柴山文部科学相は10月2日夜の就任記者会見で、教育勅語(勅語)について「現代風解釈やアレンジした形で、道徳などに使うことができる分野は十分にある」と述べた。しかしリベラルな新聞や野党から批判がわきおこった。
リベラルな新聞の代表格と言える朝日新聞は10月5日付社説でこう述べた。「教育行政をつかさどる閣僚の見識を疑う。安倍政権下ではこれまでも、首相に近い政治家が勅語を擁護する発言を繰り返してきた『至極真っ当。今でも十分通用する』と述べた下村博文元文科相しかり、『道義国家をめざす精神は取り戻すべきだ』と唱えた稲田朋美元防衛相しかり。そして今度は、自民党の総裁特別補佐や首相補佐官を務めてきた柴山氏である」
太平洋戦争敗戦後の時代に生きるわれわれは教育勅語が軍国主義を育て、悲惨な戦争に国民を巻き込んだ精神的な支柱だと思っている。それは天皇神聖化の国体を国民にたたき込む教育の基本だと考えている。確かに、民主主義社会と矛盾する考えが教育勅語には明らかにある。
勅語は1930年初頭からの日本の軍国教育に大きな影響を与えた。軍人が彼らの倫理や政策に沿って、それを解釈したことも事実だ。しかし、柴山さんや与野党の政治家、右派、左派、リベラル派のどれくらいの政治家が教育勅語をめぐる経緯や、それを起草した明治時代の司法官僚で、山県有朋内閣の法制局長官(現在の法務大臣)の井上毅の思想を知っているかとなると、はなはだ疑問だ。彼らの主張を聞いていると、あまり知っていないと思わざるを得ない。
安倍晋三首相に代表されるように、現在の風潮である「結果がすべて」という非民主主義的な考え方、「過去に無頓着」な日本人の国民性、そして「感性的で情緒的」な性格とが相まって、戦後の教育勅語を「悪」と決めつけてきた。その考えが教育勅語の正しい理解を妨げている。私はこの手の問題を「軍国主義を体現する」「現代にも通ずるものの考え方もある」で論じては、教育勅語に対してまっとうな理解もできないし、客観的な理解もできないと思う。勅語は白黒では判断できない。
歴史を学ぶとき、それをイメージや追憶で理解してはいけない。過去を資料で理解しなければ、現在にそれを生かせない。過去の”悪”を批判ばかりして、その”悪”から何も学ばず、未来へそれを生かさないほど愚かなことはないと思う。
歴史は変化する。100年前の人びとの常識は、今日の常識ではないかもしれない。たとえば、50年前には同性愛は異端の愛だったが、現在は世の中から少しずつ認められてきている。150年前には長男が家を継ぎ、家を守ることが絶対だったが、現在はそうでもない。
1867年の王政復古で政権交代を果たした明治政府の目標は欧米列強を模範とした国作りだった。そのためには、徳川幕府が幕末に欧米列強と結んだ不平等条約を呑まざるを得なかった。そうしなければ日本の独立は困難だった。
明治政府は高等教育に欧米の教科書を使用した。欧米の思想はいわゆる功利主義と合理主義であり、当時の人びとは欧米の教育と学問の目的を金儲けや立身出世を目指すものだと皮相的に理解した。欧米流の功利主義による教育は日本本来の道徳や“もののあわれ”の美徳を軽んずる風潮を生み、心ある人々から反発が出た。また、明治天皇ご自身もこの欧米流の教育思想に疑問を持ったという。こうして、1880年代には、道徳教育のあり方についての改善を求める声が沸き起こった。
これに呼応して、明治時代の秀才中の秀才の井上毅が儒学者の元田 永孚(もとだ ながざね)とともに教育勅語を起草した。フランスに留学経験がある井上は、国家神道的な教典とすることを重視した元田と教育勅語の内容をめぐって対立したが、元田を説得して自らの考えを貫いた。教育勅語には井上の民族主義的な思想が色濃く反映されている。
もちろん彼は明治天皇を敬い、長い間続いている日本の風習や伝統を尊重した。現在の窓から見れば、彼は保守であり、もしかしたら、現代の人々は彼を右派だと烙印を押すかもしれない。しかし、当時、彼は進歩的な人物だった。フランスに留学し、西洋文明を理解していた。
彼は国民に天皇を崇拝させ、神聖化するために勅語を起草したのではない。教育勅語を政治的に利用してはいけないと思い、その内容に苦心惨憺した。西洋文明の精神と、儒教に基づく日本人の考えに折り合いをつけ、国民道徳の規範にしようとした。19世紀の弱肉強食の時代に、欧米列強から日本を守るために民族主義の発露として勅語を記した。日本の近代化政策を推し進めるために勅語を記した。
井上は1844(天保14)年、熊本藩士の家に生まれた。藩校・時習館では秀才の誉れが高かった。当時の学問の中心であった「漢学」に疑問を抱き、江戸に出てフランス学を学んだ。維新後に司法省の官僚となり、法制の専門家としての道を歩み始めた。やがて大久保利通や岩倉具視に重用され、フランスに留学して司法行政を勉学。帰国後は伊藤博文のブレーンとして軍人勅諭や大日本帝国憲法の起草に参加するなど、日本の司法制度の近代化に貢献した。
彼が勅語の起草で目指したのは、その時代まで長く続いていた平均的な日本人の価値観を重視し、それを勅語に反映させることだった。その価値観とは、助け合いや謙譲などの精神だった。それは「法治国家・立憲主義の原則の下で保障された人々の権利」だと考え、「国家といえども干渉できない」というも思いを抱いた。この法治主義の考えの下で、井上が示した教育勅語は〈1〉政治的な主張を含まず、政治に利用させないこと〈2〉天皇が国民に直接所信表明して自らの考えを示すことーだった。つまり、教育勅語は公的制度ではないし、明治天皇が「そうせよ」と命令したものではない。
井上はこの原則を踏まえ、「歴代の天皇とこれまでの臣民」がひとつになって、祖先が築いてきた道徳を長い間守ってきたことを強調。教育勅語で「天皇と臣民」が一体となってこれからも道徳項目の実現に邁進すべきことを求めている。つまるところ、長い間に培われた日本人の道徳観をこれからも「天皇と臣民」が一体となって守り育っていってほしいと願った。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、世界の人びとは東北地方の人々の礼儀正しさ、謙虚さ、助け合いの精神を称えた。そして何より他人の不幸に乗じた略奪が皆無だった。今般のインドネシアの大地震に伴う略奪報道を聞くにつけ、日本人の美徳は称えられるべきだ。この美徳が昨日、作り上げられたものではない。千年以上にわたって日本人の心に育まれ、井上毅がそれを踏まえて教育勅語に銘記した。
ただ落とし穴があった。それは教育勅語が天皇の見解に深く結びついていたからだ。教育勅語が発表された1890年頃から御真影(ごしんえい=天皇の肖像)が小学校に配布されるようになった。しかし教育勅語や御真影の扱い方は各小学校の自由意志だった。1910年代になって初めて御真影の下賜が始まり、政府や官僚が教育勅語を利用して国民に「道徳とはこうあるべきだ」との指導が開始された。その時期に教育勅語と御真影を保管する奉安殿が各学校に建築され、教育勅語が神聖化されていった。
1930年代に、軍部が政治権力を掌握するにつれ、教育勅語は起草者の井上の思いとは違って政治利用されていった。御真影の下賜と同じ頃に、勅語と御真影を保管する奉安殿が全国各地の教育機関で建築され、それにまつられた教育勅語と御真影を、小学生は毎朝、朝礼で拝礼した。倫理・道徳の絶対的な尺度に祭り上げられた。井上が最も嫌い、避けようとした宗教色さえ帯び始めた。
起草当時としての常識的な井上毅の思想は時代の流れととともに変質していった。何よりも彼は欧州列強の侵略から日本を守るため、教育勅語を民族主義のバックボーンにしようとした。1895年に亡くなった井上が、もし1930年代まで生きていれば、勅語を政治に利用した昭和の軍人を糾弾しただろう。
明治時代(現在から過去)に立ち返って、当時の社会通念や考えを理解して井上の思想を考えれば、民族主義にも一定の評価はできると思う。歴史は現在から過去を理解すると同時に、当時(過去)に立ち返って当時の人びとの考え方を理解することである。なぜかと言えば、現在と過去の価値観や社会通念、常識は必ずしも同じではない。もちろん、「他人を思いやる」などの価値観は先祖から連綿として受け継がれてきたが、そうでないものも多くある。
たとえば半世紀前、電車の中で女性が化粧をしていようものなら、「夜の女」と差別と偏見でみられた。現在、多くの女性が電車で化粧をしているのを見かける。そして何とも思わない人びとが多数を占めるようになった。また「夜の女」という偏見を持つ人びとはほとんどいないと思う。
教育勅語も起草当時の趣旨が昭和の初期に変化した。というより、軍人跋扈(ばっこ)の昭和前期に、民族主義が変質し、国家主義のバックボーンとなった教育勅語が天皇神聖化に利用されるようになったと言い換えるべきかもしれない。
51歳で1895(明治28年)にこの世を去った井上も昭和の軍人が教育勅語の欠陥を上手く利用して国民教育の一元化と政治利用に使うとは決して考えていなかっただろう。
この井上の「教育勅語」が昭和の軍部指導体制の中でいかに変質し、戦争遂行にいかに利用されたかを調べる必要がある。教育勅語のどの部分が軍部指導者に利用されたか、そして井上の起草動機をも調べる。受け継ぐべきものは受け継ぎ、時代にそぐわないものは捨てる。それは教育勅語をイメージで話す前に必要だ。
軍国主義時代に利用された教育勅語を観念的でしか理解しない左派の人びとや、旭日旗をブログに出して愛国保守を標榜する人たちのネット上の言説は、情感に満ちあふれ、客観性を欠いており、資料に基づいて書いておらず、良識的だとは思えないものが珍しくない。チャンネル桜やチャンネルくららの視聴者は、政治に関心が強い右派的な人が多いと思われるが、コメント欄を見ると、資料や歴史の事実を踏まえず、感情的で、良識的だとは思えないものが珍しくない。
過去の資料や経緯を研究・理解して初めてひとつの物事の長短や欠陥、歴史の変化にともなう事実を知ることができる。そうすることで初めてそれを改善・改革することができる。現実主義に基づいて物事を判断しなければ、できるだけ客観的な評価はできないし、それを未来に生かせない。英国人から「保守主義とは何か」を英国で半世紀前に学んだ保守主義者の私はそう思う。
右派や左派が抱く情感や観念、感情による変革は危険である。資料や現実に基づく改革は危険の度が減る。それは教育勅語を観察し理解するために不可欠である。憲法もそうだ。安倍首相の憲法改正論は「第2次世界大戦(太平洋戦争)の敗北で日本を占領した連合軍総司令官のマッカーサー元帥に押しつけられた」などと情感で発言する。情感や情緒で物事を判断すれば、その意図がたとえ時代にかなっていたとしても結果は大きく食い違う公算が大であり、改正者が考えてもみなかった悲惨な結果に終わる可能性が高い。革命の理想と、その悲惨な結果に見られるように、それは歴史がわれわれに教えているところだ。
ちょっと聞きかじった程度で、教育勅語が素晴らしいとか、悪いとか言うこと自体、井上毅への侮蔑である。天国で彼はこう言っているだろう。「私が明治時代に起草した勅語が現代に当てはまるとは思わない。しかし、私の起草精神をくみ取り、現代にあった形に作り替えてほしい」
明治維新から1890年前後まで、明治の人びとは江戸期の価値観念が崩れて、どうしてよいかわからなかった。そして教育勅語の助けを得て、ひとつの価値観を築いた。戦後から今日まで、われわれはその時代の人びとと同じ境遇にある。われわれは自ら思考して現代にあった価値観念を構築していかなければならない。
私は教育勅語の価値観が現代に合っているとは思わない。しかし、それを白黒と決めつけず、そこからヒントを求め、「助け合い」など何百年にもわたる過去の人びとの価値観を引き継ぎ、21世紀の日本人の価値観を築き上げてはどうだろうかと提言する。
そうしてこそ21世紀を生き抜く力になる。たぶん22世紀の人びとは、これから起こる歴史の変化を踏まえ、今日の我々が築く価値観や井上が起草した教育勅語を学びながら新しい価値観を創造するだろう。
写真は井上毅
リベラルな新聞の代表格と言える朝日新聞は10月5日付社説でこう述べた。「教育行政をつかさどる閣僚の見識を疑う。安倍政権下ではこれまでも、首相に近い政治家が勅語を擁護する発言を繰り返してきた『至極真っ当。今でも十分通用する』と述べた下村博文元文科相しかり、『道義国家をめざす精神は取り戻すべきだ』と唱えた稲田朋美元防衛相しかり。そして今度は、自民党の総裁特別補佐や首相補佐官を務めてきた柴山氏である」
太平洋戦争敗戦後の時代に生きるわれわれは教育勅語が軍国主義を育て、悲惨な戦争に国民を巻き込んだ精神的な支柱だと思っている。それは天皇神聖化の国体を国民にたたき込む教育の基本だと考えている。確かに、民主主義社会と矛盾する考えが教育勅語には明らかにある。
勅語は1930年初頭からの日本の軍国教育に大きな影響を与えた。軍人が彼らの倫理や政策に沿って、それを解釈したことも事実だ。しかし、柴山さんや与野党の政治家、右派、左派、リベラル派のどれくらいの政治家が教育勅語をめぐる経緯や、それを起草した明治時代の司法官僚で、山県有朋内閣の法制局長官(現在の法務大臣)の井上毅の思想を知っているかとなると、はなはだ疑問だ。彼らの主張を聞いていると、あまり知っていないと思わざるを得ない。
安倍晋三首相に代表されるように、現在の風潮である「結果がすべて」という非民主主義的な考え方、「過去に無頓着」な日本人の国民性、そして「感性的で情緒的」な性格とが相まって、戦後の教育勅語を「悪」と決めつけてきた。その考えが教育勅語の正しい理解を妨げている。私はこの手の問題を「軍国主義を体現する」「現代にも通ずるものの考え方もある」で論じては、教育勅語に対してまっとうな理解もできないし、客観的な理解もできないと思う。勅語は白黒では判断できない。
歴史を学ぶとき、それをイメージや追憶で理解してはいけない。過去を資料で理解しなければ、現在にそれを生かせない。過去の”悪”を批判ばかりして、その”悪”から何も学ばず、未来へそれを生かさないほど愚かなことはないと思う。
歴史は変化する。100年前の人びとの常識は、今日の常識ではないかもしれない。たとえば、50年前には同性愛は異端の愛だったが、現在は世の中から少しずつ認められてきている。150年前には長男が家を継ぎ、家を守ることが絶対だったが、現在はそうでもない。
1867年の王政復古で政権交代を果たした明治政府の目標は欧米列強を模範とした国作りだった。そのためには、徳川幕府が幕末に欧米列強と結んだ不平等条約を呑まざるを得なかった。そうしなければ日本の独立は困難だった。
明治政府は高等教育に欧米の教科書を使用した。欧米の思想はいわゆる功利主義と合理主義であり、当時の人びとは欧米の教育と学問の目的を金儲けや立身出世を目指すものだと皮相的に理解した。欧米流の功利主義による教育は日本本来の道徳や“もののあわれ”の美徳を軽んずる風潮を生み、心ある人々から反発が出た。また、明治天皇ご自身もこの欧米流の教育思想に疑問を持ったという。こうして、1880年代には、道徳教育のあり方についての改善を求める声が沸き起こった。
これに呼応して、明治時代の秀才中の秀才の井上毅が儒学者の元田 永孚(もとだ ながざね)とともに教育勅語を起草した。フランスに留学経験がある井上は、国家神道的な教典とすることを重視した元田と教育勅語の内容をめぐって対立したが、元田を説得して自らの考えを貫いた。教育勅語には井上の民族主義的な思想が色濃く反映されている。
もちろん彼は明治天皇を敬い、長い間続いている日本の風習や伝統を尊重した。現在の窓から見れば、彼は保守であり、もしかしたら、現代の人々は彼を右派だと烙印を押すかもしれない。しかし、当時、彼は進歩的な人物だった。フランスに留学し、西洋文明を理解していた。
彼は国民に天皇を崇拝させ、神聖化するために勅語を起草したのではない。教育勅語を政治的に利用してはいけないと思い、その内容に苦心惨憺した。西洋文明の精神と、儒教に基づく日本人の考えに折り合いをつけ、国民道徳の規範にしようとした。19世紀の弱肉強食の時代に、欧米列強から日本を守るために民族主義の発露として勅語を記した。日本の近代化政策を推し進めるために勅語を記した。
井上は1844(天保14)年、熊本藩士の家に生まれた。藩校・時習館では秀才の誉れが高かった。当時の学問の中心であった「漢学」に疑問を抱き、江戸に出てフランス学を学んだ。維新後に司法省の官僚となり、法制の専門家としての道を歩み始めた。やがて大久保利通や岩倉具視に重用され、フランスに留学して司法行政を勉学。帰国後は伊藤博文のブレーンとして軍人勅諭や大日本帝国憲法の起草に参加するなど、日本の司法制度の近代化に貢献した。
彼が勅語の起草で目指したのは、その時代まで長く続いていた平均的な日本人の価値観を重視し、それを勅語に反映させることだった。その価値観とは、助け合いや謙譲などの精神だった。それは「法治国家・立憲主義の原則の下で保障された人々の権利」だと考え、「国家といえども干渉できない」というも思いを抱いた。この法治主義の考えの下で、井上が示した教育勅語は〈1〉政治的な主張を含まず、政治に利用させないこと〈2〉天皇が国民に直接所信表明して自らの考えを示すことーだった。つまり、教育勅語は公的制度ではないし、明治天皇が「そうせよ」と命令したものではない。
井上はこの原則を踏まえ、「歴代の天皇とこれまでの臣民」がひとつになって、祖先が築いてきた道徳を長い間守ってきたことを強調。教育勅語で「天皇と臣民」が一体となってこれからも道徳項目の実現に邁進すべきことを求めている。つまるところ、長い間に培われた日本人の道徳観をこれからも「天皇と臣民」が一体となって守り育っていってほしいと願った。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、世界の人びとは東北地方の人々の礼儀正しさ、謙虚さ、助け合いの精神を称えた。そして何より他人の不幸に乗じた略奪が皆無だった。今般のインドネシアの大地震に伴う略奪報道を聞くにつけ、日本人の美徳は称えられるべきだ。この美徳が昨日、作り上げられたものではない。千年以上にわたって日本人の心に育まれ、井上毅がそれを踏まえて教育勅語に銘記した。
ただ落とし穴があった。それは教育勅語が天皇の見解に深く結びついていたからだ。教育勅語が発表された1890年頃から御真影(ごしんえい=天皇の肖像)が小学校に配布されるようになった。しかし教育勅語や御真影の扱い方は各小学校の自由意志だった。1910年代になって初めて御真影の下賜が始まり、政府や官僚が教育勅語を利用して国民に「道徳とはこうあるべきだ」との指導が開始された。その時期に教育勅語と御真影を保管する奉安殿が各学校に建築され、教育勅語が神聖化されていった。
1930年代に、軍部が政治権力を掌握するにつれ、教育勅語は起草者の井上の思いとは違って政治利用されていった。御真影の下賜と同じ頃に、勅語と御真影を保管する奉安殿が全国各地の教育機関で建築され、それにまつられた教育勅語と御真影を、小学生は毎朝、朝礼で拝礼した。倫理・道徳の絶対的な尺度に祭り上げられた。井上が最も嫌い、避けようとした宗教色さえ帯び始めた。
起草当時としての常識的な井上毅の思想は時代の流れととともに変質していった。何よりも彼は欧州列強の侵略から日本を守るため、教育勅語を民族主義のバックボーンにしようとした。1895年に亡くなった井上が、もし1930年代まで生きていれば、勅語を政治に利用した昭和の軍人を糾弾しただろう。
明治時代(現在から過去)に立ち返って、当時の社会通念や考えを理解して井上の思想を考えれば、民族主義にも一定の評価はできると思う。歴史は現在から過去を理解すると同時に、当時(過去)に立ち返って当時の人びとの考え方を理解することである。なぜかと言えば、現在と過去の価値観や社会通念、常識は必ずしも同じではない。もちろん、「他人を思いやる」などの価値観は先祖から連綿として受け継がれてきたが、そうでないものも多くある。
たとえば半世紀前、電車の中で女性が化粧をしていようものなら、「夜の女」と差別と偏見でみられた。現在、多くの女性が電車で化粧をしているのを見かける。そして何とも思わない人びとが多数を占めるようになった。また「夜の女」という偏見を持つ人びとはほとんどいないと思う。
教育勅語も起草当時の趣旨が昭和の初期に変化した。というより、軍人跋扈(ばっこ)の昭和前期に、民族主義が変質し、国家主義のバックボーンとなった教育勅語が天皇神聖化に利用されるようになったと言い換えるべきかもしれない。
51歳で1895(明治28年)にこの世を去った井上も昭和の軍人が教育勅語の欠陥を上手く利用して国民教育の一元化と政治利用に使うとは決して考えていなかっただろう。
この井上の「教育勅語」が昭和の軍部指導体制の中でいかに変質し、戦争遂行にいかに利用されたかを調べる必要がある。教育勅語のどの部分が軍部指導者に利用されたか、そして井上の起草動機をも調べる。受け継ぐべきものは受け継ぎ、時代にそぐわないものは捨てる。それは教育勅語をイメージで話す前に必要だ。
軍国主義時代に利用された教育勅語を観念的でしか理解しない左派の人びとや、旭日旗をブログに出して愛国保守を標榜する人たちのネット上の言説は、情感に満ちあふれ、客観性を欠いており、資料に基づいて書いておらず、良識的だとは思えないものが珍しくない。チャンネル桜やチャンネルくららの視聴者は、政治に関心が強い右派的な人が多いと思われるが、コメント欄を見ると、資料や歴史の事実を踏まえず、感情的で、良識的だとは思えないものが珍しくない。
過去の資料や経緯を研究・理解して初めてひとつの物事の長短や欠陥、歴史の変化にともなう事実を知ることができる。そうすることで初めてそれを改善・改革することができる。現実主義に基づいて物事を判断しなければ、できるだけ客観的な評価はできないし、それを未来に生かせない。英国人から「保守主義とは何か」を英国で半世紀前に学んだ保守主義者の私はそう思う。
右派や左派が抱く情感や観念、感情による変革は危険である。資料や現実に基づく改革は危険の度が減る。それは教育勅語を観察し理解するために不可欠である。憲法もそうだ。安倍首相の憲法改正論は「第2次世界大戦(太平洋戦争)の敗北で日本を占領した連合軍総司令官のマッカーサー元帥に押しつけられた」などと情感で発言する。情感や情緒で物事を判断すれば、その意図がたとえ時代にかなっていたとしても結果は大きく食い違う公算が大であり、改正者が考えてもみなかった悲惨な結果に終わる可能性が高い。革命の理想と、その悲惨な結果に見られるように、それは歴史がわれわれに教えているところだ。
ちょっと聞きかじった程度で、教育勅語が素晴らしいとか、悪いとか言うこと自体、井上毅への侮蔑である。天国で彼はこう言っているだろう。「私が明治時代に起草した勅語が現代に当てはまるとは思わない。しかし、私の起草精神をくみ取り、現代にあった形に作り替えてほしい」
明治維新から1890年前後まで、明治の人びとは江戸期の価値観念が崩れて、どうしてよいかわからなかった。そして教育勅語の助けを得て、ひとつの価値観を築いた。戦後から今日まで、われわれはその時代の人びとと同じ境遇にある。われわれは自ら思考して現代にあった価値観念を構築していかなければならない。
私は教育勅語の価値観が現代に合っているとは思わない。しかし、それを白黒と決めつけず、そこからヒントを求め、「助け合い」など何百年にもわたる過去の人びとの価値観を引き継ぎ、21世紀の日本人の価値観を築き上げてはどうだろうかと提言する。
そうしてこそ21世紀を生き抜く力になる。たぶん22世紀の人びとは、これから起こる歴史の変化を踏まえ、今日の我々が築く価値観や井上が起草した教育勅語を学びながら新しい価値観を創造するだろう。
写真は井上毅