英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

敗戦(終戦)70周年と「バターン死の行進」 歴史の複雑性

2015年08月18日 13時10分24秒 | 歴史
 先日、出社したら、同僚から週刊新潮の連載「変幻自在」の切り抜き記事を渡された。「読め」という。そこには高山正之氏の「21万個のお握り」「恥ずかしいドイツ」があった。
 「21万個のお握り」では、日本軍が「バターン死の行進」中に米兵に「お握り」を与えた。決して「ジュネーブ協定」に違犯して、米兵を虐待したわけではないと書かれていた。「死の行進」は与太鼓を創作して世界に振りまいた、と述べている。
 「恥ずかしいドイツ人」では、ナチス・ドイツが恐ろしいほどの虐殺をユダヤ人や非占領国の国民にしてきたのに、「スズメの涙」しか補償せず、それを持って世界からドイツの姿勢が称賛されている。ドイツを「不遜」だと述べ、「ドイツは今こそ歴史を直視し、頭を下げるがいい。そして二度と日本に謂われない因縁をつけるではない」と強調する。
 高山氏はドイツが日本に比べて、世界から侵略国の「模範生」と見られいることに対し、そうではないと言いたいのだろう。
 高山氏は日本のジャーナリストで元産経新聞記者。昨年「アジアの解放、本当は日本軍のおかげだった! 」を出版した。筆者は本屋でこの本を立ち読みした。彼の主張は明快で、分かり易い。
「バターンの死の行進」とは何か。太平洋戦争開戦当初、日本軍がフィリピンに上陸し占領した。投降した米比軍の捕虜を捕虜収容所に移動させる途中、多数が熱射病や疲労で死亡したことを言う。移動距離の全長は140キロ。その約3分の2を鉄道とトラックで運び、残り約45kmを徒歩で移動させる計画だった。
 高山氏は溝口郁夫氏の「絵具と戦争」を引用し、「行軍途中、捕虜の士官に紅茶が閏間割(ふるまわ)れる写真や海水浴を楽しむ米兵の姿が記録されている」と記した。また高山氏は「彼らが餓え、病にかかったのは、降伏前に目の前の部下の窮乏や疲労に手当しなかったマッカーサー将軍のせいだ」と批判している。「マッカーサーの無策で医療や糧食が欠乏し、かなりへばっていた」とも書いている。高山氏は読者に日本軍が残虐非道な組織ではないと主張したかったのだろうと思う。
 これに対して、ことし、「バターン死の行進」保存団体は、安倍首相が訪米して米議会で演説する前、米議会上下両院議長あてに「飢餓状態の捕虜には水も食料も与えられなかった」「少しでも休めば殴られ、銃剣で刺された。射殺される者もいた」と抗議文書を提出した。
 人間は明確な主張ほど頭に入りやすく、それを何度も繰り返して主張されれば、そう思い込む。日本人右派には、すでに日本軍のイメージが頭に確固としてあるから、「死の行進」への定着した話に拒絶反応を示すのだろう。日本軍による「バターン死の行進」の非人道行為は右派にとっては受け入れられないのだろう。また左派にとっても、「死の行進」を日本軍の残虐性の一端だと信じ込んでいる。その上、米国人の中にも、事実を究明せず、憎悪に彩られた虚偽がまかり通っている。
 白黒を求めたがり、主義主張を抱いている人々には左右両派の主張は分かり易い。左派にしても右派にしても一面的な事実を全体の事実として捉え、それを読者に提示する。右派的な考えでもなく、左派的な思い込みをしていない「真っ白」な読者は“感染”しやすい。
 歴史や政治、外交はそう単純な代物ではない。歴史は複雑である。絶えず多くの人間が絡む領域であるため、複雑であり、時として灰色の景色を生む。「白黒」を求めるたがる人々には、「灰色」の分析記事は物足りないとの感情を抱く。
 「バターン死の行進」を日本軍が故意にしたとは筆者は思わない。対立矛盾した資料からそう結論を出した。ただ、結果として非人道的な扱いを米軍将兵にした。ジュネーブ協定に違反した事実は消えない。過失致死罪といえるだろう。殺人罪では決してない。良心に従った行動をしようと心掛けても、自分の思惑とはまったく違った結果になることがしばしば起こる。
 日本陸軍は精強な軍だった。「精強」というのは、前近代的な軍だ。太平洋戦争から35年前の日露戦争の将兵とそんなに変わっていなかった。歩兵主力の軍であり、日露戦争当時とあまり変わらない三八式歩兵銃をもち、何十キロもの背嚢を担いで何十キロも行軍する。日本軍将兵はそれを当たり前だと考えていた。日ソが戦った1939年のノモンハン事件の記録映画を見るとよくわかる。ソ連軍の戦車に日本軍歩兵が向かって行く姿は悲惨の一語に尽きる。
   ソ連軍同様、米軍は近代的な軍であった。移動手段はトラックだった。しかし、米軍の一部はトラックを破壊したため、日本軍はそれを利用できなかった。一方、トラックを破壊しなかった米軍部隊は、そのトラックで捕虜収容所まで運ばれた。
 米軍将兵は現在のわれわれのような者である。マイカーばかり乗っている人間に、炎天下、何十キロも歩けと言われれば、そのうちの何人かは脱水症状で亡くるのは目に見えている。その上、「マッカーサーの過誤」により、食料や水、医薬品が不足していた。マッカーサーは日本軍に勝つと信じていたから、退却に伴う周到な準備をしていなかった。
 マッカーサーの米軍はマニラを放棄し、バターン半島に撤退。半島のコレヒドール要塞やその周辺に立てこもった。抵抗を続けたが、コレヒドール要塞の将兵を除いて、米軍は1942年4月9日に降伏した。
 日本軍は計算間違いした。日本軍の捕虜後送計画が実態に基づいてつくられたものではなかった。捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。約7万6000人もの米軍将兵が捕虜になった。これは、日本側の2万5000人の捕虜数予想を大きく上回った。
 米軍捕虜は一日分の食料を持っていると考えた日本軍司令部は、マリベレスから経由地のバランガまで一日で行軍できると考えた。しかし米軍捕虜は戦闘により極度に疲労していたため、実際には最長で三日かかった。
 バランガからサンフェルナンドの鉄道駅まで約50キロを、日本軍は全捕虜をトラックで輸送し、サンフェルナンドーカパス間約50キロを鉄道で運び、残りの10数キロを歩いてカバスの捕虜収容所に到着するはずだった。しかし、予想を超える米軍将兵が投降した上、トラックの大部分が修理中だった。トラック200台しか使用できなかった。
 米軍から捕獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に充てねばならなかった。当時の日本製のトラックの信頼性は低く、現場では米国製トラックの方が重宝されていた。
 結局、マリベレスからバランガを経由してサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。マラリアやテング熱にり患し体力がない多数の米兵はバタバタと倒れた。日本軍に追い立てられた米軍将兵の極度の疲労。食料も尽きていた。日本軍にも敵に十分な食料を与えるだけの余裕がなかった。こうして、逃げ回ったあげくに降伏した米軍捕虜は猛暑の比島を行軍させられたのである。サンフェルナンドからカバスまで鉄道輸送する前に悲劇が起こった。
 この捕虜輸送を命令したのは本間雅晴・陸軍中将だった。戦後、マッカーサー元帥に恨まれ、迅速な裁判で、マニラで処刑されたが、陸軍で最も人道を重んじる名将だった。
 マッカーサー将軍は、本間中将が4年前にフィリピンの米軍が立てこもるバターン半島への総攻撃を命じた日時、つまり1946年4月3日午前零時53分に処刑した。マッカーサーの復讐だと言われている。人間は感情の動物である。いかに冷静であろうとも、時として感情に走る。マッカーサー元帥も例外ではなかった。
 そのマッカーサーでさえ、本間中将を絞首刑でなく銃殺刑にした。米軍は大部分の日本の戦争犯罪人の処分と異なり、本間中将を絞首刑ではなく銃殺刑にし、軍人としての名誉を尊重した。
 マッカーサー元帥は「文武両道の名将だね。文というのは文治の面もなかなかの政治家だ。この名将と戦ったのは僕の名誉だし、欣快だ」だと述べている。本間中将は陸軍きっての英語通だった。
 本間中将はマニラ進駐にあたり、将校800名をマニラホテルの前に集め、1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな」と訓示した。
 米英人を個人的に憎んでいた大本営参謀の辻政信は東京から「偽の大本営命令」を出し、米軍捕虜を虐殺しようとしたが、現地軍司令官が本間中将に確認。それが偽だと分かり、事なきを得ている。もし、この偽情報が実行されていたら、史実以上に多くの米国人が亡くなり日本の汚点となったであろう。偽情報により米軍将兵への虐殺は実施されなかったとはいえ、本間中将の意に反し、結果として予想を超える米国人将兵が亡くなった。
 本間中将は「死のバターン行進」を後で知り、十分な捕虜計画がなされなかったことを後悔した。バターン戦ののち、陸軍参謀本部からバターン攻略の不手際をとがめられ予備役編入となり、終戦まで第一線には復帰しなかった。
 中将は東京からマニラに連行され、部下の責任を負い処刑されたが、人道主義者であったことに変わりはない。辞世の句「「栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」などを残し、悠揚として刑場に向かった。 
 歴史は複雑である。とかく自らの歴史観を抱いている人々は、その歴史観に沿った史料を持ち出し、それをもって、異見を主張する人々を批判する。右派は「米兵に紅茶を振る舞い、お握りを与えた」。左派は米軍将兵の経験を引用し、少人数で監視にあたった日本兵の多くは捕虜が脱走する可能性を残すより、捕虜をその場で刺殺するか銃殺したと述べた。また「ある者は何の理由も無く殺され、ある者は監視兵が日本語で与える命令に従わなかったために殺され、さらにある者は、指輪やその他の貴重品を差し出すことを拒んだために殺された」という。
  すべては事実だと思う。取材し、実際に見た光景を述べている。しかし、それが史実全体を映し出しているのではない。対立した事実、対立概念から真実に迫らなければ、本当の史実に近づけないと思う。史実の全体像を見ることができない。
   筆者は「死の行進」を経験した米軍将兵の発言から、戦争は人の精神をむしばみ、非人間的な動物に変えると思う。そうは思っていても、問題はその個々の証言から「バターン死の行進」の全体像をいかに把握するかだ。相対立する個々の史料をいかに組み立て、事実に迫るかだろう。そこから全体像が見えてくる。
 元産経新聞の高山氏にしても、米国の「バターン死の行進」保存団体にしても、歴史の「つまみ食い」をしているように思う。それは読者受けするが、歴史の史実全体に迫ることができない。
 歴史の客観的な事実とは、人々がもっともつまらないと思えるところにあるのかもしれない。劇的ではないストーリーであり、1688ー89年の英国の名誉革命を指導したハリファクス侯爵が述べた「歴史の事実は両極端な主張の真ん中」にある。それは対立し、矛盾する事実が積み上げられた結果から生じる。それでも100%、事実が証明されるわけではない。

(訂正)米兵の移動距離に間違いがありました。お詫びします。訂正しました。

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幸運をもたらす「ホワイト・エレファント」がミャンマーに   豊かな国を目指し変わりゆく国

2015年03月04日 21時35分27秒 | 歴史
  ミャンマー西部のエーヤワディ地方で「白い象」が捕獲された、とミャンマー政府がこのほど発表した。捕獲された9頭目の白い象だという。5頭は首都ネビドーの動物園で、残り3頭はヤンゴンの動物園でそれぞれ飼われている。今回の「白い象」の身長は1メートル90センチある。「白い象」は象の変種だという。
  ニューヨークに本部がある世界野生生物基金によれば、白い象を含むアジア象の数は2万5千六百から3万2千7百頭までだと見積もられている。密猟が横行し、アジア・アフリカの象の絶滅が危惧される。
  「ホワイト・エレファント」は幸運の象といわれ、ミャンマー、タイ、ラオスの人々は神様の子として崇めている。19世紀には、ビルマ(現在ミャンマー)やタイの王家は権力と繁栄の象徴と考えていた。この地域の人々は現在でも、「ホワイト・エレファント」が現れれば、祖国と国民に幸運がもたらされると信じている。 
  テイン・セイン大統領が2011年、大統領に就任後、現実的な政策を実施し、経済が次第に上向きになってきた。各国の企業がわれ先に商売をしようとミャンマーに殺到している。投資話も引きをきらない。政治体制は独裁性から徐々に民主主義に移行しているが、まだ不十分だ。
  最大野党の国民民主連盟(NLD)党首、アウン・サン・スー・チー氏は民主化のシンボル。世界は彼女を支持しているが、ミャンマー国内ではそれほどでもない、と日本の友人から聞いた。彼はしばしば商用でビルマに足を運ぶ。スー・チー氏の理想的な政策を危惧する声が強いという。
  理想的な世の中は明日には実現しない。理想的な政策が国の経済や社会現状とかけ離れていれば、時として混乱を招く。ミャンマーはことし秋、総選挙を実施する。スー・チー氏を国民が選ぶのか、それとも与党のセイン大統領派を選ぶのか。注目される。
  ミャンマー人にとって4月は新年を迎える月だ。ティンジャン(水祭り)。敬虔な仏教国で、国民は勤勉で温和だといわれている。
  歴史的に見れば、日本との関係は深い。1989年まではビルマと呼ばれた。ビルマは約半世紀、英帝国の植民地下にあった。第2次世界大戦中、ビルマの独立の戦士は日本に協力し、独立を果たそうとした。しかし、日本の高圧的なビルマ統治に反感を抱き、「反ファシスト連盟」を設立。連合軍に寝返った。
  1943年11月に東京で開かれた大東亜会議にビルマ独立政府首班として出席したバー・モウはこう述べている。

  歴史的に見るならば日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたの解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない。もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北もアジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本の為に惜しむのである。そうは言っても、最終的には日本が無数の植民地の人々の解放に果たした役割は、いかなることをもってしても抹消することはできないのである。

  バー・モウの発言は歴史の複雑さを表している。ビルマ民族ほど勇敢な民族はいない。ある意味で、蛮勇かもしれない。18世紀から19世紀後半までビルマを支配したコンバウン王朝(1752~1886)の歴代の国王の勇猛さは東南アジアの雄にビルマを押し上げた。
  ビルマ人が初めて西洋人の英国人とインドのカルカッタ(現在のコルカタ)で遭遇した時の逸話は「いかに相手を知らないことが悲劇を生むか」かを教えている。英国が近代軍であることも知らないで、戦争を仕掛けてくる様は喜劇と言えば喜劇だった。ビルマ人がそれまで征服してきた民族と同じように英国を見た。そして1824年から3回にわたる対英戦争を行い、1886年に亡び、英国植民地になった。
 1885年11月、英軍が当時の首都マンダレーに入城する光景と、囚われた最後の国王ディーボーの光景を描いた書籍は、国が亡ぶ悲惨さを読者に訴えている。
  欧州人が東南アジアにやって来るまで、シャム(タイ)とビルマは宿敵。1539年から1767年まで24回にわたって両国は戦争した、と19世紀から20世紀の初めまで生きたシャムのダムロンラーチャーヌパープ親王は記している。ダムロン親王はタイ国初の歴史家で、タイで初めての歴史書を記した。
  彼のお父さんは名君ラーマ―4世。西洋人はモンクット王と呼び、英邁さに畏敬の念を抱いた。モンクット王は19世紀のアジアの鉄人政治家と言われ、当時、アジアで最も世界を熟知した人物だった。世界を理解していたという点で、同じ時代を生きた吉田松陰は国王の足元にも及ばなかった。フェアーに言えば、松陰は国王ほど世界を知る環境に恵まれていなかった。不運と言えば不運だった。マシュー・ペリー提督が松陰の密航を手助けしてれば、英邁な松陰の人生も変わったにちがいない。歴史に「IF」はないが・・・。
  モンクット王がシャムの独立維持のため、大英帝国とフランスと熾烈な外交戦を展開していたとき、「ホワイト・エレファント」現る、との知らせを従者から聞き、シャムと国民に幸運が訪れシャムの未来は明るいと言ったという有名な話がある。アジアで独立を維持したのはわれわれの国、日本とシャム(タイ)だけだ。
 エーヤワディ地方に現れた「ホワイト・エレファント」はきっとミャンマーに幸運をもたらすだろう。そう願いたい。ミャンマーの国民が将来、豊かになり、平和な民主主義国家になることを心から願う。

保守は人間の能力の限界を知る       佐伯京大教授の話

2015年01月07日 13時06分40秒 | 歴史
  明けましておめでとうございます。2015年の元旦から1週間が過ぎた。歳月の経つのは早い。7日付の朝日新聞に保守派の論客、佐伯啓思(けいし)氏の考え方が掲載されていた。
 佐伯・京大教授が主張したい「保守の核心とは何か」。保守は「人間の理性や能力には限界があると考える点だ。つまり、過ちを犯すという前提に立つため、過去の経験や知恵を大事にする」
 「第1次安倍内閣では『戦後レジームからの脱却』を前面に打ち出し、アメリカ占領政策から始まった『戦後』を見直そうとしました。戦前、戦後の連続性を担保しようと考えていた。ところが、今回は(アベノミックスを掲げ)完全にその旗を降ろしてしまった」
 筆者の目に留まったのは「限界」「歴史の連続性」だ。保守(保守派、保守主義者、保守的思考の人々)は佐伯教授のおっしゃるように「人間の能力の限界」を知り、「歴史の連続性」を理解する。「歴史の変化」や「歴史の複雑さ」も認識する。
 「右派」と「保守派」との違いはそこにあると思う。右派は観念的、静的、情緒的に周囲を捉える。筆者はそう思う。
 英国に通算約6年間滞在した筆者は大英帝国の末裔から「保守とは何か」を教えられた。40年前だった。その時、英帝国の指導者や官僚は晩年を迎えていた。彼らが最も重視したことは「歴史」だ。つまり「過去」。歴史で起こった出来事や事件の1ページ、1ページが一人ひとりの英国人自身の過去である。個人の体験と同じくらい大切なのだ。そこから過誤を見つけ出し、それを未来に生かす。
 そのような姿勢であれば、思想や理念、仏教などの宗教の虜にはならない。英国人は思想に凝り固まった人々、感情的な人々を信用しない。英国人のイデオロギーは「常識」である。常識は過去、現在、未来と途切れることがない歴史から汲み上げられている。
 新大陸に最初に渡った人々は英国人(イングランド人、ウェールズ人、スコットランド人)、アイルランド人らだ。米国人の国民性は、英国人の国民性の一部を受け継いでいるとしても、北米大陸の地勢的な特異性が彼らの精神をつくり上げた。また米国の祖先はカルバン派のピューリタン。過激なまでに宗教心が篤い人々だ。要するに理念的な部分が多分にある。
 佐伯教授は「自由や民主や人権の普遍性を世界化するというアメリカの価値観や歴史観はもともと進歩主義なのです。(日本人は)それを誤解してアメリカとの緊密な関係を築くことが保守だと思ってしまった」と述べる。
 旧大陸から新大陸に渡ったピルグリム・ファーザーズは篤い信仰心を心に抱き、旧大陸では夢でしかなかった自らの理想社会を新大陸で築こうとした。しかし現在でも父祖らの理念や理想は実現していない。だからこそ米国人は父祖の理想を実現することが「世界の善」だと信じている。米国人は「進歩主義者」だ。この点で英国人と違う。
 安倍首相は「保守」を理解していない。佐伯氏が言うように「保守は社会秩序をできるだけ安定させていく」ことを心がける。「改革するにしても急激ではなく、緩やかにやっていくのが本来のあるべき姿です」
 清教徒革命で、チャールズ1世が処刑された。後世の英国人は17世紀半ばの清教徒革命を反省して、歴史に学んでいる。清教徒革命から独裁者オリバー・クロムウェルが出現した。革命が素晴らしい社会を実現すると信じた英国人の前に、最悪の独裁社会が現れた。
 清教徒革命以降、英国人は暴力革命を嫌う。英国人にとって暴力革命は悪である。佐伯教授の記事を読んで共感するところが多々ある。
 日本人は歴史を自らの知恵と行動の源泉の一つにしていない。筆者の主観的な発言かもしれないが、そう思う。
 保守とは、過去を愛する人々だということを読者に理解してほしい。保守こそ、臆病なまでな慎重さで一歩一歩進み、現実を受け入れて理想に向かって進む人々だ。人間が完全無欠ではないことを知っている。世の中には100%正しい善などないことを理解している。
 英国人はそのことを理解する。「人間の理性や能力には限界があると考える点だ。つまり、過ちを犯すという前提に立つため、過去の経験や知恵を大事にする」。再度、佐伯氏の発言を記す。だからこそ、自らの限界を認識している英国人は互いに協力して、自らの理想や考えを実現しようとするのだ。時には自らを犠牲にして、家族や自由を守り、後世の人々に議会制民主主義制度を伝える。
 英国人は理解している。民主主義制度は欠陥だらけの不完全な制度だと。しかし、独裁制度や権威主義政治よりははるかにましな制度であり、なによりも個人の自由と独立心を育む。個々の人々が能動的な姿勢で、独立心を持たなければ、民主主義はうまく機能しない。
  相手を打ち負かそうとして議論に参加するのではなく、相手の見解に耳を傾け、議論を深めて、より良い結論を求めようとする姿勢を自らも、議論する相手も持たなければ、民主主義制度は機能しない。世の中に、100%正しい思想や制度は存在しない。そんな制度は永遠に出てこないだろう。まず自分を取り巻く環境を正しく認識し、代を継いで少しでも改善していくのがベストだと考える。それが英国人の考え方だ。だから彼らは保守である。 
 理想主義者、リベラル派、右派はとかく物事を「こうだ」と決めつける。そして相手を罵倒し、打ち負かそうとする。相手がひれ伏したら、満足する。最近の朝日新聞の不祥事に対する右派の攻撃を見れば一目瞭然である。
 リベラル派は理想社会が明日にでも実現すると思い込む。リベラル派は演繹的な思考方法ではなく、帰納的な考え方だ。最初にイメージで「これはこうあるべきだ。この事実はこうだ。これは悪だ」と心に抱き、それにあった資料だけをかき集めて、正当化する。「慰安婦問題」での朝日新聞の過誤はそこにあったと筆者は思う。
 保守は演繹的な手法を取る。あくまで冷静に、自らの思想に合うことも合わないことも検証する。現在を受け入れ、漸進的な改革に着手する。そのように考えるのも保守の特質かもしれない。

歴史を見つめ、過誤を理解し、未来に生かす     レコード論文や故フィッシャー米下院議員の話から思うこと

2014年03月23日 21時58分06秒 | 歴史
筆者はこのところ再び国民性について考え込んでいる。ロシアのクリミア併合プロセスを新聞などで読むと、この国の国民はやはりツアー(ロシア皇帝)の末裔だと思う。プーチン大統領の支持率は高い。ロシアの国民は自尊心が強く、強い人間を好むのだろう。民主政治より専制賢帝政治に信頼を置いているのかもしれない。
 中国人官僚の汚職は増えることはあってもなくなることはないだろう。この国に法制度が確立されていない。このため官僚は絶対権力者に媚入り、国民から賄賂をもらっても平然としている。伝統、文化や習慣などを反映している歴史(履歴書)を読めば、ある程度まで国民性が分かると言うが、中露の歴史を垣間見ると、そのように理解せざるを得ない。
 中国は日本の右派政権を批判し、「第2次世界大戦に勝利した連合国が戦後つくり上げた国際秩序をひっくり返す試みを、われわれは決して許さない」と強調する。中国にとって南京虐殺事件も尖閣列島問題も同じ構図なのだろう。ただ、第2次世界大戦と大東亜戦争(太平洋戦争)から生み出された新秩序形成に中国共産党が直接かかわっていないのは事実であり、それを棚に上げてそのことを力説するのもおかしい。
 「おかしい」という見方は日本人的な見方なのかもしれない。われわれの文化や歴史から積み上げられてきた中でのわれわれ独自の見方だ。中国人にはせせら笑われるかもしれない。
 われわれはあまり合理的な、実用的な国民ではない。しかし中国人はある意味、これほどまでに現実的で実用的な国民はいないと思う。中国人は一つの対象物を、独自の、いささか歪曲した解釈をし、独善的な事実に仕立て上げる一方、冷厳な現実を冷徹に観察しながら、その中に独善的に解釈した事実をいかにも客観的な事実であるかのようにカモフラージュするのが実にうまい。そして宣伝はさらにうまい。自らに適した「時」の到来を待ちながら、当面は現実に合わせる。
 中国人は、太平洋戦争も南京虐殺も100%日本人を「悪」と見なし、自らの過誤が全くないと繰り返す。韓国人も中国人と同じ発言をするが、中国人と違い、感情的であり、主観的だ。中国人は「嘘」を自覚して戦術的な振る舞いを繰り返すが、韓国人は、自らの発言に酔っているようだ。100%正しいと思い込んでいるようだ。
 「慰安婦問題」を被害者意識だけからしか考えないのはその典型であり、日本による韓国の植民地問題を、なぜ日本の植民地になったのかという第三者の見方から考えることができない。
 歴史は現在の目だけから見ていては将来の糧になるものは何も生まれない。当時(過去)の人々と同じ目線に立った時にはじめて一つの事件や出来事が両者(敵と味方)の織りなす過誤と”正義”によりつくられるということが理解できる。
 数日前に、「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」(ジェフリー・レコード著、渡辺惣樹訳)を読み終え、過去の目線で歴史を見つめる大切さをあらためて理解した。大東亜戦争(太平洋戦争)の引き金を引いたのは日本だという一方的な批判はあたらない、とレコード博士は述べている。米陸軍戦略研究所のリポートは日米の文化や、文化から生まれ出る精神的心理の違い、合理的な民族かそうでないかの違いなどから誤解が生じて日米の破局に至ったと結論付けている。筆者は日本が帝国主義的な野心を抱いてアジアを支配しようとしたことを否定していない。ただ、日本が、古今東西の人々の誰が判断しても100%敗れる戦い(太平洋戦争)をなぜ仕掛けたのかを詳細に話している。日本の指導者は戦争する前から「米国を負かすことはできない」と確信していた。
 渡辺氏は、日本の指導者にハルノートを突き付けたフランクリン・ルーズベルト大統領を生涯軽蔑したハミルトン・フィッシュ米国議会下院議員の話を綴っている。1991年に103歳で亡くなったフィッシュは「ハルノート」を突くつけられれば、どんな国の指導者も「これが最後通牒」だと理解する。宣戦布告に相当するハル・ノートを議会に知らせないとは何事か、とフィッシュは述べる。議会が宣戦布告する権限を持っているのに、ルーズベルトは独断で日本に宣戦布告に相当する「ハル・ノート」を日本の野村吉三郎駐米日本大使に手渡した。ハルノートは日本がインドシナ全域と中国から撤退することを要求した。当然、日本の傀儡国家「満州国」(中国東北部)も含まれる。日本が自国民の血であがなった日露戦争からの利権をすべてチャラにせよとルーズベルトは事実上要求した。
 フィッシュは「これは日本が米国と戦争するか、米国に隷属するかを選択せよ、と要求しているに等しい」と述べる。当時の日本の軍部指導者は当然そう思っただろう。しかしルーズベルトは議会での宣戦布告演説で「日本は米国と交渉中に、突然攻撃してきた」と「米国民に嘘を言った」(フィッシュ発言)。交渉中に「理不尽な要求をしたこと」を米国民に話さなかった。
 フィッシュはそのことを戦後知り、ルーズベルトを軽蔑したという。米国人の国民性は理性と非理性の間を行き来している。これもアメリカ建国以来のフロンティア精神と清教徒精神に培われた国民性から出てきているのかもしれない。
 われわれ日本人にとり、過去を反省するアメリカ人は信頼に足る民族であると思う。反省するとは過誤を見つけ出す精神である。それは決して、日本脳は連中がしばしば発言する「自虐史観」ではない。中韓の政府と国民に対して最も信頼がおけないことは、歴史を自己正当化に使い、政治に利用し、歴史から何の反省もしないことである。かれらにとって過誤はないのだ。
 19世紀の帝国主義時代、欧米列強はアジアを侵略し、日本は中国を侵略し、大韓帝国(韓国)を併合した。現在の価値観からすれば、欧米列強も日本も帝国主義で100%非道なことをしたということになる。しかしローマ時代と19世紀は違っていた。ローマが侵略したいと思えば、そうすることができた。19世紀の帝国主義国は他国を侵略・併合したいと思っても、侵略される側が重大な過失を犯さなければ(例えば、あるアジアの国に滞在している帝国主義国の国民を殺害するなど)、侵略できなかった。
 19世紀にアジアで独立を保持できたのはタイと日本だけだ。タイは名君のラーマ4世(欧州人は畏敬の念をこめてモンクット王と呼んだ)がいて、彼の巧みな外交術により、欧州帝国諸国、とりわけフランスからの支配を逃れた。モンクット王は、ベトナムや中国、ビルマなどの王や皇帝の排外的な行動を目の当たりにして「愚かだ。欧州の帝国主義者に支配の口実を与えている」と述べた。現在、支配されたアジアの国々の人々も「なぜ植民地なったのか」を考えてこそ、それが未来への教訓になる。中韓の人々にはこの発想がない。だからと言って、日本の侵略が反古にされるわけではない。
 米国は過去の過誤を見つめている。少なくとも米国のかなりの人々は過去を、歴史を見つめなおしている。戦前からの反共主義者であり、この点からも、社会主義者が入閣したルーズベルト政権を批判したフィッシュは、ベトナム戦争が終わった直後の1976年にこう述べた。「日本人はあの戦争(太平洋戦争)を最後まで勇敢に戦った。わが国と日本の間に二度と戦いがあってはならない。両国は偉大な素晴らしい国家として、自由を守り抜き、互いの独立を尊重し、未来に向かって歩んでいかねばならない。わが国は日本を防衛する。それがわが国のコミットメントである。そのことを世界は肝に銘じておかなければならない」。
 フィッシュは、ルーズベルト(彼は中国びいきで日本人に偏見を抱いていたという)が日本に対して「不当な」要求を突き付けていなければ、日米戦争は起こり得なかったし、中国共産党が中国を支配することもなかったと考えた。共産主義が世界の脅威になることもなかったと言いたかったのだ。そうであれば尖閣諸島問題もなかっただろう。日米両国が、大東亜戦争(太平洋戦争)の互いの過誤を理解し見つめあうことが必要だ、とあらためてレコード論文とフィッシュから学んだ。太平洋戦争前夜の日本指導部にももちろん過誤があった。そのことを今日は触れる時間がない。日本の右派が言うように「自存自衛の戦い」とだけでは何の過誤も見いだせないし、「太平洋戦争は軍国主義者の仕業」だと左派やリベラルが言っても、歴史から未来に生かせる教訓はなにも生まれないのである。自らにとって嫌なことでも、現実主義者として事実や過誤を見つめてこそ未来への前進が可能になる。個人の場合も、国家の場合いもこの点では同じだと思う。

 写真は故フィシュ米国議会下院議員=彼は孤立主義者であり、反共主義者だった。何よりもアメリカ独立宣言起草者の精神を固く信じた議会主義者であった。1941年12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃後、ルーズベルトは議会に宣戦布告を要請した。その時に、大統領の要請に対して議会を代表して受諾演説をした。彼はハルノートの存在をその時には知らなかった。

よもやま話  日本人は歴史が好きだが、活かさない 歴史は科学 

2013年09月22日 21時16分20秒 | 歴史
8月12日のブログを最後に忙しくて書く機会を逸した。歳月の流れは早い。1か月半が過ぎた。妹が亡くなって間もなく半年。毎月、月末には故郷の老人ホームで暮らす母に会いに行く。65歳の誕生日を迎えてもまだ働くことができるのも幸せだ。しかし若者の職を奪っているのかもしれない。あと1-2年して完全に身を引く覚悟だ。ただ死ぬまで自分の好きな道を続けようと思う。それは歴史だ。
 今から半世紀前、大学受験を控えた筆者が「史学部へ行きたい」と言ったら、亡くなった父が「史学部では飯は食えない」と一蹴された。泣く泣く「法学部」に進学したが、好きな学問ではなかった。ただ政治や国際関係に興味があり、政治学科の授業を必修でもないのによく受けた。この年になると父の言っていることも理解できる。まあ、なんとかここまで生きてきたのだから、最後の10年は再び歴史に首を突っ込んでいきたいと思う。何とか飯も食えるし、天国の父も許してくれるだろう。
 日本人はどうも過去を振り返らない民族だと思う。先日、東京豊島区の雑司ヶ谷霊園に行ってきたが、管理事務所の方が「日本人は歴史好き」が多いと言っていた。この「歴史好き」が曲者だ。歴史そのものに興味を示しているのではなく、夏目漱石などに一種の感傷的な気持ちを持って霊園を訪れるらしい。
 一般的に言えば、日本人はどうも感傷的、ロマンチック、感情的な世界に強く惹かれるようだ。そんな国民性があるように思う。また観念的だ。このような国民はどうも人間を観察する科学である歴史、政治、軍事が苦手だ。観念的で感傷主義者なので、どうも観察の窓が曇るらしい。
 憲法第9条議論も、現実的で、観察眼にたけた議論をしていないようにおもう。感傷的で情緒的な議論ばかり。その意味で第9条を改正するのは時期尚早かもしれない。ただ歴史は日々刻々変化してやまないわけだから、そうは言っておれない。それでも観念的、感傷的では、再び太平洋戦争の指導者のような大失敗をするのではないかと危惧する。
 太平洋の向こうの米国人も、日本人ほど感傷的ではないが、それでも理念や主義が先行して現実の眼鏡を曇らせる。最近のシリアでの毒ガスサリン問題で、シリアのアサド政権を批判し、強硬に軍事介入を一時示唆したのもその現れかもしれない。ベトナム戦争やイラク、アフガニスタンへの軍事介入は現実への観察眼に長けているというよりも、米国の「理念と正義」が先行したということだ。
 これに対して、米国と同調していた英国政府は最後にシリア介入をあきらめた。現実的で合理的な英国人が民主主義という道具を利用して自国政府の前のめり政策に「待った」をかけたわけだ。 日本人は英国政府の介入中止を歓迎したが、どうも彼らの底辺に流れる「ものの見方」については理解していないらしい。
 そういえば、最近「インターナショナル・ヘラルドトリビューン」紙を読んでいたら、英国人のブライアン・モスター氏が同紙に投稿した意見が目を引いた。
 モスター氏はオバマ大統領の演説を聞いて、「米国の民主主義は何歳?」と皮肉っていた。オバマ大統領は最近の演説で「米国は世界で最も古い立憲民主主義国家だ」と述べた。モスター氏は「この主張」に疑問を呈し、「1965年まで黒人に白人と同等の権利も与えなかった国ではないか。このことを考えれば米国の民主主義は若い。そして金が万能な社会であり、金で大統領選が左右されている。貧富の差があり、貧しい人々は差別されている」と語る。黒人の社会的地位も、オバマ氏が大統領になっても低い。
 日本人と米国人は感傷的という点では似ている国民だと思う。モスター氏は米国人と英国人、特にイングランド人とは性格も、ものの味方も違うと主張しているのだろう。英国社会に若いころ住んでいた私もモスター氏の意見を完全否定することはできない。
 中国人はどうだろう。特に漢民族。この民族もどうもイングランド人に似て現実的でしたたかであり、原則や理念に固執しているようでそうでないように思う。法律が国民を護っている社会でないため、戦略眼にたけ、気を見るに敏な国民であることだけは確かのようだ。
 この点では日本人は足元にも及ばない。多くの日本人は中国人が嫌いだし、大多数の中国人も日本人が嫌いのようだ。両民族とも冷静になって自分と相手の性格の違いを探求することが相互理解の第一歩だと思う。両国民の性格の違いは相当大きいというのが筆者の見解だ。
 母の郷里で過ごした後、9月上旬に取材で熊本・人吉の高木惣吉記念館を訪れた。一晩かけて彼の書簡を一読した。もう一度じっくり読みたい書簡だが、そのなかに高木海軍少将の合理的、冷徹な観察力を見た。終戦工作に奔走し、事実上日本を救った人物である高木少将のような人物は日本人に少ない。
   再びもとの論点に立ち返るが、合理的で観察眼に富んだ人々が日本の多数派になったとき、少しは日本も変わるかもしれない。それまでは、原則として憲法9条改正は反対だ。「原則として」と申し上げたのは、時は少しも止まらない、変化するからだ。悩ましいところだ。
 太平洋戦争の軍人指導者や石原慎太郎氏ら保守派、リベラル派の心の奥深くに共通している感性的、観念的、感傷的な性格を、反対の性格を持った高木少将を通してみたように感じた。最後に断わっておくが、日本人の感性、感傷的、ロマンティシズムを批判しているのではない。音楽、文学や建築、絵画などで大いに貢献している。ただ、現実を観察する政治、軍事、外交となるとこの性格があだになるというこを言いたいだけだ。

写真は近代歴史学の父といわれるドイツのレオポルド・ランケ