英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

謝罪する必要はない、自分を見つめて  吉田沙保里選手、銀メダルおめでとう

2016年08月19日 11時00分37秒 | スポーツ
 リオデジャネイロ五輪が始まり、日本は36個のメダルを獲得した。12個もの金メダルを取り、19日現在、メダル獲得順位は6位。素直に喜びたい。
 五輪は国威発揚の場とみて、冷戦時代には社会主義国家が力を入れていた。今日、世界の指導者を目指す中華人民共和国は五輪を国威発揚の場としている。
 1936年にベルリンで開かれたオリンピックを、国力が著しく伸びていたナチス・ドイツと指導者アドルフ・ヒトラーが国威を見せる場としたことを思い出す。
 中国にしてもナチス・ドイツにしても、それを動かす人間は今も昔も変わらないということだ。欲と競争心。ポジティブな言葉を借りれば、向上心と努力だと思う。
 日本の選手を見て色々なことを感じた。まず、卓球のエースの水谷隼選手。団体戦の2番手に登場し、過去12戦全敗だった中国の許昕選手を相手に、最終第5ゲームの7―10から5連続得点を奪取、12―10で競り勝った。
 20世紀の大宰相チャーチルが言う「死に物狂いでやれ(Keep Beggars On)」ば勝てる段階にまで到達したのだろう。許が得意とするフォアハンドのドライブの打ち合いでも、力負けしなかった。立派な銀メダルだと思う。努力が実った。
  徐々に中国選手との力の差が縮まっているようにみえるが、それでも現在の中国との差を潔く認め、理想(東京オリンピックでの金メダル)を目指して頑張ってほしい。 
 人間にとって、現状を認識することこそが最も大切なことだ。それを受け入れ、理想に向かって努力する。それを、チャーチルが生涯にわたって実践し、書籍や論文、寄稿記事で英国の若者に呼びかけたことである。
 名誉革命を指導した初代ハリファクス侯爵も、現状を認識し、それを糧に慎重なまでの姿勢で漸進する必要性を説いている。
 この意味で、レスリング女子53キロ級決勝で銀メダルを獲得した吉田沙保里(33)選手に伝えたいことがある。
 吉田選手は2回戦から登場し、無失点で決勝まで進んだ。だが、決勝では昨年の世界選手権55キロ級を制したヘレン・マルーリス選手(米)に1―4で敗れ、銀メダルに終わった。
 試合後、吉田選手は「たくさんの方に応援していただいたのに銀メダルに終わって申し訳ない。日本選手(団)の主将として金メダルを取らないといけないところだったのに、ごめんなさい」などと泣きながら話した。また吉田は観客席にいる家族のもとへ行き、抱き合い、泣きじゃくった。「父がいない五輪は初めてだった。最後の最後に銀メダルに終わると思っていなかった。悔しいです」
 吉田選手の気持ちは痛いほどわかる。発言のひとつひとつに、日本人らしさが出ていた。日本人の心だった。「日本選手(団)の主将として金メダルを取らないといけないところだった」との趣旨の発言を英国人からは聞いたことがない。多分、強すぎる日本人の責任感から出ているのだろう。しかしもう少し広い視野からみてほしい。
 五輪でのレスリング3連覇は誰にもなし得なかった。世界大会16連覇、個人戦200連勝を達成し、圧倒的な強さを誇る。この前人未踏の記録を評価され、2012年11月7日には日本政府から国民栄誉賞が授賞された。
 吉田選手に限らず、人間は誰でも転機がある。「自分の力を出し切れなくて申し訳ないです」と言っているが、そうではない。時が少しずつ変化しているのだ。大げさに言えば、歴史が変化しているのだ。
 吉田選手を“霊長類最強”とメディアが持ち上げているが、それは一瞬の出来事を表現したに過ぎない。吉田選手に限らず、人間は老い、全盛時の力を出せなくなっていく。老いは誰も止めることができない。
 吉田選手に言いたい。潮時を間違えないように。日本人は事を始めると、潮時が分からず一途に走る傾向が強い。馬鹿な戦争を始めた太平洋戦争の指導者は敗北が濃厚になってもなかなか降伏しなかった。原子爆弾が広島と長崎に落ちてからやっと連合国の無条件降伏を受諾した。時の変化を無視し、貴重な命が失われた。
 東京五輪でロスのリベンジを果たす、などとは言わないでほしい。たとえこれから精進し、必死に努力したからといって、衰えつつある体力を克服することは難しい。
 「広い視野を持ち、大原則を抱き、良心を持ち、高い目標を掲げ、確固とした目標を抱くことで、われわれは長い(人生の)航海での海図と羅針盤を見つけるかもしれない」。英国の傑出した指導者チャーチルは雑誌「ストランド」の1931年2月号にこの文章を記した。また「わが思想、わが冒険」のなかにも書いた。
 吉田選手が「海図と羅針盤」を一刻も早く見つけ、新しい人生を歩みは始めてほしいと願う。将来、立派なレスリングの指導者を目指すことも「海図と羅針盤」のひとつかもしれない。「ありがとう、吉田選手。たくさんの希望と勇気、挑戦の精神を日本人に与えてくれました。若い青少年男女はあなたを誇りにするだろう」。この言葉を送り、このブログを終わりたい。

 (写真)無念の涙を流す吉田選手

日本人は我慢できるが忍耐できない 71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(3)

2016年08月15日 12時48分10秒 | 時事問題と歴史
 歴史を紐解けば、日本人を存亡の危機に陥れるのは、米国でもなければ韓国でもない。ましてや東南アジアや英国でもない。いつの時代も中国とロシアである。特に中国はどんな時代でも日本の運命にとり直接的に影響を及ぼす。ただ、日本人は「理不尽」な中国の行動に対し「我慢」はできるが「忍耐」ができない。このため、最後には中国が日本から利を得る。
 日本の関東軍が満州事変を起こした理由の一つに、中国の「条約破り」に腹を据えかねて忍耐できなかったことにある。
 1921年11月12日から1922年2月6日まで米国で開催されたワシントン軍縮会議は、歴史の変化と民族主義を助長した。主力艦比率がこの会議の最重要成果と見られているが、最も重要なことは9カ国条約だ。
 ワシントン会議に参加した中国は、1839~41年のアヘン戦争以来はじめて列強から無理やり不平等な取り決めを押し付けられなかった。初めて国権を失わなかった。それどころか、中国は1922年2月、日本と山東省問題で合意し、第一次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツから日本が譲り受けた膠州湾租借地を返還させるのに成功した。
 山東省の中国への返還は、欧米列強が19世紀、特に1894-95年の日清戦争から20世紀初頭までに見せた赤裸々な中国分割の時代が過ぎ去ったことを意味していた。欧米列強と日本は正式な手続きを踏めば不平等条約を改正する、と中国に約束した。
 中国は条約批准後、直ちに関税交渉を欧米日列強と始めることになっていた。英米伊日とポルトガルの5カ国は9カ国条約を迅速に批准するため、中国に5カ国の賠償金の支払いを猶予、または免除することに同意した。しかし、フランスが、義和団事件(1900年)の賠償金の支払いを取り決めた1901年の辛丑和約(しんちゅうわやく=北京議定書)の続行を金建てフランで求めた。当初、英米などに同調していたイタリアはじめベルギーもフランスを支持した。  
 フランスの要求がワシントン条約の批准を3年も遅らせた。歴史の急速な変化の流れの中で3年は致命的な遅れだった。この間、中国では、歴史の流れに逆行する軍閥間の内戦が激化。強力な北京政府は弱体化し、1925年の夏、北京で関税会議が開かれたときは、なんらの成果もあげられずに終わった。
 欧米列強と日本は強力な交渉相手を中国国内で見いだすことができなくなり、中国の条約遵守に不安を抱くようになった。これに対して中国は列強の誠意を疑い始めた。
 時は国際環境を変化させ、ワシントン条約当時と比べ、中国国内の民族主義者の過激さはますます増していった。中国は対欧米日との交渉による不平等条約の改正を無視し始めた。
 中国の学生は1925年5月30日、日本資本で運営されていた紡績工場で働く労働者のストライキに対する弾圧に抗議し、デモ行進を始めた。租界地区の日英警察が多数のデモ参加者を逮捕。英国の警察は発砲し、中国人11人が死亡、2人が負傷した。いわゆる「5・30運動」が発生し、全国に飛び火していった。
 同年7月23日、中国人約6万人のデモが広東近くの沙面の租界地で起った。デモ隊の攻撃に英国軍は応戦。多数の中国人が射殺された。中国大衆の標的は日本と英国だったが、この事件で英国は集中砲火を浴びるようになった。
 中国人は、以前から抱いていた外国人を嫌悪する排外主義とナショナリズムがない交ぜになり、怒りは頂点に達した。1年以上もの間、英中貿易が滞り、中国の港で英国人が取り扱う製品の船積みがボイコットされた。
 中国の北京政府は1926年4月26日、19世紀半ばに結ばれたベルギーとの通商条約の改正を拒否し、一方的に廃棄通告した。英国は同年秋、日本とともに中国問題を協議するよう米国に提案したが、米国は「緊急性がない」と日英の提案を拒んだ。 
 中国の民族主義が歴史の変化の歯車を加速させ、国家間の正当な手続きによる条約の改正を不可能にしていった。歴史の流れは英国と日本の思惑とは逆に動き始めていた。
 英国は東アジアで刻々と変化する情勢を観察し、歴史の歯車が自分の望んでいる方向とは逆の方向に動いていると考え始めた。民族主義運動が国際環境をジワジワと新しい方向へ変化させていることに気づいた。
  ロンドン政府が思うままに世界に指図した19世紀は終わり、英国だけで中国問題を解決することは不可能だと悟り始めた。中国の植民地政策を堅持する今までの行動は英帝国の将来に致命的打撃を与えると思い始めた。
 北京駐在の英代理公使は1926年12月16日、ワシントン会議の9カ国条約締約国に英国の新しい対中政策に関する覚書を送付した。この覚書は「クリスマス宣言」と呼ばれており、覚書の中で中国も同意したワシントン条約の合意事項は実施されていないと論じた。
 馮玉祥や張作霖などの軍閥による内戦が北京の段祺瑞政府を葬り去り、中国が無政府状態になったため、交渉する相手がいなくなった、と英国政府は慨嘆した。欧米列強は段祺瑞政府を中国の正統政府と認めていた。
 「(ワシントン条約に基づく)政策は、中国の領土保全・独立と経済発展を促進し、中国の財政健全化を図ることだった。・・・(しかし)残念なことに、関税会議は4年間開かれず、この間、中国状勢は悪化し続けた。うち続く内戦で、北京政府の権威はほとんど無きに等しい状況となっている。・・・(昨年やっと)関税会議は開催されたが、交渉すべき強力な中国政府が存在しないため会議は流れた。その後、北京政府の瓦解プロセスに比例して内戦がますます大きくなっている。・・・こういう訳で、列強が中国についての協約を取り決めたワシントン条約当時と現在の環境は似ても似つかない状況になった。このような混乱した状況で、・・・ワシントン条約で取り決めた中国問題の改善や中国の外国居留民の地位に関係した問題を進めることは不可能。既存の国内政治体制の瓦解に比例して、(新興政党の)国民党の勢力が増大してきた。国民党は列強と同等の地位を要求し、それを目指している。国民党の運動は将来、外国からの同情と理解で満たされるようになることは確実だ。それ故、中国政策をめぐる(ワシントン条約での)調印国間の合意とは相容れなくなるだろう」 
 英国は声明発表後、対中外交を大転換した。日本と共同で英日の権益を擁護する政策から、蒋介石ら国民党政府の「革命外交」との協調に舵を大きく切った。
 英国のオースチン・チェンバレン外相は、民族主義という「インパーソナル・フォーシズ」を無視できないと悟った。西から東に吹いた風が東から西に吹き始めたのを認識してその風に乗ろうとした。国民党はナショナリズムを全面に押し出す「国民革命外交」を展開し、民族主義に目覚めた中国国民は国民党を支持し始めた。英国はほかの列強との協調をあきらめた。
 現実主義者の英国人は国民党と敵対するより協力して中国での英国の権益を守ることが得策だ、と判断した。英国の世論も国民党に同情的だった。
 1926年12月28日付ロンドン・タイムズは、「クリスマス宣言」の解説記事を掲載し、「1921-22年のワシントン条約締結時と26年ではまったく状況が変化したことを認めざるを得ない。この変化のうちで最も注目すべき点は、強力な民族主義者が台頭してきたということだ。この現実を列強が互いに認識し理解しなければ、中国に対して正しい対応を取れなくなるだろう」と警告した。
 「クリスマス宣言」発表後、中国人は「クリスマス宣言」を英国の弱さだと判断した。1927年1月4日-5日にかけて中国大衆は漢口・九江の英国租界を接収。この判断も中国人の国民性から由来する伝統的な思考形態とみられる。
 英国は上海の租界地を守るために漢口・九江の租界地を犠牲にする決断を下し、2月9日に中国と協定を結んだ。中国は3月1日、漢口・九江を管理下においた。
 一方、米国は、1920年代後半に時計の針が進むにつれて、中国に同情していた。アヘン戦争以来90年にも及ぶ欧州列強の植民地政策と日露戦争以降の日本の対中政策は米外交の基軸と異なっていた。
 中国問題専門家の米外交官ジョン・A・マクマリーは「米国人が中国国民党を米国独立戦争の自分と二重写しにし、(国民党の党首)蒋介石を米国独立の父、ジョージ・ワシントンに見なすことが少なくなかった」と語った。米国の指導者も米国人も、独裁者で中国人特有の現実主義的損得観を持っていた蒋介石に米国建国の理念―自由と民主主義―を見た。もちろん、それは米国人の幻想であり、蜃気楼(しんきろう)だったことは言うまでもない。
 米国の政治指導者と世論はいくぶん主観的とは言え、時代の変化を察知していた。というより彼ら自身が歴史の変化を促した面も否定できない。米国が歴史の変化を動かすインパーソナル・フォーシズ「民族主義」に油を注いでいた。英米の対中姿勢が独善的になりがちなナショナリズムという「インパーソナル・フォーシズ」を強めていった。
 万人に平等な法の支配の歴史を持たない中国人は、相手が弱いと見ると攻め、強いと見れば引く現実的な国民だ。マクマリーは国民党の蒋介石将軍を批評し、「彼は妥協したり、巧みに説得したり、策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と語った。権謀術数に長けた中国人の国民性も事態をますます複雑にした。 
 軍閥打倒と中国統一をかかげて北伐を開始した国民党は1927年3月24日に南京に到着した。国民党軍の一部は英国と日本の領事館を急襲。中国軍兵士は領事館の私物を略奪し、アメリカ人を殺害した。1937年12月の南京大虐殺事件は有名だが、この南京事件は今日の人々の記憶に残っていない。
 北伐を進める国民党軍が斉南に迫ると、日本政府は南京事件の状況を憂慮した。事前に米英と協議。山東省出兵の了承を取り付け、日本人居留民保護のため陸軍に出兵を命じた(第1次山東出兵)。山東省から撤兵後、日本軍はふたたび翌年の4月、中国革命軍が斉南市に入ったのに伴い、居留民保護のため兵を出した(第2次山東出兵)。日本軍と国民党軍はにらみ合った後に衝突。日本軍は同年5月に増派した(第3次山東出兵)。
 斉南市での日中両軍の衝突は中国市民を巻き添えにし、多数の中国人が殺傷された。このため中国国民の日本人に対する悪感情は取り返しのつかない致命的段階に達した。斉南事件以降、中国の民族主義の標的は日本にだけ向けられ、英国に向けられることはなかった。
 張作霖の息子の張学良将軍は1930年代半ば、「大隈内閣の対華二十一ヶ條事件(1915年)以来、(中華)民国国民の対日感情は、小學児童にまで、これを国辱記念日として教科書で教える程に悪化し、民国国民は、日本を親代々の仇敵視するに至った」と語った。
 蒋介石は1927年4月12日に上海でクーデターを起こし、共産党員を弾圧。共産党との戦いを始めた。武漢政府は8月19日、蒋介石率いる南京政府との合併を宣言。1928年6月、蒋介石は北京に入城し中国を統一した。
 国民党が中国を統一すると、王正廷外交部長(外相)は1928年7月19日、1896年に日本と清国(中国)との間で締結した通商・航海条約と、1903年の同条約の追加通商条約を破棄すると一方的に声明を出した。やむなく日本は譲歩し、満州の権益を中国が認める代わりに中国本土の日本の権益について大幅に譲歩する用意があると表明した。
 日本政府は1929年4月26日に王と交渉を開始し、6月3日に国民党政府を承認。1930年5月6日には日中関税同盟を締結し、中国は関税自主権を回復した。
 このありさまを見ていた日本陸軍は、幣原外相の対中政策があまりに国民党政府に譲歩しすぎると断じ、「軟弱外交」とののしった。
 済南事件で国際的な非難を浴びて窮地に立った日本政府は、中国による日本との条約不履行をめぐって米国政府に協力を求めるため、明治、大正、昭和の3時代にそれぞれ外相を務めた政治家、内田康哉を米国に派遣。内田は1928年9月29日、米国務省にフランク・ケロッグ国務長官を訪問し、米国の対中姿勢を尋ねた。
 ケロッグ国務長官は「各国それぞれが自国の利害に配慮して、条約の諸問題の解決へ向け努力すれば(諸問題の解決は)実現できるものと我々は考えている」と発言、内田は米国の曖昧な返答を聞いて失望した。
 日本は1921年、米国からワシントン会議への招待状を受け取ったとき、会議への参加を渋った。参加すれば満州の権益が俎上に載せられるのは明白だった。しかし日本は会議に参加し、条約を締結。忠実に条約を遵守した。条約を遵守することで、欧米列強と協力し満州の権益を守ろうとした。しかし内田がケロッグ長官と会談する頃、日本の満州政策は行き詰っていた。
 中国は1929年12月29日、欧米列強や日本に追い討ちをかけた。1930年1月1日以降、条約国の諾否にかかわらず条約が規定した治外法権の項目を無効にすると発表した。しかし欧米列強諸国は中国での自国民保護の裁判システムの必要性を感じ、中国の発表に抗議した。
 国民党政府は同じ年の1929年にソ連にも矛先を向け、ソ連の革命政府が帝政ロシアから引継いだ東支鉄道(日本は当時、北満鉄道と呼んだ)を強制的に接収しようとした。条約を無視する中国の態度に怒ったソ連は中ソ国境に軍隊を集結。ソ連より弱体な軍しか保有していなかった中国はソ連の強硬姿勢に屈服し、接収を見送った。「弱い国を攻め、強い国とことを起こさない」という中国の「現実主義」「力の政策」が露見した。
 治外法権撤廃をめぐって中国と欧米が対立していた最中に、満州事変が1931年9月18日に勃発した。中国は満州事変の開始を受け、列強諸国に治外法権撤廃を無理押しするのは得策でないと判断、要求を引っ込めた。
 国民党政府の動機は明白だった。日本の侵略に反対する国から最大限の支持を期待するため、治外法権撤廃を見送った。はかりごとをめぐらし、そろばんをはじいた。英国も中国もそろばんをはじいて「損得勘定」を計算していた。
 われわれは太平洋戦争、日中戦争(日華事変)、満州事変から苦い教訓を得て、それを未来に生かさなければならない。関東軍は1920年代、我慢していたが、忍耐しきれずに満州事変を起こした。満州を侵略した大きな理由は勿論、これだけではないが、「忍耐切れ」も大きな理由の一つだ。
 日本の死活問題は中国問題だ。1920年代も今日も中味は違っていても同じだ。中国はこれからも長期間にわたって、尖閣諸島を自国の領土だと主張し、接続水域や領海に入ってくるのは間違いない。虎視眈々と同諸島を狙ってくる。米国、日本や東南アジアの国力と自己の国力を天秤にかけ、相手が強めれば引き、弱ければ攻勢に出てこよう。
 中国共産党の幹部と国民は、歴史が変化してもはや戦争で国益を奪取する時代は過ぎ去ったことを理解しているのだろうか。多分、理解していはいまい。彼ら革命の戦士の子どもや孫、ひ孫らは「武器のよって政権を奪取できる」と信じているだろう。それは共産主義革命の根本精神だからだ。
 時代は変化した。歴史は変化した。原子爆弾は戦争を不可能にしている。もし戦争が起これば、敵も見方も致命的な打撃を受け、最悪の場合には地球の民は滅びるだろう。中国共産党の連中は今こそ、「外交交渉」「国際法」によってしか国益を伸ばせないことを気づくべきだ。また民主主義こそ中国国民の福利と発展に寄与すると気づくべきである。もはや中国共産党の目標に中国国民を強制する制度は時代遅れとなった。
 日本人はけっして「我慢切れ」になってはいけない。日本人が苦手な「忍耐」をして、粘り強く中国共産党と対峙しなければならない。。それができるかどうかが将来の日本の運命を決するといって過言ではない。ゆめゆめ、第2次世界大戦前夜の日本の指導者のように、ある一定の時間を決めてそこまではひたすら「我慢」し、それが切れれば前ばかりを向いて突っ走るようなことがあってはならない。「忍耐」し続ければ、必ず時が変化し、時が味方して、われわれは初期の目的を果たすことができる。それが太平洋戦争から得ることができる苦い教訓だと思う。

 (参考)「71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(1~3)の一部は拙書「歴史の視力」(ホルス出版)から引用した。

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日本人は現実主義者というよりも希望的観測を抱く理想主義者 71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(2)

2016年08月14日 14時40分19秒 | 時事問題と歴史
 太平洋戦争(大東亜戦争)の反省として、筆者は同胞の多くが情緒に弱く「思い込んだらテコでも動かない」国民性を指摘した。移り変わる時代の流れを無視し、「思い込んだ考え」を引っ提げてひたすら進む姿を記した。現実を無視し言葉上の美辞麗句に弱い日本人を指摘した。
 逆境にめげず何かを成し遂げた人々に賛辞を送ることは素晴らしいことだが、身も心も入れ込み過ぎて周囲が見えなくなる傾向が強い日本人に抵抗を感じてきた。日本人は現実主義者ではない。
 今日のブログは希望的観測について記したい。事実を無視した希望的観測は危険だ。昨日記したチャーチルの言葉を今日のブログにも掲載したい。
 チャーチルは著書「第二次世界大戦回顧録」の中で日本の指導者についてこう述べている。
 「戦争においても政策においても、常に自分を(帝政ドイツの宰相)ビスマルクが『他の人』と呼んだものの立場において見るようにせねばならない。一省の長官がこのことを十分にやればやるほど、正しい進路を発見する機会が多い。相手がどう考えているかについての知識を持てば持つほど、相手が何をするかを知った場合に戸惑うことが少なくなる。だが、深い十分な知識を伴わない希望的観測や想像はワナのようなものだ」
 現在、リオデジャネイロ・オリンピックが開催されている。アナウンサーや解説者はラグビーやサッカーなど、明らかに実力差のある相手チームに対しても「勝つチャンスがある」と述べ、日本チームの長所ばかりを挙げて視聴者の期待を膨らませている。
筆者はこれを否定しないが、客観的な予測をすることも必要だと思う。日本人にはこの姿勢があまりない。スポーツなら問題はないが、国家の運命を担う指導者がこのような態度で国家運営していては国家存亡の秋を迎えるだけだろう。
 太平洋戦争前夜の日本の軍部指導者がそうだった。日本陸海軍の実力を過大評価し、そうでなくとも強大な米国を過小評価した上、「精神力」が勝利に最も重要だと信じ込んだ。13倍(当時は20倍だと認識していた)も強い「敵」にまともにぶつかって勝てるわけがない。隠忍自重し、時の変化を待てば、風向きが必ず変わる。それが歴史の特質なのだ。
 正確な情報が海外の情報将校から送られてきたのに、「ドイツが勝つ」と思い込んだ軍部中央の秀才は、その情報を無視した。海外ラジオ放送で米国のルーズベルト大統領やチャーチル英首相の演説を分析しただけでも、彼らにとり誰が主敵(ヒトラー・ドイツ)なのかは一目瞭然で理解できるのに、米国が攻撃してくるという「不安」に駆られ、日本は真珠湾を攻撃したのである。
 「我慢」したが「忍耐」できなかった。うがった見方をすれば、米英の挑発に乗った。もし挑発したのなら、どちらが悪いのか。右派の作家や有識者は挑発した米国が悪いという。筆者は挑発にのった日本の指導者を糾弾する。国家を滅亡の淵まで追い込み、国民に塗炭の苦しみを味あわせて、何が挑発した米国が悪いと言えるのか。もし挑発したのなら、それは米英の巧みな作戦だった。筆者は挑発されたとは思っていないと断っておく。

 ●太平洋戦争前夜の動き
 1941年11月1日に開かれた大本営政府連絡会議に臨む際、次の3案が議題になった。
 第1案、戦争することなく臥薪嘗胆する。
 第2案、すぐに開戦を決意し戦争により解決する。
 第3案、戦争決意の下に作戦準備と外交を併行させる。
 第1案には、日本が米国に譲歩して臥薪嘗胆する場合と、日米外交交渉の決裂後、譲歩も開戦もせずにそのまま現状の立場を維持して臥薪嘗胆する場合に区別された。
 海軍の作戦最高司令官の永野修身(ながお おさみ)軍令部総長は、この会議で「日本として対米戦争の戦機は今日にある。この期を失したならば、開戦の期は米国の手に移り、再び永久に我が手中には帰らない」と強調。このまま日本が臥薪嘗胆すれば、石油が枯渇するなど戦力は「ジリ貧」になり戦えなくなる、と発言した。
 永野は作戦の見通しについても述べ、2年間は十分に戦う確算があるが、3年目からは国家総力の変移や国際情勢の変転から確算がないと説明した。
 瀬島龍三少佐(最終階級は陸軍中佐)によれば、永野の説明を聞いた賀屋蔵相と東郷外相は「2年後の勝算ない戦争は不安定だ。米国から戦争をしかけて来る公算は少ない」として、現状のままの臥薪嘗胆に賛成した。とりわけ東郷外相は「(独伊が破れた)欧州戦争後に各国が対日圧迫を加えてくることは俗論だ」と一蹴した。
 陸軍が賛成していた第2案は少数意見で、海軍が賛成した第3案に落ち着いた。
 東郷外相と杉山元・陸軍参謀総長ら参謀本部首脳は、第3案に関連した日米交渉の打ち切り期限と交渉条件をめぐって激論した。交渉期限を12月1日午前零時とし、交渉条件を南部仏印からの撤退などを骨子とした妥協案(乙案)で落ち着いた。
 陸海軍首脳と政府首脳から構成された大本営政府連絡会議の開催に先立ち、嶋田繁太郎海相(1883~1976)と永野・軍令部総長は1941年10月30日、米国と開戦する腹を固めていた。

 ●総力戦では勝つか負けるしかない。和平は不可能だった
 太平洋を舞台にした米国との戦いは海の戦いだった。海軍の対米姿勢が日米開戦のカギだった。
 永野軍令総長が挙げた「石油切れによるジリ貧論」は対米戦に突入した大きな理由だ。米国政府が1941年8月1日に対日石油輸出を全面禁止して以降、海軍首脳は、このまま手をこまねいていれば「油がジリ貧状態」になり米国と戦えなくなると主張した。米英と戦うなら一刻も早く開戦し、東南アジアを占領して資源を獲得。米英と持久戦に持ち込み、勝機を探るという計画だった。
 満州事変の首謀者でありながら、日中戦争と太平洋戦争に強硬に反対した石原莞爾陸軍中将(当時退役し立命館大学教授)は、日本軍が資源を確保できたとしても、資源を日本へ運ぶために南方から日本本土までの制海権と制空権を保持できないと確信した。
 日米開戦直前の10月、対米戦強硬論者の田中隆吉・陸軍省兵務局長を東京の東亜連盟協会事務所に呼び出し、「たとえ南方を占領したところで、米英を敵として日本の現在の船舶では、石油もゴムも日本内地へ輸送できるものか」と強調し、戦争回避を強く迫ったという。
 戦後、太平洋戦争敗北の教訓を記した野元海軍少将は太平洋前夜を振り返り、日本も国力の点で米国に圧倒的に劣っていたと述べた。昭和15年ごろの日本と米英の粗鋼生産力を取り上げ、孫子の「道」の「兵衆何れか強き」を引用した。米国と日本の生産力はそれぞれ約1億トン、500万トンで、その比率は20対1だったと回顧した。
 「即ち精神的にも物質的にも、この無謀の大事を敢行したのは、視野狭小であり、総合判断を誤り、短期決戦に対する希望的判断があったといえよう」。野元少将は反省を込めて分析している。内戦で国が滅ぶことがないのに内戦を恐れ、強大な米国に参戦した一面もあると指摘している。
 日米開戦に突き進んだ理由はまだほかにもある。陸軍が中国戦線での死傷者と撤兵を絡ませたことが挙げられる。福留・海軍軍令部第一部長は陸軍幹部から直接聞いた話を伝えている。
 「支那事変以来すでに三十万の死傷者を出している。それなのに今さら撤兵は出来ない。そんなことをすれば、今までの犠牲は無駄になってしまう。それでは統帥(軍の支配・指揮権)は出来ない。若し日本が支那(中国)本土から撤兵すれば、次は満州から撤兵せよと来る。日本が頑張れば油を止める。そして次から次へとどんどん押して来る。歴史的事実から推しても、アメリカは日本の退却によって、極東を支配せんとしているのだ」。東条陸相が1941年秋、近衛首相にも同じ内容を話した。
 陸軍の理論「日中戦争で30万人の死傷者が出ている。いまさら撤退できない」は軍事と相容れない感情論であり、非科学的な議論。泥沼の日中戦争という現実から目をそむけた主張だった。
 永野軍令部総長が、「戦を始めるには今しかない。今を逃せばジリ貧だ」だと述べた。現実的な目を持った人々を納得させる話ではない。日米国力比は1対20と強調した新庄リポートを岩畔陸軍大佐は参謀本部に報告した。新庄リポートだけでなく、欧州の複数の武官から報告が上がっていた。
 永野軍令部総長や東条陸相が話したことは彼らだけの特殊な見方や考え方ではない。昔も今も、一般国民が心の底のどこかに抱いている国民性だと思う。
 それでは1対20の国力差をどうしたら縮められるのか?日本が今戦争しようが、将来戦争しようが、1対20の日米の国力差を縮めるには、米国の工業地帯を攻撃し破壊しないかぎり縮まらない。中学生でも理解できる。しかし優秀な参謀本部の陸軍将校は冷厳な事実から目をそむけた。希望的な観測に終始した。
 インドネシアなど南方の資源を確保しても、米国の近代生産技術・設備を叩き潰さない限り、米国の生産力は無傷だ。東南アジアの資源確保は、がん治療に例えれば対処療法にすぎない。
 それでは日本が米本土の工業地帯中枢を爆撃し壊滅することが可能だったのか。武井大助・海軍主計中将が山本元帥の話を引用している。「日米開戦にいたらば、己(山本)が目指すところもとよりグアムやフィリピンではない。ハワイでもない。実にワシントンのホワイトハウスである。しかし(米国の首都)ワシントンまでいけない」。ワシントンまで進軍できなければ、米本土中部の工業地帯を壊滅できない。広大な米国を占領するなど夢想にすぎない。
 それでは陸軍はワシントンまで進軍できると思ったのか。対米戦を声高に叫んだ参謀本部の田中新一・作戦部長でさえ、太平洋を渡って米国を攻撃し、足下にぬかずかせることはできないと述べたばかりか、日独伊三国同盟により米国を屈服させることは不可能と断じている。それなのにどうして強硬な対米戦論者だったのか。
 「(ドイツの潜水艦攻撃などで)アメリカは対独参戦決意を公にした。日米交渉など対日政策の基本は遅延策で、太平洋での対日戦を回避する一方、ドイツを大西洋で撃破。その後、日本を各個撃破する」。田中はこう述べた。
 田中陸軍中将は陸海軍の情報将校や海外メディアなどの情報を真剣に分析せず、19世紀の帝国主義列強の頭で20世紀半ばの太平洋戦争前夜を分析した。事実に基づかない、自らの観念的な頭で世界情勢を分析した。日本の戦国時代や古代ローマ帝国時代の戦争なら、米英はドイツ撃破後、日本を襲ってきただろう。
 チャーチルは重光駐英大使に話した。1940年に何度も英国民や世界に演説した。その中で対独戦争は、「賠償金と領土を奪う戦争」でもなければ、18世紀以前の国王や貴族の戦いでもなく、英国の政治制度を守る戦いだと明言している。
 時は変化していた。歴史は流れていた。田中ら陸軍将校は周囲を観察しなかったし、「時の変化を刻む歴史」を一瞥(いちべつ)さえもしなかった。
 一方、自らの意志に逆らって開戦した山本元帥は、緒戦の勝利をもってなんとか英米と和睦に持ち込もうとし、ハワイの真珠湾に出撃した。緒戦で米国に「大勝利」した。しかし山本元帥は一日でも早く和平のテーブルに米政府を就かせようと焦って海軍中央の反対意見を押し切り、ミッドウェーに出撃して、なけなしの航空母艦4隻を失う惨敗を喫した。
 危険を冒してでもハワイ・真珠湾を奇襲する奇抜な作戦を立てた理由は「開戦劈頭(へきとう)敵主力艦隊を猛爆撃破して、米国海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその士気を沮喪(そそう)せしむること」だった。そして和平に持ち込む算段だった。
 駐米日本大使館員の不手際で、日本海軍の真珠湾攻撃後に国交断絶文書をハル国務長官に手渡した。「真珠湾のだまし討ちを忘れるな」と米国民は激怒。日本と徹底的に闘う決意を固め、和平交渉を困難にしたと言われている。ただ、たとえ宣戦布告後に奇襲したとしても、またミッドウェーで勝とうが負けようが、米英との和睦は100%なかった。
 日米開戦前のチャーチルとルーズベルトの演説を分析すれば、「ドイツを許さない。相手が倒れるか自分が倒れるかだ。ドイツの味方は英米の敵だ。勝利した翌日に裏切られた同胞が連合国の法廷に引き出さなくても、連合国が必ず引きずり出す。だから無条件降伏までやる」と言っている。
 非公式に言ったのではなく公言したのだ。世界戦争にドイツ側について参戦すれば、日本は勝利するか、無条件降伏するか二つに一つしかなかった。
  19世紀から20世紀へと時が流れ、歴史は変化していた。第1次世界大戦は史上初めての総力戦だった。銃後の別なく、将兵も民間人も内野で戦わなければならなかった。民間人が外野で観戦し、将校が内野で戦うのを見るそれまでの戦争とは違った。また、1917年のロシア社会主義革命が起こるまでは、民主主義か、全体主義かの思想戦でもなかった。
 もはや第2次世界大戦と太平洋戦争は日露戦争までの和平はなかった。リングで戦っているボクシング選手にタオルを投げ込んで試合を止めさせることはできなかった。第一世界大戦におけるドイツの無条件降伏以後、歴史は変化していた。山本元帥も、時の変化に気づかず、米英首脳の演説の意味を理解できなかったと思われる。

(写真)航空母艦から真珠湾へ出撃する海軍航空隊


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太平洋戦争からどんな教訓を得ることができるのか    71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(1)

2016年08月13日 23時12分26秒 | 時事問題と歴史
 再び終戦がめぐってくる。もっと明確にいえば、「敗戦記念日」だ。中国や米国は日本の指導者が米戦艦「ミズリー」艦上で降伏文書に調印した1945年9月2日を「対日戦勝記念日」としている。どちらが敗戦記念日なのかは大きな問題ではない。
 この71年間、はたして日本人は太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦を教訓にして、未来へと歩んでいるのだろうか。1970年代に左翼過激派がよく使った「総括」をしたのだろうか。筆者はそう思うことができない。それどころか、40歳代以下の一般的な日本人は太平洋戦争を知らないという。日米が戦ったことすら知らない。
 太平洋戦争中、撃墜王として名をはせた旧日本海軍のパイロット、故坂井三郎氏が晩年、電車で学生二人が「日本と米国が戦争したって本当か」「マジかよ」という会話を聞き、非常なショックを受けた。気持ちが悪くなり、電車が停車した駅で降りた。
 この“事件”から35年以上は経っている。ますます多くの日本人は太平洋戦争を、織田信長が明智光秀に殺された本能寺の変と同じ程度にしか思っていないのだろう。歴史の1ページにしかすぎないのだ。歴史の1ページだと考える日本人はまだましな方かもしれない。
 私が次に問題にするグループは、太平洋戦争をつまみ食いしている連中だ。太平洋戦争を「侵略戦争だ」「アジアを解放した戦争だ」と主張して、否定したり肯定したりしている。
 またミクロに大東亜戦争を捉え、①開戦初頭の真珠湾攻撃の際、南雲忠一・機動部隊司令官が第2次、第3次攻撃隊を送っていれば、その後の戦争は変わっていた②真珠湾に米国の航空母艦が一隻もいなかったのは不運であり、もし数隻でも撃沈していれば、戦争はどうなったかわからない③日本海軍が航空母艦4隻を失ったミッドウェーの海戦において、索敵が十分に行われ、情報が正確だったら、日本海軍は米海軍を撃破した④西太平洋全域まで戦線を広げていなければ、持久戦に持ち込み講和は可能だったーと希望的観測をする有識者がいる。平均的な日本人は希望的観測をし、将来が自分の思う方向へ進むことを祈るのだが、いつの間にか、それを現実だと思い込む。
 希望的観測は現在の日本人の心をくすぐるし、「太平洋戦争はアジア解放の戦争だった」と言えば、大東亜戦争の大義名分が立つ。また「太平洋戦争は満州事変から続く侵略戦争」だと言えば、筆者は「そうですね」というだけである。しかし希望的観測の99%は、あくまでも希望的観測にとどまり、現実にはならない。なぜ、希望は自分や、団体、国家の実力を過小にみるか、無視する。希望は希望でしかない。
 上に挙げた太平洋戦争の言い分はどれも「他者で見る観察眼」がない。何の反省もしていない。何らの教訓も太平洋戦争から得ていない。今日から3回にわたって、「太平洋戦争の敗戦から得た教訓」について持論を述べたい。
  まず最初に、第2次世界大戦中に英国を率いたウィンストン・チャーチル首相に登場願おう。彼の言葉の中に、太平洋戦争から得ることができる教訓がある。この教訓はこれからの日本人に役に立つと思う。
  チャーチルは著書「第二次世界大戦回顧録」の中で日本の指導者についてこう述べている。
 「戦争においても政策においても、常に自分を(帝政ドイツの宰相)ビスマルクが『他の人』と呼んだものの立場において見るようにせねばならない。一省の長官がこのことを十分にやればやるほど、正しい進路を発見する機会が多い。相手がどう考えているかについての知識を持てば持つほど、相手が何をするかを知った場合に戸惑うことが少なくなる。だが、深い十分な知識を伴わない希望的観測や想像はワナのようなものだ。日本人の心の奥底にある本当の気持ちを理解できる専門家がわれわれの側に皆無に近かった。日本人の心情はわれわれには本当に不可解で計り知れなかった」
 またチャーチルは太平洋戦争が終結する1年半前の1944年3月26日、英国民向けBBC放送を通じてこうも話している。
 「日本を支配する特権集団は、自分本位の、みじめな待ち伏せ(太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃)を実行する目的だけで、潜在的に強大な戦争遂行能力を持つ偉大な共和国(米国)を敵に回してしまった。これほど本当に愚かなことはなかった」
 チャーチルは日本人を「不可解な民族」だと述べ、日本人を理解できなかったことが日本との「不幸な戦争」に突入した原因の一つだと反省しているが、日本人は彼以上に反省しなければならない。
 太平洋戦争開戦前夜、日米の国力比は1対20(戦後の有識者は1対13と計算している)だと日本の指導者は理解していた。それを知っていたのに日米開戦を決意したのである。その理由を挙げると日本人の国民性に行き着く。
 まず最初に挙げるとすれば、太平洋戦争前夜、欧州で破竹の進撃を続けていたヒトラー・ドイツが勝つと信じ込んだことだ。そしてドイツの勝利が対米戦(太平洋戦争)を有利に運ぶことになり、米英との講和に導くとの希望的観測を抱いた。そのため、それに適合した情報は重視し、それに適合しない情報は軽視したのである。
 ●正確な情報を無視
 太平洋戦争前夜、東京の軍中央は正確な情報を色眼鏡で見ていた。日本陸海軍の情報将校は米国、英国、スェーデンから正確な情報を送っていた。正確な情報を得ていても、ナチス・ドイツに「感動」し、最初の観念から抜け出せない軍中央の軍人には届かなかった。
 ストックホルム駐在武官の小野寺信・陸軍大佐(1897~1987、最終階級は少将)は1941年1月、先任の西村敏雄・大佐(1898~1956、最終階級は少将)から事務を引き継いだ際、「ドイツ空軍は(英国本土上空の戦いで)英空軍に手痛い損害を受けている。ドイツの英本土上陸は不可能と判断する」という報告を受けた。
小野寺は日本を発つ前、大本営参謀本部から「西村さんの報告は英米側に傾いていて困るから、君には着任したら公正な判断を報告してもらいたい」と言われたという。
 小野寺大佐の夫人、百合子さん(1906~1998)は「大東亜戦争(太平洋戦争)を通じて中央とストックホルムとの間の意志の疎通を欠いた決定的悲劇の表現であった」と記している。「意志の疎通を欠いた」というより、「観察し、時の変化に柔軟に対応する軍人」と「固定観念と思い込みの軍人」が鉄路のように決して交わることがない悲劇だった。
 小野寺はポーランド人らからもたらされる信頼すべき独自情報を分析し、刻々と変わる歴史の流れを洞察した。独ソ戦開始前、ドイツはソ連に侵攻する意図を持っていると打電。ドイツは1941年6月22日、ソ連に侵攻した。
 この年ウクライナやベラルーシなどのソ連領のヨーロッパ地域では例年より雨期が早く到来した。8月末にはドイツ軍に雨が降り注ぎ、ドイツの電撃戦に欠かせない戦車がぬかるみに足をとられていた。ドイツ軍は、包囲されても最後まで戦うソ連軍に手を焼き、9月を境にしてドイツ侵攻軍の勢いが衰えていった。
 “冬将軍”のやって来るのも早かった。10月には早くも到来し、“愛する”ロシア軍に手を差し伸べ始めた。ロシアの大地に雪が降り始めた。“冬将軍”は歴史を通していつもロシア軍に味方する。
 ヒトラーは「6週間」でソ連を降伏させると豪語したことから、ドイツ兵は冬の身支度をしていなかった。これに対してソ連軍は、夏に戦った将兵を冬の装備をした将兵と交代させ、ドイツ軍と戦っていた。ドイツの苦戦はストックホルムの新聞に載ったという。
 小野寺はストックホルムの代理公使と協力して日本の陸軍参謀本部や陸軍省、外務省に「ドイツ不利」を打電し続けた。しかし参謀本部や外務省はベルリンからの情報を信じ続け、ストックホルムの情報を無視した。外交や軍事面で相手を疑わない「人の好い」日本人がそこにいた。
 「ドイツ軍の戦力が明らかに低下の兆候を示したのは1941年10月である」。小野寺大佐は「日本がドイツの片棒を担ぐと見てとり」対米戦反対とその理由を必死になって30回以上も打電した。返事は唯の一回きりで「反対の理由は如何」だった。
 小野寺と同様に英国武官の辰巳栄一少将(1895年 ― 1988年、最終階級は中将)も1940年10月下旬から11月初めにかけて、英国から見た独ソ戦の情勢判断をロンドンから参謀本部に打電した。「作戦の当初、快進撃を続けた独軍も、現在は諸種の悪条件によって戦勢振るわず。冬将軍の到来と共に益々不利となり、年内のモスクワ攻略は困難と判断す」
 辰巳武官は陸軍中央の逆鱗にふれた。「貴官が年内にモスクワ攻略を困難とする根拠を再打電せよ」との電報が来たという。親友の参謀本部第2部長、岡本清福少将からも返電があり、「ヒトラーが英本土攻略を断念しているなどとは思われぬ。君は連日の(ドイツ空軍のロンドン)猛爆にあって気が弱くなっているんじゃないか」。ドイツ空軍はその頃連日、英国の諸都市を猛爆していた。
 「私の情勢判断は何も私個人の主観ばかりではない。ロンドンの多くの優秀な各国武官がいて、お互いに意見の交換をしている。これらを総合して現地から見た判断を忠実に報告しているんです」
 辰巳の電報を「主観的だ」と問題視した陸軍参謀本部は「ドイツ軍の攻勢は一時頓挫するが、来春には大攻勢をとり、ソ連を屈服させる公算大なり」と返電してきた。演繹的なものの見方をして、思い込んだテコでも動かない日本人がそこにいた。
 辰巳少将の参謀本部への報告に先立つ4カ月前、独ソ開戦が始まると、「米武官のレイモンド・リー少将は『おい辰巳君これで欧州戦の山が見えてきた。ドイツは負けだ』と言ったのを今(1983年)もはっきり印象に残っています」と辰巳は述懐した。
 辰巳によれば、日本軍の南部仏印進駐後、英国の対日態度は「決定的に悪く」なり、「英米首脳の大西洋会談(1941年8月)出席後、帰英したリー少将は『日本は本気でやる気か』と尋ねてきた」という。リー少将は、無謀な日本の行動が信じ難かったと思われる。
 辰巳とは別に、日米の戦力比を詳しく試算した人物がいた。その人物は1941年3月に杉山元・参謀総長から対米諜報命令を受け、横浜港から日本郵船の客船「龍田丸」に乗船して米国に向かった。その人物は新庄健吉・陸軍主計大佐だ。
 陸軍の経理部門に所属していた新庄の任務は米国の国力・戦力を調査し、日米開戦の場合に日本の勝算を検討することだった。
ニューヨークに到着後、三井物産嘱託社員になりすましてニューヨーク支店に机を置き、三井物産、三菱商事、日本銀行、三井銀行、日本の新聞社、同盟通信社の各支社などの情報網を使って活動を行なった。当時日本の出先機関はアメリカに関する豊富な情報と情報網を持っていた。
 新庄はスパイ活動をしなくても、米政府が公表する軍事、産業、工業生産などの各種指標が載っている政府刊行物やニューヨーク・タイムズ紙などの新聞・雑誌から米国の総合国力を算出できた。当時日本にほとんどなかったIBM社製の統計機も使用した。 
 主計大佐は自分の命と引きかえに3ヵ月で結論を出した。過労から急性肺炎を併発し、日米開戦の4日前の1941年12月4日に44歳で永眠した。
 亡くなる一カ月前の11月5日、ニューヨークでの任務を終え、武官府詰めとしてワシントンに旅立つ前、物産のニューヨーク支店社員全員を日本クラブに招待し、「日米の国力差は1対20で、開戦すれば日本は必ず負ける」といきなり話し始めた。「思わず、出席者全員が凍りついてしまった」という。(67)
パーティーを終え、親しい仲間との二次会での席上、新庄は何度も「数字は嘘をつかないが、嘘が数字をつくる」言った。

 「新庄リポート」の日米国力比較

 主要項目       米国         日米の比率
 鉄鋼生産量     9500万トン      1対24
 石油精製量    1億1000万バレル    1対無限
 石炭産出量      5億トン        1対12
 電力        1800万キロ・ワット  1対4.5
 アルミ生産量    85万トン        1対8
 航空機生産機数  12万機          1対8
 自動車生産台数  620万台         1対50
 船舶保有量    1000万トン       1対1.5
 工場労働者数   3400万人        1対5
                        

 新庄は7月下旬、報告書を書き上げた。新庄は訪米時、「龍田丸」に乗り合わせた情報戦の第一人者、岩畔豪雄(いわぐろ・ひでお)・陸軍大佐(1897-1970、最終階級は少将)に報告するため、直ちに列車に飛び乗りワシントンに直行。帰国が間近に迫っていた岩畔に報告書を提出した。一晩かけていっきに読んだ岩畔は新庄の労をねぎらい、帰国後必ず政府や大本営に見せ、日米戦の愚かさを説くと力説したという。
 米国から帰国後、岩畔は当時首相の近衛を皮切りに、陸軍省、参謀本部、海軍軍令部などの国家運営の中枢部に足を運んで軍の指導者、作戦立案者に新庄リポートを報告した。
 対米戦の準備をしていた陸海軍の作戦立案者は感謝するどころか士気に影響が出ると言って、日米開戦に不利な情報を拒んだ。1941年8月20日付「大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌」に「(岩畔リポートに対して)海軍若手大イニ憤慨セルガ如ク 小野田中佐ヨリ甚ダ困ル旨電話アリ。右同班も全然(断然)同意ナリ」と書き込まれている。
 岩畔が、「思い込んでいる」仲間にいくら説いても無駄だった。思想や新興宗教におぼれている人々を諭すのが難しいのと同じだった。東条陸相に8月24日に呼ばれ、仏印進駐軍の近衛連隊長に命じられた。その後、二度と軍の中央に戻れなかった。
 親独反米の陸海軍指導者は客観的な事実かどうかも確かめもせず、軍事が科学であることをも無視し、自らの固定観念に沿って忠実に前に向かって進んでいた。この日本人特有の固定観念にはまったものの見方は「感動」により強化されていった。1970年代の学生が中国の毛沢東と朝鮮民主主義人民共和国の金日成に感動したように、かなりの数の陸海軍軍人はナチスとヒトラーに感動していた。
 新庄リポートは日米の国力比を1対20と試算した。この試算から「戦争の全期間を通じて、米国の損害を100パーセントとし、日本の側の損害は常に5パーセント以内に留めなければ」戦争にならない。日米戦が起こった場合、現実に起こりえない数字だった。高校生でも理解できる現実だった。
 「信じ込んだらテコでも動かない」態度は、当時の軍人だけでなく、一般の日本人が抱えている資質だ。20年ぶりに会った人を、20年前の人間だと考える傾向が日本人にはある。毎日会っていても、最初に会った時の印象や行動を何年経っても引きずっている日本人も多い。それは日本人が「時」を計算に入れていない証拠でもある。
 別の言い方をすれば、正直な日本人の国民性かもしれない。「最初から人を疑ってはいけません」。母親は子どもに教える。最初から懐疑の目でものごとをみる人々を一般的な日本人は嫌う傾向がある。懐疑の目で相手を分析しない日本人の特質なのだろう。

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千代の富士の冥福を祈る   35年前土俵上で見た思い出

2016年08月01日 09時46分22秒 | スポーツ
 元横綱千代の富士が亡くなった。優勝31回の「ウルフ」は大相撲協会のトップの理事長に就任することはなかった。歯に衣着せぬ発言と行動が、最後まで理事長職を遠ざけたという。またプライドの塊だったという。親分肌だった。
日本人は強力なリーダーより調整型のリーダーを好む傾向が強い。強いリーダーシップをもったリーダーは好かれない。千代の富士は相撲協会の要職を務めていたとき、そう見られたのだろう。
 筆者はあまりにも強い千代の富士に、「判官贔屓(はんかんびいき)」からほかの力士を応援したときもあった。勝負に徹した横綱だった。どんな相手力士にも力を抜かなかった。 
 筆者は1981年に英国から帰国後、約1年間アラブ首長国連邦大使館に勤務した。5場所ばかり、当時の大使の命令で大相撲千秋楽を貴賓席で観戦、表彰式のおり土俵に上がって首長国杯を優勝力士に手渡した。
 手渡した相手は二人いた。北の海と千代の富士だった。1場所を除いてすべてが千代の富士だった。千代の富士の全盛期だった。
 土俵上で連邦杯を手渡すおり、千代の富士を目の前で見た。その時の印象は筆者と背丈がそれほど変わらず、相撲取りにしては大きくなかった。体格の良い「普通の人」という感じがして意外だった。それでも本当に強かった。筋肉質の横綱だった。
 自らが思うところをしゃべり行動した千代の富士を嫌った人々もいたのだろう。しかし筆者はそんな人物が好きだ。プライドが強すぎたようなのは感心しないが、それでも自分の人生を全うした。すばらしい相撲を見せてくれたことに一人の人間として感謝したい。合掌。