12月16日(日曜)
久し振りに、小春日和の穏やかな日でした。
選挙でしたので、投票会場になっている保育園に行きましたが、
長蛇の列。小選挙区、比例、都知事、裁判官、と
いっぱいありましたからね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a1/cc61fd5b448a0dc8f3f1c1a333a32195.jpg)
同僚とよく、豆腐のような人間になりたい、と話をしていたのですが、
先日読んだ本の中に同じような一節があったので嬉しくなりました。
一節を書き出します。
江戸時代に『豆腐百珍』という一〇〇通りの豆腐料理を紹介した本が出版されている。
この本に、湯豆腐は『豆腐の料理において第一の品』とある。
ただ湯の中にたゆたっているだけで、極上の味を出す。
シンプルで、ムリがなく、しかも融通無碍である。
これは人生そのものではあるまいか。
湯豆腐を口にするたびに、私は、豆腐こそわが理想の生き方だと、
オーバーでなく肝に命じている。
俳人の荻原井泉水も、『豆腐』という随筆で豆腐を賞賛している。
豆腐は湯豆腐や冷奴のように、おのれ一人でも絶品と讃えられる存在感を示す。
さらに、肉、野菜、魚介類など、どんなものにも協調する。
相手の味わいになじめながら、それでいて、
自分らしさを微塵も失わない。
しかも、ただ、ふにゃふにゃとしているのではない。
十分にやわらかいのだが、身を崩さないだけのしまりがある。
ゆらゆらと湯のなかで揺れても崩れることはない。
多少角が取れたりするが、気にならない。
そういう大らかさがある。
「私が、オレが」とかなきり声をあげるわけではなく、
かといって「どうぞどうぞ。私のような者など」と卑下するわけでもない。
その中庸ぶりが、なかなかもってタダモノではない。
豆腐がTOFUとなり、国際語になるのなら、世界の人々にも
豆腐のごとき素晴らしい生き方も伝えたいものだ。
強い者、強硬な者が幅をきかせがちな競争社会では、
豆腐のごときやわらかさ、自在さはなおさら貴重であろう。
~斎藤茂太~
我々は、主役であれ脇役であれ
どんな料理であっても目立たないけど存在感はある。
芯の部分ががしっかりしていれば
自分を前面に押し出す事も出来るし、
脇役にもなれる。
相手の意見を聞き、いい所は吸収するが、
だからと言って自分は見失わない。
そういう人になりたいものです。