英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

バレンタインデーの贈り物はプロのギタリストと歌手      フィリピンでの話

2013年02月14日 23時11分01秒 | 生活
 きょうはバレンタインデー。初老の人間にはあまり関係がないが、筆者には少々関係がある。約7年前から近所の女性が筆者に毎年、自ら作ったチョーレートやお菓子をプレゼントしてくれる。最初にもらったのは、確か彼女が高校一年生だったと思う。現在、保育園で働いている。家内と毎年、彼女に感謝している。もちろんホワイトデーにはお返しする。
 インターネットを検索すると、聖バレンタインデーの始まりは古代ローマ時代にさかのぼる。若い男女は別々に生活していたローマ時代には、2月15日から安産の祭「ルペルカリア祭」が行われ、この祭りは男女が巡り合う唯一の機会だったという。
 若い女性らはルペルカリア祭の前日、札に自分の名前を書いて桶の中に入れた。翌日、男性は札1枚を桶から引き出し、お祭りの間、札に記した名前の女性と暮らした。多くのパートナーはそのまま恋に落ち、結婚したそうだ。
 ルペカリア祭でのこの風習はローマ時代に約800年間続けられてきたが、ローマ教皇のゲラシウス(在位268-270)は「愛する女性を故郷に残した兵士は軍の士気を下げる」と断じ、この風習を禁止した。
 キリスト教司祭だった聖バレンティウスは結婚が許されない兵士を哀れに思い、秘密に結婚させた。皇帝は激怒し、聖バレンティウスを逮捕。西暦269年の2月15日に処刑した。ローマの若者達は皇帝の無慈悲な行為に反発し、前日の14日に好きな娘に愛のカードを渡すことを思いついた。カードには愛の殉教者、聖バレンティウスの名を書いたという。
 バレンタインデーは今日、世界的な行事だ。フィリピンでもバレンタインデーは若い男性の愛の告白の場。
 AP通信社が14日伝えたところによると、バレンタインデーの日に先立って、マニラの吉野家で働く女性支店長(22)が、遠く離れたローマの恋人からバレンタインの贈り物を受け取った。贈り物は、プロの歌手とギタリスト。歌手とギタリストがレストランに派遣され、彼女のためにギタリストがセレナーデを演奏、伴奏にのって歌手が歌った。バックグランドミュージックにのって、彼氏のラブレターが読まれたという。
 男性と女性は1年前から恋人として交際、男性は出稼ぎ労働者として1年間、イタリアのローマで働いている。
 女性の名はアンジェリカ・ニノさん。恋人からの想像もできない贈り物にびっくりしたニノは、レンタル「キューピット」の演奏を聴きながら、贈り物のテディ―・ベアーを抱きしめ、うっすらと目に涙をためていたという。 この模様はビデオ・カメラに撮られ、多分、ローマの恋人に贈られるのだろう。
 このユニークなサービスを始めたのは、以前、レコード・スタジオ・プロジューサーをしていたジャソン・ロサさん。2010年にフィリピンで初めてこのようなサービスを始めたと、APは伝えている。
 外国で働くフィリピンの出稼ぎ労働者は国民の総人口9000万人の10%にあたる。家族を祖国に残して外国に出かけていく出稼ぎ労働者の多くは、ホームシックにかかるという。
 ロサ氏と共同経営者は“歌う電報”を顧客に贈りたかったと話している。この類のユニークなサービスは米国、ボリビア、オーストラリアでも行われているが、世界が広いといえどもフィリッピン人に最も人気がある。ウェットな国民性と、外国で働く人々の割合が、世界の国々の中で飛びぬけて高いことが人気の秘密のようだ。
 APはこのサービスの値段を報じている。プロの演奏者が2-3曲演奏し、プロの歌手が歌う。テディ―・ベアー付きで、バックグランドギターの演奏にのって恋文が読まれる。それに、演奏などの様子を録画したビデオや写真を納めたCDを含めて、料金は7000ペソ(170ドル)。日本円に換算すると約1万6000円。
 ニノさんのような吉野家の支店長クラスの月給の4分の1に相当するそうだ。もし一流のプロの演奏家や歌手を雇えば、さらに料金は跳ね上がる。このサービスはフィリッピン全国で利用でき、全国の都市に合わせて140人のプロの歌手とギタリストが待機している。日本でこのようなサービスが流行するかどうか、筆者は判断がつかない。結論は読者にお任せする。

東京が世界で最も生活費が高い都市

2013年02月13日 20時32分06秒 | 生活
  英紙エコノミストグループ翼下の独立機関、エコノミスト・インデックス・ユニット(EIU)がこのほど発表した「2013年における世界の都市の物価ランキング」では、東京が世界一物価の高い都市に返り咲いた。大阪が2位だった。
 筆者は東京に週3-4日出勤し、退社後、しばしば有楽町や銀座を歩く。デパートの地下にある食料品売り場を覗くが、東京近郊県に比べて、値段が高い。果物や野菜は5割増かなあと感じることもある。それに新鮮でない。
 東京23区に居を構えれば、便利なことは疑いの余地はないが、食料品など生活必需品が高い上、家賃も高い。東京都内のマンションは一会社員や労働者が買う値段ではないように思う。EIUの調査を英紙ガーディアンで読んで、なんとなく納得する。
 ちなみに、EIUの調査では、昨年はスイスのチュリッヒが世界で一番物価が高い都市だった。スイスフラン高ドル安が原因だという。今年はスイス政府が為替をコントロールしたため、7位に順位を下げた。
 ことしに調査で特質すべき特徴は、オーストラリアの大都市の物価が上がっていることだという。シドニーとメルボルンがそれぞれ3位と5位と占めた。トップ20都市のうち、11都市がアジア・オセアニア地域。北アメリカの都市は、トップ20に入っていない。4位はノルウェーのオスロ。10位までのほかの都市はシンガポール、パリ、ベネズエラのカラカス、ジュネーブで、ロンドンは昨年から一つランクを上げて16位。
 ただ、物価が最も安いトップ10のうち、6都市までもがアジア・オセアニアが占めている。最も物価が都市はインドのムンバイとパキスタンのカラチ。続いてネパールのカトマンズとアルジェリアのアルジェだという。アジア諸国の貧富の差の大きさを示しているようだ。
 英紙ガーディアンによれば、ジョン・コップステークEIU編集長は「最も大きな変化はオーストラリアの物価高だ」と話している。 「10年前にはトップ50にオーストラリアの都市が顔をのぞかせることはなかった」
 世界のほかの都市と比べてこれほど急速なスピードで物価が上昇している都市はないという。ただ、経済成長がインフレをもたらし、ドルを別にして豪州通貨が世界の諸通貨に対して強いことが物価を押し上げている要因だという。久しぶりにオーストラリアを訪れた観光客は物価高を実感するだろう。筆者はオーストラリアを訪れたことはない。
 EIUは食料、衣服、交通運賃やガス、電気、水道料金などの公共料金など160項目を調査した。
 日本では東京と大阪の物価が異常に高く、生活するのに適した場所ではないということか。東京に比べれば地方は住みやすいと思う。生活がたいへん便利な東京都心に住みたいと思う年配者はかなりいるが、筆者は都心から1-2時間の地方都市に住んで、畑の中を散歩し、のんびりと過ごしながら、時には都心に出るほうがよい。

  ●訂正 2月11日付「攻撃用レーダー照射(2)」の最初から31行目「戦傷者約20万人」を「戦死傷者約20万人」に訂正し、お詫びします。

「日本を(満州侵略に)駆り立てたのは中国」     米外交官証言(1935年)     攻撃用レーダー照射(2)

2013年02月11日 20時27分02秒 | 時事問題と歴史
 今回は、1920年代を振り返る。話の本筋に入る前に、読者の皆様に次のことを理解していただきたい。過去を検証する場合、大切なことがある。われわれは現在の価値観でなく、当時の価値観で当時の人々と対話しなければならない。そうしなければ、過去の失敗も成功も、現在と未来に生かせない。筆者はそう思う。
  歴史の流れとともに、人間の価値観は変わる。英国の歴史学者、ジョン・トシュ・ローハンプトン大学教授は「産業革命前、イングランドでは離婚がほとんどなかった」と話す。夫婦が生産単位であり、パン屋、鍛冶屋、仕立て屋などを経営した。また法的な離婚も認められていなかった。女性の社会的地位は大変低かった。
 18世紀後半にはじまった英国の産業革命がすべてを変えた。工場での大量生産が可能になり個人企業が崩壊。経済的な理由で夫婦が離婚できにくい環境がなくなっていった。産業革命は人々の価値観も変えた。個人の意思(恋愛)が結婚の動機になっていった。家族単位の企業崩壊は歴史の流れにおける変化だ。 
 また18世紀後半までイングランドでは、公開での絞首刑は普通であり、大衆3万人以上の面前で行なわれたという。見物人は男性より女性が多かったといわれる。正義が実行されたと大衆は拍手喝采した。人権を尊重する今日では考えられない。
 今日でさえ価値観の変化が散見される。電車の中で、女性が化粧しているのをよく見かける。40年前に、電車で化粧をしている女性はほとんど見かけなかった。皆無だといってもよいかもしれない。
 当時、女性はよほどの勇気がなければ、電車内で化粧することはなかっただろう。社会常識に反していたし、人々はこのような女性に「うさんくさい」レッテルをはった。現在、化粧している女性に後ろめたさはないようだ。価値観がしだいに変化しているのだろう。40年前の年配者が現在生き返って、そのような女性を批判してもナンセンスだと思う。ただ個人的には好ましくないと思う。初老のたわごとだ。
 と言うわけで、日本の中国侵略を「現在の価値観」で捉えても、正確な分析に迫れない。筆者はそう思う。石原参謀が生きた時代の価値観で、彼を批判してこそ、批判する価値がある。そして現在にも生かせる。前置きが長かったが、読者の皆様とともに1920年代から30年代初頭にタイムマシーンで戻ろう。
 なぜ満州(現在の中国東北部)に駐屯した関東軍(日本軍)が満州全土に進軍したのか。侵略した理由は単純ではない。いくつもの理由が絡み合っている。その一つの理由は、関東州(遼東半島)の租借地を守備していた関東軍から見て中国の理不尽な態度だった。日本人である関東軍将校にはそう映った。中国共産党政権が今日、尖閣列島(中国名:魚釣島)、靖国神社問題、歴史問題など日中の相違をすべて政治戦、宣伝戦、心理戦、法戦から捉えて日本に揺さぶりをかけているように、1920年代も中国の軍閥北京政府や南京の国民党政府は同じような戦略で日本に揺さぶりをかけてきた。欧米植民地列強に対しても同様の戦略で挑んできた。
 我慢できても忍耐できない関東軍(筆者の主観だが、日本人は忍耐できない。せっかちなのかもしれない)は、中国のあらゆる“妨害”に抗しきれず、ついに堪忍袋の緒が切れて、圧倒的な武力を盾にして中国に侵略を始めた。
 関東軍は日露戦争後に日本がロシアから譲り受けた関東州(遼東半島)の租借地や鉄道、鉱山を守る少数の守備隊として発足した。当時の価値観では、条約という手順を踏めば、戦争で分捕った土地の正当性は保証された。また日露戦争(1904-05)で敗れたロシアが、1890年代に中国から租借した遼東半島の土地の一部を日本に譲り渡しても問題はなかった。当時の人々が共有している価値観だった。少なくとも1920年代初頭まではそうだった。
 中国は日露戦争後、渋々ながらロシアから日本への譲渡を認めた。なぜ?法的に問題がなかったからだ。ただ、実際、日本軍は中国が戦う相手ではないと、清朝(中国)政府は考えた。日本の軍事力が圧倒的に優っていた。
 中国人は現実的で、力関係を重んじる国民。抵抗してもどうにもならないと悟った。中国人は言葉では相手を脅かし激しくののしるが、相手が強ければ、攻撃しない。日本人のように、敵が何十倍も強大であろうとも、自らの“正義”の旗を掲げて戦いを仕掛けてくる民族ではない。筆者はそう思う。
 第1次世界大戦が終了して3年後の1921年11月11日から米国の首都ワシントンで、歴史上有名な会議が開かれた。翌年の2月6日まで開かれたこの会議で、日米英仏伊の主力艦(戦艦)の建造を制限する話し合いが日本も参加して行われた。しかし、日本と欧米列強の主な仕事は軍縮ではなかった。中国の主権保持をめぐる話し合いが最も重要だった。米国は門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の無軌道な中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図った。
 締結国はアメリカ合衆国、英国、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国だった。これらの諸国は今日で言う9か国条約を結んだ。
 日本は1921年、米国からワシントン会議への招待状を受け取ったとき、会議への参加を渋った。参加すれば、戦死傷者約20万人を出し、国力のすべてを使い果たして勝利した日露戦争での満州の権益が遡上にのぼるのは明白だった。しかし日本は会議に参加し、条約を締結した。
 海軍力の増強を唱えていた、日本海海戦の参謀長、加藤友三郎・海軍元帥は会議に日本全権として参加し、欧米列強や中国とワシントン条約を締結した。英米が、特に米国が、日本海軍が太平洋で強大になることに警戒の目を向けていた。(米国が現在、中国海軍の強大化に警戒を向けているのと同じだ)
 加藤元帥は米国の姿勢を理解し、「日本が強大なる海軍を有するを好まざるは英米同一なり」と語った。加藤元帥はワシントンのホテルで、海軍省の井出謙治海軍次官宛ての伝言を口頭で、部下で信頼が篤かった堀悌吉中佐に書き取らせた。(元帥の陶訓を受けた堀提督は「海軍の至宝」とまで謳われたが、対米英協調主義者であったため、1934年に艦隊派と言われる対米英強硬派に海軍を追われた) 
 加藤元帥は時の変化を悟り、歴史の変化を感じていた。もはや19世紀の欧米列強による弱肉強食の時代は終わったと確信した。外交の最終手段として、戦争が認められる時代は過ぎ去りつつあると感じていた。「国防は国力に相応する武力を整ふると同時に国力を滋養し一方外交手段により戦争を避くることが目下の時勢に於いて国防の本義なりと信ず。即ち国防は軍人の専有物に在らずとの結論に到達す」
 また日本は米国と戦争してはいけないし、することもできないという結論にも到達した。「日本は貧乏国だ。戦争しようと思えば資金がいる。世界は広いといっても、金を貸してくれる国は米国しかいない。だから米国とは戦争はできない」
 現実主義者で観察眼鋭い元帥は、時代の変化を的確に読み取り、軍拡から軍縮に方向を転換し、米国との協調路線に踏み出した。今日、加藤元帥のような視野の広い、時代を的確に読み取る海軍軍人が中国に存在することを望む。21世紀は、新中国の創始者、毛沢東が最も嫌った覇権を争い、覇を唱え、「中華再興」を叫ぶ時代ではない。21世紀は協調と協力の時代だ。
 またまた話しがそれたが、嫌々ながらもワシントン会議に参加した日本は、忠実に条約を遵守した。条約を遵守することで、欧米列強と協力し満州の権益を護ろうとした。
 ワシントン会議に参加した中国は、1839~41年のアヘン戦争以来はじめて列強から無理やり不平等な取り決めを押し付けられなかった。初めて国権を失わなかった。それどころか、中国は1922年2月、日本と山東省問題で合意し、第1次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツから日本が譲り受けた膠州湾租借地を返還させるのに成功した。
 山東省の中国への返還は、欧米列強が19世紀、特に1894-95年の日清戦争以降見せた赤裸々な中国分割の時代は過ぎ去ったことを意味していた。欧米列強と日本は、正式な手続きを踏めば対中間の不平等条約を改正すると約束した。時は確実に変化していた。
 しかし、中国では内戦が激化し、欧米列強や日本と条約改正交渉を進めることができる強力な中央政府が存在しなくなっていた。そして、もう一つの主要な時の変化が見られた。ワシントン条約当時と比べて1920年代半ば頃から民族主義が一層過激さを増した。民族主義に国益の正当性を見いだした中国は列強との交渉による不平等条約の改正を無視し始めた。中国人は法を軽視するが、観察眼は鋭い。気を見るに敏であった。
 風は中国に吹いていた。日露戦争が引き金となってアジアに吹き始めた民族主義が嵐となってアジアを覆い始めた。日露戦争で、黄色人種(日本)がはじめて白色人種(ロシア)に勝った。それまで、白人には負けると信じていたアジア植民地の人々は自らの主張を声高に言い始めた。
 中国の学生は1925年5月30日、日本資本で運営されていた紡績工場の労働者のストライキへの弾圧に抗議し、デモ行進を始めた。租界地区の日英警察が多数のデモ参加者を逮捕。英国の警察は発砲し、中国人11人が死亡、2人が負傷した。いわゆる「5・30運動」が発生し、全国に飛び火した。
同年7月23日、中国人約6万人のデモが広東近くの沙面の租界地で起った。デモ隊の攻撃に英国軍は応戦し、多数の中国人が射殺された。中国の大衆の標的は日本と英国だったが、この事件で英国が集中砲火に見舞われた。
 中国人が以前から抱いていた外国人を嫌悪する排外主義とナショナリズムがない交ぜになり、怒りは頂点に達した。1年以上もの間、英中貿易と中国の港で英国人が取り扱う製品の船積みがボイコットされた。
 中国の民族主義が歴史の歯車を加速させ、国家間の正当な手続きによる条約の改正を不可能にしていった。歴史は大きく変化し、皮肉にも、日露戦争により引き金を引いた日本に向かってそのナショナリズムが押し寄せていた。英国は中国の民族主義者に妥協し、彼らの提案に沿って、不平等通商条約を改正する決意を固めた。
 英国は東アジアで刻々と変化する情勢を観察し、歴史の歯車が自分の望んでいる方向とは反対に動いていると考え始めた。民族主義運動が国際環境をジワジワと新しい方向へ変化させていることに気づいた。大英帝国が思うままに世界に指図した19世紀の時代は終わり、自分だけで中国問題を解決することは不可能だと悟り始めた。
 国民党はナショナリズムを全面に出す「国民革命」外交を展開していた。民族主義に目覚めた中国国民は国民党を支持。1920年代に時計の針が進むにつれて、米国の中国への同情はますます高まって行った。アヘン戦争以来90年にも及ぶ欧州列強の植民地政策と日露戦争以降の日本の対中政策は米外交の基軸とは水と油だった。
 中国人は国際環境のこの変化を見て攻勢に出た。相手が弱いと見ると攻め、強いと見れば引く現実的な国民だ。当時、極東問題で米国の第一人者と言われたジョン・アントワープ・マクマリー・北京公使(現在で言えば米国大使)は国民党の蒋介石将軍を批評し、「彼は妥協したり、巧みに説得したり、策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と語っている。権謀術数に長けた中国人の国民性は事態をますます複雑にした。
 軍閥打倒と中国統一をかかげて北伐を開始した国民党は1927年3月24日に南京に到着し、国民党軍の一部は英国と日本の領事館を急襲。中国軍兵士は領事館の私物を略奪し、アメリカ人を殺害した。1937年12月の南京大虐殺事件は有名だが、この南京事件は今日の人々の記憶に残っていない。
 蒋介石は1927年4月12日に上海でクーデターを起こし、共産主義者を弾圧。共産党との戦いを始めた。国民党の武漢政府は8月19日、蒋介石の南京政府との合併を宣言。1928年6月、蒋介石は北京に入城し中国を統一した。
 国民党が中国を統一すると、王正廷外交部長(外相)は1928年7月19日、1896年に日本と清国(中国)との間で締結した通商・航海条約と、1903年の同条約の追加通商条約を否認すると一方的に声明を出した。やむなく日本は譲歩し、満州の権益を中国が認める代わりに中国本土の日本の権益について大幅に譲歩する用意があると表明した。
 日本政府は1929年4月26日に王と交渉を開始した。6月3日に国民党政府を承認し、1930年5月6日には日中関税同盟を締結。中国は関税自主権を回復した。このありさまを見ていた日本陸軍は、幣原外相の対中政策があまりに国民党政府に譲歩しすぎると断じ、「軟弱外交」とののしった。
 中国は1929年12月29日、欧米列強や日本に追い討ちをかけた。1930年1月1日以降、条約国の諾否にかかわらず条約が規定した治外法権の項目を無効にすると発表。その前提にたって列強と治外法権撤廃交渉を始めると宣言した。一方、欧米列強諸国は中国での自国民保護の裁判システムはまだ必要だと考えていた。「中国は法治の国ではない」と考えていた。
 国民党政府は同じ年の1929年にソ連(現在のロシア)にも矛先を向け、ソ連の革命政府が帝政ロシアから引継いだ東支鉄道(日本は当時、北満鉄道と呼んだ)を強制的に接収しようとした。条約を無視する中国の態度に怒ったソ連は中ソ国境に軍隊を集結。ソ連より弱体な軍しか保有していなかった中国はソ連の強硬姿勢に屈服し、接収を見送った。中国人は「自分より強い相手」に対して引いた。
 治外法権撤廃をめぐる中国と欧米の対立の中で、満州事変が1931年9月18日に勃発。中国は満州事変の開始を受け、列強諸国に治外法権撤廃を無理押しするのは得策でないと判断し、ゴリ押しするのを控えるようになった。
 中国・国民党政府の動機は明白で、日本の侵略に反対する国から最大限の支持を期待した。中国はそろばんをはじいていた。中国は、廃止にこだわって関係国と対立するのは得策でないと判断し、時の変化を待つ態度に転じた。中国人が現実的で、したたかだと見て取れる。
法律に対する中国人と日英米人との歴史的なコントラストが際立っていた。中国は人治の国。現実を尊重し権謀術数をめぐらす人々が住んでいる。賢帝が国を治めれば法律など無用で人民は幸福な生活を送れると信じる「孔子の国」だ。
 これに対して鎌倉幕府の執権、北条泰時公が貞永式目を制定してから700年、法律を国家統治の基礎にしている日本。1215年のマグナカルタ憲章制定以来、国王も法に従ってきた英国。英国から新大陸に移住し新しい国を建設した米国人。歴史の伝統の違いは明白なっていた。
 歴史の流れが変化する中で、日本人、特に軍部はひたすら満州の権益を護ろうとした。ナショナリズムに正当性を与えはじめた歴史の変化に目を向けなかった。日本軍は国民党に接近する英米と協調しては満州の権益は守れないと判断した。ついに満州の既得権を守るには武力に訴えるしかないと考えるに至った。既得権死守と満州の資源・食糧の確保、対ソ・対満州防衛などの政策がない交ぜになって、関東軍は突撃ラッパを鳴らし、満州へ侵攻した。
 関東軍は1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天近郊の柳条湖の南満州鉄道線路を爆破し、従来の計画「一挙に満州に関する日中問題を武力で解決する」を実行に移した。日本破滅への序曲、満州事変が始まった。
 日本軍部、とりわけ関東軍は、法に基づいて日本は正当な既得権利を行使しているのに中国人はことごとく邪魔をする、という不満がついに沸点に達した。米外交官のマクマリーは1935年、メモランダムを国務省に提出した。この内容が「平和はいかに失われたか」(原題 How the peace was lost 原書房)に書かれている。
 マクマリーは、日本が中国を侵略(満州事変)したことを決して許容はしないと述べたが、「日本をそのような行動に駆り立てた動機を理解するならば、その大部分は、中国国民政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が『自ら求めた』災いだったと我々は解釈しなければならない」と語っている。また、アヘン戦争(1838-1841)以来の中国の不平等条約をめぐる欧米列強・日本と中国の改正交渉(1920年代)について「中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のために、・・・力に訴えようとし、力に反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みのせいであると冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない“けち野郎”と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう」。米国人の善意はただ、幻想をもたらしただけだった、と結論付けている。
 米国の外交官は、中国の指導者の蒋介石総統を批評し「妥協したり、巧みに説得したり策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と述べている。
 マクマリーはこうも語った。「(中国政府は)中国の貧困はすべて外国のせいであり、中国の輸出入とも外国への貢物だと大衆に宣伝した。中国人の排外的傾向をあおった。蒋介石の宣伝工作は巧みであった。対日戦の米国への宣伝工作も巧みだった」。尖閣をめぐって今日の中国共産党政府の非難の仕方とあまりにも似ていると言わざるを得ない。
 満州権益をめぐる日中関係についてマクマリーは「少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのは日本人の気性であった」と述懐した。 
 日本はワシントン(条約)体制を順守しようとした。しかし中国人に軽蔑されて撥ねつけられ、イギリス人とアメリカ人に無視された。東アジアで自分の利益を守るには武力しかないと考えるに至った日本は満州へ侵攻したのである。
 マクマリーは、中国がベルギーとの不平等条約を破棄したいきさつについても記している。
 中国はベルギーと1865年に締結した不平等条約の改正時期が1926年に来ていた。ベルギーは交渉で中国の意向をくもうという意志を表明したが、中国は無視し、ベルギーに廃棄通告した。ベルギーはさらにハーグの国際裁判所の調停にゆだねようと提案したが、中国は拒否。不平等条約から自由を得るのにどうして調停を申し込むのか、と非難した。中国の北京政府は1926年4月26日、べルギー政府にこの条約は同年10月27日で期限切れになると一方的に通告した。
 「彼らは西洋人があまり重きをおかない力というものにある程度敬意を払い、相手の弱みをすばやく見つける」と、マクマリーは中国人観を述べている。マクマリーは国際法を信じた。いかなる変革も法的に定められた手順に従って行なわれなければならない。19世紀に不平等条約を欧米列強により押し付けられた日本とシャム(タイ)は半世紀以上にわたる粘り強い交渉に成功し、不平等条約を平和裏に解消したではないか、と語った。
 マクマリーは次のように米国務省の幹部に説いた。日本の軍部が“軍国主義のウィルス”にり患したのではなく、侵略に先立つ10年間の米英の行為がもたらしたものだ。ワシントン会議の結果、アジアの新しい国際秩序の枠組みをつくり、その枠組みの中で漸進的に中国の被っている不平等条約を改正していこうと列強は約束した。中国も会議に参加、同意した。にもかかわらず、中国は条約をしばしば破り、米国は感情的に中国の置かれていた“不幸な境遇”に同情して、中国のわがままを聞いていた。
 英国はと言えば、外国政策の伝統に従って、刻々と変わり周囲の状況に自分を適応させようとしていたにすぎない。結果的に中国の意に沿った動きをした。
満州の既得権益を失うことを恐れてワシントン会議に参加したくなかった日本は、会議で合意事項が決定されると、1920年代に一貫して条約の条文と精神を厳密に守ろうとした。だが、この合意はもう一方の当事者、特に中国と米国が条約諸規定の実施を繰り返し阻害したり、拒否した。マクマリーはこう分析した。
 マクマリーは自らの中国観について「中国は、過去も現在も未来も、外国を野蛮な敵と見なしており、外国を競り合わせて利を得ようとする、外国のうちで一番成功している国を尊敬するが、時が経てば、たちまち引きずり落とされてしまうという始末である。・・・もし米国が日本の支配から中国を『救い出し』、中国人民の目から見て『ナンバーワンの国』となれば、それは米国が、中国人にとって最も好ましい国になったというのではなく、逆に彼等にとって最も信頼しない国になったということなのである」
 また日本観について「日本人は表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなるような国民なのだ。真の指導者と認めて忠誠をささげている人たちによって抑制されなければ、“とことんまで突っ走る”性癖がある、こんな国民は恐らく世界に例がないと思われる」と話している。
 われわれ日本人は、今回の尖閣列島(中国名:魚釣島)について感情を先行させてはいけない。われわれが歴史から反省するとしたら、「深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなる」ような態度に出てはいけないということだ。
 関東軍将校のように、「自らの目」だけから主観的に周囲を観察し、独善的になってはいけない。時の流れを無視してはいけない。冷静に思考し、中国人の性格を的確に観察して、知略をめぐらし対応する以外に道はない。戦略的思考と力を信じる中国人、特に軍部には、誠意を示せば相手に通じるという日本の価値観は通じないように思われる。冗談で言えば、戦国時代の名参謀、竹中半兵衛と黒田如水、武田信玄公をあの世から呼べ、というところだろうか。
 前防衛大臣の森本敏氏が2月8日昼のTBSのワイドショーで語っていたように、中国に付け込まれるような言行を控える。相手の「ワナ」にはまらないことだ。その意味で、護衛艦「ゆうだち」の艦長は賢明だった。もし艦長がなんらかの行動を起こしていたならば、レーダー照射した中国艦船に非があっても、中国政府は「日本側が先に行動した」と国際社会に訴えるのは目に見えている。筆者が説明した1920年代の中国大陸をめぐる歴史を振り返れば明らかだ。歴史を無視する傾向が強い日本人は今こそ、歴史を「友」として中国に対応しなければならないと思う。


   ●第3回(2月16日)、第4回(17日)は、「中国の提督の世界観」や豪州の国際政治の専門家の話を引用して「今後、中国にどう向き合えばよいのか」について私見を述べます。

(写真はジョン・アントワープ・マクマリー;public domain) ●マクマリーは戦後、ソ連に対する封じ込め政策を立案した米外交官で歴史家のジョージ・ケナンの対中観に大きな影響を与えた。また加藤友三郎海軍元帥とワシントン会議の写真はホームページ「ダウニング街だより」の「賢者は歴史に学ぶ」に設定された「フォト・ギャラリー」にあります。いずれもPublic domain

 ◎筆者がNHKで見た「1年の稼ぎ風で飛ぶ」が2月8日(金)18時26分に朝日新聞デジタルから配信された。オチがあり、筆者がテレビで見た後、同情する人たちから多額の寄付が集まったという。朝日によれば、出稼ぎ労働者が「持って行かないで。1年間汗水たらして稼いだお金なんだ」と周りに頼んだが、その場で返してくれたのは3人で、計700元。自力で拾い集めたのは3千元だった。1万7600元(約26万円)が風に舞った。その場で返した3人のような人々が同情して寄付した。よかった。 

「中国人はうそつき」  80年前の米外交官の見解   攻撃用レーダー照射(1)

2013年02月10日 14時52分38秒 | 時事問題と歴史
 
 中国は春節を迎え、中国人は新しい年に思いをはせているだろう。首都、北京をはじめ、日本の国土全体の何倍もの大地が大気汚染に見舞われている。それにもかかわらず、「春節名物の爆竹や花火の音が激しさを増し、煙とにおいが北京を覆う。爆竹お構いなし」だ。(2月10日付朝日新聞朝刊)
 爆竹や花火の中にも問題になっている超微小有害物質「PM2.5」が含まれているという。北京市当局の自粛の呼びかけも大きな効果を上げていないようだ。
  日本人は、筆者の独断と偏見で言えば、長期戦略を立てるのは苦手でも、目の前に現れた現象に機敏に対応するのに長けている。そしてなんとか困難を克服する。何よりも、他人を思いやる民族。自分の迷惑は他人にも迷惑だと考える民族。他人に迷惑をかけるな、と小さい時から教えらえる。日本人を構成する主要な民族である大和民族、琉球民族、アイヌ民族の見方、考え方、行動パターンはほぼ同じだと思う。
 これに対して中国人とはいかなる民族なのか。中国は多民族国家。一民族にくくることはできない。その中で漢民族の人口が一番多い。4000年の長い中国史を通して、支配者にも被支配者にもなった中国の主。モンゴル民族や満州民族に征服されても、へこたれなかった民族の国民性はいかなるものなのか。
 中国艦船による海上自衛隊の護衛艦への攻撃用レーダー照射が5日にはじめて報道されてから、筆者は、広大な大陸にすむ「漢民族とはいかなる性格を持っているのか」を考えている。島国に住む日本人や英国人とは性格も、ものの見方も、行動パターンも異なるのは確かだ。
 第1次世界大戦に敗れたドイツ皇帝、ウィルヘルム2世が「大戦前に読んでいれば・・・」と慨嘆させた中国の兵法書「孫子」の中の一節「彼を知り、己を知らば、百戦殆(あや)うからず」が脳裏をかすめる。「孫子」は、紀元前6世紀の武将で軍事戦略家の孫武により書かれたと言われ、20世紀の英国の戦略家で陸軍将校のベイジル・リデルハートや、新中国建国の父で傑出した戦略家、毛沢東(政治家としては同僚を震え上がらせた独裁者)に大きな影響を与えたという。
 中国駆逐艦による海上自衛隊の護衛艦に対する攻撃用レーダー照射は日本人を驚かせ、言いようのない不安を与えた。筆者も同じだ。戦後、平和国家に生まれ変わった日本が初めて、短銃を突き付けられたと感じた一瞬だった。
 今こそ中国人を知らなければならないと思う。知らなければ、祖国は危い。筆者は60歳半ばの人間。40年若ければ、中国語を学び、中国人を研究しただろう。一人でも多くの日本の若者が中国語を勉強して、中国人を正しく理解してほしい。筆者が若い頃、日本人は共産主義国家「ソ連」や社会主義経済を支えたマルクスやエンゲルス、それにレーニンの著作「国家と革命」を必死に読んだ。その多くは、社会主義に共鳴した人々だった。これに対して、社会主義を研究した英国人の大多数は「反共」「反ボルシェビキ」主義者だった。
 現代の若者が我々の過ちを繰り返してほしくない。嫌いな国や人々ほど研究対象になる。そうしてこそ、相手を理解することに一歩も二歩も近づけるのだ。それは平和へつながる道だと、筆者は信じる。今日から4回にわたって、中国人とは何か、中国の世界観などを自分なりに書きたいと思う。


 「確かに、日本人と中国人は体つきはよく似ている。が、似ているのは体型だけで、性格は似ても似つかない。・・・口で説明するは難しいが、現地に行けばよくわかる」
 今から80年前、米国の外交官、ラルフ・タウンゼント(1900-1975)が著書「Ways That Are Dark: The Truth About China」(日本語の題名は暗黒大陸 中国の真実、2004年に芙蓉書房出版から翻訳版)でこう述べている。今回の攻撃用レーダーをめぐる日中の激しい言い合いを見ていると、タウンゼントと同じ感慨を抱かざるを得ない。
 防衛省は2月5日、東シナ海の公海上で1月30日午前10時ごろ、中国海軍のフリゲート艦が、約3キロ先から海自護衛艦「ゆうだち」に射撃管制用レーダーを照射したと発表した。また同月19日午後5時ごろにも、同海軍のフリゲート艦が、数キロ先から海自護衛艦「おおなみ」搭載ヘリにレーダーを照射したと疑われている。
 射撃管制用レーダーはミサイルや火砲などを発射する際、目標の距離や針路、速力、高度などを正確に捕捉し自動追尾する。「ゆうだち」の乗組員が「攻撃予告」と捉えても不思議ではなかった。直ちに反撃しても、国際法上問題はないという。元米国務省日本部長のケビン・メア氏は6日、国会内で講演し、中国海軍の艦艇による海上自衛隊艦艇への火器管制レーダー照射について、「米軍であれば、(自らへの)攻撃と判断して反撃する」と述べた。
 一方、中国外務省の華春瑩報道官は6日午後の会見で「わたしも、報道を見て知った。くわしいことは把握していないので、主管部門に問い合わせてください」と述べた。しかし翌日の記者会見で、話のトーンは一変し、「日本が危機をあおり、緊張をつくりだし、中国のイメージをおとしめようとしている」と反論した。8日にはトーンはさらに激しくなり、「日本の説明は、全くのでっち上げだ」「今回の事態を通じ、日本は一体何をしたかったのか。今後は2度と、こうした小細工をしないよう望む」とまで言い切った。(8日付朝日新聞朝刊2面)
 攻撃用レーダー照射をめぐる日本外務省の声明以来沈黙を守っていた中国国防省は7日夕、駐中国日本大使館の防衛駐在武官を呼び、「日本側の発表は事実に合致しない」と述べ、射撃レーダー照射を否定した。また8日には、インターネットの同省ホームページで、日本側の説明は「事実と異なる」として全面否定、監視用レーダーを使ったと主張した。
 日本の通信社、共同通信社の配信記事を転電した産経新聞社によれば、中国国防省は日中間の緊張が高まっている根本的な原因は「日本の艦船と航空機が至近距離で中国側の艦船を追跡、監視していることにある」と指摘した上で「日本側は事実をねじ曲げて、誤った情報をメディアに公開し、中国脅威論を言い立てている」と批判した。
 7日付の中国共産党機関紙「人民日報」は、「環球時報」の社説を同紙の日本語版に掲載した。「環球時報」は「人民日報」の国際版。社説「中日の民間に響き渡る日本の戦闘警報」を掲げ、火器管制用レーダーをめぐる日本政府の対応を激しく非難した。
 「中国は『口下手』であり、筋が通っていようとなかろうと、騒がしさでは日本にかなわない。中国は中日摩擦についていかなる情報も自分から発表したことはない。中日間のほぼ全ての衝突の第一報は日本の口から発せられたものだ」「だがこれは日本が本当に『是非を論じ、道理をわきまえている』という意味ではない。もしそうであるなら、釣魚島(日本名・尖閣諸島)問題が今日の局面にいたったはずがないし、互いに貿易大国である中日が初めはおかしな神社(靖国神社)のために、後には小さな無人島のために世界を揺るがす対立に陥ったわけがない」
 この記事をもう少し詳細に知るため、「環球時報」の英語版を開くとこう書いていた。
 「中国は事件を公表するとき、事件を利用して巧妙にそれを利用することはなかった。日中紛争をめぐる情報を出すとき、それを主導することもなかった。最初の日中紛争はいつも日本側だった。・・・・攻撃用レーダーは日本の一方的な議論だ。日本はしばしば機会をとらえては、この種の問題を誇張する。議論をめぐる日本の合法性は疑問だ。日本がうまく世論操作して世論を利用しようが、日本自身が魚釣島(尖閣列島)紛争を軍事衝突へと持っていこうとしている。日本の戦闘機が魚釣島の上空に現れ、中国民間機を追い払った。また、日本の航空識別圏に入ったとみなされた中国機に対して、日本は最初に追跡弾を使用することを示唆したのだ。東シナ海の相互の軍事信頼性を壊したのは日本ではないか」
 中国外務省と国防相の説明を受けた日本政府は再び反論、程永華中国大使を外務省に呼び、「レーダーの周波数などの電波特性や(日本の)護衛艦と相手の位置関係などを詳細に分析した」と説明、主張の正しさを強調した。日本の国防省は、安倍総理に報告するのを遅らせてまで、間違いがないように念には念を入れ、結論に達したと思われる。
 日本の主要各紙も中国海軍の行動を批判、自制を求めている。読売新聞は2月7日付社説で「中国軍は危険な挑発を慎め」「軍隊の国際常識の一線を越えた、極めて危険な挑発行為である。到底看過できない」と中国政府と軍部を批判した。
 岸田文雄外相が5日、海上自衛隊護衛艦への中国海軍艦艇の攻撃用レーダー照射問題を記者団に発表してから5日が経った。インターネットサイトには日本人の義憤が噴出している。
 「(中国は)世界に恥を晒している」「馬鹿さ加減では底知らずの中国だ」「世界中に犯罪撒き散らし世界の常識は通じないし、人のものは自分のものとごり押し、平気で嘘つき、都合の悪い事は相手に擦り付けるこの生命力恐れ入る、ゴキブリや溝鼠も一目置きそうな人種」
 中国のポータルサイト「新浪」などでも日本政府と日本人に対する批判が展開されているだろう。残念ながら、筆者は中国語を理解できない。
 多くの日本人が抱いている中国人への気持ちは義憤だ。筆者は理解する。ただ、筆者は若い頃少しばかり勉強した「共産国家のソ連(1991年に消滅)」の戦術・戦略から判断すれば、共産主義者(理論上、実際はすでにこの鎧を捨てている)はすべての力(武力、経済、報道、宣伝など)を共産党に凝縮させる。中国共産党は現在、日本と世界に対して「宣伝戦」を展開し、「心理戦」を展開している。日本人は今こそ冷静に、相手を観察しなければならないと思う。
 しかし共産主義者だから、今回の行動を取ったのだろうか。それだけならもつれた糸をほぐすのは少しばかり簡単になる。共産主義者の行動理論だけでなく、4000年培った中国人(漢民族)の性格や国民性も影響しているのだろうか。もしそうなら、糸はさらにもつれてほぐすのがいっそう困難になる。
  筆者は、5日夕から報じられている射撃用レーダー照射問題をめぐる一連の動きを新聞やテレビで追っていると、ふと旧日本軍の関東軍作戦参謀、石原莞爾中佐(最終階級は中将、1889-1949)を思い出した。読者の方々もご存じの満州侵略を立案した陸軍の鋭才軍人だ。今、生き返ったら、日中対立を見て、何と言うだろうか。
  石原参謀は、極東軍事裁判で処刑された板垣征四郎・高級参謀(当時大佐、最終階級は大将)らと、1931年9月18日に柳条湖事件を起こし、金谷範三・参謀総長の停戦命令を無視、現在の中国東北部に進撃し、満州国を建国した。
  なぜ関東軍の石原参謀と若手将校が満州事変を起こしたのか。思いつきで侵略を画策したのか。ローマ帝国の皇帝のように、他国の領土を分捕ろうとして最初から侵略計画を練っていたのか。答えを出すには、1920年代の中国大陸を取り巻く歴史をひも解かなければならない。そして現在にも役に立つ検証をする必要がある。
  攻撃用管制レーダー照射をめぐる筆者の話の最初に登場した米外交官の中国観を聞いてみよう。タウンゼントは石原将軍と同じ時代に生きた外交官。1931年に上海副領事として中国に渡り、2年間中国で生活した。1933年に外交官を辞職し、「Ways That Are Dark: The Truth About China」を執筆した。猛烈な中国人批判を展開した。その批判は中国人の本性や性格に対するものだった。
 当時のフランクリン・ルーズベルト政権は親中・反日政策を取っており、中国人を批判して日本人に同情的なタウンゼントを“日本のスパイ”だと疑った。1941年12月8日、日米が開戦し、太平洋戦争が始まると、スパイの疑いで1年間投獄された。タウンゼントはあくまで自らの視点から中国人の性格をえぐったが、米政府は日本のスパイと勘違いした。その外交官が著書で中国人観についてこう述べている。

 「米国にとって極東問題とは、義務遂行能力のある先進国が、その能力がまったくない国(中国)とどう付き合うかということである。・・・中国人は借りるときは『耳を揃えてお返しします』と借用証書を出す。・・・ところが返済期限になると何やかやと難癖をつける。加えて契約を反故にするような事態を起こす。昔からある中国の手である。広東・漢口間の鉄道事業でも、中国人の妨害が入り、米国のJ・P・モーガン社は手を引いた。英国の企業が引き継いだが、またも妨害が入った。中華民国とは世界の中心にある花の咲き乱れる国という意味だ。しかしバラに棘ある。・・・こちらが寛大なのを見越して、少しでも隙を見せると襲いかかるのである」
 
 
 またタウンゼントの典型的な中国評を紹介しよう。「『礼には礼で応える』という精神がまったくない。遭難者が近くまで泳いできても誰も助けようとしない国。人が怪我しても倒れても助けようとしない国」「(中国・国民党政府=当時、共産党は延安の片田舎にいた一集団につぎなかった。中国を代表していたのは蒋介石が率いる国民党=は)アメリカ資産を保護するどころか、過激排外学生(民族主義者の学生が祖国中国の将来を憂い、中国の外国資産を攻撃した)におもねり、略奪を奨励する政府である。略奪行為の多くを私はじかに知っているのであるが、加担した政府役人でも何のお咎めもなし。アメリカの建物に火をつけたり、堂々と商品を盗んでも逮捕するわけでもなんでもなく、奨励するかのように役人をかくまう」「千変万化の交渉術。政府でも民間でも油断すると命取りになる」「いくら断ってもやってくる。あの粘り強さにはかなわない。いくら負けても涼しい顔。強者を手玉に取る才能に長けている。同情を得る天才。これを承知で交渉にあたらなければならない。(中国人は)目的のために手段を選ばない。氷のように冷たい心でいながら、同情を誘うために涙を流し、悲しみに暮れる演技が実にうまい。上から下まで、自分のことしか考えず、何でも分捕ろうとする人間。敵の心を読み、弱点に付け込むことしかない」「条約を結んでも何も解決しない国と付き合っているのである。条約は相手が誰であっても大切に守らなければならない。しかし道徳観念や経済事情が異なる国が相手では条約は当てにならない。彼らは近隣と揉め事を起こす天才である。これを承知の上であくまで火中の栗を拾う役を引き受けるならば、大変である。何の感謝もされない。今までされたこともない骨折り損のくたびれもうけである。アジアの問題児は中国だ」

 タウンゼントが執筆した著書の内容はあまりにも過激に感じた著者は、約4年前に買ったこの本を書棚にほったらかしにしておいた。あまりにも主観的だと思ったからだ。買った当時、東シナ海の中間線で開発されていた石油採掘事業で、日中が対立していた。中国政府は、いかにも共同開発に合意すると見せかけては合意しない。その繰り返しに不思議な国だと思った。そして中国人を理解しようとタウンゼントの本を買った。東シナ海ガス田問題はその後、メディアに取り上げられない。現在はどうなっているのだろうか。中国政府は今も、将来も、一生懸命に油田を掘り起し、既成事実を作り上げていくだろう。日本人のつつましい抗議をものともせず、声高に叫ぶことをしない日本人を見透かしているかのようだ。 
 タウンゼント自身、序文で「内容がいかに過激であろうが、そのことについて謝罪するつもりは全くない」と述べている。1997年版の序文を書いた、友人のウィリアム・A・カートは「原書が発行されたのは1933年であるが、内容が当時に比べても、いや当時以上に重要だから」と述べ、「今日中国は世界の大国となり、将来も無視できぬ存在である。しかし中国はいつまで経っても中国であり、変わることは絶対にありえない」と力説している。つまり中国人の国民性や性格は変わらないと強調している。
 タウンゼントが中国人を嫌悪したのは、個人から国家レベルに至るまで平然とうそをつく体質であり、そのことを恬として恥じない傲慢さであったようだ。しかし中国人にとり孫子の「戦わずして勝つ」には「うそ」も戦略のうちなのだろう。漢民族はモンゴル族や満州族に敗れても、巧みにうそをつき、したたかな策略をめぐらして、最後には異民族の征服者を同化させた。異民族の牙を抜いて、異民族支配をふぬけの支配に変えた。
 80年前のタウンゼントの発言を裏書きするような出来事が2011年10月、中国であった。広東省佛山で、ひき逃げされた2歳の女児を、通行人が見て見ぬふりをした事件。女児がひかれて、10分後にようやく1人の女性が助けるまでにもう一度車にひかれた。女性は女児を安全な場所に移し、助けを呼びにいった。この防犯カメラの映像は、中国社会に衝撃をもたらした。タウンゼントの「人が怪我しても倒れても助けようとしない国」を裏付けている。80年前も現在も変わらないのか。
 筆者はこの事件を契機にして、書棚の奥から、忘れていたタウンゼントの本を引っ張り出した。やっとじっくり読破する気持ちになった。「待てよ。タウンゼントの中国人に対する描写は感情的、主観的ではないのか?」
 中国社会には人助けは「危険」だという風潮があるという。例えば、2006年12月に南京市で起きた彭宇事件だ。バス停で転んだおばあさんを助け起こし、病院まで連れて行ってあげた青年の彭宇さん。ところがおばあさんは彭宇さんが突き飛ばしたと主張。裁判の末、「優しく助けてあげたのはやましいところがあったから」と彭宇さんに約4万6000元(約55万円)を支払うよう命じる一審判決が下った。「人助けしたら賠償金」と中国世論は強く反発した。このような裁判事例が散見される。
 また、約1週間前、NHKが朝7時にニュースを流した。一人の中国人が春節を迎え、オートバイで帰る途中、高速道路で誤って108枚の札束を道路に落とし、折からの風で札束が空中に舞った。高速道路にもかかわらず、何台もの車が止まって、札を拾い、落とし主に返さず、トンずらした。落とし主が回収したお札7枚だけ。官憲が監視カメラを分析して、拾い主を特定し、ほんの少しだけ戻ってきたという。
 一年間働いた給料が宙に舞っているとき、落とし主は、「拾わないで」と絶叫した。彼が日本人なら「すみません。拾ってください」と叫ぶだろう。拾い主は、拾って返すだろう。昔に比べて公共道徳心がなくなってきた日本人でも、ここまではしない。
 このような光景を見たのは2度目。最初は英国だった。約40年前、英国に住んでいた頃、一人のコロンビア人と下宿先が同じだった。ある日、コロンビア人と歩道を歩いていると、彼が財布を拾った。中を開けると、かなりの数のポンド紙幣が出てきた。筆者は彼に言った。「警察に届けよう」。名前を忘れたが、そのコロンビア人は拒絶し、「拾ったものをなぜ返すのか。俺は悪いことをしていない」と居直った。南米の連中は陽気だが、公徳心がないと感じた。ラテンアメリカ人がすべて彼のような行動を取るとは思わない。ただ、そのような気質だと理解している。
 タウンゼントの見た光景は、筆者の見たコロンビア人だった。タウンゼントは「中国にはスラム街よりひどく鵜の目鷹の目の連中が多い」と述べている。ただし彼の記述は80年前の中国人社会の姿だ。筆者は当初そう感じた。現在このような光景を見ていると、現在にも当てはまる公算は高いと思わざるを得ない。成人した人間が自分の性格をなかなか変えることができないのと同様、民族の性格もなかなか変わらないということか?
  話が飛んで申し訳ないが再び、本筋の石原将軍の話に戻そう。関東軍の心理を研究するために、タウンゼントの見解が必要だった。筆者は石原陸軍中佐ら関東軍将校の満州侵略を決して擁護しない。明らかに侵略であり、中国の主権を踏みにじった。ただ歴史は複雑だ。日本は、日露戦争(1904-05)でロシアに勝利し、ポーツマス条約で得た中国の大連・旅順や南満州鉄道という既得権を守り抜きたかった。(歴史の変化を考察しない関東軍にも問題がある)
 満州に駐屯する関東軍は、中国人の日貨排斥や在留邦人への暴言や危害を加えることに対してどう思ったのか。条約により日本が得た既得権を、中国が返せと日本側に主張し、在留邦人にも暴行を加えることに我慢がならなかった。中国(清朝)政府も認めたポーツマス条約を無視して、暴力に訴えて、日本の既得権を放棄せよ、とは何事か。法手続きがあるだろう、と考えた。日本軍将校の目から見て、こう考えても不思議ではない。
 もちろん現在の国際社会の通念では通らない。ただ、歴史は当時の人々と現在の人々の価値観が違うことを主張する。なぜ?時が変化すれば、人々の価値観も変わる。当時の価値観念から判断すれば、ということだ。次回は満州事変が勃発するまでの10年間、つまり1920年代の経緯を詳述する。中国人に対する石原将軍ら関東軍将校の心理を解き明かすには不可欠であり、その心理を理解することで、彼らの失敗を生かすことができる。関東軍将校もわれわれと同じ日本人だ。80年たっても考え方や感じ方はほぼ同じだろう。関東軍将校の失敗は、将来われわれが犯す失敗でもある。ましてや相手は、彼らがかかわった同じ中国人だから。

(写真はラルフ・タウンゼント・米外交官 戦前の写真と思われる Public domain)ni

世界の紅茶の6大生産国はどこ?

2013年02月03日 22時44分47秒 | 生活
 世界の紅茶の6大生産国はどこか。何人がすぐに答えられるだろうか。筆者は答えることができない。
 6大生産国は、インド、ケニヤ、インドネシア、マラウィ、ルワンダ、スリランカ。マラウィは、タンザニアとモザンビークに挟まれた東アフリカ南部の高原の国。マラウィ湖などの湖が点在し、年平均気温が23度前後で、夜間に10度以下に下がることもある。最も暑い10月には35度になることもある。
 もう一つのアフリカの国はルワンダ。1980年代後半から90年代半ばにかけて内戦と虐殺を経験した。21世紀にはいると政治は安定、近代化が進み、年平均成長率は8%。IT立国を目指している。内戦から経済復興への道筋は「アフリカの奇跡」と呼ばれている。
 赤道直下に位置しているが、平均標高1600メートルの高原で年平均気温は25度。“千の丘の国”といわれるほど起伏の多い地勢で、山岳部は冷える。3-5月と10-12月が雨季だ。
 アフリカというと砂漠と猛暑を連想しがちだが、アフリカ中部は高原地帯。雨と気温も温暖。だから紅茶が栽培される。納得だ。昨年7月に訪れたマレーシアのキャメロン・ハイランドも紅茶の産地。標高1600-2000メートルの高地で、30度を超える首都クワラルンプールの気温と10度違った。
 話は少しそれたが、この6か国が先月下旬、スリランカの首都コロンボで、紅茶生産国会議を開催した。開催目的は紅茶を世界で最も大衆受けする飲み物にするため。また価格と生産の安定をどうするかも話し合われた。6か国の代表は共同文書に署名し、ことし10月に再び会議を開催する予定。
 総会と理事会を創設し、来年から年次総会も開かれるという。紅茶の質の向上と価格安定をめざし、世界の人々により良いサービスを提供するそうだ。紅茶党には朗報だ。筆者は紅茶は大好き。インドの紅茶はよく飲むが、マラウィやルワンダの紅茶は飲んだことがない。6大紅茶生産国の紅茶をぜひ飲みたい。

(東アフリカのマラウィの紅茶栽培 Public domain)
(筆者の「ニュースを斬る」に転載 http://chamberlainnevil.cocolog-nifty.com/blog/