ユーモアのある句で、現代俳句で面白いと思えるのは、楸邨さんと森さんの句なんですよ。ほかにユーモアをねらってる俳人もいるけれども、ぼくにはあまりピンとこないことが多いんですね。
森 まあ、楸邨先生の句は、なんとなくおかしい、そして奥行きがある。そしてどちらかと言えば、ある運命的な暗さを持っているところに、楸邨俳句のユーモアの深さがあるんです。ぼくのは少し明るいユーモアかもわかりませんけれどね。
丸谷 ええ、森さんのは日本画的絵画美と、ユーモアがうまく合っている感じ。
楸邨さんのユーモアは、大和絵風様式美ではないものですね。
森 なるほど。
丸谷 もともと蕪村の句では滑稽な面が一番大事なところだった。ところがその滑稽の面を取らずに、抒情のほうを大事にしたのが子規なんです。それをさらに朔太郎が助長した・・・・というのが尾形仂さんの説ですね。尾形さんは朔太郎のことは挙げてなかったかな?
森 さあ、どうでしたか・・・・。
丸谷 それで、子規の友達の漱石の句なんだけれども、
無人島の天子とならば涼しかろ
なんていうのをはじめとして、なかなかユーモアがあるんですね。
いったいに現代俳句は、虚子からはじまって俳句の専門家においては、ユーモアってものは軽んじられている。あるいは無視されている。ところが漱石のこの句をはじめとして、たとえば露伴の、
木枯や碑をよめば皆えらい人
なんてのは(笑)、ぼく好きです、これ。
森 ああ、なるほど(笑)。
丸谷 面白いでしょう。
こういう調子で、文人俳句というのはユーモアが非常に多いんですね。
どういうわけでこんな対立が生じるのかと思って考えてみると、実に簡単なことで、文人俳句の場合には、ほかに専門の表現形式を持っている。そこのところで大事なことは言えるから、俳句のほうは遊び、言わば余技で作れる。そうするとユーモアが出てくる。まあ、こんな仕組みになると思うんですよ。
森 そうですね。
丸谷 ところが一方、俳句の本質は、蕪村が江戸時代に表現した滑稽の中にある。
そこで大事なのは、現代俳人が余技ではなく俳句を作って、しかも滑稽を忘れないためにはどうしたらいいか、ということになる。
そこのところでうまくいっているのが森さんの句作だと思うんですよ。
(中略)
丸谷 じゃあ、森さんの軽みの句。
猫も手に頤のせてをり秋の暮
老師いま昼寝の大事土用東風
森 はい、何でもないけど、それ、気に入ってるんです(笑)。
丸谷 それから、
蛤や少し雀のこゑを出す
これなんか俳諧の付句ですよ。
森 そうです(笑)。雀大水に入って蛤となる。七十二候の季題をそのまま俳句にしたようなものですけどね。
(中略)
丸谷 そうそう、ユーモアの句で森さんの、
迂闊にも亀鳴くころをいつも病む
これはいい句ですね。迂闊にも、というところがいかにも面白い。
森 そして、「亀鳴く」というところもね。科学的に言えば亀は鳴かないんだけれども、言わば虚の上に虚を重ねて、しかも「迂闊にも」なんだから、もうしようがないんですな(笑)。
丸谷 禅問答に近いですね。それで思い出しましたけれども、
寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ
これもまったく虚の句なんですね。実用性の否定と言ってしまうとまたバカバカしくなるけれども。
森 その句を桂信子さんに、どうして「食はず飼ふ」というのかわからんと叱られたんですよ。
丸谷 まあ、たいていの人は食わずに飼っているわけですけどね。しかし食うという手もあるんだな、ということを片方に置いて、その上でのユーモアの句ですね。
森 そうなんです。でも女の人にはなかなか説明のしようがないの(笑)。食うという人間の所業を離れていわば仙人のようになって「食はず飼ふ」と言ってるんだけど、そこがわかってもらえない。
丸谷 食うことは前提になっていないで、それは冗談として言ってるわけでしょう。
森 そうそう。
丸谷 しかしそれは女の人だからわかるとかわからないとかいうことじゃないでしょう。やはり個性でしょうね。
桂信子さんて、なかなかいい俳句を作る方じゃありませんか。
森 そうです、いい作家です。でもぼくのこの句はやはり写実的じゃないから、わかり難いのかもしれない。
【参考】森澄雄/丸谷才一「現代俳句と違うもの」(森澄雄『俳句と遊行』、富士見書房、1987、所収)
↓クリック、プリーズ。↓