英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

教育勅語に正邪の烙印を押さずに過去を調べることが不可欠  文科相の発言に思う

2018年10月06日 10時59分54秒 | 時事問題と歴史
 柴山文部科学相は10月2日夜の就任記者会見で、教育勅語(勅語)について「現代風解釈やアレンジした形で、道徳などに使うことができる分野は十分にある」と述べた。しかしリベラルな新聞や野党から批判がわきおこった。
リベラルな新聞の代表格と言える朝日新聞は10月5日付社説でこう述べた。「教育行政をつかさどる閣僚の見識を疑う。安倍政権下ではこれまでも、首相に近い政治家が勅語を擁護する発言を繰り返してきた『至極真っ当。今でも十分通用する』と述べた下村博文元文科相しかり、『道義国家をめざす精神は取り戻すべきだ』と唱えた稲田朋美元防衛相しかり。そして今度は、自民党の総裁特別補佐や首相補佐官を務めてきた柴山氏である」
 太平洋戦争敗戦後の時代に生きるわれわれは教育勅語が軍国主義を育て、悲惨な戦争に国民を巻き込んだ精神的な支柱だと思っている。それは天皇神聖化の国体を国民にたたき込む教育の基本だと考えている。確かに、民主主義社会と矛盾する考えが教育勅語には明らかにある。
勅語は1930年初頭からの日本の軍国教育に大きな影響を与えた。軍人が彼らの倫理や政策に沿って、それを解釈したことも事実だ。しかし、柴山さんや与野党の政治家、右派、左派、リベラル派のどれくらいの政治家が教育勅語をめぐる経緯や、それを起草した明治時代の司法官僚で、山県有朋内閣の法制局長官(現在の法務大臣)の井上毅の思想を知っているかとなると、はなはだ疑問だ。彼らの主張を聞いていると、あまり知っていないと思わざるを得ない。
 安倍晋三首相に代表されるように、現在の風潮である「結果がすべて」という非民主主義的な考え方、「過去に無頓着」な日本人の国民性、そして「感性的で情緒的」な性格とが相まって、戦後の教育勅語を「悪」と決めつけてきた。その考えが教育勅語の正しい理解を妨げている。私はこの手の問題を「軍国主義を体現する」「現代にも通ずるものの考え方もある」で論じては、教育勅語に対してまっとうな理解もできないし、客観的な理解もできないと思う。勅語は白黒では判断できない。
 歴史を学ぶとき、それをイメージや追憶で理解してはいけない。過去を資料で理解しなければ、現在にそれを生かせない。過去の”悪”を批判ばかりして、その”悪”から何も学ばず、未来へそれを生かさないほど愚かなことはないと思う。
 歴史は変化する。100年前の人びとの常識は、今日の常識ではないかもしれない。たとえば、50年前には同性愛は異端の愛だったが、現在は世の中から少しずつ認められてきている。150年前には長男が家を継ぎ、家を守ることが絶対だったが、現在はそうでもない。
 1867年の王政復古で政権交代を果たした明治政府の目標は欧米列強を模範とした国作りだった。そのためには、徳川幕府が幕末に欧米列強と結んだ不平等条約を呑まざるを得なかった。そうしなければ日本の独立は困難だった。
明治政府は高等教育に欧米の教科書を使用した。欧米の思想はいわゆる功利主義と合理主義であり、当時の人びとは欧米の教育と学問の目的を金儲けや立身出世を目指すものだと皮相的に理解した。欧米流の功利主義による教育は日本本来の道徳や“もののあわれ”の美徳を軽んずる風潮を生み、心ある人々から反発が出た。また、明治天皇ご自身もこの欧米流の教育思想に疑問を持ったという。こうして、1880年代には、道徳教育のあり方についての改善を求める声が沸き起こった。
 これに呼応して、明治時代の秀才中の秀才の井上毅が儒学者の元田 永孚(もとだ ながざね)とともに教育勅語を起草した。フランスに留学経験がある井上は、国家神道的な教典とすることを重視した元田と教育勅語の内容をめぐって対立したが、元田を説得して自らの考えを貫いた。教育勅語には井上の民族主義的な思想が色濃く反映されている。
 もちろん彼は明治天皇を敬い、長い間続いている日本の風習や伝統を尊重した。現在の窓から見れば、彼は保守であり、もしかしたら、現代の人々は彼を右派だと烙印を押すかもしれない。しかし、当時、彼は進歩的な人物だった。フランスに留学し、西洋文明を理解していた。
 彼は国民に天皇を崇拝させ、神聖化するために勅語を起草したのではない。教育勅語を政治的に利用してはいけないと思い、その内容に苦心惨憺した。西洋文明の精神と、儒教に基づく日本人の考えに折り合いをつけ、国民道徳の規範にしようとした。19世紀の弱肉強食の時代に、欧米列強から日本を守るために民族主義の発露として勅語を記した。日本の近代化政策を推し進めるために勅語を記した。
 井上は1844(天保14)年、熊本藩士の家に生まれた。藩校・時習館では秀才の誉れが高かった。当時の学問の中心であった「漢学」に疑問を抱き、江戸に出てフランス学を学んだ。維新後に司法省の官僚となり、法制の専門家としての道を歩み始めた。やがて大久保利通や岩倉具視に重用され、フランスに留学して司法行政を勉学。帰国後は伊藤博文のブレーンとして軍人勅諭や大日本帝国憲法の起草に参加するなど、日本の司法制度の近代化に貢献した。
 彼が勅語の起草で目指したのは、その時代まで長く続いていた平均的な日本人の価値観を重視し、それを勅語に反映させることだった。その価値観とは、助け合いや謙譲などの精神だった。それは「法治国家・立憲主義の原則の下で保障された人々の権利」だと考え、「国家といえども干渉できない」というも思いを抱いた。この法治主義の考えの下で、井上が示した教育勅語は〈1〉政治的な主張を含まず、政治に利用させないこと〈2〉天皇が国民に直接所信表明して自らの考えを示すことーだった。つまり、教育勅語は公的制度ではないし、明治天皇が「そうせよ」と命令したものではない。
 井上はこの原則を踏まえ、「歴代の天皇とこれまでの臣民」がひとつになって、祖先が築いてきた道徳を長い間守ってきたことを強調。教育勅語で「天皇と臣民」が一体となってこれからも道徳項目の実現に邁進すべきことを求めている。つまるところ、長い間に培われた日本人の道徳観をこれからも「天皇と臣民」が一体となって守り育っていってほしいと願った。
 2011年3月11日に発生した東日本大震災では、世界の人びとは東北地方の人々の礼儀正しさ、謙虚さ、助け合いの精神を称えた。そして何より他人の不幸に乗じた略奪が皆無だった。今般のインドネシアの大地震に伴う略奪報道を聞くにつけ、日本人の美徳は称えられるべきだ。この美徳が昨日、作り上げられたものではない。千年以上にわたって日本人の心に育まれ、井上毅がそれを踏まえて教育勅語に銘記した。
 ただ落とし穴があった。それは教育勅語が天皇の見解に深く結びついていたからだ。教育勅語が発表された1890年頃から御真影(ごしんえい=天皇の肖像)が小学校に配布されるようになった。しかし教育勅語や御真影の扱い方は各小学校の自由意志だった。1910年代になって初めて御真影の下賜が始まり、政府や官僚が教育勅語を利用して国民に「道徳とはこうあるべきだ」との指導が開始された。その時期に教育勅語と御真影を保管する奉安殿が各学校に建築され、教育勅語が神聖化されていった。
 1930年代に、軍部が政治権力を掌握するにつれ、教育勅語は起草者の井上の思いとは違って政治利用されていった。御真影の下賜と同じ頃に、勅語と御真影を保管する奉安殿が全国各地の教育機関で建築され、それにまつられた教育勅語と御真影を、小学生は毎朝、朝礼で拝礼した。倫理・道徳の絶対的な尺度に祭り上げられた。井上が最も嫌い、避けようとした宗教色さえ帯び始めた。
 起草当時としての常識的な井上毅の思想は時代の流れととともに変質していった。何よりも彼は欧州列強の侵略から日本を守るため、教育勅語を民族主義のバックボーンにしようとした。1895年に亡くなった井上が、もし1930年代まで生きていれば、勅語を政治に利用した昭和の軍人を糾弾しただろう。
 明治時代(現在から過去)に立ち返って、当時の社会通念や考えを理解して井上の思想を考えれば、民族主義にも一定の評価はできると思う。歴史は現在から過去を理解すると同時に、当時(過去)に立ち返って当時の人びとの考え方を理解することである。なぜかと言えば、現在と過去の価値観や社会通念、常識は必ずしも同じではない。もちろん、「他人を思いやる」などの価値観は先祖から連綿として受け継がれてきたが、そうでないものも多くある。
たとえば半世紀前、電車の中で女性が化粧をしていようものなら、「夜の女」と差別と偏見でみられた。現在、多くの女性が電車で化粧をしているのを見かける。そして何とも思わない人びとが多数を占めるようになった。また「夜の女」という偏見を持つ人びとはほとんどいないと思う。
 教育勅語も起草当時の趣旨が昭和の初期に変化した。というより、軍人跋扈(ばっこ)の昭和前期に、民族主義が変質し、国家主義のバックボーンとなった教育勅語が天皇神聖化に利用されるようになったと言い換えるべきかもしれない。
51歳で1895(明治28年)にこの世を去った井上も昭和の軍人が教育勅語の欠陥を上手く利用して国民教育の一元化と政治利用に使うとは決して考えていなかっただろう。
 この井上の「教育勅語」が昭和の軍部指導体制の中でいかに変質し、戦争遂行にいかに利用されたかを調べる必要がある。教育勅語のどの部分が軍部指導者に利用されたか、そして井上の起草動機をも調べる。受け継ぐべきものは受け継ぎ、時代にそぐわないものは捨てる。それは教育勅語をイメージで話す前に必要だ。
 軍国主義時代に利用された教育勅語を観念的でしか理解しない左派の人びとや、旭日旗をブログに出して愛国保守を標榜する人たちのネット上の言説は、情感に満ちあふれ、客観性を欠いており、資料に基づいて書いておらず、良識的だとは思えないものが珍しくない。チャンネル桜やチャンネルくららの視聴者は、政治に関心が強い右派的な人が多いと思われるが、コメント欄を見ると、資料や歴史の事実を踏まえず、感情的で、良識的だとは思えないものが珍しくない。
 過去の資料や経緯を研究・理解して初めてひとつの物事の長短や欠陥、歴史の変化にともなう事実を知ることができる。そうすることで初めてそれを改善・改革することができる。現実主義に基づいて物事を判断しなければ、できるだけ客観的な評価はできないし、それを未来に生かせない。英国人から「保守主義とは何か」を英国で半世紀前に学んだ保守主義者の私はそう思う。
 右派や左派が抱く情感や観念、感情による変革は危険である。資料や現実に基づく改革は危険の度が減る。それは教育勅語を観察し理解するために不可欠である。憲法もそうだ。安倍首相の憲法改正論は「第2次世界大戦(太平洋戦争)の敗北で日本を占領した連合軍総司令官のマッカーサー元帥に押しつけられた」などと情感で発言する。情感や情緒で物事を判断すれば、その意図がたとえ時代にかなっていたとしても結果は大きく食い違う公算が大であり、改正者が考えてもみなかった悲惨な結果に終わる可能性が高い。革命の理想と、その悲惨な結果に見られるように、それは歴史がわれわれに教えているところだ。
 ちょっと聞きかじった程度で、教育勅語が素晴らしいとか、悪いとか言うこと自体、井上毅への侮蔑である。天国で彼はこう言っているだろう。「私が明治時代に起草した勅語が現代に当てはまるとは思わない。しかし、私の起草精神をくみ取り、現代にあった形に作り替えてほしい」
 明治維新から1890年前後まで、明治の人びとは江戸期の価値観念が崩れて、どうしてよいかわからなかった。そして教育勅語の助けを得て、ひとつの価値観を築いた。戦後から今日まで、われわれはその時代の人びとと同じ境遇にある。われわれは自ら思考して現代にあった価値観念を構築していかなければならない。
 私は教育勅語の価値観が現代に合っているとは思わない。しかし、それを白黒と決めつけず、そこからヒントを求め、「助け合い」など何百年にもわたる過去の人びとの価値観を引き継ぎ、21世紀の日本人の価値観を築き上げてはどうだろうかと提言する。
 そうしてこそ21世紀を生き抜く力になる。たぶん22世紀の人びとは、これから起こる歴史の変化を踏まえ、今日の我々が築く価値観や井上が起草した教育勅語を学びながら新しい価値観を創造するだろう。

写真は井上毅 

「社会」を壊す新自由主義    「社会主義崩壊後の世界」を読む

2017年12月01日 11時25分51秒 | 時事問題と歴史
 全体主義体制の旧ソ連社会主義国家が1991年に崩壊し、よき時代を迎えると思ったら、新自由主義という、むき出しの資本主義が世界を席巻し、その結果、人間をつなぐ社会の崩壊を促しているように見える。
 ロシア革命100周年を念頭に、京都大学の佐伯啓思・名誉教授は、12月1日付け朝日新聞でこう述べる。
 佐伯氏は「日本ではずいぶん長い間、社会主義に対する幻想があった」と語り、社会民主主義の出番にはならなかったと説く。そして世界中が資本主義のグローバル市場に覆われ、「アメリカ主導のIT革命や投機的な金融市場の展開によって、まさしく資本主義が凱旋したのだ。・・・資本の増殖を求めるグローバルな市場競争というメカニズムがわれわれの生を圧迫している。・・・別種の全体主義ではないか」と強調する。 
 「この(現在の)自由社会は、われわれを過剰なまでの競争に駆り立て、過剰なまでの情報の中に投げ込み、メディアやSNSを通じて、われわれは他人のスキャンダルを暴き立て、気にくわない者を誹謗(ひぼう)し、少しの失態を侵した者の責任を追及する。実に不寛容な相互監視社会へとなだれ込んでいる。これも一種の全体主義と言わねばならない」
 この”全体主義”が人間社会を破壊している。本来の人間社会は「今日のSNSのようなバーチャルな、もしくは瞬時的でどこか虚構めいたつながりではない。相互に信頼できる人々の間に生まれるつながりである」と説明する。
 佐伯先生の話は説得力があると思う。自殺願望の若者が、27歳の男に殺された事件も、今日の人間社会を投影している。かつて日本は地域社会のコミュニティーがしっかりしていた。家族、地域、学校、組織、企業、サークルなどが一つの社交の場となり、話し合いの場となり、人間相互の理解とつながりの場となっていた。だから佐伯先生は「社会は一定の倫理的価値を保ちえたのである」と語る。
 ソビエト型独裁社会主義が崩壊し、それに代わって新自由主義という新しい全体国家が世界を覆っている。マルクス・レーニン主義に基づいた中国も、われわれ団塊の世代が若い頃見た社会主義社会という外套を脱ぎ捨て、いまや新自由主義の旗をたかく掲げている。資本主義の先鋒を担っている。
 佐伯先生が述べる「『社会』主義(ソシエタリズム)」が崩壊し、家族や地域コミュニティーはずたずたに壊されてしまった。古代ギリシャの哲人アリストテレスは「人間は社会的動物である」と説いた。私は若い頃、この格言を読み感銘したのを覚えている。
 人間は相互につながらなければ生きてはいけない。神奈川県で殺された自殺願望の若者も自殺したかったのではなく、温かい、人間相互が信頼する社会に住みたかったのだと思う。
 今日のいじめ問題や過剰なまでの競争社会、そして敗者復活がなく、敗者を徹底的にたたき、勝者を必要以上に持ち上げる社会。それは新自由主義に基づく原始的資本主義が生み出したのだろう。人間のつながりを希薄にするIT革命が原因だろう。
 佐伯先生は「それを立て直すのは難しい。しかし、われわれはの日常生活が自然で多様な『人間交際』によって成り立っていることを思い起こせば、『社会』の復権にさほど悲観的になる必要もないのかもしれない」と結論づけている。私も心からそう願う。いかに物質文明が発展しても、その基となる人間社会が機械であっては何もならない。

日本人は我慢できるが忍耐できない 71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(3)

2016年08月15日 12時48分10秒 | 時事問題と歴史
 歴史を紐解けば、日本人を存亡の危機に陥れるのは、米国でもなければ韓国でもない。ましてや東南アジアや英国でもない。いつの時代も中国とロシアである。特に中国はどんな時代でも日本の運命にとり直接的に影響を及ぼす。ただ、日本人は「理不尽」な中国の行動に対し「我慢」はできるが「忍耐」ができない。このため、最後には中国が日本から利を得る。
 日本の関東軍が満州事変を起こした理由の一つに、中国の「条約破り」に腹を据えかねて忍耐できなかったことにある。
 1921年11月12日から1922年2月6日まで米国で開催されたワシントン軍縮会議は、歴史の変化と民族主義を助長した。主力艦比率がこの会議の最重要成果と見られているが、最も重要なことは9カ国条約だ。
 ワシントン会議に参加した中国は、1839~41年のアヘン戦争以来はじめて列強から無理やり不平等な取り決めを押し付けられなかった。初めて国権を失わなかった。それどころか、中国は1922年2月、日本と山東省問題で合意し、第一次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツから日本が譲り受けた膠州湾租借地を返還させるのに成功した。
 山東省の中国への返還は、欧米列強が19世紀、特に1894-95年の日清戦争から20世紀初頭までに見せた赤裸々な中国分割の時代が過ぎ去ったことを意味していた。欧米列強と日本は正式な手続きを踏めば不平等条約を改正する、と中国に約束した。
 中国は条約批准後、直ちに関税交渉を欧米日列強と始めることになっていた。英米伊日とポルトガルの5カ国は9カ国条約を迅速に批准するため、中国に5カ国の賠償金の支払いを猶予、または免除することに同意した。しかし、フランスが、義和団事件(1900年)の賠償金の支払いを取り決めた1901年の辛丑和約(しんちゅうわやく=北京議定書)の続行を金建てフランで求めた。当初、英米などに同調していたイタリアはじめベルギーもフランスを支持した。  
 フランスの要求がワシントン条約の批准を3年も遅らせた。歴史の急速な変化の流れの中で3年は致命的な遅れだった。この間、中国では、歴史の流れに逆行する軍閥間の内戦が激化。強力な北京政府は弱体化し、1925年の夏、北京で関税会議が開かれたときは、なんらの成果もあげられずに終わった。
 欧米列強と日本は強力な交渉相手を中国国内で見いだすことができなくなり、中国の条約遵守に不安を抱くようになった。これに対して中国は列強の誠意を疑い始めた。
 時は国際環境を変化させ、ワシントン条約当時と比べ、中国国内の民族主義者の過激さはますます増していった。中国は対欧米日との交渉による不平等条約の改正を無視し始めた。
 中国の学生は1925年5月30日、日本資本で運営されていた紡績工場で働く労働者のストライキに対する弾圧に抗議し、デモ行進を始めた。租界地区の日英警察が多数のデモ参加者を逮捕。英国の警察は発砲し、中国人11人が死亡、2人が負傷した。いわゆる「5・30運動」が発生し、全国に飛び火していった。
 同年7月23日、中国人約6万人のデモが広東近くの沙面の租界地で起った。デモ隊の攻撃に英国軍は応戦。多数の中国人が射殺された。中国大衆の標的は日本と英国だったが、この事件で英国は集中砲火を浴びるようになった。
 中国人は、以前から抱いていた外国人を嫌悪する排外主義とナショナリズムがない交ぜになり、怒りは頂点に達した。1年以上もの間、英中貿易が滞り、中国の港で英国人が取り扱う製品の船積みがボイコットされた。
 中国の北京政府は1926年4月26日、19世紀半ばに結ばれたベルギーとの通商条約の改正を拒否し、一方的に廃棄通告した。英国は同年秋、日本とともに中国問題を協議するよう米国に提案したが、米国は「緊急性がない」と日英の提案を拒んだ。 
 中国の民族主義が歴史の変化の歯車を加速させ、国家間の正当な手続きによる条約の改正を不可能にしていった。歴史の流れは英国と日本の思惑とは逆に動き始めていた。
 英国は東アジアで刻々と変化する情勢を観察し、歴史の歯車が自分の望んでいる方向とは逆の方向に動いていると考え始めた。民族主義運動が国際環境をジワジワと新しい方向へ変化させていることに気づいた。
  ロンドン政府が思うままに世界に指図した19世紀は終わり、英国だけで中国問題を解決することは不可能だと悟り始めた。中国の植民地政策を堅持する今までの行動は英帝国の将来に致命的打撃を与えると思い始めた。
 北京駐在の英代理公使は1926年12月16日、ワシントン会議の9カ国条約締約国に英国の新しい対中政策に関する覚書を送付した。この覚書は「クリスマス宣言」と呼ばれており、覚書の中で中国も同意したワシントン条約の合意事項は実施されていないと論じた。
 馮玉祥や張作霖などの軍閥による内戦が北京の段祺瑞政府を葬り去り、中国が無政府状態になったため、交渉する相手がいなくなった、と英国政府は慨嘆した。欧米列強は段祺瑞政府を中国の正統政府と認めていた。
 「(ワシントン条約に基づく)政策は、中国の領土保全・独立と経済発展を促進し、中国の財政健全化を図ることだった。・・・(しかし)残念なことに、関税会議は4年間開かれず、この間、中国状勢は悪化し続けた。うち続く内戦で、北京政府の権威はほとんど無きに等しい状況となっている。・・・(昨年やっと)関税会議は開催されたが、交渉すべき強力な中国政府が存在しないため会議は流れた。その後、北京政府の瓦解プロセスに比例して内戦がますます大きくなっている。・・・こういう訳で、列強が中国についての協約を取り決めたワシントン条約当時と現在の環境は似ても似つかない状況になった。このような混乱した状況で、・・・ワシントン条約で取り決めた中国問題の改善や中国の外国居留民の地位に関係した問題を進めることは不可能。既存の国内政治体制の瓦解に比例して、(新興政党の)国民党の勢力が増大してきた。国民党は列強と同等の地位を要求し、それを目指している。国民党の運動は将来、外国からの同情と理解で満たされるようになることは確実だ。それ故、中国政策をめぐる(ワシントン条約での)調印国間の合意とは相容れなくなるだろう」 
 英国は声明発表後、対中外交を大転換した。日本と共同で英日の権益を擁護する政策から、蒋介石ら国民党政府の「革命外交」との協調に舵を大きく切った。
 英国のオースチン・チェンバレン外相は、民族主義という「インパーソナル・フォーシズ」を無視できないと悟った。西から東に吹いた風が東から西に吹き始めたのを認識してその風に乗ろうとした。国民党はナショナリズムを全面に押し出す「国民革命外交」を展開し、民族主義に目覚めた中国国民は国民党を支持し始めた。英国はほかの列強との協調をあきらめた。
 現実主義者の英国人は国民党と敵対するより協力して中国での英国の権益を守ることが得策だ、と判断した。英国の世論も国民党に同情的だった。
 1926年12月28日付ロンドン・タイムズは、「クリスマス宣言」の解説記事を掲載し、「1921-22年のワシントン条約締結時と26年ではまったく状況が変化したことを認めざるを得ない。この変化のうちで最も注目すべき点は、強力な民族主義者が台頭してきたということだ。この現実を列強が互いに認識し理解しなければ、中国に対して正しい対応を取れなくなるだろう」と警告した。
 「クリスマス宣言」発表後、中国人は「クリスマス宣言」を英国の弱さだと判断した。1927年1月4日-5日にかけて中国大衆は漢口・九江の英国租界を接収。この判断も中国人の国民性から由来する伝統的な思考形態とみられる。
 英国は上海の租界地を守るために漢口・九江の租界地を犠牲にする決断を下し、2月9日に中国と協定を結んだ。中国は3月1日、漢口・九江を管理下においた。
 一方、米国は、1920年代後半に時計の針が進むにつれて、中国に同情していた。アヘン戦争以来90年にも及ぶ欧州列強の植民地政策と日露戦争以降の日本の対中政策は米外交の基軸と異なっていた。
 中国問題専門家の米外交官ジョン・A・マクマリーは「米国人が中国国民党を米国独立戦争の自分と二重写しにし、(国民党の党首)蒋介石を米国独立の父、ジョージ・ワシントンに見なすことが少なくなかった」と語った。米国の指導者も米国人も、独裁者で中国人特有の現実主義的損得観を持っていた蒋介石に米国建国の理念―自由と民主主義―を見た。もちろん、それは米国人の幻想であり、蜃気楼(しんきろう)だったことは言うまでもない。
 米国の政治指導者と世論はいくぶん主観的とは言え、時代の変化を察知していた。というより彼ら自身が歴史の変化を促した面も否定できない。米国が歴史の変化を動かすインパーソナル・フォーシズ「民族主義」に油を注いでいた。英米の対中姿勢が独善的になりがちなナショナリズムという「インパーソナル・フォーシズ」を強めていった。
 万人に平等な法の支配の歴史を持たない中国人は、相手が弱いと見ると攻め、強いと見れば引く現実的な国民だ。マクマリーは国民党の蒋介石将軍を批評し、「彼は妥協したり、巧みに説得したり、策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と語った。権謀術数に長けた中国人の国民性も事態をますます複雑にした。 
 軍閥打倒と中国統一をかかげて北伐を開始した国民党は1927年3月24日に南京に到着した。国民党軍の一部は英国と日本の領事館を急襲。中国軍兵士は領事館の私物を略奪し、アメリカ人を殺害した。1937年12月の南京大虐殺事件は有名だが、この南京事件は今日の人々の記憶に残っていない。
 北伐を進める国民党軍が斉南に迫ると、日本政府は南京事件の状況を憂慮した。事前に米英と協議。山東省出兵の了承を取り付け、日本人居留民保護のため陸軍に出兵を命じた(第1次山東出兵)。山東省から撤兵後、日本軍はふたたび翌年の4月、中国革命軍が斉南市に入ったのに伴い、居留民保護のため兵を出した(第2次山東出兵)。日本軍と国民党軍はにらみ合った後に衝突。日本軍は同年5月に増派した(第3次山東出兵)。
 斉南市での日中両軍の衝突は中国市民を巻き添えにし、多数の中国人が殺傷された。このため中国国民の日本人に対する悪感情は取り返しのつかない致命的段階に達した。斉南事件以降、中国の民族主義の標的は日本にだけ向けられ、英国に向けられることはなかった。
 張作霖の息子の張学良将軍は1930年代半ば、「大隈内閣の対華二十一ヶ條事件(1915年)以来、(中華)民国国民の対日感情は、小學児童にまで、これを国辱記念日として教科書で教える程に悪化し、民国国民は、日本を親代々の仇敵視するに至った」と語った。
 蒋介石は1927年4月12日に上海でクーデターを起こし、共産党員を弾圧。共産党との戦いを始めた。武漢政府は8月19日、蒋介石率いる南京政府との合併を宣言。1928年6月、蒋介石は北京に入城し中国を統一した。
 国民党が中国を統一すると、王正廷外交部長(外相)は1928年7月19日、1896年に日本と清国(中国)との間で締結した通商・航海条約と、1903年の同条約の追加通商条約を破棄すると一方的に声明を出した。やむなく日本は譲歩し、満州の権益を中国が認める代わりに中国本土の日本の権益について大幅に譲歩する用意があると表明した。
 日本政府は1929年4月26日に王と交渉を開始し、6月3日に国民党政府を承認。1930年5月6日には日中関税同盟を締結し、中国は関税自主権を回復した。
 このありさまを見ていた日本陸軍は、幣原外相の対中政策があまりに国民党政府に譲歩しすぎると断じ、「軟弱外交」とののしった。
 済南事件で国際的な非難を浴びて窮地に立った日本政府は、中国による日本との条約不履行をめぐって米国政府に協力を求めるため、明治、大正、昭和の3時代にそれぞれ外相を務めた政治家、内田康哉を米国に派遣。内田は1928年9月29日、米国務省にフランク・ケロッグ国務長官を訪問し、米国の対中姿勢を尋ねた。
 ケロッグ国務長官は「各国それぞれが自国の利害に配慮して、条約の諸問題の解決へ向け努力すれば(諸問題の解決は)実現できるものと我々は考えている」と発言、内田は米国の曖昧な返答を聞いて失望した。
 日本は1921年、米国からワシントン会議への招待状を受け取ったとき、会議への参加を渋った。参加すれば満州の権益が俎上に載せられるのは明白だった。しかし日本は会議に参加し、条約を締結。忠実に条約を遵守した。条約を遵守することで、欧米列強と協力し満州の権益を守ろうとした。しかし内田がケロッグ長官と会談する頃、日本の満州政策は行き詰っていた。
 中国は1929年12月29日、欧米列強や日本に追い討ちをかけた。1930年1月1日以降、条約国の諾否にかかわらず条約が規定した治外法権の項目を無効にすると発表した。しかし欧米列強諸国は中国での自国民保護の裁判システムの必要性を感じ、中国の発表に抗議した。
 国民党政府は同じ年の1929年にソ連にも矛先を向け、ソ連の革命政府が帝政ロシアから引継いだ東支鉄道(日本は当時、北満鉄道と呼んだ)を強制的に接収しようとした。条約を無視する中国の態度に怒ったソ連は中ソ国境に軍隊を集結。ソ連より弱体な軍しか保有していなかった中国はソ連の強硬姿勢に屈服し、接収を見送った。「弱い国を攻め、強い国とことを起こさない」という中国の「現実主義」「力の政策」が露見した。
 治外法権撤廃をめぐって中国と欧米が対立していた最中に、満州事変が1931年9月18日に勃発した。中国は満州事変の開始を受け、列強諸国に治外法権撤廃を無理押しするのは得策でないと判断、要求を引っ込めた。
 国民党政府の動機は明白だった。日本の侵略に反対する国から最大限の支持を期待するため、治外法権撤廃を見送った。はかりごとをめぐらし、そろばんをはじいた。英国も中国もそろばんをはじいて「損得勘定」を計算していた。
 われわれは太平洋戦争、日中戦争(日華事変)、満州事変から苦い教訓を得て、それを未来に生かさなければならない。関東軍は1920年代、我慢していたが、忍耐しきれずに満州事変を起こした。満州を侵略した大きな理由は勿論、これだけではないが、「忍耐切れ」も大きな理由の一つだ。
 日本の死活問題は中国問題だ。1920年代も今日も中味は違っていても同じだ。中国はこれからも長期間にわたって、尖閣諸島を自国の領土だと主張し、接続水域や領海に入ってくるのは間違いない。虎視眈々と同諸島を狙ってくる。米国、日本や東南アジアの国力と自己の国力を天秤にかけ、相手が強めれば引き、弱ければ攻勢に出てこよう。
 中国共産党の幹部と国民は、歴史が変化してもはや戦争で国益を奪取する時代は過ぎ去ったことを理解しているのだろうか。多分、理解していはいまい。彼ら革命の戦士の子どもや孫、ひ孫らは「武器のよって政権を奪取できる」と信じているだろう。それは共産主義革命の根本精神だからだ。
 時代は変化した。歴史は変化した。原子爆弾は戦争を不可能にしている。もし戦争が起これば、敵も見方も致命的な打撃を受け、最悪の場合には地球の民は滅びるだろう。中国共産党の連中は今こそ、「外交交渉」「国際法」によってしか国益を伸ばせないことを気づくべきだ。また民主主義こそ中国国民の福利と発展に寄与すると気づくべきである。もはや中国共産党の目標に中国国民を強制する制度は時代遅れとなった。
 日本人はけっして「我慢切れ」になってはいけない。日本人が苦手な「忍耐」をして、粘り強く中国共産党と対峙しなければならない。。それができるかどうかが将来の日本の運命を決するといって過言ではない。ゆめゆめ、第2次世界大戦前夜の日本の指導者のように、ある一定の時間を決めてそこまではひたすら「我慢」し、それが切れれば前ばかりを向いて突っ走るようなことがあってはならない。「忍耐」し続ければ、必ず時が変化し、時が味方して、われわれは初期の目的を果たすことができる。それが太平洋戦争から得ることができる苦い教訓だと思う。

 (参考)「71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(1~3)の一部は拙書「歴史の視力」(ホルス出版)から引用した。

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日本人は現実主義者というよりも希望的観測を抱く理想主義者 71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(2)

2016年08月14日 14時40分19秒 | 時事問題と歴史
 太平洋戦争(大東亜戦争)の反省として、筆者は同胞の多くが情緒に弱く「思い込んだらテコでも動かない」国民性を指摘した。移り変わる時代の流れを無視し、「思い込んだ考え」を引っ提げてひたすら進む姿を記した。現実を無視し言葉上の美辞麗句に弱い日本人を指摘した。
 逆境にめげず何かを成し遂げた人々に賛辞を送ることは素晴らしいことだが、身も心も入れ込み過ぎて周囲が見えなくなる傾向が強い日本人に抵抗を感じてきた。日本人は現実主義者ではない。
 今日のブログは希望的観測について記したい。事実を無視した希望的観測は危険だ。昨日記したチャーチルの言葉を今日のブログにも掲載したい。
 チャーチルは著書「第二次世界大戦回顧録」の中で日本の指導者についてこう述べている。
 「戦争においても政策においても、常に自分を(帝政ドイツの宰相)ビスマルクが『他の人』と呼んだものの立場において見るようにせねばならない。一省の長官がこのことを十分にやればやるほど、正しい進路を発見する機会が多い。相手がどう考えているかについての知識を持てば持つほど、相手が何をするかを知った場合に戸惑うことが少なくなる。だが、深い十分な知識を伴わない希望的観測や想像はワナのようなものだ」
 現在、リオデジャネイロ・オリンピックが開催されている。アナウンサーや解説者はラグビーやサッカーなど、明らかに実力差のある相手チームに対しても「勝つチャンスがある」と述べ、日本チームの長所ばかりを挙げて視聴者の期待を膨らませている。
筆者はこれを否定しないが、客観的な予測をすることも必要だと思う。日本人にはこの姿勢があまりない。スポーツなら問題はないが、国家の運命を担う指導者がこのような態度で国家運営していては国家存亡の秋を迎えるだけだろう。
 太平洋戦争前夜の日本の軍部指導者がそうだった。日本陸海軍の実力を過大評価し、そうでなくとも強大な米国を過小評価した上、「精神力」が勝利に最も重要だと信じ込んだ。13倍(当時は20倍だと認識していた)も強い「敵」にまともにぶつかって勝てるわけがない。隠忍自重し、時の変化を待てば、風向きが必ず変わる。それが歴史の特質なのだ。
 正確な情報が海外の情報将校から送られてきたのに、「ドイツが勝つ」と思い込んだ軍部中央の秀才は、その情報を無視した。海外ラジオ放送で米国のルーズベルト大統領やチャーチル英首相の演説を分析しただけでも、彼らにとり誰が主敵(ヒトラー・ドイツ)なのかは一目瞭然で理解できるのに、米国が攻撃してくるという「不安」に駆られ、日本は真珠湾を攻撃したのである。
 「我慢」したが「忍耐」できなかった。うがった見方をすれば、米英の挑発に乗った。もし挑発したのなら、どちらが悪いのか。右派の作家や有識者は挑発した米国が悪いという。筆者は挑発にのった日本の指導者を糾弾する。国家を滅亡の淵まで追い込み、国民に塗炭の苦しみを味あわせて、何が挑発した米国が悪いと言えるのか。もし挑発したのなら、それは米英の巧みな作戦だった。筆者は挑発されたとは思っていないと断っておく。

 ●太平洋戦争前夜の動き
 1941年11月1日に開かれた大本営政府連絡会議に臨む際、次の3案が議題になった。
 第1案、戦争することなく臥薪嘗胆する。
 第2案、すぐに開戦を決意し戦争により解決する。
 第3案、戦争決意の下に作戦準備と外交を併行させる。
 第1案には、日本が米国に譲歩して臥薪嘗胆する場合と、日米外交交渉の決裂後、譲歩も開戦もせずにそのまま現状の立場を維持して臥薪嘗胆する場合に区別された。
 海軍の作戦最高司令官の永野修身(ながお おさみ)軍令部総長は、この会議で「日本として対米戦争の戦機は今日にある。この期を失したならば、開戦の期は米国の手に移り、再び永久に我が手中には帰らない」と強調。このまま日本が臥薪嘗胆すれば、石油が枯渇するなど戦力は「ジリ貧」になり戦えなくなる、と発言した。
 永野は作戦の見通しについても述べ、2年間は十分に戦う確算があるが、3年目からは国家総力の変移や国際情勢の変転から確算がないと説明した。
 瀬島龍三少佐(最終階級は陸軍中佐)によれば、永野の説明を聞いた賀屋蔵相と東郷外相は「2年後の勝算ない戦争は不安定だ。米国から戦争をしかけて来る公算は少ない」として、現状のままの臥薪嘗胆に賛成した。とりわけ東郷外相は「(独伊が破れた)欧州戦争後に各国が対日圧迫を加えてくることは俗論だ」と一蹴した。
 陸軍が賛成していた第2案は少数意見で、海軍が賛成した第3案に落ち着いた。
 東郷外相と杉山元・陸軍参謀総長ら参謀本部首脳は、第3案に関連した日米交渉の打ち切り期限と交渉条件をめぐって激論した。交渉期限を12月1日午前零時とし、交渉条件を南部仏印からの撤退などを骨子とした妥協案(乙案)で落ち着いた。
 陸海軍首脳と政府首脳から構成された大本営政府連絡会議の開催に先立ち、嶋田繁太郎海相(1883~1976)と永野・軍令部総長は1941年10月30日、米国と開戦する腹を固めていた。

 ●総力戦では勝つか負けるしかない。和平は不可能だった
 太平洋を舞台にした米国との戦いは海の戦いだった。海軍の対米姿勢が日米開戦のカギだった。
 永野軍令総長が挙げた「石油切れによるジリ貧論」は対米戦に突入した大きな理由だ。米国政府が1941年8月1日に対日石油輸出を全面禁止して以降、海軍首脳は、このまま手をこまねいていれば「油がジリ貧状態」になり米国と戦えなくなると主張した。米英と戦うなら一刻も早く開戦し、東南アジアを占領して資源を獲得。米英と持久戦に持ち込み、勝機を探るという計画だった。
 満州事変の首謀者でありながら、日中戦争と太平洋戦争に強硬に反対した石原莞爾陸軍中将(当時退役し立命館大学教授)は、日本軍が資源を確保できたとしても、資源を日本へ運ぶために南方から日本本土までの制海権と制空権を保持できないと確信した。
 日米開戦直前の10月、対米戦強硬論者の田中隆吉・陸軍省兵務局長を東京の東亜連盟協会事務所に呼び出し、「たとえ南方を占領したところで、米英を敵として日本の現在の船舶では、石油もゴムも日本内地へ輸送できるものか」と強調し、戦争回避を強く迫ったという。
 戦後、太平洋戦争敗北の教訓を記した野元海軍少将は太平洋前夜を振り返り、日本も国力の点で米国に圧倒的に劣っていたと述べた。昭和15年ごろの日本と米英の粗鋼生産力を取り上げ、孫子の「道」の「兵衆何れか強き」を引用した。米国と日本の生産力はそれぞれ約1億トン、500万トンで、その比率は20対1だったと回顧した。
 「即ち精神的にも物質的にも、この無謀の大事を敢行したのは、視野狭小であり、総合判断を誤り、短期決戦に対する希望的判断があったといえよう」。野元少将は反省を込めて分析している。内戦で国が滅ぶことがないのに内戦を恐れ、強大な米国に参戦した一面もあると指摘している。
 日米開戦に突き進んだ理由はまだほかにもある。陸軍が中国戦線での死傷者と撤兵を絡ませたことが挙げられる。福留・海軍軍令部第一部長は陸軍幹部から直接聞いた話を伝えている。
 「支那事変以来すでに三十万の死傷者を出している。それなのに今さら撤兵は出来ない。そんなことをすれば、今までの犠牲は無駄になってしまう。それでは統帥(軍の支配・指揮権)は出来ない。若し日本が支那(中国)本土から撤兵すれば、次は満州から撤兵せよと来る。日本が頑張れば油を止める。そして次から次へとどんどん押して来る。歴史的事実から推しても、アメリカは日本の退却によって、極東を支配せんとしているのだ」。東条陸相が1941年秋、近衛首相にも同じ内容を話した。
 陸軍の理論「日中戦争で30万人の死傷者が出ている。いまさら撤退できない」は軍事と相容れない感情論であり、非科学的な議論。泥沼の日中戦争という現実から目をそむけた主張だった。
 永野軍令部総長が、「戦を始めるには今しかない。今を逃せばジリ貧だ」だと述べた。現実的な目を持った人々を納得させる話ではない。日米国力比は1対20と強調した新庄リポートを岩畔陸軍大佐は参謀本部に報告した。新庄リポートだけでなく、欧州の複数の武官から報告が上がっていた。
 永野軍令部総長や東条陸相が話したことは彼らだけの特殊な見方や考え方ではない。昔も今も、一般国民が心の底のどこかに抱いている国民性だと思う。
 それでは1対20の国力差をどうしたら縮められるのか?日本が今戦争しようが、将来戦争しようが、1対20の日米の国力差を縮めるには、米国の工業地帯を攻撃し破壊しないかぎり縮まらない。中学生でも理解できる。しかし優秀な参謀本部の陸軍将校は冷厳な事実から目をそむけた。希望的な観測に終始した。
 インドネシアなど南方の資源を確保しても、米国の近代生産技術・設備を叩き潰さない限り、米国の生産力は無傷だ。東南アジアの資源確保は、がん治療に例えれば対処療法にすぎない。
 それでは日本が米本土の工業地帯中枢を爆撃し壊滅することが可能だったのか。武井大助・海軍主計中将が山本元帥の話を引用している。「日米開戦にいたらば、己(山本)が目指すところもとよりグアムやフィリピンではない。ハワイでもない。実にワシントンのホワイトハウスである。しかし(米国の首都)ワシントンまでいけない」。ワシントンまで進軍できなければ、米本土中部の工業地帯を壊滅できない。広大な米国を占領するなど夢想にすぎない。
 それでは陸軍はワシントンまで進軍できると思ったのか。対米戦を声高に叫んだ参謀本部の田中新一・作戦部長でさえ、太平洋を渡って米国を攻撃し、足下にぬかずかせることはできないと述べたばかりか、日独伊三国同盟により米国を屈服させることは不可能と断じている。それなのにどうして強硬な対米戦論者だったのか。
 「(ドイツの潜水艦攻撃などで)アメリカは対独参戦決意を公にした。日米交渉など対日政策の基本は遅延策で、太平洋での対日戦を回避する一方、ドイツを大西洋で撃破。その後、日本を各個撃破する」。田中はこう述べた。
 田中陸軍中将は陸海軍の情報将校や海外メディアなどの情報を真剣に分析せず、19世紀の帝国主義列強の頭で20世紀半ばの太平洋戦争前夜を分析した。事実に基づかない、自らの観念的な頭で世界情勢を分析した。日本の戦国時代や古代ローマ帝国時代の戦争なら、米英はドイツ撃破後、日本を襲ってきただろう。
 チャーチルは重光駐英大使に話した。1940年に何度も英国民や世界に演説した。その中で対独戦争は、「賠償金と領土を奪う戦争」でもなければ、18世紀以前の国王や貴族の戦いでもなく、英国の政治制度を守る戦いだと明言している。
 時は変化していた。歴史は流れていた。田中ら陸軍将校は周囲を観察しなかったし、「時の変化を刻む歴史」を一瞥(いちべつ)さえもしなかった。
 一方、自らの意志に逆らって開戦した山本元帥は、緒戦の勝利をもってなんとか英米と和睦に持ち込もうとし、ハワイの真珠湾に出撃した。緒戦で米国に「大勝利」した。しかし山本元帥は一日でも早く和平のテーブルに米政府を就かせようと焦って海軍中央の反対意見を押し切り、ミッドウェーに出撃して、なけなしの航空母艦4隻を失う惨敗を喫した。
 危険を冒してでもハワイ・真珠湾を奇襲する奇抜な作戦を立てた理由は「開戦劈頭(へきとう)敵主力艦隊を猛爆撃破して、米国海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその士気を沮喪(そそう)せしむること」だった。そして和平に持ち込む算段だった。
 駐米日本大使館員の不手際で、日本海軍の真珠湾攻撃後に国交断絶文書をハル国務長官に手渡した。「真珠湾のだまし討ちを忘れるな」と米国民は激怒。日本と徹底的に闘う決意を固め、和平交渉を困難にしたと言われている。ただ、たとえ宣戦布告後に奇襲したとしても、またミッドウェーで勝とうが負けようが、米英との和睦は100%なかった。
 日米開戦前のチャーチルとルーズベルトの演説を分析すれば、「ドイツを許さない。相手が倒れるか自分が倒れるかだ。ドイツの味方は英米の敵だ。勝利した翌日に裏切られた同胞が連合国の法廷に引き出さなくても、連合国が必ず引きずり出す。だから無条件降伏までやる」と言っている。
 非公式に言ったのではなく公言したのだ。世界戦争にドイツ側について参戦すれば、日本は勝利するか、無条件降伏するか二つに一つしかなかった。
  19世紀から20世紀へと時が流れ、歴史は変化していた。第1次世界大戦は史上初めての総力戦だった。銃後の別なく、将兵も民間人も内野で戦わなければならなかった。民間人が外野で観戦し、将校が内野で戦うのを見るそれまでの戦争とは違った。また、1917年のロシア社会主義革命が起こるまでは、民主主義か、全体主義かの思想戦でもなかった。
 もはや第2次世界大戦と太平洋戦争は日露戦争までの和平はなかった。リングで戦っているボクシング選手にタオルを投げ込んで試合を止めさせることはできなかった。第一世界大戦におけるドイツの無条件降伏以後、歴史は変化していた。山本元帥も、時の変化に気づかず、米英首脳の演説の意味を理解できなかったと思われる。

(写真)航空母艦から真珠湾へ出撃する海軍航空隊


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太平洋戦争からどんな教訓を得ることができるのか    71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(1)

2016年08月13日 23時12分26秒 | 時事問題と歴史
 再び終戦がめぐってくる。もっと明確にいえば、「敗戦記念日」だ。中国や米国は日本の指導者が米戦艦「ミズリー」艦上で降伏文書に調印した1945年9月2日を「対日戦勝記念日」としている。どちらが敗戦記念日なのかは大きな問題ではない。
 この71年間、はたして日本人は太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦を教訓にして、未来へと歩んでいるのだろうか。1970年代に左翼過激派がよく使った「総括」をしたのだろうか。筆者はそう思うことができない。それどころか、40歳代以下の一般的な日本人は太平洋戦争を知らないという。日米が戦ったことすら知らない。
 太平洋戦争中、撃墜王として名をはせた旧日本海軍のパイロット、故坂井三郎氏が晩年、電車で学生二人が「日本と米国が戦争したって本当か」「マジかよ」という会話を聞き、非常なショックを受けた。気持ちが悪くなり、電車が停車した駅で降りた。
 この“事件”から35年以上は経っている。ますます多くの日本人は太平洋戦争を、織田信長が明智光秀に殺された本能寺の変と同じ程度にしか思っていないのだろう。歴史の1ページにしかすぎないのだ。歴史の1ページだと考える日本人はまだましな方かもしれない。
 私が次に問題にするグループは、太平洋戦争をつまみ食いしている連中だ。太平洋戦争を「侵略戦争だ」「アジアを解放した戦争だ」と主張して、否定したり肯定したりしている。
 またミクロに大東亜戦争を捉え、①開戦初頭の真珠湾攻撃の際、南雲忠一・機動部隊司令官が第2次、第3次攻撃隊を送っていれば、その後の戦争は変わっていた②真珠湾に米国の航空母艦が一隻もいなかったのは不運であり、もし数隻でも撃沈していれば、戦争はどうなったかわからない③日本海軍が航空母艦4隻を失ったミッドウェーの海戦において、索敵が十分に行われ、情報が正確だったら、日本海軍は米海軍を撃破した④西太平洋全域まで戦線を広げていなければ、持久戦に持ち込み講和は可能だったーと希望的観測をする有識者がいる。平均的な日本人は希望的観測をし、将来が自分の思う方向へ進むことを祈るのだが、いつの間にか、それを現実だと思い込む。
 希望的観測は現在の日本人の心をくすぐるし、「太平洋戦争はアジア解放の戦争だった」と言えば、大東亜戦争の大義名分が立つ。また「太平洋戦争は満州事変から続く侵略戦争」だと言えば、筆者は「そうですね」というだけである。しかし希望的観測の99%は、あくまでも希望的観測にとどまり、現実にはならない。なぜ、希望は自分や、団体、国家の実力を過小にみるか、無視する。希望は希望でしかない。
 上に挙げた太平洋戦争の言い分はどれも「他者で見る観察眼」がない。何の反省もしていない。何らの教訓も太平洋戦争から得ていない。今日から3回にわたって、「太平洋戦争の敗戦から得た教訓」について持論を述べたい。
  まず最初に、第2次世界大戦中に英国を率いたウィンストン・チャーチル首相に登場願おう。彼の言葉の中に、太平洋戦争から得ることができる教訓がある。この教訓はこれからの日本人に役に立つと思う。
  チャーチルは著書「第二次世界大戦回顧録」の中で日本の指導者についてこう述べている。
 「戦争においても政策においても、常に自分を(帝政ドイツの宰相)ビスマルクが『他の人』と呼んだものの立場において見るようにせねばならない。一省の長官がこのことを十分にやればやるほど、正しい進路を発見する機会が多い。相手がどう考えているかについての知識を持てば持つほど、相手が何をするかを知った場合に戸惑うことが少なくなる。だが、深い十分な知識を伴わない希望的観測や想像はワナのようなものだ。日本人の心の奥底にある本当の気持ちを理解できる専門家がわれわれの側に皆無に近かった。日本人の心情はわれわれには本当に不可解で計り知れなかった」
 またチャーチルは太平洋戦争が終結する1年半前の1944年3月26日、英国民向けBBC放送を通じてこうも話している。
 「日本を支配する特権集団は、自分本位の、みじめな待ち伏せ(太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃)を実行する目的だけで、潜在的に強大な戦争遂行能力を持つ偉大な共和国(米国)を敵に回してしまった。これほど本当に愚かなことはなかった」
 チャーチルは日本人を「不可解な民族」だと述べ、日本人を理解できなかったことが日本との「不幸な戦争」に突入した原因の一つだと反省しているが、日本人は彼以上に反省しなければならない。
 太平洋戦争開戦前夜、日米の国力比は1対20(戦後の有識者は1対13と計算している)だと日本の指導者は理解していた。それを知っていたのに日米開戦を決意したのである。その理由を挙げると日本人の国民性に行き着く。
 まず最初に挙げるとすれば、太平洋戦争前夜、欧州で破竹の進撃を続けていたヒトラー・ドイツが勝つと信じ込んだことだ。そしてドイツの勝利が対米戦(太平洋戦争)を有利に運ぶことになり、米英との講和に導くとの希望的観測を抱いた。そのため、それに適合した情報は重視し、それに適合しない情報は軽視したのである。
 ●正確な情報を無視
 太平洋戦争前夜、東京の軍中央は正確な情報を色眼鏡で見ていた。日本陸海軍の情報将校は米国、英国、スェーデンから正確な情報を送っていた。正確な情報を得ていても、ナチス・ドイツに「感動」し、最初の観念から抜け出せない軍中央の軍人には届かなかった。
 ストックホルム駐在武官の小野寺信・陸軍大佐(1897~1987、最終階級は少将)は1941年1月、先任の西村敏雄・大佐(1898~1956、最終階級は少将)から事務を引き継いだ際、「ドイツ空軍は(英国本土上空の戦いで)英空軍に手痛い損害を受けている。ドイツの英本土上陸は不可能と判断する」という報告を受けた。
小野寺は日本を発つ前、大本営参謀本部から「西村さんの報告は英米側に傾いていて困るから、君には着任したら公正な判断を報告してもらいたい」と言われたという。
 小野寺大佐の夫人、百合子さん(1906~1998)は「大東亜戦争(太平洋戦争)を通じて中央とストックホルムとの間の意志の疎通を欠いた決定的悲劇の表現であった」と記している。「意志の疎通を欠いた」というより、「観察し、時の変化に柔軟に対応する軍人」と「固定観念と思い込みの軍人」が鉄路のように決して交わることがない悲劇だった。
 小野寺はポーランド人らからもたらされる信頼すべき独自情報を分析し、刻々と変わる歴史の流れを洞察した。独ソ戦開始前、ドイツはソ連に侵攻する意図を持っていると打電。ドイツは1941年6月22日、ソ連に侵攻した。
 この年ウクライナやベラルーシなどのソ連領のヨーロッパ地域では例年より雨期が早く到来した。8月末にはドイツ軍に雨が降り注ぎ、ドイツの電撃戦に欠かせない戦車がぬかるみに足をとられていた。ドイツ軍は、包囲されても最後まで戦うソ連軍に手を焼き、9月を境にしてドイツ侵攻軍の勢いが衰えていった。
 “冬将軍”のやって来るのも早かった。10月には早くも到来し、“愛する”ロシア軍に手を差し伸べ始めた。ロシアの大地に雪が降り始めた。“冬将軍”は歴史を通していつもロシア軍に味方する。
 ヒトラーは「6週間」でソ連を降伏させると豪語したことから、ドイツ兵は冬の身支度をしていなかった。これに対してソ連軍は、夏に戦った将兵を冬の装備をした将兵と交代させ、ドイツ軍と戦っていた。ドイツの苦戦はストックホルムの新聞に載ったという。
 小野寺はストックホルムの代理公使と協力して日本の陸軍参謀本部や陸軍省、外務省に「ドイツ不利」を打電し続けた。しかし参謀本部や外務省はベルリンからの情報を信じ続け、ストックホルムの情報を無視した。外交や軍事面で相手を疑わない「人の好い」日本人がそこにいた。
 「ドイツ軍の戦力が明らかに低下の兆候を示したのは1941年10月である」。小野寺大佐は「日本がドイツの片棒を担ぐと見てとり」対米戦反対とその理由を必死になって30回以上も打電した。返事は唯の一回きりで「反対の理由は如何」だった。
 小野寺と同様に英国武官の辰巳栄一少将(1895年 ― 1988年、最終階級は中将)も1940年10月下旬から11月初めにかけて、英国から見た独ソ戦の情勢判断をロンドンから参謀本部に打電した。「作戦の当初、快進撃を続けた独軍も、現在は諸種の悪条件によって戦勢振るわず。冬将軍の到来と共に益々不利となり、年内のモスクワ攻略は困難と判断す」
 辰巳武官は陸軍中央の逆鱗にふれた。「貴官が年内にモスクワ攻略を困難とする根拠を再打電せよ」との電報が来たという。親友の参謀本部第2部長、岡本清福少将からも返電があり、「ヒトラーが英本土攻略を断念しているなどとは思われぬ。君は連日の(ドイツ空軍のロンドン)猛爆にあって気が弱くなっているんじゃないか」。ドイツ空軍はその頃連日、英国の諸都市を猛爆していた。
 「私の情勢判断は何も私個人の主観ばかりではない。ロンドンの多くの優秀な各国武官がいて、お互いに意見の交換をしている。これらを総合して現地から見た判断を忠実に報告しているんです」
 辰巳の電報を「主観的だ」と問題視した陸軍参謀本部は「ドイツ軍の攻勢は一時頓挫するが、来春には大攻勢をとり、ソ連を屈服させる公算大なり」と返電してきた。演繹的なものの見方をして、思い込んだテコでも動かない日本人がそこにいた。
 辰巳少将の参謀本部への報告に先立つ4カ月前、独ソ開戦が始まると、「米武官のレイモンド・リー少将は『おい辰巳君これで欧州戦の山が見えてきた。ドイツは負けだ』と言ったのを今(1983年)もはっきり印象に残っています」と辰巳は述懐した。
 辰巳によれば、日本軍の南部仏印進駐後、英国の対日態度は「決定的に悪く」なり、「英米首脳の大西洋会談(1941年8月)出席後、帰英したリー少将は『日本は本気でやる気か』と尋ねてきた」という。リー少将は、無謀な日本の行動が信じ難かったと思われる。
 辰巳とは別に、日米の戦力比を詳しく試算した人物がいた。その人物は1941年3月に杉山元・参謀総長から対米諜報命令を受け、横浜港から日本郵船の客船「龍田丸」に乗船して米国に向かった。その人物は新庄健吉・陸軍主計大佐だ。
 陸軍の経理部門に所属していた新庄の任務は米国の国力・戦力を調査し、日米開戦の場合に日本の勝算を検討することだった。
ニューヨークに到着後、三井物産嘱託社員になりすましてニューヨーク支店に机を置き、三井物産、三菱商事、日本銀行、三井銀行、日本の新聞社、同盟通信社の各支社などの情報網を使って活動を行なった。当時日本の出先機関はアメリカに関する豊富な情報と情報網を持っていた。
 新庄はスパイ活動をしなくても、米政府が公表する軍事、産業、工業生産などの各種指標が載っている政府刊行物やニューヨーク・タイムズ紙などの新聞・雑誌から米国の総合国力を算出できた。当時日本にほとんどなかったIBM社製の統計機も使用した。 
 主計大佐は自分の命と引きかえに3ヵ月で結論を出した。過労から急性肺炎を併発し、日米開戦の4日前の1941年12月4日に44歳で永眠した。
 亡くなる一カ月前の11月5日、ニューヨークでの任務を終え、武官府詰めとしてワシントンに旅立つ前、物産のニューヨーク支店社員全員を日本クラブに招待し、「日米の国力差は1対20で、開戦すれば日本は必ず負ける」といきなり話し始めた。「思わず、出席者全員が凍りついてしまった」という。(67)
パーティーを終え、親しい仲間との二次会での席上、新庄は何度も「数字は嘘をつかないが、嘘が数字をつくる」言った。

 「新庄リポート」の日米国力比較

 主要項目       米国         日米の比率
 鉄鋼生産量     9500万トン      1対24
 石油精製量    1億1000万バレル    1対無限
 石炭産出量      5億トン        1対12
 電力        1800万キロ・ワット  1対4.5
 アルミ生産量    85万トン        1対8
 航空機生産機数  12万機          1対8
 自動車生産台数  620万台         1対50
 船舶保有量    1000万トン       1対1.5
 工場労働者数   3400万人        1対5
                        

 新庄は7月下旬、報告書を書き上げた。新庄は訪米時、「龍田丸」に乗り合わせた情報戦の第一人者、岩畔豪雄(いわぐろ・ひでお)・陸軍大佐(1897-1970、最終階級は少将)に報告するため、直ちに列車に飛び乗りワシントンに直行。帰国が間近に迫っていた岩畔に報告書を提出した。一晩かけていっきに読んだ岩畔は新庄の労をねぎらい、帰国後必ず政府や大本営に見せ、日米戦の愚かさを説くと力説したという。
 米国から帰国後、岩畔は当時首相の近衛を皮切りに、陸軍省、参謀本部、海軍軍令部などの国家運営の中枢部に足を運んで軍の指導者、作戦立案者に新庄リポートを報告した。
 対米戦の準備をしていた陸海軍の作戦立案者は感謝するどころか士気に影響が出ると言って、日米開戦に不利な情報を拒んだ。1941年8月20日付「大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌」に「(岩畔リポートに対して)海軍若手大イニ憤慨セルガ如ク 小野田中佐ヨリ甚ダ困ル旨電話アリ。右同班も全然(断然)同意ナリ」と書き込まれている。
 岩畔が、「思い込んでいる」仲間にいくら説いても無駄だった。思想や新興宗教におぼれている人々を諭すのが難しいのと同じだった。東条陸相に8月24日に呼ばれ、仏印進駐軍の近衛連隊長に命じられた。その後、二度と軍の中央に戻れなかった。
 親独反米の陸海軍指導者は客観的な事実かどうかも確かめもせず、軍事が科学であることをも無視し、自らの固定観念に沿って忠実に前に向かって進んでいた。この日本人特有の固定観念にはまったものの見方は「感動」により強化されていった。1970年代の学生が中国の毛沢東と朝鮮民主主義人民共和国の金日成に感動したように、かなりの数の陸海軍軍人はナチスとヒトラーに感動していた。
 新庄リポートは日米の国力比を1対20と試算した。この試算から「戦争の全期間を通じて、米国の損害を100パーセントとし、日本の側の損害は常に5パーセント以内に留めなければ」戦争にならない。日米戦が起こった場合、現実に起こりえない数字だった。高校生でも理解できる現実だった。
 「信じ込んだらテコでも動かない」態度は、当時の軍人だけでなく、一般の日本人が抱えている資質だ。20年ぶりに会った人を、20年前の人間だと考える傾向が日本人にはある。毎日会っていても、最初に会った時の印象や行動を何年経っても引きずっている日本人も多い。それは日本人が「時」を計算に入れていない証拠でもある。
 別の言い方をすれば、正直な日本人の国民性かもしれない。「最初から人を疑ってはいけません」。母親は子どもに教える。最初から懐疑の目でものごとをみる人々を一般的な日本人は嫌う傾向がある。懐疑の目で相手を分析しない日本人の特質なのだろう。

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