリーズ ~解説~

2013年02月26日 | 小説・戯曲
 (1)文庫本のメリットは3つある。
  (a)安い。コーヒー1杯より高いが、煙草2箱より安い。
  (b)軽い。寝ころんで読める。
  (c)解説が付いている。

 (2)新潮文庫版の用心棒日月抄シリーズの解説者は次のとおり。
  (a)『用心棒日月抄』・・・・尾崎秀樹
  (b)『孤剣 ~用心棒日月抄~』・・・・向井敏(副題は「藤沢周平の文体」)
  (c)『刺客 ~用心棒日月抄~』・・・・常磐新平
  (d)『凶刃 ~用心棒日月抄~』・・・・川本三郎(副題は「ふたつの世界を生きる又三郎」)  

 (3)(2)-(a) 要旨
  デビュー作『溟い海』から第二作品集『又蔵の火』、これらの短編(集)から長編の『檻車墨河を渡る』(後に『雲奔る 小説・雲井龍雄』と改題)、『義民が駆ける』は、文体は精緻、たしかな職人芸、作者の(風土が培った部分が多分にある)暗い情念の基づく負のロマンだ。『回天の門』もその系譜に位置づけられる。
 俗人的要素を多分にふくむ一茶の心情をあたたかい視線でとらえた『一茶』、また、『用心棒日月抄』をまとめた頃から、それまでとはうって変わった境地を示しはじめる。
 後者は、脱藩浪人の又八郎・青江又八郎の生活をとおして、赤穂事件の経過を語る。赤穂事件異聞を構成する話の間に、刺客との対決や用心棒としての剣戟があり、その結果、いくつかの事件を解決する捕物帖的な味わいもはらむ。同じ用心棒である細谷源太夫や口入れ屋の吉蔵、又八郎をとりまく市井の風俗や人情も挿入され、そういった生活臭がただよっている点もこの作品の特長だ。用心棒といっても、生活のためやむなく剣の腕を役立てているものの、ごく正常な感覚の持ち主として描かれているのも、好感をもって読める。

 (3)(2)-(b) 要旨
 時代小説には、それも剣客小説の場合には、目鼻立ちがくっきりして、きりりと引きしまった、切れのいい文体が似合う。数ある剣客小説作家のなかでも、そうした切れ味のよさをとりわけ堪能させてくれるのが、ほからならぬ藤沢周平だ。
 藤沢が『暗殺の年輪』で直木賞を受賞した(1973年)のは43歳のときだが、当時すでに技量熟し、自分の文体を完成させていた。
 『暗殺の年輪』に続いて発表した「ただ一撃」にみられるように、よくバネがきいて、しかも端正。練達の剣客が鞘を払って青眼に構える、その呼吸を思わせ文章だ。剣客であるがゆえに持たざるを得ない暗い宿命がテーマになっているが、きびしく張りつめた文体はこのテーマと分かちがたく結びついていたにちがいない。
 しかしやがて、藤沢はそこから一歩踏みだし、肩の力を抜くとでもいうか、もっとのびやかで柔軟な描法を工夫しはじめる。スキのない張りつめた文体にばかり執していたのではかえって作品を痩せさせることになりはしまいか、ひょっとしてそんな危惧を感じていたのかも知れず、あるいは逆に、暗い情念を追うことからの脱却を志して、それに見合う描法をさぐっていたのかも知れない。いずれにせよ、その試みは、(a)以下の用心棒シリーズで実を結ぶことになる。
 (a)の第一編、浪人暮らしとはじめたばかりの又八郎と、劫経た口入れ屋の相模屋吉蔵、それにがさつだが憎めない古浪人細谷源太夫との出会いの場面、簡にして要を得、シリーズの導入部とじて申し分ないが、何にもまして印象的なのは、さりげなく刷き込まれたユーモアの味だ。じつにうまい。用心棒シリーズの成功は、これでもう保証されたようなものだ。
 こうしたユーモアのきかせ方は、デビュー当時のあの青眼に構えた描法からは予想しにくいものだったが、それだけではない。総じて剣客小説というジャンルではなじみの薄い質のものだった。それまでの剣客小説にユーモラスな作品がなかったわけではなく、例えば山手樹一郎は時代短編でその方面の佳作をいくつも残しているが、多くは作品のねらいがユーモアにあって、構成も語法もそのねらいを生かすために工夫されたといった趣きが濃い。それに対して、用心棒シリーズの場合は、作品全体の組み立てはあくまでシリアス、個々の描写のうえでユーモアのスパイスがきかされているのであって、山手の初期の好短編『うぐいす侍』をユーモア時代小説と称するようには、このシリーズをユーモア剣客小説と呼ぶわけにはいかない。
 こうしたユーモアの効果を生む描法を縦横に駆使することにより、用心棒シリーズは端正でありつつ軽快、緊張を秘めつつのびやかという、まれな美質を得ることになる。読者の側からいえば、剣客小説特有の緊迫感にひたされつつ、同時に心のほぐれる思いを味わうという、そうざらにない贅沢を楽しませてもらえることになったわけだ。

 (3)(2)-(c) 要旨
 藤沢文学の読みどころは、男と女の哀切な関係だ。用心棒シリーズの魅力の一つは、佐知という女にある。
 稼業が用心棒だから、又八郎の住む世界は殺伐として、はなはだ物騒だが、しかしなぜかほのかに明るくロマンチックだ。又八郎の存在そのもおが周囲を明るくしている。名うての剣の使い手から書類を奪うという密命を帯びながらも、又八郎は風来坊のように気ままに生きている。その又八郎に、佐知が影のように寄り添っている。
 又八郎と佐知は似合いの男女だが、どちらもおそろしくストイックだ。そこにこの物語のすがすがしさがある。佐知は江戸時代のキャリア・ウーマンだが、可憐であり、その可憐なところを失わず、読み進むにしたがって、いっそう可憐になっていく。それで、読者はますます佐知に惹かれるのだ。
 藤沢の初期の小説は、時代小説という物語の形をとった私小説だった。しかし、人に読まれるということをはっきり意識するようになったとき、小説にごく自然にユーモアの要素がはいりこんできた。このユーモアの要素を意識的にとりいれたのが、用心棒シリーズだった。
 又八郎は藤沢と同じく鬱屈しているが、小説を書き始めたころの藤沢ほどではない。又八郎には藩に対する恨みがある。それが鬱屈となっているが、(2)-(c)ではその鬱屈から又八郎がしだいに解放されていくのがわかる。又八郎は、男として成長していくのだ。(2)-(a)のころと、(2)-(c)の又八郎は明らかにちがっている。

 (3)(2)-(d) 要旨
 (2)-(a)~(c)は短編連作だったが、(d)は長編の形をとっている。のみならず、前三作と趣きをがらりと変えている。(a)から20年近く、(c)から16年の歳月が流れ、又八郎は40代のなかば。この時代、40代のなかばといえばそろそろ老いに入りはじめている。人生の秋を意識しはじめ、その寂寥感が本書の「隠し味」になっている。腹も出ている。とはいえ、身体はまだ昔の剣技を覚えていて、危難にあたっては思うより先に体が動く。
 周辺の人々にも確実に時が刻まれている。妻の由亀もあと2、3年で40歳になる。かつての用心棒仲間の細谷源太夫は5年前に職場で我を張り、禄を離れ、酒毒におかされていた。絶望したその妻は狂死していた。相模屋は依然として口入れ屋を営むものの干し柿のような顔貌になり、その無口だった娘は婿をむかえてから多弁なおかみに変貌した。
 もはやあの野放図な浪人暮らしは戻ってこない、という青春の終わりが確認される。
 変わらぬのは佐知の又八郎に対する思いだけだが、彼女にも寂寥感がしのび寄っている。歳月のうちに任務遂行中に殺めた敵、死なせてしまった手下に対する思いが非情さを薄れさせた。彼女は仏門に入る決意をする。
 又八郎は二つの世界を生きる両義的存在だ。北国小藩の藩士としての顔と、脱藩して江戸に出た素浪人としての顔だ。組織人と自由人の二つの顔を併せて持つところが、又八郎の面白さだ。前者はインサイダーであり、生活は保障されているけれども組織の一員としてしがらみに縛られる。後者はアウトサイダーであり、自由を楽しむことはできるけれども赤貧と背中あわせの市井人である。又八郎は、<藩と江戸、地方と中心、組織人と自由人、武士社会と市井、あるいは死闘に次ぐ死闘の非日常と、小春日のような長屋の日常>を往復している。
 常に抗争、暗闘を繰り返す藩内政治に比べると、市井の暮しのほうがはるかに無垢で清潔、策謀を仕掛けてくる権力者よりも裏長屋に住む汚れた私娼のほうがはるかにけなげで可憐、されば裏長屋暮しの頃には又八郎は晴ればれとした顔つきをしていた。
 この両義性は、時代小説における武家ものと市井ものに対応している。両方の名手である藤沢は、用心棒シリーズにおいて、武家ものと市井ものの両方を盛り込んだ。

□藤沢周平『用心棒日月抄』(新潮文庫、1981。2002年改版)
□藤沢周平『孤剣 ~用心棒日月抄~』(新潮文庫、1984。2003改版)
□藤沢周平『刺客 ~用心棒日月抄~』(新潮文庫、1987。2004改版)
□藤沢周平『凶刃 ~用心棒日月抄~』(新潮文庫、1994。2004改版)
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