英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

日ロ首脳は2島返還を見据えて両国関係を築け   北方領土をめぐる安倍・プーチン会談を聞いて

2019年01月23日 09時30分24秒 | 東アジアと日本
 安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領は1月22日、モスクワのクレムリン宮殿で会談し、北方領土や経済協力問題で話し合ったが、各紙の紙面には、領土問題について「進展せず」との見出しが踊っていた。
 新年早々の私のブログ「北方2島は返還されるのか 4島は無理?」で、私は安倍首相を批判した。私は安倍首相が真意を隠し、交渉しているからにほかならないからだ。20世紀の英国の大宰相ウィンストン・チャーチルと異なるところは、首相に弁舌力と説得力がないことだ。何よりも、どんな政治的な苦境に陥ろうが誠実で正直でないところだ。しかし日ロ交渉やTPP問題での安倍首相の現実を踏まえた交渉姿勢は評価し好感を抱く。
 安倍政権は国民に4島返還の基本姿勢は変わらないと公言しているが、1956年の日ソ共同宣言に基づいて歯舞諸島と色丹島の2島先行返還論を唱えている。日ロ平和条約を締結後にロシアが2島を返還し、信頼関係を醸成後、残りの国後、択捉両島の返還を求める。しかし本音では、プーチン大統領との20回以上の首脳会談を通して、4島返還は非現実的だと感じているにちがいない。
 もし安倍首相が本音を漏らせば、対ロ外交交渉に支障をきたすだけでなく、彼の政治基盤である「右派(保守派)」からの支持を失うことになるだろう。首相は国民の支持率低下を気にしているのかもしれない。
 右派言論界を代表する産経新聞は今年1月16日の正論で、「共同宣言に基づく『2島返還』戦術の破綻は鮮明だ。北方四島の返還を要求するという原則に立ち返り、根本的に対露方針を立て直すべきである」と威勢の良い進軍ラッパを鳴らした。
 産経新聞の正論は主張する。「択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島は日本固有の領土であり、ロシアに不法占拠されている。この唯一の真実を無視した暴言は到底、容認できない。旧ソ連は45年8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を破って対日参戦した。8月28日から9月5日にかけて、火事場泥棒のように占拠したのが北方四島である」。
 この主張は100%正しい。旧ソ連(ロシア)は国際法に違反していた。また日本の国民性からして、降参した国民をさらに足蹴にするのは許せないだろう。
 これに対して、1月14日に開かれた河野太郎外相との会談後、ロシアのラブロフ外相は、北方領土は「第二次大戦の結果としてロシア領になった」と主張、北方領土に対する「ロシアの主権」を認めねば交渉は前進しないと述べ、「北方領土」という用語を「受け入れられない」とも言い放った。
 ラブロフ外相の主張の根拠になったのが1945年2月に開催された米英ソのヤルタ首脳会談で交わされた秘密条項だ。それは、ドイツ降伏後の旧ソ連の対日参戦と千島列島の獲得を記す。しかし、正論は「同協定が領土問題の最終的処理を決めたものでないのは当然である。日本が当事国でもないこの密約に縛られる理由は全くない」と強調する。
 産経の主張は一見、正当のように見える。ただ見落としていることがある。このヤルタ会談の当事国である米英と日本は戦争中だった。米英側にたってソ連はドイツと血みどろの戦いをしていた。いかに法律論として正しくとも、現実的にソ連がドイツ降伏後にどう出てくるかは推察できた。
 事実、当時の日本政府は躍起になってソ連を仲介にして米英との和平交渉を模索したが、ソ連の態度は曖昧だった。それ以上に日ソ中立条約の改定には消極的で、何らの反応もなかった。一部の政治家、軍人をのぞいて、日本政府はソ連の真意を一連の流れの中で推察できなかった。
 世界は、現在でさえ「力」が横行している。特にロシア人は「力」を重視する。ロシア史はそれを明らかにしている。ラブロフ外相の発言はそれを物語っており、現実主義の立場からすれば、不当だとは言い切れない。
 ラブロフ外相はこう言いたいのかも知れない。日露戦争で日本が力で南樺太(南サハリン)を奪ったのを帝政ロシアがポーツマス条約で認めたように、ロシアは第2次世界大戦で力で、経緯がどうであれ、4島を含む千島列島を奪ったことを認めるべきだ、と。
 日本の代表的な通信社「共同通信社」は「ロシアのプーチン大統領は・・・歯舞、色丹2島の日本への引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言に基づき平和条約締結交渉を行い、条約を締結する意欲を日ロ間で確認したと表明した。日本への2島引き渡しの用意を示唆したものとみられる」と配信している。
 プーチン大統領これまで「共同宣言が2島の日本への返還を記しているが、主権がどちら側にあるかについては何も記していない」「2島返還後、2島に米軍基地が置かれる心配がある。ロシアの安全保障上問題がある」と交渉カードを切って、少しでもロシアに有利な形で「北方領土」問題を決着しようと計っているのは事実だが、2島の日本への返還を視野に入れている節もある。
 それは単なるや法律論や条約論からではなく、30~40年後の東アジアの地図を見据えてのことだろう。もし安倍首相も将来の極東における国際関係を見据えて2島返還論を唱えているのなら、「素晴らしい」政治家だということになる。
 プーチン大統領は将来の中国がどうなるかを真剣に考えていると思う。現在、米国と対立しながらも全面対立を避けている中国が20~30年後、米国と競う国力をつければ、アジアの盟主になる行動に打って出るだろう。、その時、中国と地続きのロシア・シベリアが今のままでは中国の直接、間接的な影響や間接支配を受ける可能性が高い。今のうちに、日本の経済支援を得て、脆弱で不毛のシベリアを開発し、将来の中国の脅威に備えると考えても不思議ではない。
 現在、クリミア併合問題をめぐってロシアは中国に接近し、米国と敵対しているが、未来永劫、この図式が固定することはない。それを一番理解しているのは、国境が地続きの大陸国で生まれたプーチン大統領だろう。19世紀の大英帝国の宰相パーマストン子爵(ヘンリー・ジョン・テンプル)は「国家には永遠の友も永遠の同盟国もない。あるのは永遠の国益だけだ」と述べ、この名言は時代を越えて語り継がれる普遍の真理となっている。
 日本はどうか?文在寅韓国大統領の就任以来、日米韓の同盟は以前以上に大きく揺るぎ始めている。韓国人の日中に対する歴史的な見方や姿勢からすれば、文大統領が退場したからといって、一時的な友好の揺り戻しがあっても、基本的な姿勢は変わらないと踏む。
 いずれ、韓国と北朝鮮は中国圏に入るだろう。中ロ関係は帝政ロシアの時代から安定と不安定を繰り返してきた。日本にとってもロシアは信頼できる友ではなかった。しかし真の友でなくても利害の友となり得る。プーチン大統領もそう感じているだろう。
 プーチン大統領は独裁的、強権的首長だ。しかし北方4島の帰属問題にここまで真剣に考えている政治家はプーチン以外にロシアに今までいなかったと思う。
 時は変化する。今や歯舞諸島を除く3島にはロシア人が住んでいる。これからますます多くなるだろう。そしてかつて4島に住んでいた日本人は間もなく死に絶えるだろう。この現実をこのまま放っておけば、4島全島がロシア領になることは必定だ。またロシアにプーチン後にプーチンが現れるとは考えにくい。
 70%以上のロシア国民は国後など4島の返還に反対している。そのかがり火は日々勢いを増す。一方、日本人の多くは4島が返還されるのは当然だと考える。
 日本の右派は原則に生き、理論に行き、信条に生きる。時が、歴史が変化しても一寸だに彼らの考えや姿勢を変えずすべてを失う。英国人の保守派は現実に生きる。理想を抱きながらも現実に生きる。遠い未来を見据えながら妥協する必要があれば実質的な利益を得るため、そうする。
 英国の偉大な保守政治家チャーチルはこう言う。「現実が諸君を見ているのだから、諸君も現実を見なければならない」「過去を遡れば遡るほど遠い未来まで見通すことができる」。英国の保守派はいつも言う。「時は変化する。時に逆行すれば滅び、時に逆らわずに、その波にうまく乗れば生き残ることができる(難局を乗り越えることができる)」。
 今こそ安倍首相とプーチン大統領は大衆に迎合せず、リーダーシップを発揮して大衆を説得し、それぞれの国の未来を切り拓いてほしいものだ。 

登頂断念の勇気ある見事な決断    三浦雄一郎さんの南米最高峰登山に思う

2019年01月22日 20時11分50秒 | スポーツ
 86歳の冒険家三浦雄一郎さんの次男、豪太さんらは現地時間の1月21日午前11時すぎ、アルゼンチン西部にある南米大陸最高峰アコンカグア(6959メートル)への登頂に成功した。おめでとうと祝福したい。そして豪太さんの登頂以上に父、雄一郎さんの登頂断念の決断に賞賛をおくる。
 冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さんは山頂を目指して標高6千メートルのキャンプに滞在中、チームドクターから「心臓に負担がかかりすぎて不整脈が出ており、耐えられる状況ではない」と告げられ、ドクターストップがかかった。6千メートルの付近のキャンプ地は空気が薄く、さらに足を進めることは命の危険につながった。
 豪太さんがお父さんを説得し、雄一郎さんは苦渋の決断を下した。その時の心中を、三浦さんはNHKとの電話インタビューでこう話した。「医師と次男の豪太から強い説得を受けて、1時間ほど悩みました。はじめは非常に受け入れがたかったです」。しかし「あのときはテントが吹き飛びそうなくらいの強風が吹いていて、高所の登山ではいちばん危険な状態でもありました。高齢でもあり、撤退すべき時は勇気をもって撤退することも必要かなと思ってます」と結んでいる。
 私の独断と偏見かも知れないが、我々日本人はいったん事を始めると、最後までやり遂げることに価値を見いだす傾向が強い。そして周囲の厳しい環境を無視してでも「前進」する。そして苦難に満ちた環境下で成功すると、平均的な日本人から賞賛の嵐を受ける。艱難辛苦の果てに成功する人びとの中に「人間の美」を見つけるのかもしれない。しかし状況を無視し、深入りしすぎて失敗する例が多々あることを忘れてはならない。
 その代表例が、日中戦争(日華事変)だ。日本軍が中国大陸で泥沼の戦争にはまっていたとき、当時の近衛文麿首相は荻窪会談(1940年7月19日)で当時の東条英機・陸軍大臣に「この難局を打開するには、日本軍全軍を(日本の傀儡国家)満州国まで撤退させるべきではないのか」と主張した。これに対して東条陸相は「すでに30万人の将兵を戦死させているのに今さら引けるわけがない」と拒絶した。
 東条陸相は感情に走り、合理的な判断を欠いた。近衛首相の提案は「非常に受け入れがたかった」。この感情的な決断は太平洋戦争(大東亜戦争)前夜にも遺憾なく発揮された。
 一方、数は少ないが、撤退について紐解く。織田信長が越前の朝倉家を攻撃中、浅井長政の裏切りにあい、背後から攻撃を受けようとした。その時、「猿(後の豊臣秀吉)、しんがりを頼む」と言い残して疾風のごとく退却した。また太平洋戦争中のキスカ島撤退作戦などがある。
 作家の百田尚樹氏が著書「日本国紀」で、戦後の憲法制定に絡んで幣原喜重郎(1972~1951)を糾弾しているが、彼は平和を希求した立派な外交官・政治家だった。彼が若い頃、英国の偉大な歴史家で外交官だったジェームス・ブライスに会った。
 ブライスは幣原にこう述べた。「あなたは、国家の命運が永遠であることを認めないのですか。国家の長い生命から見れば、5年や10年は問題ではありません。功を急いで紛争を続ければ、終いに二進も三進もいかなくなります。いま少し長い目で、国運の前途をみつめ、大局的見地をお忘れないように願います」。ブライスは幣原が目の前のことだけを見て、遠い未来を見ない外交姿勢を憂い、彼に助言した。その後の幣原の生き方や考え方に大きな影響を与えた。
 攻撃を始めることは誰でもできる。しかし撤退は勇気を必要とする。その上、タイミング(時)を失えば、撤退が死につながる。前進し続けることは精神力が強いようで弱い。撤退することは精神力が弱いようで実は強いといえよう。そして未来を予測して合理的な結論を導くことは、素晴らしい能力だ。「撤退せずに必死で頑張り勝利に邁進する」のは相手との力関係が五分五分のときと、相手より強いと分かっているとき、周囲の状況が良いときだけだと思う。
 三浦さんは私情をを押さえて冷静に判断し、息子さんとチームドクターの忠告を受け入れた。彼と親交がある俳優で歌手の加山雄三さんは朝日新聞の取材に「謙虚な心で勇気ある撤退をした本当の冒険家を拍手で(日本に)お迎えしたい」と語った。
 86歳の登山家は息子らのアコンカグア登頂を祝福するコメントを出した。三浦さんが登頂断念後、息子さんの豪太さんらに伴われ、標高6千メートル付近から5500メートル付近まで一緒に下山。そこからの豪太さんが登頂アタックを開始したことについて、「あんな厳しい条件から、よく頑張ってくれた」と話しているという。
 三浦さんの見事なまでの引き際だった。それは明日への捲土重来につながる。三浦さんはこの登山で自信をつけたという。90歳でエベレストにチャレンジしたい、と早くも次の挑戦へ意欲を見せている。目標を持って人生を生き生きと生きる。われわれに人生の生き方を教える。見習いたい。

左が三浦雄一郎氏、右が息子の豪太さん
 

日韓対立から日本人の国民性を観察   振り子のように左右に大きくぶれる

2019年01月20日 22時37分02秒 | 国民性
 海上自衛隊の旭日旗(自衛艦旗)掲揚をめぐる摩擦、元徴用工をめぐる韓国最高裁による日本企業への賠償命令判決、韓国軍による自衛隊機へのレーダー照射についての日韓対立は、日本人の「ものの見方」が振り子のように左右に大きくぶれることをあらためて認識した。
 1980年代に吹き荒れた左派による保守派の現実主義的、懐疑的な(灰色的)見方に対する糾弾は30年以上の時をへて、右派のリベラル派や反対派への厳しい、有無を言わせぬ批判へと変貌してきた。右傾化は顕著だ。
 1980年代に左派が言論界を牛耳り、左派の見方が日本を席巻していた頃、当時の心ある人びとは太平洋戦争前後の「皇国史観」を振り返り、振り子が右から左へと大きくぶれていると強調。それが日本人の国民性だと主張した。現在、再び振り子は韓国(や中国)という動力によって左から右へと揺り戻している。
 昨年11月13日付の私のブログ「韓国人と日本人の国民性の違いはどこにあるのか」で、私は韓国人が「感情や観念のみに支配されている」「あまりにも恨みが強く、寛容の精神がない」と力説した。それだけではない。「自民族優位主義」に起因する反日的な考えがある。
 韓国人、そのなかでも知識人は古代から、特に1492年に開かれた李氏朝鮮王朝から、中華思想と華夷秩序の世界観を抱いてきた。それは中国が世界文明の中心であり、韓国はその中華文明圏に存在しているとの認識だ。
 漢民族が打ち立てた明帝国が異民族(満州族)に17世紀前半に滅ぼされると、韓・朝鮮民族は自らを明帝国の正当な継承者だと公言し、「小中華主義」を唱えた。そして中華圏外の日本民族を非文明圏にある蛮族だと認識し、日本人を蔑視してきた。そして日本による韓国併合(1910~45)の歴史が対日蔑視を強めているようだ。
 拓殖大学の呉善花・国際学部教授は著書「私はいかにして『日本信徒』になったか」で「それが韓国人の意識の深層を形成したまま現在にいたっているのである。そこをはっきり押さえておかないと、韓国人にだけ特徴的な対日姿勢はまったく理解することができなくなる」と話す。
 一方、大半の日本人は、右派だろうが左派だろうが、「ひとりよがりで同情心がない為」「日本文化の確立なき為」「日本文化に普遍性がない為」に、外国に対する見方が独善的になるという。この言葉は太平洋戦争のフィリピン戦線に派遣された化学者の小松真一(1911~73)が自らの戦場での体験を踏まえて自費出版した「慮人日記」で記している。
 20世紀の日本の評論家の山本七平(1921~91)は小松の言葉を解釈し、「ほかの文化と接触をして自分がいろいろの行動をしたばあいに、反省することができなかった。精神的な弱さとひとりよがりに加えて文化の確立がなかった」と述べる(「比較文化論の試み」から引用)。「日本人は自らの考え方は真理だと信じている」とも話す。
 この考え方を言い換えれば、大多数の日本人は物事を「対立概念」で捉えることができないということだろう。ひとつの対象物を最初、善悪両面で捉えながら、善か悪かの結論へと導いていかない。一人の対象者を現実主義者と理想主義者の両面から最初はとらえていくことができない。対立概念で決して論じず、二元論で論じるということだ。つまり、一人の人間を最初から善玉、悪玉と提起して議論を進めていく。「ひとつの対象物を見た場合、どっちかを悪玉、どっちかを善玉としないと気が済まない」(「比較文化論の試み」からの引用)。日本人の国民性に対する生前の小松、山本両氏の指摘は当たっているように思う。
 左派の見解が主流だった1980年代、「中国の旅」で有名になった元朝日新聞記者の本多勝一氏ら左派12人は「ペンの陰謀」(1977年刊行)で山本七平を「ペテンの論理を分析する」として、山本のキリスト教的リアリズムを口汚いまでに糾弾し罵倒した。また20世紀の保守派の論客、福田恆存(1912~94)を蔑視した。「二元論」で論じている「ペンの陰謀」から本多氏の「知識」は感じられたが、「教養」や「知性」がまったく感じられなかった。
 今日、右派の百田尚樹氏は著書「日本国紀」で日本人を礼賛し、ツイッターで彼を批判する人びとを罵倒する。事実の誤記やコピペだと指摘する読者を批判する。これもまた私は「教養」と「知性」を感じなかった。
 30年前の左派や今日の右派も、韓国政府要人や韓国反日派も二元論で論じるあまり、「あなたのために思ってやっているのに何を言うか」(比較文化論の試みから引用)と思っているようだ。
 海上自衛隊の旭日旗(自衛艦旗)掲揚を巡る日韓摩擦、元徴用工をめぐる韓国最高裁による日本企業への賠償命令判決などの問題を二元論で論じるべきではなく、対立概念で論じるべきだ。事実を踏まえた客観的な議論をすべきであり、感情的、情緒的、観念的であってはならないと思う。この点では、韓国政府よりも日本政府のほうが冷静で、対立概念で論じていると思う。
 反米感情を抱く日本人は30年前、左派の言行に乗った。今日、ブログを読むと、反韓、反中感情を抱く日本人は右派知識人の言行に拍手喝采している。しかし、韓国の国民性や韓国からの情報を的確に把握して冷静な態度で対応する姿勢がほしい。そして「自ら胸襟を開けば相手も心を開いてくれる」と、価値観やものの見方が違う韓国人のような民族には決して思わないことだ。民族にはそれぞれ違う感じ方がある。日本人は他民族へのこの違いを無視して太平洋戦争で失敗し、戦後の米国、ロシア、中国、韓国への反感を繰り返し抱いてきた。
 また、中国人や韓国人の多くは歴史を自分の都合の良いように歪曲するようだが、日本人は過去を無視する傾向がある。歴史を学ばない点では3者は同じだ。歴史を学ばなければ、現在と将来において、何かを決断するとき、その一助は体験だけと言うことになる。「日本国紀」に関わった百田氏にしても有本香氏にして1950年代半ばから60年代前半に生まれ、戦争を知らない世代だ。親も戦場へ行った世代ではないだろう。
 体験でしか過去を学ばなければ、世代ごとに過去は分断される。ひとつの世代の人びとが死に絶えれば、後の世代の人びとは死に絶えた世代から何も学ばないことになる。「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」と19世紀のドイツ帝国の「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクは語っているではないか。
 日本帝国陸軍は、有史以来最も悲惨を極め、初めて市民(銃後)を巻き込んだ第1次世界大戦に参戦しなかった。欧州を舞台とした初の総力戦を日本陸軍は体験しなかった。またその歴史を研究した軍人指導者はごくわずかだったという。
 太平洋戦争を指導した東条英機陸軍大将ら陸軍軍人指導者の99%は悲惨な日露戦争を知らない。日本陸軍将兵の屍で埋め尽くされた日露戦争の激戦地「203高地」の戦いに参加していない。太平洋戦争の陸軍指導者の大多数は日露戦争直後に陸軍士官学校に入学した。「歴史に学ばないこと」も悲惨な太平洋戦争を始めた一因かもしれない。
 老人ホームで元気に暮らし、毎日ラジオでニュースを聞いている97歳になる私の母は先日、「中国や韓国もおかしな態度をとるけど、今の政府も国民を煽っているわね。日支事変(日中戦争)の頃と似ているわね。あの頃も中国人をチャンコロと言って軽蔑し嫌っていたのよ。今の日本人は政府に煽られて韓国人や中国人を感情的に嫌っているわね。変にならなければよいけど」と話す。もちろん、その逆も事実であり、自国に都合の良い歴史を政府から思い込まされている反日の中国人や韓国人は感情的なまでに日本人を嫌っている。
 21世紀に入り、太平洋戦争を体験しない世代が日本の全人口の大半を占める。共産党の独裁国家、中国の台頭や韓国の「理不尽とも思える」厳しい対日姿勢、強権政府を持つロシアの対日強行的態度など厳しい国際環境を前にして、われわれはこれからどうすればよいのか。
 客観的な姿勢で過去を学び、「自分の窓」と「相手の窓」から見ながら相手と粘り強く交渉することが我々には不可欠だ。価値観やものの見方の違う中国人、韓国人やロシア人との交渉に当てはまる。決して現在の右派や30年前の左派のような前方だけを見て自分だけが正しいと考え、「白黒」でしか判断しない「ものの見方」になってはならないし、期限を区切って交渉に臨んではならない。保守派を自認する私はそう思う。

PR:チャーチルの人生観や生き方をエピソードを交えながら記した「人間チャーチルからのメッセージ」をご一読ください。アマゾンなどで販売しています。また左端に内容を記した案内があります。



心に残る横綱稀勢の里  引退に日本人の国民性の一端を見る  

2019年01月18日 11時30分27秒 | スポーツ
 横綱稀勢の里が矢尽き刀折れて引退した。日本人が好む桜のような散り際ではなかったが、彼の引退会見を聞き、一人の日本人の心を感じた。私は「あっぱれ、稀勢の里」と叫び、「第二の人生も全力で頑張れ」と応援する。
 稀勢の里は会見で、「一片の悔いもありません」と話し、17年間の土俵人生を振り返った。横綱になるまでの土俵人生では「悔いはない」にしても、横綱に昇進した直後の2017年春場所の対日馬富士戦でけがをしてからの約2年間には「後悔」があったと思う。
 右肩の上腕付近の筋(大胸筋)を一部断絶したのにもかかわらず夏場所に強行出場。しかし患部を悪化させ11日目から途中休場。その後、2018年名古屋場所まで8場所連続休場。年6場所となった58年以降では貴乃花の7場所連続を抜いて横綱の最長連続休場を更新した。一時、秋場所で10勝5敗で復調したかに見えたが、その場所の千秋楽から今場所3日まで、不戦敗を除いて8連敗となり、1場所15日制が定着した1949年夏場所以降の横綱では、貴乃花を抜いてワースト記録を更新した。
 稀勢の里が引退して私が明確に理解した。彼の相撲人生は大けがをした2017年春場所13日目の対日馬富士戦で終わっていたのだ。
 スポーツ報知のデジタル版によれば、2017年春場所13日目に稀勢の里が大けがをし、14日と千秋楽に強行出場して奇跡の逆転優勝をした夜、「現役時代に同様のけがを負った元幕内のある親方が『大胸筋が切れていたら復活は絶望的。腕の左右の動きが制限されて完治もしない。おっつけができなくなるから、今までの相撲は取れないだろう』と案じた」という。心配は現実になった。また「悲劇から3か月後、稀勢の里は出稽古先で阿武松(おうのまつ)親方(元関脇・益荒男)に告げられた。『仮にこのまま復活できなかったとしても、努力した尊さは変わらない。胸を張ってほしい』。横綱は『本当にありがとうございます』と頭を下げ『もう一度、頑張ります』と返したが、生命線の左おっつけの威力は戻らなかった」
 現実は冷厳だ。稀勢の里は記者会見で、この現実を受け入れ潔く引退するか、それとも復活を信じ、ファンの声援に応えて頑張るかを迷い続けたと話す。そして矢が尽き刀折れて引退した。
 「引き際を見失った人気横綱」とのメディアの批評があった。私はそう思わない。稀勢の里は自らの厳しい運命を理解していたが、ファンの声援に引退を躊躇のだろう。ファンの声援に応えようとしたのだろう。その声援が同情であると分かっていても、その声援に報いたかったのだろう。
 勝負師が同情され優しさを他人に見透かされたとき、勝負師ではなくなるという。強い横綱はファンから憎まれる存在でなければならないのに、稀勢の里は判官贔屓(ほうがんびいき)の対象になってしまった。しかし、稀勢の里には愚直なまでの正直さと誠実さがある。
 ファンは、なぜ稀勢の里に同情したのか。それは、劣勢になり敗北が濃厚になっても、本来の実力が出せなくなっても、苦境を乗り越えようとする必死さがあったからだ。努力する姿がファンには見えたからだ。それこそ日本人が賞賛する人間なのだ。それこそが日本人の国民性を映し出している。
 現在の世の中、「うそ」、「デマゴーグ」が徘徊し、政治家がその先頭に立っている。政治家の人格や誠実さはどこかに吹っ飛んでいる。その状況の中で、稀勢の里の引退会見は日本人の本来の姿を思い起こさせてくれた。心に残る横綱だった。
 
 
 

百田氏の書籍「日本国紀」は日本社会の右傾化を映す   コピペ、パクリ疑惑で話題になっているベストセラー

2019年01月14日 22時02分27秒 | 書籍紹介と書評
 作家の百田尚樹氏が昨年11月に刊行した「日本国紀」をめぐって、無断引用疑惑や歴史の事実誤認などに対する百田氏ファンとアンチ百田氏派との批判の応酬が激しくなっている。この書籍を批判する人びとの中には、この本を客観的に批評する読者がいる。それも事実だ。
 この書籍に批判の矛先を向ける読者は、「日本国紀」の内容自体よりも倫理面を問題にする。引用元を明記せず、歴史上の誤記を後の刷で「こっそり」手直ししているとみられる姿勢を非難する。そして百田氏や、この書籍の編集責任者でジャーナリストの有本香氏が感情的なまでに反論しているのが目を引く。
  一方、百田氏を賞賛する読者は「感動した」「教科書にない史実を理解できた」「ベストセラー作家の本」といささか主観的だが、「読みやすい」「わかりやすくてスッと頭に入ってきました」との書評も多数ある。確かに、私も読んでみてわかりやすかった。
 私は「日本国記」の刊行を知っていたが、買おうとは昨年暮れまで考えなかった。百田氏にはたいへん失礼だが、年金をはたいてまでこの本を買おうと思わなかったからだ。
 彼自身のツイッターや書籍「今こそ、韓国に謝ろう」、「虎ノ門ニュース」での話で、百田氏の歴史観を理解していた。今回も、500ページにも及ぶ彼の労作を通して自らの歴史観を吐露するだけに終始するだろうと推察した。つまり歴史書ではなく、歴史観感想書だと思った。
 偶然、インターネット上で、「日本国紀」が「コピペ書籍」だとする読者の批判の声を聞き、そこから歴史愛好家とみられる方が管理している「論壇net」に行き着いた。このサイトは「日本国紀」を「コピペ」書として、著者、百田氏を批判している。
 「論壇net」の管理者や投稿された方々には失礼だと思ったが、これが事実かどうかを確かめたいと思い、初版(1刷)本を買いに近くの書店に走った。
  私が買うまでには「日本国紀」はベストセラーになっており、8刷まで積み上がっていた。初版があるかどうか心配だった。しかし幸いにして1刷が手に入った。次に、1刷の誤記などが訂正された5刷以降の書籍を手に入れたいと思い、アマゾンから購入した。ネットなら最新刷が注文できると考えたからだ。しかし1刷が送られてきた。「しまった」と思ったが、後の祭りだった。
 3日前、東京での会合に出席途上、都心の大型書店に立ち寄った。店員に「直近の刷があるか」と尋ねた。「7刷があります」とのことで、これを買った。余談だが、「日本国紀」を3冊も買い、百田氏にずいぶん貢献したなあ、と自嘲している。
 「日本国紀」の1刷を完読した。明らかにウィキペディアなどから文章をコピーしている無断引用箇所が多々あった。「論壇net」の投稿者の指摘通りだった。また誤認している歴史事実を後の刷で書き換えている。これを1刷と7刷を比較して確認した。「論壇net」の指摘通りだ。
 一例を上げれば、1刷の435ページと450ページの「コミンテルン」の語句だ。正解は「コミンフォルム」だ。1919年から1943年まで存在した、共産主義世界革命を目指す国際運動組織「コミンテルン」は、1947年の米ソ冷戦初期に「コミンフォルム」と衣替えした。
 408ページ以降は終戦(1945年8月)から5~6年間の歴史を記しており、450ページは明らかに1947年以降の記述だ。
 1刷の450ページに記された「コミンテルン」は、7刷では「旧コミンテルン」(「コミンフォルム」が正解であり、この記載も不正確)と書き換えられている。しかし、435ページの「コミンテルン」は「コミンフォルム」と書き換えなければならないのに、7刷でもそのままだ。歴史をあまりしらない読者を混乱させることになるだろう。
 また、仁徳天皇の逸話(1刷、52~53ページ)は1991年12月に大阪新聞(2002年休刊)夕刊に歴史研究家の真木嘉裕氏によって掲載されたものの転載だ。誰が見ても転載だと理解できる。第7刷では「真木嘉裕氏の物語風の意訳を参考に要約して紹介しよう」の文が追記されている。5刷で書き換えた、と「論壇net」は記す。
 「日本国紀」はインターネット百科事典「ウィキペディア」からのコピペが多々あり、書籍からの無断引用も見受けられる。
 講談社から2012年に時岡敬子さんに訳され、出版された「イザベラ・バードの日本紀行(上)」(原題:Unbeaten Tracks in Japan)。その484ページと、日本国紀の279ページはほぼ同じ文章だ(詳細は「論壇net」のhttps://rondan.net/5784を参照)。
 さらに、1刷の149ページで記されている「ルイス・フロイス」の史料についての記述が、読者から「フランシスコ・ザビエル」の史料ではないかとの指摘を受ける。私は1刷で確認した。
 百田氏側は7刷で、この間違えを「フランシスコ・ザビエル」に手直ししている。「論壇ネット」によれば、これは5刷で書き換えられているという。しかし「本国のイエズス会から書き送った」は「ゴア(インド)のイエズス会」の間違いであり、いまだ訂正されていない。
 保守派の論客として有名な現代史家の秦郁彦氏は毎日新聞のデジタル紙面(2019年1月10日)で「欧米の場合、学術著作は当然として、一般の歴史書でも注や索引をつけるのが常道になっていますが、日本の場合はあまり定着していません。・・・百田さんも、せめて他人の説を利用、引用をした場合は、著者名と表題を示すべきと考えます。それは先人への敬意を払う『儀礼』でもあるからです」と語る。
 一方、百田氏は11月20日のネット番組「虎ノ門ニュース」で「一番腹が立ったのは、百田のこの本は、ウィキペディアからパクってコピペしとると。・・・山のように資料をそろえた。そのなかにはね、ウィキペディアもそりゃあるよ。そりゃウィキペディアからいんようしたものとか、かりたものとかある。でもそんなもんは・・・まぁウィキペディアから借りたものはなんていうものは原稿用紙になおすと、まぁ1ページ分か、せいぜい2ページあるかないか。・・・これも、これもって、ですね、それもね、大半が、それ『歴史的事実』たし、誰が書いても一緒の話や」と話した。(参考:「論壇ネット」によれば、「日本国紀」500ページのうち15ページがコピペ改変という)
 これに対して、書籍「『アベ友』トンデモ列伝」を出版した宝島編集部は「引用と出所を明記して、文章を改変なく表記するのがルールだが、この『日本国紀』には参考文献の表記も一切なく、普通の意味で使う『引用』はなされていない。どこから引用したのかも書いていないのに『引用』だと主張しても、それはただのパクリである」と述べる。
 私も同感だ。百田氏が、なぜ「正誤表」や引用元を明記しないのか、理解に苦しむ。百田氏や有本氏はこの面倒な手続きを省略したのだろうか。百田氏を礼賛する読者は「微細なこと」と述べる。しかし百田氏は作家であり、有本氏はジャーナリストだ。知らなかった、では済まされない。
 百田氏の「虎ノ門ニュース」での発言も理解に苦しむ。作家やジャーナリスト(記者)の「イロハ」を知っているのだろうか。百田氏のようなことを記者が話したらデスクに怒鳴られるだろう。このままでは百田氏や有本氏の人間性や人格までもが疑われてしまうのではないのか。
 私のような百田氏に会ったことがない人間には、この本で彼らの人間性を計ってしまうことになりかねない。また幻冬舎もいいかげんな出版社だと世間から見られかねないと思う。
 私事で恐縮だが、私は本4冊を刊行した。そのなかで一番時間がかかったのは「書くこと」ではない。引用元を調べ、著作権者を探すことだ。そして著作権者や出版社から許諾を得るのに時間がかかった。ご厚意で著作権料を無料にしてくれた出版社もあったが、多くは有料だった。その中でも外国の出版社はほとんどが有料で、銀行からそれを送るにも手数料がかかった。
 百田氏は昨年11月1日のツイッターで、米国の弁護士ケント・ギルバート氏との一昨年の対談が日本国紀の執筆動機だとし、日本人が日本を好きになるような歴史書を書こうと思ったと発信した。
 ギルバート氏との対談から少なくとも1年数カ月して日本国紀を上梓したことになる。2千年の日本史を約1年で書いたのだろうか?この短い期間に百田氏一人で書くのは不可能だと思う。たとえ編集者の有本氏やほかの数人の監修者が手助けしたとしても、何かをベースにしなければこんな短い期間で書けないと確信する。
 ウィキペディアからのコピペや引用箇所が多数にわたって歴史好きの読者により見つけられている。ウィキペディアを土台にして「日本国紀」を書いたのではないかと疑われる。ウィキペディアを土台し、それを一部書き換えて自らが書いたように見せかけ、そしてコピペし、ほかの書籍からの内容をも引用・コピペして完成したと思われてもしかたがないコピペ数だ。
 アマゾンの「日本国紀」書評欄で「☆印1」をつけている読者の中には、この本の誤記やコピペと思われる箇所を指摘している人びとがいる。この指摘に対し、百田氏は感情的なまでに反論している。
 「☆印5」をつけている80%の多くは礼賛のみ。そのなかには日本の歴史をあまり知らないと思われる投稿者の文面も見かける。社会の右傾化を象徴する現象のようで不気味だ。
 私は読者が百田氏の歴史観と割り切って読むべきだと思う。百田氏は昭和以降の歴史を「陰謀史観」から論じている。歴史は複雑であり、白黒で判断すべきではない。これは私の見解だ。
 世の中に名の知れた百田氏が「日本国紀」を書くことで社会に貢献したとすれば、日本の歴史をほとんど知らない多くの日本人に歴史を学ぶ大切さを知らせたことだろう。この点については評価しても評価しきれない。


(参考)(1)「日本国紀」のコピペ、盗用疑惑に関心のあるかたは「論壇net」(https://rondan.net/2155)をご覧ください(2)この書籍1刷の帯には「平成最後の年に送り出す」となっているが、「平成最後の前年」が正確だ。ただ、後の刷には訂正され、正確に記されているという。7刷にはこの文言は削除されている。

 PR:チャーチルの人生観や生き方をエピソードを交えながら記した「人間チャーチルからのメッセージ」をご一読ください。アマゾンなどで販売しています。また左端に内容を記した案内があります。