英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

選手は「横並び」意識の日本人でなくなった  ラグビーW杯のスコットランド勝利を見て     

2019年10月14日 20時50分26秒 | スポーツ
      ラグビーの第9回ワールドカップで、日本チームの快進撃がとまらない。日本が13日に横浜国際競技場で、強豪スコットランドを28-21で勝った。これで日本は1次リーグ4戦全勝でA組1位となり、初の決勝トーナメント(8強)に進出した。
  大げさに言えば、日本国中が沸きに沸いた。最後の15分の攻防は凄まじかった。必死で攻めるスコットランド。これに対して、必死で守る日本。その攻防は日本と世界に感動を呼んだ。
  日本の各選手は、前任者のジューンズ前ヘッドコーチ(現在のイングランド指揮官)の就任から8年の歳月をへて、ようやくラグビーの極意を会得した。それは「自ら考え判断する」ことである。
  4年前の2015年11月1日、私は南アフリカを撃破したジョーンズ前ヘッドコーチの日本チームからの退任会見についてブログに書き込んだ。その際、彼のコメントを引用した。
  ジョーンズヘッドコーチは「出る杭は打たれる、という言葉が日本のスポーツを表している」と話した。私は彼の発言の真意を記した。「日本人は『横並び』を重視する国民である。ジョーンズヘッドコーチが発言した『出る杭は打たれる』と『横並び意識の国民』は同義語である。この国民性を別の形で言えば、TBS番組が取り上げた『風を読む』の主題『物言えぬ空気』につながる」
  ジョーンズ氏は就任当初をふり返り、選手は質問されないようミーティングで下を向いていたが、次第に顔を上げてHCを見るようになり、議論をするようになったと語っている。
 議論は当然「あつれき」を生む。異なった議論がぶつかり合い、激しい論争になることもある。しかし、相手の意見を尊重しながら、自らの意見を述べ、相互がその精神で議論するかぎり、譲歩が生まれ、新しい、魅力的な結論が導かれる可能性が大きい。
  日本のラグビー選手はようやく日本人の国民性を卒業し、イングランドやスコットランドなど英連合王国とかつての英帝国の仲間入りを果たした。つまり、英連邦の強豪チームと肩を並べたと信じる。たとえ肩を並べていなくても、並べようとしている。それは英国人の国民性を会得したということだ。
  ラグビーは1823年、イングランドの有名なパブリックスクールのラグビー校でのサッカー(フットボール)の試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリス青年がボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出したことだとされている。
  ラグビーの誕生後、英国の指導者を養成するパブリックスクールで盛んになった。この点で、ストリートで生まれたサッカーとは違う。サッカーが庶民(労働者階級)のスポーツとして発展したように、ラグビーは指導者階級(中産階級以上)のスポーツとして育まれていった。今日では、このような明確な線引きがなくなってきたといえども、その歴史的な伝統がある。
  野球やサッカーで、監督はグランドで指揮をとる。しかしラグビーでは、ヘッドコーチ(監督の相当)はスタンドの高い場所に陣取り、ゲームの推移を見守る。ヘッドコーチは選手がグラウンドに上がるまでは直接アドバイスできるが、選手がいったんグラウンドに上がれば、人を介してしか助言できない。選手自身が瞬時の試合の流れを的確に判断してゲームを進めていかなければならない。そうしなければ勝てない。
  そこが野球やサッカーと違う。野球やサッカーでは、監督が選手にアドバイスするというよりも命令し指示する。監督がゲームを支配する。選手は監督の命令に従ってゲームを進める。
  指導者を養成するパブリックスクールは、オックスフォードやケンブリッジ、ロンドンなどの伝統ある大学へとつながる。パブリックスクールの先生方は、ラグビーを通して生徒の独立心、判断力、思考力、決断力、リスクを恐れぬ勇気、体力など、指導者にとって不可欠な能力を育てている。
  ラグビーの指揮官を監督とは呼ばずに、ヘッドコーチと呼ぶ。それは指揮命令する人物ではないということを示唆している。あくまでアドバイスする人物だ。選手は服従する姿勢を教わるのではなく、協力と団結力を求められる。
  「横並び」の空気が強い日本の学校や社会では、異見を封じる「いじめ」を生む。突出した“おかしな異見”を嘲り、嘲らないまでも、多数の意見や行動と違った“おかしな”ことをした人間をいじめる。「横並び」と「指揮官の命令を忠実に実行する」意識がある国では、ラグビーは強くはならないと断言する。
   小中学校で、先生が教壇から生徒を見下ろして教える国からは、ラグビー精神は生まれない。英国の小学校はともかく、パブリックスクールやセカンダリースクールでは、先生は教壇を降り、生徒の議論の輪に入り、結論へと導くアドバイスをする。それはラグビーのヘッドコーチも同じだ。
   ラグビーは英国人(イングランド、スコットランド、ウェールズ)と旧英帝国の白人国家であるニュージーランドやオーストラリアなどの教育と議論を重んじる民主主義制度を体現している。
   日本代表でプレーする具智元選手の母国の韓国人も、10年前の日本人と同じように、ラグビーに興味がない。日本でラグビーW杯が開催されることさえも知らなかった人がほとんどだという。 そうなれば日本代表でプレーする具智元選手のことさえも知るはずがない。
   韓国人も日本人以上に「横並び」の国民だからだと思う。日韓関係の悪化から、今まで大挙日本に押し寄せていた韓国人観光客はこなくなった。「こんな事態の中で、自分が日本へ観光に行ったら何をいわれるか分からない」と大多数の韓国人はテレビ報道で言う。韓国人の国民性がラグビーを遠ざけている。
   最近の日本でのラグビー人気が、日本人の性格を変えていく一助になればと思う。でも、日本のラグビー代表選手と韓国の具智元選手だけはそれぞれの国の「横並び意識」から脱却し、「独立心と判断力」などを持った人間に生まれ変わったのではないだろうか。

(写真)騎士道精神を持ったスコットランド選手がグランドから去っていく日本人選手を拍手で見送る。敗者は勝者を褒める。武士道精神と騎士道精神は一脈通ずるものがあるようだ。  
  

高校野球の投手起用に変化の風      尾を引く大船渡高の佐々木投手問題に驚く

2019年08月11日 23時25分01秒 | スポーツ
  8月6日に始まった第101回全国高校野球選手権大会は毎日、高校球児の素晴らしいプレーで盛り上がっている。今日の第4試合は、明石商(兵庫)と花咲徳栄(埼玉)が追いつ追われつの激闘を展開しているのをテレビで観戦した。しかし最後まで見られず、インターネットサイトで、明石商が4-3で花咲徳栄に競り勝った結果を見た。そして同じサイトに、島根・開星高元監督の野々村直通さんが、甲子園出場を懸けた岩手大会決勝で、大船渡高校の国保陽平監督が佐々木朗希投手を起用せず、敗退したことに苦言を呈しているのを読んだ。

  ● 大船渡高の佐々木投手の起用法をめぐる野々村、張本両氏とダルビッシュ投手、永友選手との見解の相違
 野々村氏はきょうのテレビ朝日系「ビートたけしのTVタックル」(日曜前11・55)に出演し、「球数制限なんてナンセンスきわまりない」と持論を展開。「高校野球はひとりのプロ野球選手を育てる養成所じゃない」と強調した。
 この問題を最初に論評した野球評論家の張本勲さんも7月28日のTBS「サンデーモーニング」で、「監督と佐々木君のチームじゃないから。ナインはどうしますの、一緒に戦っているナインは。1年生から3年生まで必死に練習して、やっぱり甲子園は夢なんですよ」と話した。
 野々村さんや張本さんは国保監督が佐々木投手の体調を最重視し、残りの球児の甲子園への夢を摘んだと言っているのだろう。
 二人の見解に対し、大リーグ・カブスのダルビッシュ有投手とサッカーの長友佑都は国保監督が批判覚悟で佐々木選手の故障を防いで将来を守った“英断”だと話し、国保監督の決断を支持している。

 ●尾を引く佐々木起用問題に驚き
 張本発言から2週間以上がたったが、この問題がまだ話題になっているのに、私は少々驚く。また、大船渡高校が決勝で敗れた7月25日からの2日間で200件を超える意見が寄せられ、そのうちの99%が苦情だった(千葉貢副校長)というのにもびっくりする。ただ、インターネットサイトには、「張本さんの佐々木投手への根性論は聞きたくない」など、国保監督の決断を支持する意見も多数ある。
 私は張本さんが「サンデーモーニング」で国保監督に苦言を述べているのを視聴したとき、張本さんは古い運動部の体質だなあ、と笑みを浮かべながら聞いていた。わたしは1960年代に高校の運動部にいたため、張本さんの「根性論」を賛成しなくても理解する。だからたいした話しではないと思い、私のブログに当初、書こうとも思わなかったが、この問題が尾を引いているため、一筆啓上しようと思った。

 ●1960年代は張本さんの見解が常識  偉大な稲尾投手は酷使で生まれた
 われわれが高校時代を過ごした1960年代は、張本さんの考えが常識だったと思う。夏の高校野球では予選から一人の投手が投げ抜いていた。三沢高校のエースの太田幸司さんは1969年夏の甲子園大会決勝で松山商と延長18回、再試合9回を投げぬいたが、準優勝に甘んじた。
 太田さんが一人で投げ抜いたことを、当時の野球ファンは誰も疑問に思わなかった。あれから半世紀がたち、時代は変わったのだと思う。現在、プロ野球では、先発、中継ぎ、クローザーの分業体制が確立、事実上の球数制限が敷かれ、それが普通になっている。
  先発投手が1試合を投げるのが常識だった1950-1980年代のプロ野球。1960~70年代には平日は1試合だったが、日曜日には2試合(ダブルヘッダー)をやっていた。1960~61年の西鉄ライオンズ(現在の西武ライオンズ)の川崎徳次監督時代のエピソードを不朽の名投手、故稲尾和久さんが日本経済新聞の「私の履歴書」に書いていたのを読んだことがある。
  1960年か61年のシーズンの夏。ダブルヘッダーが行われ、第一試合では稲尾投手が完投勝利をあげ、第二試合は、当然ながら、ベンチにいた。7回になって相手チームが西鉄を追い上げ、1点差まで詰め寄ってきた。川崎監督は第一試合で完投した稲尾投手にマウンドに立ってくれとは言えなかったが、稲尾の前を行ったり来たりしていた。気づいた稲尾投手は監督に「行きましょうか」と助け船を出した。川崎監督は「行ってくれるか」と申し訳なさそうに言ったという。稲尾投手はマウンドにたち、第2試合も西鉄ライオンズが勝った。
  「神様、仏様、稲尾様」と地元紙が書き、1961年にはヴィクトル・スタルヒンと並ぶ、年間42勝を挙げた。入団した1956年から1963年まで8年連続で20勝以上をあげたが、この8年間の平均登板数は66試合、平均の投球回数は345イニングと、連投、多投がたたり肩を酷使して1964年には一勝もできなかった。その年以降も1969年の引退まで鳴かず飛ばずだった。短命な投手生活でも276勝をあげた。稲尾と対戦した元ヤクルト監督で「ぼやき」で有名な野村克也さんは「技巧派」の投手の代表格として稲尾の名前をあげており、糸を針に通すような完璧な制球力と、変化球による絶妙な左右への揺さぶりを絶賛している。
  故稲尾投手は人格者として自分の球団やほかの球団の大多数の選手から尊敬された。西鉄ライオンズ、国鉄スワローズを渡り歩いた名ショートの故豊田泰光さんは故稲尾投手と、プロ野球生活で400勝をあげた金田正一氏の違いをこう述べた。「「カネやんはチームより自分本位。これで通してきたことが大きかったと思います。勝てそうな状況になると『よっしゃ、ワシが行くで』となる。私は西鉄で誰も行きたがらないしんどい場面で『私の出番でしょう』と出ていく稲尾和久の減私奉球ぶりを知っていますから。ずいぶん違うもんだなあと認識を新たにしました。まあ、カネやんとしては自分の数字がすべてということだったのでしょうね」
  父親に「プロ野球など男が一生かける職業ではない。遊びだ」と反対されながらも、プロ野球に身を投じ、野球人の模範になった偉大な投手である故稲尾投手。張本氏が言うように、昔は投手は酷使されるのが当たり前の時代だったということを説明するために、偉大な投手、故稲尾和久さんの話が長くなった。プロ野球の投手起用法は時代の流れとともに変化していったということだ。  
  高校野球でも球数制限が常識の時代がこれからやってくる。高校野球も一人の投手が投げ抜く時代から、3~4人の投手をそろえて勝ち抜く時代がきているのかもしれない。

 ●運動部の「根性論」から「科学思考」への変化の風
  張本さんや野々村さんの考え方は時代の潮流に押し流されていくのだろう。野球だけでなく中高大学の運動部が「根性論」から「合理」「科学」的な考え方に変わって行きつつあるのは時代の変化であり、ことさらに騒ぐことでもないように思うのは私だけだろうか。個人としては、「根性論」は過去の遺物だと思う。

  (写真)大船渡高の佐々木投手

人生で最も大切なことは努力とイチロー選手が示唆   メジャー・リーグからの引退会見で      

2019年03月24日 12時20分45秒 | スポーツ
 米大リーグ・マリナーズのイチロー外野手が21日のアスレチックス戦との試合終了後、記者会見を開き、引退を表明した。日米28年間で積み上げた安打は4367本。米大リーグでは3089本の金字塔を打ち立てた。
  私は1時間20分にわたるイチローの会見を聞き、ベースボールの道を究めようとしてきた「研究者」だと思った。剣術の極意を会得した宮本武蔵と同じような心境に至ったのだと感じた。会見での一語一語から、彼の生き様が伝わり、私は深く共感した。野球の実践と研究を通して「人生哲学」を築き上げたことが伝わってきた。
 イチロー選手は大リーグでのシーズン262安打(2004年)や10年連続200安打など数々の不滅の記録を「小さなことに過ぎない」と述べ、マリナーズの会長付き特別補佐に就任した昨年5月以降のことを語り始めた。
 試合に出ないのに、グランドにいつも一番乗りし、試合中は球場内の打撃ゲージで練習に打ち込んだ。「それを最後まで成し遂げられなければ、きょう、この日はなかった。記録はいずれ誰かに抜かれる。あの日々は、ひょっとしたら誰にもできないことかもしれない」。私は彼が人間にとって最も大切なことは努力だと語っていることに深く感銘する。
 それを裏打ちする言葉が続いた。「(選手生活に)後悔などあろうはずがありません。(中略)自分なりに頑張ってきたということは、はっきり言えるので。これを重ねてきて、重ねることでしか後悔を生まないということはできないのではないかなと思います」
  野球の求道者はこうも話した。「成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かないという判断基準では後悔を生むだろうなと思います。やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときにどんな結果が 出ようとも後悔はないと思うんです」
 20世紀の大政治家ウィンストン・チャーチルが「(結果がどうであれ)リスクを恐れず勇気を出して目的に向かって行動しなさい。創造主(神様)は人間がどうすることもできないことをあえて試すことはありません。・・・何が起こっても逃げないで立ち向かいなさい。そうすればすべてがうまくいくのです」(拙書「人間チャーチルからのメッセージ」から引用)と話していたことと相通じる。
 野球(ベースボール)選手であろうが、政治家であろうが、一つの分野を極めた人々は体験を通して人生哲学を作り上げていると思った。
 イチロー選手の引退会見を聞こうとして、全て日本語での対応であったにもかかわらず、会見場の後方には、ジェリー・ディポト・ゼネラルマネジャー(GM)、入団交渉を担当したスカウトのテッド・ハイド氏ら多くの球団関係者の姿があった。
 イチローの最後の言葉を聞こうとしたのは、GMらフロントの人間ばかりではない。米メディアによると、日本メディアとは別に東京ドーム内での米メディア専用囲み取材には、サービス監督やヒーリーら主力選手がかけつけ、様子を見守っていたという。マリナーズ首脳陣はイチロー選手への深い敬意を表すためにそうしたのだろうと推察する。
 マリナーズ球団のイチロー選手への敬意は21日の試合にもあった。イチローが八回の守備に一度ついた直後に交代させられたのは、観客の拍手によって送りだされる場面をつくり出す狙いがあったということだろう。
 米大リーグや日本のプロ野球の元選手から、イチロー選手の引退を惜しむ声が相次いだ。そのなかで1990年代のメジャー・リーグの大選手で、2016年に野球殿堂入りを果たした元マリナーズのケン・グリフィーJr.氏は「悲しくもあり、うれしくもあるね。彼は人生のすべてを野球にささげてきた。日本のファンの前で引退できたことは素晴らしいこと。野球に涙は似合わないけど、素晴らしい選手が引退する時は泣いたっていいんだ。イチローには『キミの成し遂げてきたこと、そしてこれからの人生をエンジョイしてくれ』と伝えたよ」と話した。21日の試合の8回に、外野からベンチに戻ってきたイチロー選手を抱きしめていた。
 イチロー選手は記録だけでなく、人間としても立派な人格を備えている。伝説のメジャー・リーガーのベーブルースやルー・ゲーリック、メジャー・リーグ初の黒人選手となったジャッキー・ロビンソン、大リーグ本塁打記録を持つハンク・アーロン、メジャー記録の2632試合連続出場を果たしたカル・リプケンJr.らの仲間入りを果たしたと言っても過言ではない。
 個人的にはイチロー選手の言葉「アメリカに来て、外国人になったことで、人の痛みを想像し、今までになかった自分が現れた」「孤独を感じて苦しんだことは多々ありましたが、その体験は未来の自分にとって大きな支えになると、いまは思います」に深く共感した。
 イチロー選手は渡米した2001年頃、米国人から「帰れ!帰れ!」とよく言われたと語った。私も英国滞在中の1970年代後半、人種的な偏見に出会った。それにもまして、日本軍の捕虜虐待の経験を味わった父親の世代の英国人将兵から冷たい視線と非難の声を受けた。彼らの痛みを理解し、民族同士の相互理解の必要性を深く感じた。
 イチロー選手は今までのインタビューで含蓄のある言葉をたびたび話してきたが、この最後の会見でも同じだった。今後の人生での活躍をお祈りしたい。米国の大手通信社Associate Press (AP)がイチロー引退の速報を全米と世界に発信した。その見出しを記してこのブログを終わりたい。
 「Ichiro walks off into history in Sayonara・・・」。イチロー選手が(ファンからの)「さよなら」の声を浴びながら、歴史のなかに歩を進め消えていった。そして歴史の人物となった。

(写真)引退会見中のイチロー選手

「神様は乗り越えられない試練は与えない」   同じ言葉を述べたチャーチルが天国から、池江さんを応援していると思う

2019年02月17日 21時16分23秒 | スポーツ
2020年東京オリンピック競泳女子の金メダル最有力候補の池江璃花子さんが12日に自身のツイッターで白血病と診断されたことを公表してから約1週間がたとうとしている。この1週間、病気に立ち向かおうとする健気な勇気を彼女がツイッターで発信したのを受け、SNSには、日本だけでなく世界の人々から励ましのコメントが寄せられている。また骨髄バンクにはドナー登録を希望する問い合わせが殺到しているという。
 池江さんは4月の日本選手権を欠場する。今夏の世界選手権韓国大会出場も絶望的だ。20年東京五輪も参加できるかどうかは闇の中だ。彼女はツイッターで「私自身、未だに信じられず、混乱している状況です」と自らの気持ちを素直に書いている。数多の人々から応援と激励のメッセージを受け取った後、ツイッターを更新。「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分の乗り越えられない試練はないと思っています」と自らを鼓舞、東京五輪の夢を抱いて闘病生活に入った。
 私は池江さんのツイッターや新聞で「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない」を読み、20世紀の偉大な政治家ウィンストン・チャーチルも同じような言葉を記しているのを思い出した。
 チャーチルは1931年12月、ニューヨークで交通事故に遭い重傷を負った。その翌年の1月4日と5日に英紙「デーリーメール」に寄稿し、こう述べた。「創造主(神)は人間がどうすることもできないことをあえて試すことはありません。だからリスクを恐れず生きなさい!何が起こっても逃げないで立ち向かいなさい!そうすればすべてがうまくいくのです」。この寄稿文で、彼はいかなる困難にも負けない勇気を持つことを力説した。池江さんも18歳という若年ながらもどんな困難にも打ち勝つ勇気を持っていると感じた。
 35年前の1985年、有名女優だった夏目雅子の命を奪ったのも白血病だった。当時は不治の病だったが、今では治療法の向上で、当時よりは治癒する病気になった。池江さんはツイッターで「私にとって競泳人生は大切なものです。ですが今は、完治を目指し、焦らず、周りの方々に支えて頂きながら戦っていきたいと思います」とつづる。
 彼女のこの言葉を読んで、戦国大名の石田三成を思い出す。彼が関ヶ原の戦い(1600年9月)で敗北して捕らえられ、処刑される直前、のどが渇き水を求めた。徳川方の足軽が水はないが柿があるから食え、と言ったところ、三成は柿は腹が冷えるからと断った。足軽は間もなく処刑されるのに何を言うかと言って冷笑したという。
 三成が後世のわれわれに、最後の最後まで命を大切にして生き抜くことの大切さを教えている。池江さんも勇気を抱いて、この難病と戦うことを誓っている。全国の津々浦々からわき上がる池江さんへの応援メッセージ。私もそのメッセージを送る。彼女が再びプールのスタート台に立つことを心から祈っている。

(注)英紙「デーリーメール」に掲載されたチャーチルの寄稿文のタイトルは「My New York Misadventure」。「The Collected Essays of Sir Winston Churchill,Vol. 4 ed Michael Wolff, 1976」のP88~95に載っている。また拙書「人間チャーチルからのメッセージ」(小学館スクウェア)のP35, P99~103にも記した。興味のある方は国立国会図書館で参照してください。


登頂断念の勇気ある見事な決断    三浦雄一郎さんの南米最高峰登山に思う

2019年01月22日 20時11分50秒 | スポーツ
 86歳の冒険家三浦雄一郎さんの次男、豪太さんらは現地時間の1月21日午前11時すぎ、アルゼンチン西部にある南米大陸最高峰アコンカグア(6959メートル)への登頂に成功した。おめでとうと祝福したい。そして豪太さんの登頂以上に父、雄一郎さんの登頂断念の決断に賞賛をおくる。
 冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さんは山頂を目指して標高6千メートルのキャンプに滞在中、チームドクターから「心臓に負担がかかりすぎて不整脈が出ており、耐えられる状況ではない」と告げられ、ドクターストップがかかった。6千メートルの付近のキャンプ地は空気が薄く、さらに足を進めることは命の危険につながった。
 豪太さんがお父さんを説得し、雄一郎さんは苦渋の決断を下した。その時の心中を、三浦さんはNHKとの電話インタビューでこう話した。「医師と次男の豪太から強い説得を受けて、1時間ほど悩みました。はじめは非常に受け入れがたかったです」。しかし「あのときはテントが吹き飛びそうなくらいの強風が吹いていて、高所の登山ではいちばん危険な状態でもありました。高齢でもあり、撤退すべき時は勇気をもって撤退することも必要かなと思ってます」と結んでいる。
 私の独断と偏見かも知れないが、我々日本人はいったん事を始めると、最後までやり遂げることに価値を見いだす傾向が強い。そして周囲の厳しい環境を無視してでも「前進」する。そして苦難に満ちた環境下で成功すると、平均的な日本人から賞賛の嵐を受ける。艱難辛苦の果てに成功する人びとの中に「人間の美」を見つけるのかもしれない。しかし状況を無視し、深入りしすぎて失敗する例が多々あることを忘れてはならない。
 その代表例が、日中戦争(日華事変)だ。日本軍が中国大陸で泥沼の戦争にはまっていたとき、当時の近衛文麿首相は荻窪会談(1940年7月19日)で当時の東条英機・陸軍大臣に「この難局を打開するには、日本軍全軍を(日本の傀儡国家)満州国まで撤退させるべきではないのか」と主張した。これに対して東条陸相は「すでに30万人の将兵を戦死させているのに今さら引けるわけがない」と拒絶した。
 東条陸相は感情に走り、合理的な判断を欠いた。近衛首相の提案は「非常に受け入れがたかった」。この感情的な決断は太平洋戦争(大東亜戦争)前夜にも遺憾なく発揮された。
 一方、数は少ないが、撤退について紐解く。織田信長が越前の朝倉家を攻撃中、浅井長政の裏切りにあい、背後から攻撃を受けようとした。その時、「猿(後の豊臣秀吉)、しんがりを頼む」と言い残して疾風のごとく退却した。また太平洋戦争中のキスカ島撤退作戦などがある。
 作家の百田尚樹氏が著書「日本国紀」で、戦後の憲法制定に絡んで幣原喜重郎(1972~1951)を糾弾しているが、彼は平和を希求した立派な外交官・政治家だった。彼が若い頃、英国の偉大な歴史家で外交官だったジェームス・ブライスに会った。
 ブライスは幣原にこう述べた。「あなたは、国家の命運が永遠であることを認めないのですか。国家の長い生命から見れば、5年や10年は問題ではありません。功を急いで紛争を続ければ、終いに二進も三進もいかなくなります。いま少し長い目で、国運の前途をみつめ、大局的見地をお忘れないように願います」。ブライスは幣原が目の前のことだけを見て、遠い未来を見ない外交姿勢を憂い、彼に助言した。その後の幣原の生き方や考え方に大きな影響を与えた。
 攻撃を始めることは誰でもできる。しかし撤退は勇気を必要とする。その上、タイミング(時)を失えば、撤退が死につながる。前進し続けることは精神力が強いようで弱い。撤退することは精神力が弱いようで実は強いといえよう。そして未来を予測して合理的な結論を導くことは、素晴らしい能力だ。「撤退せずに必死で頑張り勝利に邁進する」のは相手との力関係が五分五分のときと、相手より強いと分かっているとき、周囲の状況が良いときだけだと思う。
 三浦さんは私情をを押さえて冷静に判断し、息子さんとチームドクターの忠告を受け入れた。彼と親交がある俳優で歌手の加山雄三さんは朝日新聞の取材に「謙虚な心で勇気ある撤退をした本当の冒険家を拍手で(日本に)お迎えしたい」と語った。
 86歳の登山家は息子らのアコンカグア登頂を祝福するコメントを出した。三浦さんが登頂断念後、息子さんの豪太さんらに伴われ、標高6千メートル付近から5500メートル付近まで一緒に下山。そこからの豪太さんが登頂アタックを開始したことについて、「あんな厳しい条件から、よく頑張ってくれた」と話しているという。
 三浦さんの見事なまでの引き際だった。それは明日への捲土重来につながる。三浦さんはこの登山で自信をつけたという。90歳でエベレストにチャレンジしたい、と早くも次の挑戦へ意欲を見せている。目標を持って人生を生き生きと生きる。われわれに人生の生き方を教える。見習いたい。

左が三浦雄一郎氏、右が息子の豪太さん