語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】井筒俊彦の、芭蕉・リルケ・マラルメの「本質」論的分析 ~東洋哲学の共時的構造化~

2010年12月11日 | 批評・思想


 イスラム哲学の術語に、「本質」は二つある。マーヒーヤとフウィーヤである。
 前者は普遍的(一般的)本質であり、自己同一性を規定する。後者は個別的(特殊的)本質であり、一切の言語化と概念化を峻拒する。両者は共に存在者の「本質」である。あらゆる事物には、この二つの次元の異なる「本質」が認められる。

 「『松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ』と門弟に教えた芭蕉は、『本質』論の見地からすれば、事物の普遍的『本質』、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的『本質』を普遍的実在のままではなく、個物の個別的実在性として直感すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転成する瞬間がある。この『本質』の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず指摘言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった」

 一々の存在者をして、そのものたらしめているマーヒーヤを、芭蕉は連歌的伝統の術語を使って「本情」と呼んだ。千変万化してやまぬ天地自然の宇宙的存在流動の奥に、万代不易な実在を彼は悟った。
 本情とは、個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的「本質」だ。内在するといっても、花は花という『古今』的「本質」のように、事物の感覚的表層に露わに見える普遍者ではない。事物の存在深層に隠れた「本質」である。
 「物と我と二つになりて」・・・・つまり、主体客体が二極分裂し、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮に存在表層と呼ぶ。この存在表層を越えた、認識論的二極分裂以前の根源的存在次元が、芭蕉の見た存在深層である。 
 このように、本来的に存在深層にひそむ「本情」は、登園、表層意識では絶対に捉えられない。つまり、普通の形での「・・・・の意識」の「・・・・」にはにはなりえない。「・・・・の意識」とは、二極分裂的自我意識だからである。モノの「本情」に直接触れるためには、「・・・・の意識」そのものの内的機構に、ある根本的な変質が起こらなければならない。この変質を、芭蕉は一見すこぶる簡単な言葉で表現する。「私意をはなれる」と。私意を離れて、つまり二極分裂的でない主体としてモノを見るのだ。
 このような方向に自己を絶えず美的に修練していくことが、すなわち芭蕉のいわゆる「をのれが心をせめて、物の実(まこと)しる事」(『許六離別ノ詞』)だった。芭蕉のいわゆる「風雅の誠」である。

 しかし、かかる美的修練を積んで存在深層を垣間見ることのできるようになった人にも、あらゆるモノの「本情」が常住不断に露わになっている、とは芭蕉は考えなかった。経験的世界に生きる/生きなければならぬ存在者として、人は普段は「・・・・の意識」で事物に接している。ただ、「内をつねに勤めて物に応」じる特別の修練を経た人、すなわち「風雅に情(こころ)ある人」、の実体験として、モノを前にして突然「・・・・の意識」が消える瞬間があるのだ。そういう瞬間にモノの「本情」がチラッと光る。「物の見えたる光」だ。一瞬のひらめく存在開示だ。
 人がモノに出会う。異常な緊張としてのこの出会いの瞬間、人とモノとの間に一つの実存的磁場が現成する。その場(フィールド)の中心に人の「・・・・の意識」は消え、モノの「本情」が自己を開示する。
 この実存的出来事を、芭蕉は「物に入りて、その微の顕れ」る、という。「物に入る」と、人の側においては、モノが「・・・・の意識」の対象ではなくなる。二極分裂的意識主体が消去する。「その微が顕れる」と、モノの側では、それの「微」、すなわち普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで目に見えぬ「本情」が自らを顕す。この時、そこに自己を開示するものは「本情」だ。すなわち普遍的「本質」だ。
 この永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験においては、突然、瞬間的に、生々しい感覚性に変成して現れる。普遍者が、瞬間的に自己を感覚化するのだ。そして、この感覚的なものが、その時、その場におけるそのモノの個体的リアリティなのである。人とモノとの、ただ一回かぎりの、緊迫した実存的邂逅の場(フィールド)のなかで、マーヒーヤがフウィーヤに変貌する。だが、すべては一瞬の出来事にすぎない。だから、「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」。「その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究」めなければならない。 

 以上、もっぱら服部土芳『赤冊子』に依拠して、芭蕉の詩論と思われるものを「本質」論的に分析してみた。
 存在の真相を徹底的に掴もうという情熱に憑かれた詩人たちの思想から、哲学的「本質」論が学ぶべきことは、当然、多い。
 芭蕉は、不変不動のマーヒーヤの形而上的実在性を認める。ただ、マーヒーヤをそのまま存在の深層次元に探ろうとするかわりに、それが感性的表層に生起してフウィーヤに変成する、まさにその瞬間にそれを捉えようとする。存在の真相をマーヒーヤ、フウィーヤの力動的な転換点に直観しようとする。

 これに対して、同じく存在の真相を探る詩人でも、個別存在者のフウィーヤだけに意識の焦点を合わせ、ひたすらその方向に存在の真相を追求していく人もいる。リルケのように。この型の詩人にとっては、マーヒーヤは始めから概念的虚構であって、なんら実在性をもたない。
 リルケの「即物的直視」は、ただ事物の個体的リアリティを、その究極的個体性において直視するにとどまる。

 芭蕉とリルケは、「即物直視」を事とする詩人の二つの型だ。
 これとは別に、同じく存在の意識体験的な真相開明に執拗な情熱を抱きながらも、一切の「即物的直視」を排除し、マーヒーヤをそのイデア的純粋性においてのみ直視しようとする詩人もいる。そのきわめて顕著な例はマラルメだ。
 マラルメのようなイデア追求型の詩人の普遍的直感は、哲学の領域では、普遍的「本質」の実在論に直結するのである。

   *

 以上、参考文献の主としてpp.57-61に拠る。

【参考】井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫、1991)

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