よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

名古屋の日総研で講演

2005年05月14日 | 講演放浪記
金曜日の夜に名古屋に移動。名古屋は愛・地球博や新しくできた空港などで今、最も勢いのある地方都市じゃないか。

講演は看護部門の人材評価、開発に焦点をあてたクリニカルラダー(職務と人のあるべき姿を階層ごとに言語化して構築する人材評価、開発のプラットフォーム)の開発、導入の手法。日本医療機能評価機構がクリニカルラダーの導入を評価項目に入れたことも手伝い、現在多くの医療機関がクリニカルラダーに注目しつつある。

ただしクリニカルラダーはあくまで道具であって目的ではない。目的は、人材の開発そして医療機関の機能を高度化し、質の高い医療・看護サービスを実現しあわせて生産性を高めてゆくことだ。

真夜中の弥次さん喜多さん

2005年05月12日 | よもやま話、雑談
「真夜中の弥次さん喜多さん」はおなかの筋肉が痛むほど笑いをこらえなければならないほど面白い映画だ。

「オイラ、リヤルがとんと分からねえ」と叫ぶドラック中毒の同性の恋人・喜多八(中村七之助)を、なんとか立ち直らせたい弥次郎兵衛(長瀬智也)は、「リヤルは当地にあり!」と書かれたお伊勢参りのカードに一縷の望みを託し、お伊勢参りの旅に旅立つ。手に手をとってお伊勢さんを目指し江戸を後にするディープに愛し合うホモセクシャルな2人。禁断症状に苦しむ喜多さんを連れての旅は、波乱につぐ波乱の連続だ。

終盤に入り、旅先は黄泉の国へと至る。現実の世界で、喜多さんに殺されていた弥次さんは三途の川をどうしても渡るためになんと三途の川の源流にまで遡り、亡者を振り切り、弥次さんが殺してしまった亡き妻と遭遇する。三途の川の源流までさかのぼるというのが抱腹絶倒ものだ。

現実と非現実、この世とあの世が錯綜するめまぐるしさはメタ認知の転換を随所に鑑賞者に要求する。入子構造のようなストーリー展開のあちらこちらに、下品な和風なギャグがちりばめられる。この種のギャグは日本人しかわからないだろう。けっして品のいいしろものではないが。

ただし、無節操なストーリー展開の背後には輪廻転生のどっしりしたテーマがきちんと横たわっている。笑いの向こうに実は非常に冷徹な哲学のテーマが設定されているのがこの作品の味わい深いところだ。それゆえに馬鹿笑いをした後の後味はたんなるコメディーのものではない。笑いの奥底に悲しみが、悲しみの横に哲学がある、そんな演出が小気味良い。





新緑眩しい武蔵野のキャンパス

2005年05月11日 | ニューパラダイム人間学
産学提携、産学官連携関係の仕事がこのところ増えている。昨日は東京農工大学の大学院へ呼ばれてプレゼンテーションを行った。

この大学の東小金井のキャンパスは武蔵野の面影を色濃く残す緑豊かな森の中にある。ところせましと欅(けやき)の木は新緑の葉をキャンパスの空間に伸ばし、五月の淡い陽光が木漏れ日となってメインロードに光の吹き溜まりをつくる。

そんな牧歌的な風景をしばし楽しんでから、大学院の建物に案内され、技術経営研究科技術リスクマネジメント専攻研究科のマーケティング戦略についてプレゼンテーション。そもそもMOTのマーケティング戦略を構築するサービスなんてものはどの企業もてがけていない、わがケアブレインズ以外は。知識創造のuniverseの中心たるuniversityに対して知識創造のプロフェッショナルサービスを提供するのは知的な刺激に満ちている。

ビジネススクールのビジネスモデル、MOTの競合状況、マーケット・メッセージ・デベロップメント、eラーニングの活用などなど、前向きかつクリエイティブなディスカッションだった。こちらが楽しいと感じる実感の強いプレゼンほど、その場に居合わせる全てのメンバーにとっても大きなアウトプットが出るものだ。

帰り道、緑の祝福を浴びながら、only one companyというのもいいものだと思った。と同時に会社の組織学習を通して、たゆまぬ知識創造の努力をしなければと感じ入った。

「知識創造企業」

2005年05月10日 | No Book, No Life
経営学の分野は昔から貿易収支が赤字だ。つまり古くはドイツ、近年では圧倒的にアメリカからの輸入が中心だった。経営理論、経営モデル、さらには経営改革手法。少なくても30年間はアルファベット3文字の手法が輸入され続けてきた。MBO(目標管理)、ABC(活動基準費用)、CQI(継続的品質管理)、PFP(成果対応型賃金)、BSC(バランス・スコア・カード)など枚挙にいとまがない。

そんななかで、わずかに輸出された日本発の経営理論もなくはない。「知識創造企業」野中郁次郎、竹内弘高、1996年 東洋経済である。この本、全米出版社協会のビジネス経営書部門でベストブック・オブ・ザ・イヤーにまで選出された。

さて、野中によると、日本企業の成功(と失敗)は組織的知識創造の技能・技術によってもたらされてきた。さらに組織的知識創造とは、新しい知識を作り出し、組織全体に広め、製品やサービスあるいは業務システムに具体化する組織全体の能力をさす。

知識創造が連続的なイノベーションを可能にし、たゆまぬイノベーションが競争優位を実現する。それゆえに組織の成長、組織の発展のためには知識創造こそが原動力であると論じられる。そして知識創造のためのさまざまな論考が重厚なカーペットにように紡ぎ出され、テキストのなかに織り込まれている。経営書の体裁をとりながらも、知識そして組織を論じる教養主義的な良質な啓蒙書であると思う。

個人的には、得るものがとほうもなく大きな一冊となったし、ことあるごとに手にし、読むたびに発見がある本だ。知識創造企業を目指す会社にとってまさに知識経営のガイドのような著作だと思う。




虚妄の日本型年功制復活のススメ

2005年05月08日 | ニューパラダイム人間学
昨今の成果主義人事に対する批判には浅薄なものが多い。その典型は、「虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ」高橋 伸夫著、である。この本の論理展開には大きな欠落がある。それは成果主義人事のシステム、類型、モデルをいっさい提示せずに、従業員サイドから見た成果主義への不満足、自虐的な人事部員の個人的所感をベースにして論を展開していることである。

成果主義のサブシステムである等級システム、評価システム、賃金システムの個別分野に対する専門的クリティークにはほとんど実証的な論をさかず、いきなり、日本型年功制復活を声高らかに煽動しているのがいかにもエキセントリックだ。

この本の著者は、人事マネジメントの実務経験のない大学の教員であるという。この著作物の構図はいたってシンプルだ。例えるならば、サッカーの選手経験のない人間がサッカーチームの監督をやり、その監督が外野から自チームの劣勢に対して批判しているようなもの。巧みなレトリックを駆使した結果、無知なサポーターの情緒的共感は得ることはできたが、経営実務家の理性的な支持は得られなかった。

従来、年功賃金、終身雇用、企業内組合活動の恩恵を得てきた予定調和の世界の住人たるサラリーマン、そして巧みにそれらを演出してきた経営サイドから観れば、役割責任、成果責任、説明責任を問う成果主義は明らかに異質で新しい経営スタイル、ワークスタイルを迫るものだ。よって、異質で新しい経営スタイルやワークスタイルの探索、実践にこそ、産業社会に参画するひとりひとりが自問自答すべきなのだ。

過去と決別し異質で新しい経営スタイル、ワークスタイルに果敢に挑戦して進化の道を選ぶのか。一時的に頓挫したから古きよき「日本型年功制」に復古するのか。無論、前者を支持し、実践すべきだ。


3つの責任と新しい成果主義

2005年05月07日 | ニューパラダイム人間学
明確な役割分担のなかで他者に説明できる成果を生み出す3つの責任、つまり役割責任、成果責任、説明責任こそが企業組織オペレーションの基本だ。

明確な役割分担のなかで他者に説明できる成果を生み出す責任は、人事制度をデザインするうえでも重要な考え方だ。クライアント、自社を問わず経営にあたってはこの考え方を重視している。年齢、年功、性別、学歴、抽象的な潜在能力ではなく、具体的な行動を通していかに役割を果たせるのか、いかに成果を生み出せるのか、いかにチームや個人の成果を説明できるのかを人事、組織運営の基本とすべきである。

組織にパティシペートする個人は、組織への貢献を通して間接的に社会の発展に貢献することとなる。貢献度は、間単に表現すると以下のようになる。

      貢献度 = 役割責任の大きさ X 役割責任の達成度

      役割達成度=f(能力資質、目標達成行動)

成果主義のもとでは、貢献度が高まれば報酬が上がるし、貢献度が低くなれば報酬は下がることとなる。では、どのようにして貢献度を高めてゆくのか?

答えは単純明快だ。より大きな役割を自ら進んで組織のなかで作り上げる。そしてその役割のなかでせいいっぱいがんばり役割をこなしてゆく。こうすれば、貢献は必然的に大きなものとなってゆく。逆に大きな役割をとりたがらない、役割責任を達成しようとしない、能力を磨こうと努力しない、目標を達成しようと創意工夫しない人は、貢献度は低いものとなり必然的にペイやキャリアも高まらない。

ただし、結果=成果となってしまうと狭義かつ短期的な結果しか眼中に入らなくなるからよくない。結果に至る役割行動のプロセスと結果の和が、成果である。このような成果を尊重し、デザインし、組織のなかで共有してゆく。プロセスの中にはフロー体験を得られるような工夫が欲しいものだ。新しい時代の成果主義の行きかたである。





JR尼崎事故の教訓

2005年05月06日 | ニューパラダイム人間学
日本語にしずらい英語がある。そのひとつとしてaccountabilityという言葉がある。最近でこそよく使われている言葉だが、「説明責任」として頻繁に各種の経営評論や人事制度などに登場する。

ただし、説明に対する責任、つまり説明責任と訳するだけでは足りないものがある。正確に言うと、アカウンタビィリティとは「明確な役割分担のなかで他者に説明できる成果を生み出す責任」である。

よって、アカウンタビィリティとは文脈によって、「役割責任」、「成果責任」、「説明責任」の三つの意味を含意することになる。よってアカウンタビィリティが欠落しているというときには、役割分担が曖昧であったり、生み出すべき成果を正確に定義していなかったり、生み出した成果や結果、ときに過失や不作為をきちんと説明することができないということになりやすい。

JR尼崎事故を契機として、いずれJR西日本は組織全体としてのアカウンタビリティを問われることになろう。評論することはたやすいが、そこから教訓を汲み取ることはもっと重要だ。「役割責任」、「成果責任」、「説明責任」は企業組織の基本だ。今回の事故を他山の石とすべきである、と思う。


秘すれば水芭蕉

2005年05月05日 | 自転車/アウトドア
八ヶ岳南麓は、清里の森の中にある私的な山荘にぱっと出かけてきた。

移動性高気圧に覆われ、この上もない素晴しい天候に恵まれる。とくに5月4日は早朝から夜まで、全ての時間帯で南アルプスの甲斐駒ケ岳、八ヶ岳の各峰、奥秩父、そして富士山までもが姿を現すという吉祥だ。

山荘から美の森まではハチマキ道路(最近では八ヶ岳高原道路と洒落た名前がついている)をへて20分くらいのちょっとしたハイキング。ハイカーでにぎわう美の森の裏手には、あまり知られてはいないが、水芭蕉(みずばしょう)のちょっとした群生地がある。

湿地帯に淡い緑の葉をしのばせながら、清楚な白いたたずまいが気品に満ちている。尾瀬ヶ原の大群生地にここぞとばかりに展開する水芭蕉の群生ではなく、ここの水芭蕉は人目をはばかるように、忍ぶようにひっそりと生えているからこそ美しい。




自転車の空間

2005年05月02日 | 日本教・スピリチュアリティ
連休なので3日連続でいつものトレーニングコースの印旛沼サイクリングロードを走る。この季節、桜はとうに終わりをつげているが、自転車ならではの季節感覚に感じ入る。

新緑の緑が透明な風の折り重なったカーテンのように頬をなぜる。それもほのかに甘い薫りをおびつつ。しっとりと汗に上気した首筋に緑の空気の層はやさしくも爽やかだ。ふと、新川の向こう岸の小高い山々を見上げると、昨日の山々とは異なる緑の重奏にはっとさせられる。

緑が違っている。

昨日はまだ淡い緑が幾万という重なりを奏でていたが、今日の緑は昨日よりも明らかに濃い。太陽の角度、日光の強弱などの要素も昨日と今日とでは異なる。緑の中身は転変流転をくりかえすよに時々刻々と変わりつづける。

転変流転を繰り返すありとあらゆるもののなかにどっぷりとつかっていると、その変化に疎くなってしまうのだろう。だから、ちょっと違った角度から間をおいて観るというきっかけが、思いがけない再発見をもたらしてくれる。

日常では向き合えない非日常。普段は見過ごしてしまっているあたりまえの風景。あたりまえの所与のものとして、注意が向かない豊穣な時のうつろい。

日常の中にある非日常、非日常のなかに棲まう日常に気づかせてくれる空間を大切にしたい。自転車に乗ってると、そのような空間が体の周りを流れてゆく。そこはかとなくも豊かなフロー体験をもたらしてくれる。あらためて自転車はすばらしい乗り物だと思う。


フローとシンクロニシティを追加

2005年05月01日 | 日本教・スピリチュアリティ
年の初めからブログをつらつら書き込んできましたが、早いもので4ヶ月経ちました。当初はマネジメント関連のことがらを雑記帳のようにエントリしてましたが、今後は、もっとフロー体験やシンクロニシティを中心に観察したり、意味を紡ぎだしたり、考えてゆこうと思います。

フロー体験志向が強く、シンクロニシティに対する感受性がまあまあ鋭敏で、またそれらの恩恵に日々預かってきました。また、コーネル大学の大学院でヒューマン・サービス・マネジメントや認知心理よりの行動科学をやり、また個人的には自転車ツーリング、登山、秘境探索、異文化交流、組織・人材開発コンサルティング、起業、会社経営などの経験を通して、フロー体験やシンクロニシティに関する洞察、仮説と検証もだんだん貯まってきたので、ここらをひとつの小さなターニングポイントにします。

まあ自分の防備録を兼ねた雑記帳であることは同じですが。「フローとシンクロニシティ」というカテゴリーに関連テーマをエントリして行きます。