語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【本】エスキモーに同化した日本人 ~『アラスカ物語』~

2016年01月24日 | 小説・戯曲
 (1)アラスカでエスキモーの指導者となった日本人、フランク安田恭輔の数奇な一生をたどる伝記的小説である。
 巻末に詳細な『アラスカ取材紀行』を付す。

 (2)安田恭輔は、明治元年、宮城県石巻町に医師安田静娯の三男として生まれた。両親をはやく亡くし、15歳にして三菱汽船石巻支店に就職した。失恋を機に三菱汽船外国航路の見習い船員に転じた。明治19年、恭輔19歳のときだった。
 明治23年、恭輔22歳のとき、米国で沿岸警備船ベアー号のキャビンボーイとして乗り組んだ。3年後、氷に閉じこめられたベアー号から10日分の食糧を携行しただけで北極圏を16日間を歩きとおし、ポイントバローの交易所に到達、救援を求めるのに成功した。
 いちやく英雄となった恭輔は、その頃はフランクと呼ばれていたが、ベアー号の一部船員による人種差別をきらって下船し、エスキモーに混じってその生活を学んだ。
 初恋の人によく似たネビロ、すなわちエスキモーの勢力ある親方の長女と出会い、妻とした。不漁が続いてネビロの一族が食糧危機に面したとき、フランク安田は安住の地を求めて南下し、インディアンと交渉しつつ、北極圏からわずかに南へくだったビーバー(ユーコン河畔)をついの住処と定め、ネビロの一族の大半を引き連れて移住した・・・・。

 (3)海外で活動する日本人の背後には、意識するとせざるとにかかわらず、日本という国がある。倭寇に襲われた13世紀から16世紀の朝鮮半島や中国大陸沿岸部などの民にとって倭は何をしでかすかわからない物騒な国だったに違いないし、今日世界を歩く日本人の背後には、堕ちたりといえども経済大国ニッポンが後光のように存在している(ハロー効果)。
 しかし、日清戦争前の明治期の日本は、武力も経済力も弱小で、白人から下位の集団と位置づけられた黄色人種が住まう小さな島国でしかなかった。当時海外へ雄飛した日本人は、裸一貫で勝負するしかなかったし、じじつ裸一貫で勝負した。本書の主人公もその一人である。
 独り米国という異国にあって、新渡戸稲造は『武士道』を書き、岡倉天心は『茶の本』を書いた。彼らの文筆活動は、極東の弱小国の宣伝もさりながら、自らのアイデンティティを確立したいという意識が底に強くあったからではないか、と思う。
 かたや、フランク安田の場合、アイデンティティは遠い祖国ではなく、目の前にいるエスキモー集団に見いだしたらしい。こう想像することで、あれほど献身した動機づけを説明できる。
 エスキモー集団への献身に対して、日本という国家も米国という国家も何ひとつも酬いなかった。国家は、むしろ逆に彼が迫害される理由をもたらした。第二次世界大戦勃発によって、敵性外国人として収容所に収容されてしまうのである。
 フランク安田に酬いたのは、エスキモー集団であった。ビーバーは彼の第二の故郷となり、戦後解放された彼のかたわらにはエスキモーの妻が終生連れ添った。

□新田次郎『アラスカ物語』(新潮社、1974/のちに新潮文庫、1980)
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