語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】少年旅行記 ~『十五歳の夏』の書評~

2018年05月14日 | ●佐藤優
★『十五の夏(上下)』(幻冬舎、2018 各1,800円+税)

 <人生は数多くの些事とほんの少しの重大事から成り立っている。それゆえ自伝を書く時には読者を退屈させぬよう厳しく中身をふるいにかけなければいけない。「短編の狙撃手」ロアルド・ダールはそう諭し、次のように述べている。
 「どうでもよいような出来事はすべて切りすて、鮮明に記憶に残っていることだけに集中しなくてはならない」(『単独飛行』永井淳訳より)
 だが『十五の夏』の佐藤優は、ダールの教えに真っ向から逆らっているように見える。高校一年生となった少年は、いまだ冷戦下にあった東欧・ソ連をひとりで旅した。そしていま、あの夏休みの42日を細大漏らさず上下二巻の大著に再現してみせた。旅先で出会った人々との会話、日々の食事、果ては列車のトイレまで克明に描いている。一切をふるいにかけず、眼前に見たものを後知恵で修正していない。検察官との会話をほぼ完璧に記憶してみせたこの人ならと納得してしまう。この書を手にした時の衝撃はこの一点にある。
 我が十五の夏休みを思い出そうとしたが、ほぼすべてが喪われている。ああ、空知川のほとりで放埒な読書に費やした僕の夏休み--。読んだのが井上靖か、中島敦か、坂口安吾だったかさえ憶えていない。
 ひとり旅を続ける優少年は、ルーマニアのブカレスト駅からソ連国境を越えウクライナのキエフ駅に向かう。夜行の食堂車の光景が鮮烈だ。「スープと一緒に黒パンが山盛りになって出てきた。今までポーランド、ハンガリー、ルーマニアで食べたライ麦パンとは全く別の種類のパンだ。ライ麦の割合が高く、生地が密に詰まっていて、酸っぱい」
 強権体制下といっても東欧・ソ連のそれぞれの国で監視、検閲のありようは微妙に異なっている。十五歳の感受性は、その一つひとつから権力の意思を感じとり、後に稀代のクレムリン・オブザーバーとなる滋養としたのだろう。
 『十五歳の夏』の行間には、憤怒がふつふつと滾(たぎ)っている。銀行の電気技師だった父親が暮らしを切り詰めて出してくれた48万円で東欧・ソ連を横断する貴重な旅をしながら、夏休み明けにある数学の試験に備えて百の例題を解く少年がそこにいる。浦和高校に伝えられる「数学は暗記科目だ」という教えに従おうとするのだが、旅先で見たサーカスの熊のように受験という火の輪をくぐりたくないと思う。これほどの天分に恵まれた少年にこの国の受験制度はなんという拷問を加えたのだろう。可能性に富んだ時間を干からびた社会の常識によって浪費してはいけない--。若者はそんなメッセージをこの少年旅行記から読み取り、「明日は君たちのものだ」と考えてほしい。>

□手嶋龍一(外交ジャーナリスト)「少年旅行記 ~今月買った本 連載190~」(「文藝春秋」2018年6月号)から一部引用

 

 

 

 

 

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