よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

「創造への序章」から技術経営の思想へ

2009年04月02日 | No Book, No Life


早坂暁彦氏より以前、著書を贈呈いただいた。この一冊のなかには、イノベーション、リスクマネジメント、技術経営を構想するために有用な深い思索がそこかしこに紡がれている。

ノンベー早坂氏とはよくいっしょに飲んで語らってきた。田町で、北京で、大連で、日本人論を肴にして。

タイヤメーカの顧問、工学博士であり、東京農工大学MOTをも今春修了している早坂氏の創造、人的資源としての技術者問題に対する洞察が深い。とかく技術経営をテクニカルな側面からの分析に終始する研究者が多いなか、同氏の分析は一味もふた味も異なる。

氏の妙味は、エンジニアリングバックグラウンドと教養の基盤を融合させた論法から生まれている。しかもその論法は、自身の内面に涵養された実践力を出自としているのがいい。

司馬遼太郎、小林秀雄、遠藤周作、山本七平という日本を代表すると一般に受けとめられている思想家の「思想」批判が冴えに冴える。これらの思想に通底する思想は、「無思想性」であるとし、創造の現場をになう技術者にも「無思想性」が顕著に観察されるとする。

早坂氏と僕の接点は、実は山本七平(イザヤ・ベンダサン)だったのが面白いところだ。山本日本学は、日本人の行動原理をニューマすなわち「空気」や「世間様」といったものに見出し、無思想性、脱思想性を天皇制、神道をも含める比較文化の視点で議論する。山本はこのあたりの議論を「日本教」という概念をおいて辛辣に展開した。

さて、たしかに僕の周りの技術者は無思想でうすっぺらな連中が圧倒的に多い。歴史、文学、思想、語学、教養には無縁の世界でひたすらワーカー的職人に徹しているのだ。とくにIT技術者にこの傾向は顕著だ。

無思想性の弊害はなにか?

それは、自分の立ち位置を認識して、未来・未知にむけた集中と拡大の力動的な思考が展開されなくなることだ。思想がないと、目的が定まらない。よって技術者は目的が設定されて初めて稼働することができる。目的が設定されないと動くことができない。

たしかに、理学、工学は価値中立的(つまりは無思想)なシロモノだが、それらのディシプリンを使う立場のマネジメントや経営は、利益の獲得を目指して複雑な現象を扱うゆえに、価値志向的、つまり複雑な現象に対する構えとしての思想が求められる。

無思想性の利点はなにか?

無思想の人々は、使う立場=操作する権力者から見えれば使いやすいのだ。なにせ目的を自分で設定することができない人々だからだ。資本家や起業家から見れば、処しやすい人的資源ということになる。ゆえに生粋の技術者は起業家や資本家といった経営の立場を担うことができない。これは自明だ。

よって一部の問題意識が強く、自らをさいなむ劣等複合に自覚的な技術者は、脱皮をはかり大きな構えを求めて「技術経営」に活路を見出すようになるのだろう。それゆえに、その技術経営の大きな構えのなかには思想が埋め込まれていなければなるまい。

ずばり、「技術経営の思想」が求められているのだ。

早坂氏にはぜひ次作で取り組んでいただきたい。



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